
1968年、日本のGDPがアメリカに次いで世界2位となり、全国の大学に学生運動が広がり、「週刊少年ジャンプ」「ビッグコミック」「プレイコミック」が創刊された年、野茂英雄は、九州西方にある五島列島の奈留島出身の元漁師、郵便局員の静雄の子として大阪市港区で生まれた。
野球を始めたのは小1。
阪神タイガースが好きで、毎日、壁にボールを当てて遊んでいたが、子供の頃から打者に背中を向けるように体を捻って投げる「トルネード(竜巻)投法」だった。
「いつからと聞かれても記憶にないんです。
小さいときにキャッチボールの相手をしてくれた父親から、体を大きく使って投げろとはいわれたけど、自然にそうなったとしかいいようがない。
高校に入ったころには、もうトルネードに近い形になっていました」
とにかく速い球が投げたい一心でできた投げ方だったが、実際、平均138~145km/h、最速で152.9km/hのストレートと124~132km/hのフォークボールを武器とする投手になった。
高校は、いくつか名門高校野球部のセレクション(練習に参加したりテストを受ける)を受けたが受からず、大阪府立成城工業高等学校(現:大阪府立成城高校)に入学。
2年生でエースとなり、夏の甲子園大阪予選2回戦、生野高校戦で完全試合を達成。
3年生時には大阪予選ベスト16(5回戦)まで進んだが甲子園には出場できなかった。
「甲子園は意識したことはないです。
高校では毎日やめたくて仕方なかった。
練習がきつくて。
どこの野球部でもやっていることですが特に朝練習がつらかった。
始まるのは午前6時30分で、家から学校まで通学に1時間ほどかかったので始発電車に乗っていた。
眠くてね。
しかも朝は走ってばかり。
それでも気の合う仲間がいてくれたので何とか最後まで続けることができた。
それに野球界って縦社会でしょう。
上の命令に従わなければならない。
いやなことでもね。
だから目上の人と気軽に話せなかった。
野球よりそっちのことばかり考えていた。
ただ社会人時代の全日本チームは違っていました。
上下関係は厳しくないし、年齢差に関係なく誰にでも打ち解けて話ができた。
アメリカでも「縦社会」は感じない」
(野茂英雄)
「気が優しいというか、周囲に気を使う人間ですね。
例えば彼に「一番お世話になった人はだれか」と聞いてみてください。
たぶん「わかりません」と答えるでしょう。
中学、高校、社会人、それにアメリカでいろんな人に世話になっているから1人だけいうわけにはいかない。
そういう風に考える子なんですよ」
(宮崎彰夫、成城工高野球部監督)

高校を卒業して、新日鉄堺に入社。
給料は11万9000円、手取り9万円ほどだった。
「プロなんて考えもしなかった。
就職できたなぐらいの気持ちです」
社会人1年目に、速球と共に最大の武器となるフォークボールを習得。
2年目(1988年)には日本代表に選出されソウルオリンピックに出場した。
野球が正式種目として採用されたのは1992年のバルセロナオリンピックで、このときはまだ公開競技で、プロの参加も認められていなかった。
A組、アメリカ、韓国、オーストラリア、カナダ
B組、日本、プエルトリコ、オランダ、チャイニーズタイペイ
各組で総当たり戦の予選を行い上位2ヵ国が決勝トーナメントに進む形式で、日本は3連勝で予選を1位通過し、決勝トーナメント準決勝で開催国、韓国を下し、決勝戦でアメリカと対戦。
アメリカの先発、先天的な障害で右手がない隻腕投手、ジム・アボットは、ピッチャーライナーを体で受け止め、すぐに一塁に投げてアウトをとるなどして完投。
日本代表は3対5で敗れ、ロサンゼルスオリンピックに続く2連覇はならず、銀メダルに終わった。

当時、日本の野球は、140km/h前後の速球と制球力、そして変化球がピッチャーに求められたが、国際大会で「赤い稲妻」といわれたキューバ、最強のベースボール国、アメリカなどの強豪国と渡り合うためにはパワーピッチャーが必要だった。
「国際大会で必要だったのが球速。
日本代表の投手になるための指針となったのが90マイル(145km/h)+サムシング(決め球、空振りを奪える特殊球)だったんです」
(山中正竹、ソウルオリンピック野球日本代表投手コーチ)
野茂秀雄、与田剛、潮崎哲也、佐々岡真司、西村龍次、社会人の剛腕投手が選出され、それをリードしたのが、立命大から「眼鏡の捕手は大成しない」といわれていたプロ野球入りを目指したが叶わず、トヨタ自動車に進んでいた古田敦也だった。
彼らは翌年のドラフトでプロ入りし、球界にはびこっていた様々な定説を覆し、新時代を切り開いていった。
野茂英雄は、その中心にいた。
「野茂は怪物ですよ。
遠征ではやっぱりみんなやせるんです。
1次予選を突破して決勝リーグのときはみんなやせて体力が落ちているんです。
日本チームは予選はむっちゃ強いはずなんです。
でも野茂だけは太っていました。
何でも食えるって。
あの存在感というのはやっぱりすごかった」
(西村龍次)
野茂英雄はソウルオリンピックでキューバ代表を
「凄いっすよ。
あのキューバのパワー。
あんなん初めてですわ」
「打たれても、抑えても、何か爽やかな感じで気持ち良かったです」
「あの迫力半端じゃなかったっすよね」
と評し、彼らの豪快な野球、力 vs 力のパワー野球への憧れを垣間みせた。
キューバの選手も野茂英雄の速球と打者の手前で消える魔球に呆れ返り、投手は練習でトルネード投法のマネをしたり、野茂英雄からホームランを打ち、かつ三振を喫したオマール・リナレスやアントニオ・パチェコは
「ミ・アミーゴ(僕の友達)」
といった。
同年(1988年)、近鉄バファローズは、仰木彬が監督に就任。
すると、前年、最下位だったチームは2位でシーズンを終えた。
そして1989年には9年ぶり3度目のパリーグ制覇を果たし、日本シリーズで巨人と対戦した。
初戦からいてまえ打線の近鉄バファローズは2連勝。
第3戦、近鉄バファローズの先発:加藤哲郎は、6回1/3を投げて3安打無失点に抑え、勝利投手となり、試合後、お立ち台に立った。
「(巨人打線は)大したことなかったですね。
打たれそうな気はしなかった」
「シーズン中のほうがよっぽどしんどかった。
相手も強いし」
といかにも関西らしくイケイケでいい放った。
翌日の新聞は
「今の巨人なら(パリーグ最下位だった)ロッテの方が強い。
このチームに負けたら西武、オリックスに申し訳ない。
明日(優勝が)決まるから、もう(自分が)登板することはないでしょう」
という刺激的な見出し。
これをみた、世界のポリスを自任するアメリカ同様、強大な力を持つ関東の最強球団は、日本のプロ野球の秩序を守るため、調子にノッた関西球団の撲滅を誓い、その後、一気に4連勝し日本一となった。
加藤哲郎は、10年で17勝12敗、防御率4.60と投手として平凡だったが、あの要らぬ一言のおかげで引退後、近鉄バファローズが消滅した後も、解説者やタレントとして活動し続けた。
「(囲み取材で)近鉄担当のある記者が『ところで哲ちゃん、実際のところ、どうなん?』と聞いてきたんで、僕は『桑田、斎藤、槙原、水野……。あれだけエエピッチャーがおったら、そりゃ優勝するで』と答えました。
『じゃあ、打線は?』と水を向けるもんやから『ピッチャーはスゴイけど打線はアカンなぁ』というたんです。
だってそうやないですか。
あの年、巨人で1番打っていたのがクロマティ。
3割8分近く打っていた。
そこでビデオを観たら、まぁアウトコースの低めにチェンジアップさえ投げておけばセンター前かライト前ヒットですむなと。
それやったらとりあえず打たせとこと。
次のバッターにヒットが出て1、2塁ですむやろと。
これは3番の篠塚さんも一緒なんです。
ヒットはあっても大きいのはない。
ランナーになっても足が遅いので置き物と一緒ですわ。
じゃあ他のバッターはどうか。
原さんは調子が悪いし、駒田さんは当たるも八卦みたいなバッター。
岡崎さんいうてもシーズン中に3割打っているわけではない。
そりゃ石毛さん、辻さん、秋山さん、清原、デストラーデと並ぶ西武のほうがはるかに怖かったですよ。
そんな話をしているうちに『(パリーグ最下位だった)ロッテより弱いんちゃうの?』という質問が出た。
僕は『そりゃ、ロッテに失礼や』というたんです。
それで『どっちが怖いかいうたらロッテのほうやな』と答えた。
それが『巨人はロッテより弱い』になってしまったんです」
(加藤哲郎)
パリーグ優勝のご褒美として、球団は選手にハワイ・オアフ島4泊6日の旅行をプレゼント。
金村義明はそれに家族と参加したが、球団は
「家族は別」
と負担を求めた。
金村義明ら選手は密かに
「今度優勝したら球団主催の旅行は辞退して、選手と家族だけで有馬温泉に泊まろう」
と決めた。

1989年11月26日、日本シリーズから1ヵ月後、ドラフト(新人選手選択)会議が行われ、1979年の岡田彰布、1985年の清原和博の6球団競合を上回る8球団(阪神タイガース、ロッテオリオンズ、ヤクルトスワローズ、横浜大洋ホエールズ、福岡ダイエーホークス、日本ハムファイターズ、オリックスブレーブス、近鉄バファローズ)が野茂英雄を1位指名。
クジ引き抽選で仰木彬監督が当りを引いて、近鉄バファローズが交渉権を獲得した。
その他にも、佐々木主浩(大洋)、佐々岡真司(広島)、小宮山悟(ロッテ)、潮崎哲也(西武)、古田敦也(ヤクルト)、岩本勉(日本ハム)、石井浩郎(近鉄)、前田智徳(広島)、新庄剛志(阪神)など大豊作のドラフト会議だった。
「優勝した次の年に入団やったから仰木さんはずっと「ラッキーやった」っていっていた。
(クジを引く順番が最後で)残っていたのが野茂だから。
7人外しているわけだから選ぶん違う」
(金村義明)
野茂英雄の契約金は史上初の1億円台となる1億2000万円。
契約の中には
「投球フォームを変更しない」
という条件もあった。
仰木彬監督は、それを全面的に受け入れ口を出さなかった

野茂英雄、長谷川滋利、イチロー、田口壮、仰木彬の多くの教え子がメジャーリーガーとなったが、その全員が仰木彬を
「師匠」
「恩師」
などと頭が上がらない存在であるという。
野茂英雄同様、この年からに近鉄バファローズに入ったコンディショニングコーチ、立花龍司は、量より質を重視する科学的で合理的なトレーニングや練習のやり方導入しようとした。
反発されることも多かったが、仰木彬監督は理解を示した。
「仰木さんは個性を潰さない。
(野茂英雄が)あんな投げ方していて解説者の人はみんなアカンといっていた。
(ランナーに)走られまくるし。
春季のサイパンキャンプから野茂が来たらマスコミも急にたくさん来た。
フライデーとかも出始めた頃だしね。
イラんことできひんやないか!
そんな奴入ってきたら!
マスコミ連れてくんな!
サイパンなんか極楽やのに!って思っていましたね。
野茂はあのまま。
ボーッとしている。
でもものすごい野球好きで野球オタク。
表にあまり出さんけど。
新日鉄でも新日鉄の下請けの社員やったから。
高卒だしね。
環境もウチとよう似ていたし、貧乏でね。
プロ入って意固地なところあるよね。
あの投げ方絶対に変えない。
黙々と走っているし。
もう自分のやることずっとそのまま。
ブレないよね」
(金村義明)
1990年4月10日、野茂英雄が西武ライオンズ戦でプロ初登板。
1回裏、フォアボール、エラー、フォアボールでノーアウト満塁とし、4番の清原和博との初対決を迎えた。
野茂英雄は清原和博より年齢は1つ下だが、同じ大阪出身で、体格も気性も似ていた。
高校時代、清原和博は野茂英雄を知らなかった。
高校3年生の清原和博がPL学園で全国制覇することしか考えていなかったとき、成城工の2年生ピッチャー、野茂英雄は大阪予選2回戦で完全試合を達成して新聞にも載った。
しかし清原和博の記憶に刻まれることはなかった。
甲子園に行けなかった無名のピッチャーは、新日鉄堺で才能を開花させ、20歳で日本代表に選ばれソウルオリンピックに出場することになっても、
「のしげ」
と読まれてしまうことがあるほどまだまだ無名だった。
しかしソウルオリンピックで銀メダルを獲得し、1989年のドラフト会議で史上最多の8球団から1位入札を受け、史上初の1億円突破となる1億2000万円の契約金でプロの世界に飛び込んできた野茂英雄は清原和博にとって、
「年下では初めての難敵」
となった。
野茂英雄は、この場面で清原和博に対し、フォークを使わずストレートで真っ向勝負。
2ストライク1ボールと追い込んでからの4球目、渾身のインハイへのストレートは、力みのせいか、140km/hに届かなかったが、打ちにいった清原和博のバットは空を切り三振。
野茂英雄はプロ初登板で、プロで初めての三振を清原和博から奪った。
「速かったよ。
あのフォーム、どこからボールが出てくるのか、わからへんかった。
でも今日は(契約金の1億2000万円のうちの)7000万円の野茂やったね。
あと5000万円分の力を出したら、けっこう抑えられるで。
あれはいいピッチャーや」
その後も野茂英雄と清原和博は、本気でしばき合う真剣勝負をした。
ノーヒットノーランがかかった試合でも野茂英雄は清原和博にストレートで勝負し、打ち返されたこともあった。
「なんでそんな場面で?」ではなく、「そんな場面だからこそ」勝負しなければならない。
そんな男だった。

「野茂 vs 清原は18.44mの勝負じゃなくて斬り合いだったですね。
野茂選手は相変わらず、あのブスッとした顔をいつもしてるんですけれどもね。
それでも目は違いますよ。
清原選手もなんとしても野茂選手のストレートを打ちたいという感じだったんですね。
カーブやフォークじゃなくてストレートを打ちたいという気迫がみなぎっていた。
そのときは球審でみていて、ちょっと震えがきました。
ピリピリ感がね。
2人ともニコリともしない。
僕の中で、ストレートの力といったら伊良部(秀輝)選手か、野茂選手なんですよ。
スピード自体、野茂選手は最速が151km/hか152km/hくらい。
でも野球は体感速度の世界なんですよ。
スピードガンの世界ではない。
他のピッチャーが155km/h、160km/h出ていても野茂くんのストレートの方が速くみえましたね。
2人とも共通してるのは体が大きい。
だからものすごくマウンドが近くみえたんですよ」
(山崎夏生、パ・リーグ審判)
4月29日、野茂英雄がオリックス戦で1試合17奪三振の日本タイ記録で完投しプロ初勝利。
このシーズン、近鉄バファローズは3位に終わったが、野茂英雄はデビュー年に、最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率と投手4冠を独占し、ベストナイン、新人王、沢村栄治賞、MVPも獲得。
特に奪三振に関しては、三振奪取率10.99、2桁奪三振試合21回、5試合連続2桁奪三振。
スコアブックに三振を「K」と表記するため、「ドクターK(三振博士)」と呼ばれ、Kボードを持って応援する観客もいた。
「騒がれるのはいやだった。
マスコミに時間を取られたし私生活はなかった。
日本のマスコミはこっちがやめてくれといっても追いかけてくる。
アメリカではそんなことはない。
もちろん近鉄では楽しいこともありましたよ。
でも野球は単なる仕事という感じ。
没頭できる環境じゃなかった」

1991年も野茂英雄は、6試合連続2桁奪三振を記録。
チームは、前半戦最後の西武との直接対決で勝って首位で折り返したが、9月に西武との直接対決で3連敗し、逆転優勝され2位に終わった。
1992年も西武の独走を許し2位に終わり、シーズン終了後、9年ぶりのチームを優勝に導き、その後もAクラスを守った仰木彬から、ドラフト2位で入団し近鉄バファローズ 一筋、投手として317勝、近鉄唯一の永久欠番、背番号1を持ち、公共広告機構(ACジャパン)のCMで「投げたらアカン」といった鈴木啓示に監督が交代した。
1993年、野茂英雄、吉井理人、石井浩郎などがいる近鉄バファローズは、戦力的に前年まで3連覇の西武ライオンズと大差はないとされ、この年も優勝候補に挙げる声は多かった。
「投球フォームの改造をしないこと」という約束で入った野茂英雄に対し、仰木彬監督はすべてを任せていたが、鈴木啓示監督は
「三振は取るが四球が多すぎる。
投球フォームを改造しなければ、いずれ通用しなくなる」
と干渉した。
それまで
「開幕戦まで調子が整えば良い」
とスロー調整だった野茂英雄にオープン戦から結果を求め、練習では、それまで投げ込みやウエイトトレーニング中心にカラダをつくっていた野茂英雄にひたすら走ることを要求し、
「一体何周走ればいいんですか?」
と聞かれると
「何周とかと違う。
野球選手はひたすら走るもんなんや」
と答えた。
他の投手にも
「スパイクを履いてランニングするように」
と指示したところ、コンディショニングコーチ、立花龍司に
「この時期(冬)にスパイクを履いてランニングすると足を痛める元になるからやめて欲しい」
といわれたが
「野球選手がスパイクを履いてランニングするのは当たり前や」
と譲らなかった。
近鉄バファローズは、開幕ダッシュした過去2年と比べ、4月を6勝7敗と平凡なスタート。
6月に12勝7敗と勝ち越し3位に浮上したが、7月以降は負け越しAクラス入りが絶望的となった。
9月以降は20勝12敗と大きく勝ち越し、トータル66勝59敗5分で勝率5割を果たしたものの最下位でシーズンを終えた。

25歳の野茂英雄は、4年連続となる最多勝と最多奪三振を獲得したが、一方で四球や自責点もリーグ最多と安定感に欠き、シーズンオフに現状維持の年俸を提示された。
コンディショニングコーチ、立花龍司は、調整法で鈴木啓示監督と意見が合わず退団。
選手を「お前」「あいつ」「そいつ」呼ばわりする鈴木啓示監督と立花龍司の科学的トレーニングを支持していた選手の間にも、すでに亀裂が入り、溝ができていた。
「自分を信頼してくれた仰木さんを胴上げするためにチームに貢献しようと頑張っていたが、仰木さんが監督を辞められたことでその気持ちは薄れてしまった」
そういう野茂英雄と、被本塁打560本というメジャーリーグ記録(ロビン・ロバーツ、505本)を上回る世界記録を持ち
「男の勲章だと思っている。
どんな強打者からも逃げずに勝負した結果。
560本も打たれるまで使ってもらえる投手は他にいない」
という鈴木啓示監督は、バッターと堂々と勝負するというところ、非常に頑固なところで似ていた。
しかし2人が仲良くなることはなく事あるごとに揉めた。
野茂英雄は球団が解雇した立花龍司コンディショニングコーチと個人的に契約を結び、鈴木啓示監督の指揮下でもできる限り自分のやり方を通し、アメリカに行った後も、パーソナルトレーナーを雇い、ウエイトトレーニングを含むコンディショニングを行った。
1960~1980年代、30年間、日本のプロ野球選手は、平均身長180cm、平均体重80kgと体格はほとんど変わらなかった。
それが1990年代からは体重が徐々に増加し、近年では、平均身長180.8cm、平均体重84.2kgになった。
これは多くの選手が本格的にウエイトトレーニングを行った結果だと思われるが、そのきっかけとして野茂英雄のアメリカの活躍も大きいといわれる。
しかし近年のアメリカのメジャーリーグの投手は平均身長191.2cm、平均体重95.2kg、野手では平均身長187.1cm、平均体重93.1kg。
以前よりよくなってきているとはいえ日本のプロ野球選手は体格でまだまだ不利である。
そんなアメリカでパワーで勝負できた野茂英雄はやはり怪物だった。
「僕は確かに頑固かもしれません。
人間としても野球人としても。
でも、ピッチャーという人種は、どこかで頑固でないとやっていけない」
(野茂英雄)

1994年、開幕戦で野茂英雄は球団関係者に、
「開幕だけは系列会社がいっぱい来るんで車がいっぱいになる」
と球団役員専用はあったが選手専用の駐車場がなかった藤井寺球場に車を停めないように要求され
「投げへん!帰る!」
と激怒。
なんとか説得され、8回まで西武打線を11奪三振無安打、パーフェクトに抑え、3点リードで9回1死満塁で降板。
後を受けた赤堀元之が伊東勤に開幕戦史上初の逆転サヨナラ満塁本塁打を浴び、近鉄バファローズは波瀾のスタートとなった。
その後も低迷し、6月17日には首位西武に16ゲーム差の最下位。
7月1日の西武戦で野茂英雄は、自身が持つ1試合14与四球という日本新記録を16に更新しつつも3失点で完投勝利という珍試合を演じた。
立ち上がり、ヒット2本と3四球で2点を失い、その後はヒットは散発で得点は奪われないもの、2回2、3回1、4回1、5回1、6回1、7回3、8回1と四球を出しまくった。
それでも味方が8点を奪い、野茂英雄は8対2で9回裏のマウンドに立ち3四球で押し出しの1点を奪われながらも3失点完投。
191球中105球がボールだった。
「納得?
してません。
でもベンチのムードはいいし途中で降りるわけにはいかんと思って投げました」
野茂英雄はいつものように淡々と振り返ったが、鈴木啓示監督は
「ほかのピッチャーにはマネできん投球や。
これが野茂。野茂にしかできんピッチングや」
とほめているのかけなしているのかわからないコメントを残した。
その後、近鉄バファローズは、球団新記録の13連勝、約1カ月半で32勝6敗、勝率.842という驚異的な勢いで一時は首位に立ったが、8月に野茂英雄が右肩痛のため戦線を離脱して以降は後退し、最終的に5連覇を達成した西武ライオンズと7.5ゲーム差の2位に終わり、野茂英雄も最多勝と最多奪三振の連続記録が途切れた。

1994年のシーズンオフの契約更改で、野茂英雄は、複数年契約とダン野村(野村団)を代理人とする代理人交渉制度を希望した。
球団は
「君はケガをしたんだぞ。
なのに複数年とはなんだ」
「すでにキミは近鉄の顔ではない」
と拒否。
球団社長はマスコミに
「年俸をもっとよこせということでしょう」
と野茂英雄の要求は年俸吊り上げのための口実で
「次の更改ではサインするでしょう」
と楽観視していた。
しかし実は野茂英雄の大芝居にノッてしまっていた。
野茂英雄は故障で2軍で調整しているとき、外国人選手の代理人を務めていたダン野村(野村団)に出会い、監督が仰木彬から鈴木啓示に交代して以来、調整法など埋めがたい溝があること、そしてできればアメリカのメジャーリーグに挑戦したいことを話した。
しかし当時、FA(フリーエージェント、自由契約選手となり国内外どの球団とでも契約交渉ができる制度)の資格は、10年間の1軍でのプレーが条件で、野茂英雄はまだ6年も残っていた。
ダン野村(野村団)の実母は野村沙知代、継父は野村克也、実弟はケニー野村(プロ野球選手)、異父弟は野村克則(プロ野球選手)。
駐日米軍将校、アルヴィン・エンゲル(Alvin Engel)と伊東芳枝(野村沙知代)との間に生まれ、インターナショナル・スクール、東京都調布市内の高校を経てカリフォルニアポリー大学を卒業。
母親が再婚し野村克也の継子となり、ヤクルトスワローズにドラフト外でテスト生として入団したが、一軍公式戦出場のないまま退団。
テレビでMLB(メジャーリーグベースボール)の解説などを行った後、渡米しエージェントとして活動するようになり、1993年にマック鈴木の代理人として、シアトル・マリナーズとのマイナー契約を締結していた。
ダン野村(野村団)は、日本の野球協約を翻訳し、アメリカで代理人として活躍する友人、(後に松井秀喜の代理人となる)アーン・テレムに
「日本球界からMLBへ行くための抜け道はないだろうか?」
と相談。
アーン・テレムは野球協約68条第2項
「日本球界で任意引退リストに載った全保留選手は、他の球団と選手契約にかんする交渉を行ない、または他の球団のために試合あるいは合同練習等、全ての野球活動をすることは禁止される」
に大きな穴を見つけた。
「日本球界で任意引退リストに載った選手が国内でもう1度復帰する場合は元の球団に戻らなければならないが、日本国外でプレーする場合、何らかの拘束を受けるという記述は何もない。
つまり任意引退になればメジャーには自由に挑戦できるという解釈が可能である」
ダン野村(野村団)は、MLBコミッショナー事務局に相談し、日本プロ野球コミッショナー事務局へ一通の質問状を出してもらった。
「日本で任意引退になった選手は海外に移籍しても構わないのか?」
日本のコミッショナー事務局は以下のような回答状を返した。
「日本の任意引退選手が現役復帰する際に日本国内を選ぶ場合は保有権を有する球団が優先される。
海外球団とならば契約できる」
ダン野村(野村団)は、
「ならばどうすれば任意引退できるかだ」
と野茂英雄に契約更改で球団がYesといわない条件を述べるよう指示。
「むしろ相手を怒らせるくらいで丁度いい」
そして野茂英雄は
「代理人契約を認めてくれ」
「複数年契約を認めてくれ」
と次々と前例のない条件を出し、球団にハネつけられると、2回目の交渉で
「FA取得までの6年間20億円の複数年契約」
と要求をさらにエスカレートさせ
「これを受け入れてくれないなら引退する」
と発言。
「やめてどうなる。
自分のキャリアがどうなるか考えろ」
「チームのことも少しは考えろ」
という球団に
「考えてるから辞めるんです」
と言い放った。
不遜な態度に球団社長は怒りに震えながら
「だったら、この場ですぐサインしろ」
と他球団に移籍不可な任意引退の契約書を出し、野茂英雄はサインした。

「予想通り、球団は「生意気だ、任意引退させる」という態度に出た」
(ダン野村(野村団))
「『もう辞めてくれ』といわれたからね。
『じゃあ、辞める』といったら
『ああ、どうぞ。
じゃあこれ、任意引退証』。
辞めてくれてラッキー、みたいな感じや」
(野茂英雄)
すべて予定通りのダン野村(野村団)は、先の日米のコミッショナー間で行われた「任意引退に関する書簡」をリーク。
すぐに
「野茂大リーグ挑戦か?」
の文字が各紙に躍った。
「野茂はうちにいるか、戻ってくるしかない」
とタカをくくっていた近鉄バファローズは驚き、コミッショナーに助けを求め、
「その書簡は私信に過ぎないのではないか?」
と粘ったが後の祭りだった。
最後の面子として
「最後は我々に任せてくれないか?」
とアメリカ行きを手伝おうとしたが、野茂英雄に
「すでに退団した私に助けなど必要ありません」
と返されてしまった。
選手の海外流出は他人事ではない他球団は、近鉄バファローズに同情的で野茂英雄を批判した。
マスコミも
「なにが大リーグや。
野茂よ、ナメたらアカン!」
「野茂英雄はアメリカで絶対に成功しない」
「野茂よ。
ワガママはいかん」
「すでに日本では通用しなくなっていた野茂が、メジャーで通用するわけがない」
「野茂の肩は、すでに壊れている」
「態度が悪すぎる」
「世話になった球団に足で砂をかけて出て行くのはけしからん」
など大バッシング。
鈴木啓示監督は
「あいつのメジャー挑戦は人生最大のマスターベーション」
とまでいった。
かつてメジャーのハードルはずっと高く、メジャー挑戦は無謀と思えた。
それゆえに野茂英雄は
「裏切り者」
とさえいわれた。
その反面、当然、
「日本の野球を守るためには日本で育った人材を海外に出してなるものかという、日本のプロ野球界だけをみた、世界をみていない、いわゆる鎖国状態でしたね」
と古田敦也がいうようにいかにも古くて保守的で日本的な球界とマスコミの意見にアレルギー反応を起こす人や
「さすが!」
「日本が誇る侍!」
と野茂英雄の挑戦を肯定的にとらえたり
「現役バリバリ、しかもプロ野球のトップ選手がメジャーに行くとどうなるのか?」
とワクワクしたり
「がんばってほしい」
「最初に野茂が行くときなんかも、みんな犯罪者扱いだったやんか。
だからそういう意味では野茂はすごいよね。
メジャーを切り拓いていってステロイド全盛時代のこんな(体格がいい)やつばっかりやんか。
それを相手にノーヒットノーラン2回やで」
(清原和博)
「日本のトップの選手が大リーグでどこまで活躍できるのか注目した」
(野茂英雄を獲得できなかったロッテに1位指名された小宮山悟)
などと素直に応援するファンや選手も多かった。
「僕は別にどうしてもメジャーでやりたかったわけじゃない。
ただ、あの監督の下ではやれないと思った。
それだけなんです」
野茂英雄はそういうが、必然的にパイオニア(先駆者、開拓者) として期待と責任を負うことになった。

1995年は、1月に阪神・淡路大震災、3月にオウム真理教による地下鉄サリン事件、そして5月に野茂英雄のメジャーデビューと2カ月おきに大事件が起こることになった。
2月13日、日本球界とマスコミのバッシングを背中に受けながら野茂英雄とダン野村(野村団)は、海を渡り、50の州とコロンビア特別区、首都ワシントンD.C.からなるアメリカで、合計30球団により編成される世界最高峰のプロ野球リーグ、MLB(メジャーリーグベースボール)の1チーム、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結んだ。
MLBでは、メジャー契約とマイナー契約がある。
1チーム40人までと結ぶことができるのがメジャー契約で、日本的にいえば1軍となる。
その40人の選手枠に入った中で25人がベンチに入りメジャーリーグの公式戦に出場できる。
残りの15人は、基本的にマイナーでプレーしながら25人枠に入る機会を待つ。
40人枠に入れない選手は、マイナー契約となり、日本的には2軍。
彼らは3A、2Aなどで結果を残しメジャー契約を勝ち取らなければ表舞台に立てない。
世界各国の豪腕や大砲との競争に勝ち、メジャー契約を勝ち取るには、圧倒的な力をみせなければならない。
メジャーとマイナーでは、プレーできる舞台以上に、報酬、食事、移動などの待遇で天と地だった。
「マイナーではハンバーガーがあればいい方」
「バスで平気で5、6時間の移動をする。
途中の休憩は1回だけ。
シートのリクライニングも少しだけで腰が悪い選手は床にマットを引いて寝ていて、ほかの選手はそれをまたいでトイレに行ったりね。
朝4時起きで飛行機移動もあった。
自分でホテルを取って泊まるときは、若い選手なんかは2人で1部屋を取って泊まっていた」
日本では1軍と差はあるものの、2軍もマネジャーがスケジュールを管理してくれて移動手段やホテルなど環境も整っている。
日米、どちらがいいとはいえないがアメリカは日本以上に差が激かった。
野茂英雄は、年俸は近鉄時代の1億4000万円からわずか980万円に目減り。
背番号16は、親交のあったとんねるずの石橋貴明が映画「メジャーリーグ2」でつけていた番号ということで選ばれた。
「僕はやらなきゃアカンのです。
僕が失敗したら日本人選手にダメの烙印が押される」
(野茂英雄)

1995年5月1日、翌日の野茂英雄のメジャーデビューを控え、キャンドルスティックパークに日本の取材陣が殺到。
テレビカメラも含め相当数の報道がコメントを取ろうと狭いロッカーの中に押しかけた。
着替え中にカメラとマイクを向けられ、他のチームメイトに迷惑がかかることを気にした野茂英雄は、パンツを脱いだ。
「これならさすがに映せないでしょう」
騒ぎを知ったラソーダ監督は監督室からかけつけ怒鳴った
「コメントが欲しいならオレがいくらでも何時間でも話してやる。
野茂にまとわりつくことはやめろ!
出ていけ!」
報道陣はすごすごと退散した。
名門ドジャーズを率いて19年、68歳のラソーダは大リーグ最年長の監督だったが
「キツい仕事だから体調を整えて肉体的にも精神的にも最高の状態が必要なんだ」
と水泳などコンディショニングやトレーニングを行い、練習でもよくバッティングピッチャーを買って出る。
現役時代はピッチャーとして大リーグでは1勝も挙げられなかったが、監督としては通算1500勝を超えていた。
イタリア移民の家に生まれたパスタ好きの熱血漢で、チーム全体を1つの家族と考え、選手は
「My Son(息子)」
だった。
ドジャーズの1軍、40人の中には6ヵ国、14人の外国人がいて、2軍を含めると300人以上の選手の中で1/3以上が外国が人という大リーグ随一の多国籍チームだった。
「人種や国籍なんて全く関係ない。
野球ができるかどうかが重要です。
大切なのは有能な若者でチームを勝利に導いてくれること。
野茂は異国からたった1人できて、しかも英語が話せない。
私の父もイタリアから移民してきたとき言葉が通じず大変苦労した。
だから野茂には居心地のいい家族的な気分を感じてほしい」

1995年5月2日、前年の長期ストライキによって公式試合が162試合から144試合に減り、開幕も1ヵ月近く遅くなった大リーグで、野茂英雄がサンフランシスコ・ジャイアンツとの開幕戦に先発しデビュー。
1964、65年とサンフランシスコ・ジャイアンツでプレーした村上雅則以来、32シーズンぶり2人目の日本人メジャーリーガーとなった。
ジャイアンツは、史上最高額、6年48億円のバリー・ボンズ、前年43本塁打を放ち、ストでの打ち切りがなければ61本の最多本塁打を更新していたといわれるマット・ウィリアムズなどがいる強力打線だった。
アメリカの関係者は、東洋の島国から来たピッチャーの力に懐疑的で、デビュー戦は「負ける」か「勝ち負けなし」と予想し、日本のファンも大リーグの実力は未知数で、自国のエースが打ち込まれないように祈るような思いで見守った。
野茂英雄の初球はインサイドへのストレート。
そして最初の打者を見逃しの三振に打ち取り、続く2番も内野フライでツーアウトを取った。
3番、バリー・ボンズ、フォアボール。
4番、マット・ウィリアムズには、初球に盗塁を許し、ファウルで粘られフォアボール。
5番、グレナレン・ヒルに対して、突如、ボールが浮き出し、ストレートのフォアボール。
しかし6番、ロイス・クレイトンをフォークで空振り三振に打ち取り、2アウト満塁のピンチを乗り切った。
その後、5回、91球を投げて7奪三振1安打無失点でマウンドを降りた。
ジャイアンツの先発、マーク・ポーチュガルも好投したため、スコアは0対0で勝ち負けはつかなかった。
大方の予想通りの結果だったが、内容的にはハズレ。
野茂英雄は、大リーグのバッターに勝ち、ナ・リーグ屈指の強力打線を抑え切った。
延長15回表、ドジャースが3点を取り、その裏にジャイアンツが4点を取ったため、試合はドジャーズのサヨナラ負けとなった。
5月14日、ピッツバーグ・パイレーツ戦で16奪三振を記録。
5月24日、ジャイアンツ戦で日本人メジャーリーガー史上初の完封勝利。
5月29日、4試合で50奪三振を達成し、アジア人初のピッチャー・オブ・ザ・マンスを獲得。

6月2日、メジャーデビュー1ヵ月後、7度目の先発となるニューヨーク・メッツ戦でメジャー初勝利。
先発の野茂英雄は完投ペースで快調に飛ばしていたが、1点リードで迎えた9回、初勝利目前で最初のバッターにフォアボール。
何としてでも野茂英雄に勝たせたいラソーダ監督は、ピッチャーを交代。
ベンチで緊張しながら試合を見守る野茂英雄に隣に座っていたチームメイトが話しかけた。
「心配するな。
みんなで君に初勝利を送るぞ」
2アウト、ランナー1塁で、鋭い打球をセカンドがファインプレーでアウトにするとラソーダ監督は野茂英雄に駆け寄り祝福した。
6月24日、ジャイアンツ戦の1回表、野茂英雄は制球が乱れ、いきなり2アウト満塁のピンチ。
キャッチャーのマイク・ピアッツァはマウンドに駆けよった。
「フォークを投げろ。
体で止めてやるから」
普通は3塁にランナーがいる場合、ワイルドピッチを恐れてキャッチャーはフォークを要求しない。
「危険だったけど打者が打つ気満々だったからコイツは振ってくるぞと」
1球目、地面に落ちて跳ねたフォークをマイク・ピアッツァは体で止め、前に落とした。
バッターは空振りして1ストライク。
マイク・ピアッツァは2球目もフォークを要求。
ホームベースの手前に落ちて大きくバウンドしたボールを腹で受け止めたがボールは前に大きく転がった。
2ストライクをとってから決め球もフォークでバッターは空振り三振。
マイク・ピアッツァの体を張ったプレーで野茂英雄5勝目、初完封を記録した。

試合中、野茂英雄ピンチのとき、大リーグでは通訳はグラウンドに入っていけないため、ウォレス投手コーチは
Did Good - Yoku Deki Mashita(よくできました)
Concentrated Good - Yoku Shuchu Deki Mashita(集中)」
Are You Tired? - Soo Car Eh Mashitaka?(疲れましたか)」
Good Luck - Gan Bah Teh Kudasai(がんばってください)」
などいくつかの日本語を書き留めたカードをつくり、それを持ってマウンドに走った。
ウォレス投手コーチに日本語で声をかけた野茂英雄は
「No Problem」
と英語で答えた。
当初、ウォレス投手コーチがよく使った日本語が
「Keep Ball Low - Hee Koo Koo(低く)」
でボールを低めに集めるよう指示した。
野茂英雄は、ナ・リーグ(ナショナルリーグ)の奪三振のトップを独走した。
球種は2つ。
ストレート(直球)とフォークボール。
直球は、リリースするときボールを指で強く弾いてバックスピンをかけている。
バックススピンをかけて投げられたボールは浮き上がっていくが、野茂英雄ほど勢いよくボールを弾くとホームベースの上を通過するとき、スピンなしのボールに比べて最高で10㎝高くなる。
バッターにとって直前で浮き上がってくるやっかいな球となる。
またアメリカのボールは、マメが潰れて苦労したが、フォークは驚くほど落ちた。
野茂英雄のフォークボールは、落差が大きいだけでなく直前で落ちるためにバッターは打ちにくかった。
バッターはピッチャーの手首をみて球種を読んでいて、投げる直前に手首が広い部分がみえればストレート、側面がみえたら変化球と判断するが、野茂英雄は手首の広い部分をみせたままフォークボールを投げた。
同じフォームから投げられた球は、バッターの手前で、フォークなら落ちて、ストレートなら浮き上がった。
野茂英雄は、独特のフォームでバッタバッタと三振の山を築き、人気、実力ともに頂点を極めたオールすーたーゲームに日本人として初めて選出され出場し、先発投手として2回1安打無失点。

8月、ドジャーズは1日の休みもない27連戦があり、移動距離は10000㎞にも及んだ。
ドジャーズの先発陣は5人いて、日本で中5日で投げ続けていた野茂英雄にもキッチリ4日での登板が続いた。
15日のカブス戦を前に右肘に張りを感じていたが、もし自分が投げなければローテーションが崩れ、他の選手のコンディションに大きな影響が出てしまうため、登板を志願した。
こうして大リーグ、20試合目の登板は、球が走らず打たれ、初回にいきなり3点を取られ、7回までに11本のヒットを打たれ5失点で降板した。
その後、チームメイトより早くグラウンドに出て1人で練習をすることが多くなった。
右肘の張りや連戦での疲労でバランスが崩れていた。
8月31日、長い遠征を終え、ロサンゼルスに戻って行われたメッツ戦の8回、右手中指の爪にヒビが入り、自ら試合を止めて降板。
この後、初めて登板の間隔があいた。
チームのの疲労はピークに達していたが、試合中、ラソーダ監督は
「Never Give Up(あきらめるな)」
といい続けた。
9月12日、1ヵ月近く勝ち星がない野茂英雄がカブス戦に登板し、本来の伸びのあるストレートと落差のあるフォークで11勝目を挙げ、復活した。
「我々は野茂が投げる日は勝つと思っています。
そのことは野茂にはプレッシャーになりますが彼なら勝てるんです。
つまり彼はエースなんです」
(マイク・ピアッツァ)

シーズン最終登板では8回6安打2失点11奪三振で13勝目を挙げ、ロサンゼルス・ドジャースの7年ぶりの地区優勝を決めた。
「NOMO! NOMO!」
試合後のロッカールームで大合唱するチームメイトに野茂英雄は、笑顔で頭を下げた
「ヒデオのために頑張ろうと思わせる投手。
彼ほど勇敢に相手に挑み、勝ちたいという気持ちをマウンドで示す投手はいない。
捕手を含め8人、我々にヒデオのために頑張ろうと思わせる。
そんな気概をいつもマウンドで示していた。
彼は言葉はうまく話せないが、マウンド上で、その背中で我々野手を引っ張っていく投手だ。
だから我々はヒデオの後ろを守ることが大好きなんだ。
チームの勝利のために懸命に投げる。
投手として最も大事な姿をいつもマウンド上で示している」
(エリック・キャロス、チームリーダー、一塁手)
「ノモサンとは同い年です。
同い年だけど、私の憧れでもあります
彼ほどに信頼できる選手、友人はいません。
ノモサンは純粋にアメリカの野球が楽しみたかったという気持ちもあったでしょう。
ただ口数は少ない人ですが、自分が背負っているものの大きさを常に自覚していたように思います。
日本の選手に道を切り開き、世界中の選手にメジャーへの門戸を開いたのは間違いなく彼です。
志を持った選手はたくさんいましたが、結果なくして道を切り開くことはできません。
ノモサンはその責任を果たそうとしていた。
とても大事なことだと思います。
またチームメイトから愛され、信頼されるノモサンの姿に感銘を受け多くのことを学びました。
1番勉強になったのが「humble(謙虚さ)
どんな立場であろうと謙虚な姿勢は忘れてはならない。
ノモサンの謙虚な人柄は初めてベロビーチで会った時から変わらないですね」
(デリック・ホール、ドジャース広報部職員、現:アリゾナ・ダイヤモンドバックスのCEO兼社長)
「Baseball needed him(野球が彼を必要としていたんだ)」
(トミー・ラソーダ監督)
その後、チームはシンシナティ・レッズとのディビジョンシリーズに進出。
野茂英雄は第3戦に先発したが、6回途中5失点で降板した。
チームも3連敗し敗退した。
大リーグ1年目、野茂英雄は、シーズン通算、13勝6敗、防御率2.54(リーグ2位)、3完封(リーグ最多タイ)、236奪三振。
最多奪三振のタイトル(アジア人初)、新人王(アジア人初)を獲得し、サイ・ヤング賞の投票でも4位に入った。
「腕をいっぱいに伸ばすユニークなワインドアップ」
「90マイル(145km/h)中盤の直球」
「エゲつないフォークボール」
で野茂英雄が2ストライクと追い込むたびに超満員に膨れ上がったスタジアムは三振をおねだり。
そしてバッターが三振するとアナウンサーは、
「SANSHIN」
と日本語で実況。
野茂英雄は、アメリカに投げ方同様、「 Tornado(トルネード)」を巻き起こし、圧倒的な人気でドジャースタジアムに人を呼び戻し、アウェーでも野茂英雄が投げると人が来た。
スト後、嫌気がさしてファン離れが止まらなかったメジャーリーグの「救世主」となった。
「アメリカに渡り、長くこのロサンゼルスに住んでいます。
日本食レストランを経営していますが、私たち日本人にとって野茂さんの頑張りほど嬉しいことはないんです。
アメリカは移民を受け入れてくれて我々も商売が出来ることは有り難い限りですが、歴然とした差別が存在しているのも事実です。
いつも周囲の目を気にしながらなるべく目立たないように生きてきましたが、今は違います。
俺は日本人だ!と初めて声を大にしていえるようになったんです。
野茂さんが日本人としてアメリカで頑張ってくれたおかげなんです。
私同様の思いを持つ日系人はたくさんいると思いますよ」
(日系人ファン)
DIAMANTES(ディアマンテス、沖縄県を中心に活動するラテンバンド)が、「野茂英雄のテーマ・HIDE〜O」をシングルCDで発売。
「Nomoが投げれば大丈夫」
の歌詞がブームになるなど、野茂英雄の活躍は日本も盛り上げた。
このメジャーの日本人に対する評価を一変させた野茂英雄の鮮烈なデビューイヤーがなければ、その後の日本人メジャーリーガーの活躍ももう少し紆余曲折したのかもしれない。
間違いなく野茂英雄は日米の壁を破壊した。
1996年、ロサンゼルス・ドジャースは野茂英雄との契約を3年430万ドルに延長。
4月13日、野茂英雄はフロリダ・マーリンズ戦で17奪三振、完投。
7月5日、日米通算100勝を達成。
9月1日、フィラデルフィア・フィリーズ戦でメジャー史上3人目となる1年目から2年連続200奪三振を達成。
9月17日、ロッキーズ戦でアジア人初のノーヒットノーランを達成。
クアーズ・フィールドは狭い上に高地で空気が薄いためボールが飛びやすく打者に有利な球場で、ノーヒットノーラン達成は初めてのことだった。
「標高1600m、コロラドの球場ですよ。
今でも誰も成し得ない打者天国の地で彼はノーヒッターを達成しました。
投手としての凄さはもちろんですが、私は試合後の出来事が忘れられません。
あの日は雨のおかげで試合開始が2時間ほど遅れました。
(その間、野茂英雄はヘッドホンをつけ、ソリティアをしていた)
試合終了は深夜でした。
それから記者会見やら何やらで一緒にホテルに戻ったのは午前2時近かったと思います。
それでも私は何かノモサンのためにお祝いがしたくて『何かお望みはありますか?』と聞いたんです。
そうしたら彼はこういったんです。
『セブンイレブンに行きましょう!
ブリトーが食べたいです』
たまげましたよ。
ノーヒッターを達成した夜に何かお祝いをといったら、セブンイレブンに行ってブリトーが食べたいというと思いますか?
しかも自分で電子レンジで温めていた。
ノモサンは当時、アメリカでロックスターの扱いですよ。
でもこれが本当のノモサンなんだと私は思うんです。
口数が少ないシャイな人ですが、本当の彼を知れば彼ほど優しくていい奴はいない。
ユーモアのセンスもあり最高のチームメイトです。
私はこんなノモサンが大好きです」
(デリック・ホール、ドジャース広報部職員、現:アリゾナ・ダイヤモンドバックスのCEO兼社長)
野茂英雄はこのシーズン、最終的に16勝をマーク。
チームはサンディエゴ・パドレスと地区優勝を争い、1ゲーム差で敗れたがワイルドカードを獲得。
野茂英雄は、アトランタ・ブレーブスとのディビジョンシリーズ第3戦に先発し、4回途中5失点。
チームも前年に続き3連敗で敗退した。

1997年、29歳の野茂英雄は、打球を右肘に受けて退場。
復帰後、不調に陥り、オフにはリスクもあったが、長く投げられるようにと右肘の遊離軟骨除去手術を受けた。
1998年、近鉄バファローズで野茂英雄と一緒に戦った吉井理人がニューヨーク・メッツに入団。
1997年オフにFA宣言し、巨人入団かメジャー挑戦かで揺れていたとき、決断させたのは野茂英雄からの電話だったという。
「自分の気持ちに正直になった方がいいですよ。
もしも日本に残って、ジャイアンツやほかのチームと契約したら一生後悔しますよ。
立ち止まって自分が何をやっているのか考えるんです。
自分自身をよく見つめるんです」
吉井理人は巨人の高額オファーを断りメッツと1年契約を結んだ。
「野茂ほど世間でいわれているイメージと実像とのギャップが激しい人間はいない。
いつも無口でブスッとしていると思われているが実際はひょうきんでよく喋る。
酒を飲みに行けば歌も歌うしくだらない冗談をいって滑るような茶目っ気もある。
今、日本人がこれだけメジャーで活躍しているのも野茂のおかげである。
日本でもメジャーで活躍できるとアメリカのスカウトに思わせたことも大きいし、メジャーのこと、とくにグラウンド外の移動の仕方やクラブハウスでの過ごし方など、それこそ「クラビー(クラブハウスボーイ)にチップを払うのか」から「スパイクを磨くのは誰に頼めばいいのか」まで、小さな情報はすべて野茂から入り、日本人選手に広まっていった。
予備知識があるため、その選手もスッと新しいチームに入っていける」
(吉井理人)
野茂英雄は、例年よりも1ヶ月早くロサンゼルス入りし、トレーニングを開始。
開幕前のトレーニングキャンプで、146km/hを記録するなど球威はあったが制球が悪く、計21回で自責点19。
シーズンが始まると、4月3日に7連続奪三振を記録したが、18日は2/3回8失点で降板。
5月9日、右手中指の痛みで途中降板。
6月1日、ドジャースを退団し、トレードでメッツへ移籍しシーズンを終えた。
10月、オフに入っても遊ばずに
「まず腰を治すこと」
に専念。
制球の乱れをカバーしようとフォームを崩し、腰を痛めていた。
腰がよくなると次は
「フォームを元に戻すこと」
だった。
よかったときのフォームを何度も観て、今とどこがどう崩れているのか徹底的にチェック。
その後、忘れかけていたよいフォームを体にもう叩き込むために、毎日、朝も昼も夜も、鏡の前でシャドーピッチング。
10月のオフから2月のキャンプインまで5ヵ月間、毎日、何百回、何千回とシャドーを繰り返し、そのフォームに戻すために必要な筋力トレーニングやキャッチボールも行った。
1999年3月30日、野茂英雄は、10ヵ月でメッツから放出された。
その後、カブス、ブルワーズ、デトロイトタイガースと渡り歩き、2000年12月15日、ボストン・レッドソックスと1年契約を結んだ。
2001年4月4日、ボルチモア・オリオールズとのシーズン開幕試合で2度目のノーヒットノーランを達成した。
オリオールズの本拠地球場「オリオール・パーク・アット・キャムデン・ヤーズ」で、球威のある直球とキレたフォークボールで5連続を含む11つの三振を奪い、許した走者は、四球と失策での4人だけ。
唯一のピンチは9回1アウトの場面で、打球がセンター前にフラフラと上がったときだったが、セカンドが背走してナイスキャッチした。
3万5602人の観衆も敵味方関係なく声援を送り、ノーヒットノーランを後押しした。
110球目、145km/hの外角ストレートがライトフライになると野茂英雄の周りに歓喜の輪ができた。
レッドソックスのユニホームを着た最初の試合で、いきなりチームのヒーローとなった野茂英雄に全米は驚いた。
野茂英雄は、その後も活躍し、チームメイトに慕われた。
ロサンゼルスからフィラデルフィアへの飛行機の中で、野茂英雄はトレーナーとどれだけビールを飲めるか勝負し、18杯で酔い潰れたトレーナーを尻目に35杯飲んだ後、自分で歩いて飛行機を降り、次の日の朝8時半にチームメイトに電話をして
「一体どうしてこんな時間に起きられるんだ?」
とあきれられた。

2001年5月2日、イチローとメジャー初対決し、第1打席、セカンドゴロ、第2打席、センターフライと抑えたが、5回2アウト2塁の第3打席で144km/hの内角速球がイチローの背中を直撃。
無表情で一塁へ向かうイチローに野茂英雄は日本式に帽子を取る謝罪をしなかった。
「安打を打たれてはいけない場面なので内角を狙った。
でもボールが引っ掛かってしまった。
三振狙い?
当然でしょう」
「アメリカに来て初めての死球が日本人からとは思いませんでした。
僕は野茂さんを敵の1人と考えています。
向こうも同じではないでしょうか」
2人の初対決は、1993年6月12日のオリックス vs 近鉄戦で、プロ2年目のイチローは野茂英雄からプロ初ホームランを放った。
阪神淡路大震災が起こった年(1995年)、野茂英雄はアメリカに渡り衝撃的なデビューを飾り、前年、プロ野球記録となる210本安打を記録したイチローと所属するオリックスは奮闘し
「がんばろう KOBE」
を合言葉にした復興の象徴の1つとなって人々に希望を与えていた。
そのシーズン中、イチローは、アメリカに取材に行く記者に
「野茂さんのサインボールが欲しい」
と頼んだ。
売買を防止するため禁じられていたが、記者から事情を聞いた野茂英雄はニコッと笑い
「サイン禁止、知らなかったことにしといて下さいよ」
といって公式ボールににサインをした。
帰国した記者からサインボールを受け取ったイチローは、その後、首位打者、打点王、盗塁王、最多安打、最高出塁率の5冠を達成し、オリックスも初のリーグ優勝に輝いた。
1999年オフにメジャー移籍を要望したが球団に拒否され、1年後にポスティングでメジャーに移籍した。
2人の日本での対戦成績は、13打数4安打、打率3割8厘、メジャーでは、12打数4安打、打率3割3分3厘。
最終対決は2008年4月15日、カンザスシティ・ロイヤルズでプレーしていた野茂英雄は、4回4対4、ノーアウト1塁の場面で登板。
連打を浴びて4対5とされ、なおノーアウト1、2塁でマリナーズの1番、イチローと対決し、フォークで空振り三振に打ち取った。
そして5日後、戦力外となり、この年、ユニホームを脱いだ。
「今、芽の出ていない人もあきらめる必要はないと思うんです。
日本のドラフトで指名されなかったからといってプロ野球をあきらめる必要はないし、日本の野球をクビになったからといってあきらめる必要はない。
アメリカに来たって野球はやれるんですから。
そういった意味で僕の活躍が励みとなって大リーグを目指す人が出てきてくれたら嬉しく思います。
僕がその道筋を少しでもつけることができたなら、それは素直に喜びたいし、僕を通じてメジャーの良さがわかったというんであれば、それはそれで嬉しい」