2022年、引退を発表したプロ野球の選手達
2022年も秋を迎え、アスリートの引退が紙面やスポーツニュースを騒がす時期となってきました。プロ野球ではMLBでも活躍した中日・福留孝介、”超人”と呼ばれる阪神・糸井嘉男、セ・パ両リーグで首位打者に輝いたヤクルト・内川聖一が引退(※)を発表しています。
本稿では、日本のスポーツ界において輝かしい成績をおさめたレジェンド達の中で、今も現役にこだわり、引退を明言していないアスリートを紹介します。
※あくまでもNPBを引退とのこと
1977年4月26日生まれ(45歳)

福留孝介
1981年7月31日生まれ(41歳)

糸井嘉男
1982年8月4日生まれ(40歳)

内川聖一
末續慎吾
1980年6月2日生まれ(42歳)
"マッハ末續"の愛称で知られる末續慎吾。北京オリンピック男子4×100mリレーの銀メダリストであり、2003年の世界陸上パリ大会では3位に入り、日本人として初めて200mでのメダルを獲得しました。
80年代の日本陸上界をけん引した高野進の指導を受け、日本人の体格でも世界と戦える走法を確立。日本記録・アジア記録保持者へと駆け上がりました。

2008年10月以降は、疲労を理由に無期限休養を宣言。2011年に復帰後は、2015年からプロの陸上選手として、東京と出身地の熊本を拠点に競技を続けていきます。
また、2018年にはEAGLERUNを立ち上げ、新たなスポーツ界のあり方を提案していくなど情報を発信する側としても活動しています。さらに後進指導や講演会、イベントの実施なども精力的に行っています。

伊調馨
1984年6月13日生まれ(38歳)
姉の伊調千春と共に姉妹でメダリストとなった伊調馨。女子個人として人類史上初のオリンピック4連覇を成し遂げたオリンピアでもあります。
2004年のアテネ、2008年の北京、2012年のロンドンは63kg級で金メダルを獲得しています。2016年のリオデジャネイロでは58kg級で出場し、決勝で終了間際の逆転勝利で見事に金メダルを獲得して、オリンピック4連覇を達成しています。

5連覇がかかった東京五輪へは出場がかなわず、引退説も囁かれた伊調。しかし、引退はせずに、選手兼日体大コーチの二足の草鞋を履いて活動を続けています。
また、東京五輪の選考会の1カ月前に子宮筋腫が判明、その後摘出手術をした伊調。現在ではその経験を経て、「いまだ敬遠されがちな婦人科とアスリートをつなぐ。それが私の使命だと思っている」と語るなど、女性アスリートの抱える問題を積極的に発言しています。

葛西紀明
1972年6月6日生まれ(50歳)
1994年のリレハンメルで団体銀、2014年ソチの個人ラージヒル銀、団体銅を獲得した葛西紀明。五輪の出場回数は日本勢最多タイの7回となっています。この冬季オリンピック7大会連続最多出場記録を含み、ワールドカップ最年長優勝記録、冬季オリンピックスキージャンプ最年長メダリストなどで5つのギネス世界記録を持っています。
中学3年生の時にテストジャンパーとしての大会参加ながら、優勝者の記録を上回り話題になったという葛西。80年代当時から活躍するまさにレジェンドジャンパーです。

2022年の北京オリンピックは、シーズン中の不調もあり、オリンピックの連続出場記録が途絶えてしまいますが、本人は「行けるところまでいく」と50代での現役続行と2026年五輪及び2030年五輪を目標とすることを宣言しています。
2022年1月、娘の誕生日当日に開催された雪印メグミルク杯全日本ジャンプ大会では、4シーズンぶりとなる優勝を果たしています。その際に娘に対して「絶対優勝してくると言ってきた。ビッグジャンプができてよかった」とコメントしています。
2022年6月に50歳を迎えたレジェンドですが、まだまだ心も身体も若々しく、今後も第一線での活躍が期待されています。

寺内健
1980年8月7日生まれ(42歳)
飛込でオリンピック出場6度の寺内健。42歳になった今も競技を続けています。14歳で初出場した日本選手権10m高飛び込みでは、最年少での優勝。オリンピック初出場となったアトランタの時は16歳でした。
そして、2000年のシドニーは10m高飛び込みで日本人史上最高となる5位入賞、3m板飛び込みでも8位に食い込みます。2008年に一時現役を引退しますが、その後復帰して、現在まで現役選手として活動しています。

寺内は2021年末に自身のTwitterで再婚の報告をしています。同年の東京オリンピックでも妻となった女性のサポートがあったと投稿。「現役である私を献身的にサポートしてくれた事で東京五輪では自分のパフォーマンスを発揮する事が出来ました」と感謝を述べています。

辰吉丈一郎
1970年5月15日生まれ(52歳)
1970年に岡山県倉敷市で生まれた辰吉丈一郎。男手一つで育てられ、父親に5歳からボクシングを仕込まれています。中学の卒業後は大阪の大阪帝拳ジムに入門。1987年には全日本社会人選手権に出場してバンタム級で優勝し、一躍辰吉はボクシング界の注目株に。
1991年にはプロデビューから8戦目でWBC世界バンタム級王座を獲得します。しかし、その後は網膜裂孔や網膜剥離との戦いを強いられ、浮き沈みの多いボクサー人生を歩むこととなります。
1994年、JBCにより特例で認められた国内復帰後に日本中から注目された世紀の一戦に臨みます。それが対戦相手の薬師寺保栄との激しい舌戦も印象的だった、WBC世界バンタム級王座統一戦でした。試合は拮抗した展開でしたが、辰吉は惜しくも12回判定負けを喫してしまいます。

その後、地道に再起戦をこなし、1997年にはWBC世界バンタム級タイトルマッチを制して、暫定を含み3度目となる王座獲得を果たします。しかし、宿敵ウィラポンに敗れ、タイトルを失います。さらに2003年にはJBCの年齢制限によりライセンスを失効してしまいます。これにより国内での復帰の可能性が事実上消滅しています。また、大阪帝拳からも引退勧告がされるなど、辰吉を取り巻く環境は厳しさを増していきます。
ライセンス失効後はタイでノーライセンスのまま復帰戦を戦うも、2009年以降は試合が無い状態が長らく続いています。そんな中でも辰吉自身は世界チャンピオン奪取を諦めておらず、今もハードなトレーニングを続けています。本人は「始まりがある以上、必ず終わりがある。いつやめるかは自分で決めます。ものには限度があるからね。(日本初となる)3度目の王座返り咲きをしたら終わりなんよ。それだけのこと」と語り、求道者ならではの達観した姿勢で、今も日々のトレーニングを休まずに繰り返しています。

三浦知良
1967年2月26日生まれ(55歳)
15才で単身ブラジルへと渡り、1986年に名門サントスFCとプロ契約を結んだ三浦知良。サッカーの本場で若くして活躍し、1988年にはブラジルの専門記者によるポジション別のMVP投票にて、左ウイング部門第3位にランクインしています。
1990年の帰国後は読売サッカークラブ(後のヴェルディ川崎)や日本代表でエースとして君臨。日本代表での歴代得点は釜本邦茂に次ぐ第2位の55得点を記録しています。
また、1994年には当時世界最高峰のリーグであったセリエAに挑戦。ジェノアCFCの一員として出場した開幕戦で鼻骨骨折の大怪我を負い、不本意なシーズンを送るも、復帰戦でアジア人初ゴールを決めています。

1998年のフランス・ワールドカップ直前に代表選考で漏れた一件では、日本中で賛否を呼ぶなど、日本サッカー界の最重要人物のひとりとして常に話題の中心にいたカズ。
55歳となった現在はJFLの鈴鹿ポイントゲッターズに所属。2022年9月の試合では途中出場して、JFL最年長出場記録を更新しています。
なお、カズ本人は過去に還暦まで現役を続けると公言していましたが、50代後半を迎え、現在では引退年齢を設定していないことを告白。「以前は還暦と言ってましたが、今は何歳までプレーするというのは決めていないです。全力を尽くして、自分がどこまでプレーを続けられるか挑戦をしています。そして、サッカーはプロ選手としてずっと続けていたいと思っているし、一生涯の選手でいたい」と語り、自身の限界まで挑戦する覚悟でいるようです。

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