マイク・タイソン vs イベンダー・ホリフィールド  不遇の黒人たちがボクシングに活路を見出し、アメリカの過酷な環境が最高のボクサーを産んだ。

マイク・タイソン vs イベンダー・ホリフィールド 不遇の黒人たちがボクシングに活路を見出し、アメリカの過酷な環境が最高のボクサーを産んだ。

マイク・タイソン、イベンダー・ホリフィールド、リディック・ボウ・・・ 1980~90年代、アメリカのボクシングは最強で、無一文のボクサーが拳だけで数百億円を手に入れることができた。しかしボクサーはお金のためだけにリングに上がるのではない。彼らが欲しいのは、最強の証明。そして人間は考え方や生き方を変えて人生を変えることができるという証だった。


アメリカは豊かな国だが、先進国の中でも富の分配が最も不公平な国で、多くの貧困が存在し、5人に1人が貧困家庭で育つ。
人はお金に困ると、とりあえず生きるためにと短絡的に行動しがちになる。
その結果、長期的にみると多くのチャンスを失うことになり、貧困から抜け出すことは困難になる。
困難が続くと夢を信じられなくなり底辺から這い上がれない。
多くのチャンピオンが過去に貧困や犯罪を経験したことがあるのをみると、ボクシングは貧困や反社会性から脱出する手段となり得ることがわかるが、貧困や反社会性からの逃避であるにも関わらずバイオレンス的なスポーツであるところが非常に面白い。
元来、人間は戦う生き物である。
凄惨な事故が起こればやじ馬ができるし、嫌いな人が苦しむことに快楽を覚える。
人は社会から暴力を排除しようとするが、暴力に興奮し、平和を望む反面、対立や闘争が好きである。
そして頂点を目指し、戦い、這い上がるボクサーの姿に感動する。

「ボクシングは、自分との戦い」

「ボクシングは、不安や恐怖に打ち克ち本当の自分を探し、自分自身を証明するための戦い」

「ボクサーはあえてボクシングを選び、リングで危険を冒す」

「ボクシングは、生き残ること、戦いという人間の本能に訴えかけてくる」

「ボクシングにはドラマがある。
なければ本物じゃない」

「金持ちは戦わない。
現状を抜け出したい者だけが戦う」

「リングサイドにいると圧倒される。
ボクサーは命をかけて何かのために戦っている
そこに惹かれる」

「1発のパンチですべてが決まる
ノックアウトすればスター。
だが食らえばダークサイドに転落する」

「ボクシングは、自分自身の努力によって成功するスポーツ。
勝ち続ければ最後にはチャンスが手に入る」

何も持たざる者でも偉業を成し遂げることができるボクシングは、アメリカンドリームそのものだった。

ボクシングはスポーツとしては純粋だが、ビジネス的には荒っぽい金持ちが大金が動かし、夢を追うボクサーにチャンスを与えていて、富裕層と貧困層の2極化した社会の現実も映し出している。
テレビ放映されるような大きな試合に出ることができるボクサーは一握りだが、例えばそれが実現し、ファイトマネー15000ドルを得たとすると
そこから

用具やジム利用代 、2000ドル
トレーナー(ファイトマネーの10%)、 1500ドル
マネージャー(上記差引額の1/3)

などを支払い、残った6955ドル(85万円)で、6~8週間後の試合に向け準備を行う。
年間4試合出場すれば最低限の生活ができるが、普通に仕事をする方が楽で稼げる。

MLB(野球) 49万ドル(6000万円)
NFL(アメリカンフットボール) 40万5000ドル(4900万円)
NBA(バスケットボール) 49万180ドル(6000万円)
NHL(アイスホッケー) 52万5000ドル(6400万円)

とアメリカの4大メジャープロスポーツでは、最低保証年俸が定められているが、プロボクシングでは最低年俸保証はなく、たった一部のトップ選手が報酬のほとんどを独占している。
ボクシングは、生計を立てるのが難しい上に、とてもデンジャラスなスポーツである。
多くのプロスポーツは、国レベル、世界レベルで1つの連盟で統一され、ルールや規制を共有している。
しかしボクシングは大小の団体やプロモーターがいくつも存在し、それぞれが運営している。
例えば、MLBは選手と審判に年1回の心理テストを義務づけたり、脳損傷に苦しむ選手にNFLが7億6500ドルを支払ったり、他のスポーツでは連盟が必要な資金を与え、選手を支える専門家チームや体制が存在する。
そういった規制も体制も労働組合もボクシングにはなく、試合前にMRIを1回受ければ試合は許可される
1対1で長時間殴り合うボクシングはとても危険。
前から強いパンチを顔面に受けると、脳が頭蓋骨の後頭部側に激突し、さらに反動で前側にもぶつかる。
いわゆる脳震盪の状態に陥ったり、脳が腫れ、出血し血腫ができると記憶喪失、脳梗塞、動脈瘤、血管破損なども起こり、多くのボクサーは何らかの脳損傷に苦しむことになる。
脳のダメージの度合いによっては死に至ることもある。
試合直後は、変わった様子がなくても、数日後、突然倒れることもある。
試合後、控室でトレーナーに負けたことを詫び、頭が痛いと訴え倒れこみ、そのまま意識が戻らず数日後亡くなったボクサーもいる。
ボクサーは、厳しい体重制限があるため、禁欲的な生活を強いられる。
勝つためには激しい練習が必要で、肉体的にも精神的も苦しい思いをしなければならない。
そして試合では命がけで戦う。
何の保証もないため、将来の生活に不安を抱えている。
その上、健康を損なう危険性も高い。
底辺から頂点に這い上がるサクセスストーリーには必ず悲話もつきまとう。

アメリカの心理学者アブラハム・マズローは、
「人間は自己実現に向かって絶えず成長する」
と自己実現理論( Maslow's hierarchy of needs)を提唱し、人間の欲求を低次から高次まで5段階に分けた。

自己実現の欲求 (Self-actualization)
承認(尊重)の欲求 (Esteem)
社会的 (所属と愛の)欲求欲求 (Social needs / Love and belonging)
安全の欲求 (Safety needs)
生理的欲求 (Physiological needs)

人間の欲求には「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求(所属と愛の欲求)」「承認欲求」「自己実現の欲求」の5段階があるという。
結局、人生は、本当の自分、最高の自分を探す旅なのかもしれないが、そこへたどり着ける人間は稀である。
ボクサーがボクシングに惹かれる理由は、この辺りにあるのではないだろうか?
ボクシングは自分自身を証明するための戦いであり、技術や知識があっても大きな代償を払う可能性があり、恐怖に打ち勝つ勇敢さが求められ、勝ち続け、最強の称号を得ること、得ようとすることで、彼らは最高の人生を送れるのかもしれない。
そして彼らは人間は考え方や生き方を変えることで、人生を再生できることを証明した。

1962年10月19日、「The Real Deal(ザ・リアルディール、本物、真の男)」、イベンダーホリフィールド(Evander Holyfield)がアラバマ州アトモアで9人兄
弟の末っ子として生まれた。
家はスラムといわれる地域にあった。
文字が読めない両親は働きづめだった。
母親は路上のゴミを拾って収集容器へ運ぶ仕事をしていて笑われることもあったが、
「自分らしく生きればいい」
といった。
近所の人や学校の先生から
「貧乏がうつる」と避けられ、
「正しい言葉も文字も知らない。
どうせ1人前になれない」
といわれ落ち込むイベンダー・ホリフィールに母親は訊ねた。
「学校で足が1番速いのは誰?」
「俺」
「人より秀でたものがあればいつか花咲く」
8歳のときに母親に連れられていったボーイズクラブでボクシンググローブをはめたが、イベンダー・ホリフィールドの夢はトレーナーの言葉で始まった。
「モハメド・アリを知っているだろう?
君も頑張ればアリのように世界ヘビー級チャンピオンになれるぞ」
底辺に生きるつらさを知っていたからこそ、ビッグになりたい気持ちは大きく、そのための努力を推しまなった。
ある日、トレーナーに
「白人はボクシングに向いていない」
といわれスパーリングに押し出され、2度も倒されたイベンダー・ホリフィールドは
「負けたらチャンピオンになれないから辞める」
といってジムを出て、家に帰って母親に報告した。
「負けたから辞めた」
「思い通りにいかないこともある。
辞めたら夢はかなわない」
結局、イベンダー・ホリフィールドはジムに戻り、しばらくしてその白人を倒した。

1966年6月30日、イベンダー・ホリフィールドが生まれた4年後、「Iron(鉄)」、「The Baddest Man on the Planet」、マイク・タイソン(MikeTyson)が、ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区で生まれた。
ブルックリン(Brooklyn)は、ニューヨーク市の5区のうちの1つ。
約50の地区にユダヤ系、ラテン系、ロシア系、イタリア系、ポーランド系、中東系、カリブ、アフリカンアメリカ系、アイルランド系、ギリシャ系、中国系などさまざまな民族が同居していた。
かつては造船業や製造業で栄えたが、第2次世界大戦後、技術革新が起こり経済がシフト。
工場や倉庫は閉鎖され、多くの人が去り、街の一部が廃墟化。
残った人の多くは貧困層となり、犯罪が多発。
ニューヨークにありながら1990年代初頭まで観光人は皆無だったが、マンハッタンの地価高騰に伴い、賃料が安いブルックリンに人々住むようになった。
街は再開発が進み、廃墟だった建物はリノベーションされていった。
1875年に開行した政府銀行(Williamsburgh Savings Bank)は、結婚式やパーティーなどを行うイベントスペース「ウェイリン(Weylin)」に、1929年開業の37F高層タワーは、1階がイベントスペース、上階は高級アパートメントとして現在も現役。
19世紀に外国から到着したコーヒーや砂糖、毛皮などの保管していた倉庫は、外観をそのまま残して店舗やレストランとなった。
レンガ壁。
打ちっ放しのコンクリート床。
廃材利用の家具
見上げればむき出しの配管が縦横無尽に天井を走る。
素朴で飾らない。
でもおしゃれ。
そんな「ブルックリンスタイル」は世界から注目を集めるようになった。

しかしマイク・タイソンが生まれたときは、まだ悪名高き街だった。
父親はマイク・タイソンが生まれてからすぐに家を出てしまい、母親は大学に通うほどのインテリだったが父親の看病のために中退し、彼女の友人はほとんどが売春婦で、毎週末にやってきては乱痴気パーティを繰り広げた。
一家はブルックリンや隣のフォート・グリースを転々とし、マイク・タイソンが7歳のときにブルックリン地区ブロンズビルのアンヴォイ通りにある集合住宅の2階へ引越してきた。
1980年代、このエリアは、アメリカ最悪のゲットー(Ghetto)と呼ばれ、黒人男性の平均寿命は25歳。
ゲットーとは、中世、西欧諸国でユダヤ人が強制的に住まわされた居住区で、キリスト教徒の支配者の支配が及ばないという宗教的な意味も持ち、宗教弾圧の象徴でもあった。
第2次世界大戦中は、ドイツがユダヤ人を強制的に移住させた地区 や迫害されて集まったユダヤ人コミュニティーがそう呼ばれた。
そして現在では、異国で同じ民族が集まって住む地域をそう呼ぶことがあり、マイク・タイソンが生まれた時代、アメリカでゲットーといえば一般に黒人が多く住む地区を意味した。
外国人記者が、アメリカで1番危険な街を取材しようとコーディネーターを雇おうとしたが、行き先を「ブルックリン、ブロンズビル」と告げると
「嫌だ。
絶対に行きたくない」
と断られ、代わりに過去にそこに住んでいたという男を紹介された。
「100ドル札を体のいろいろなところに入れろ。
1箇所ではなく、なるべく分散させるんだ。
そしてそれを出せといわれたら抵抗せず、1枚出せ。
いいか、絶対に抵抗しちゃダメだぞ」
男は厳しい口調で忠告。
そして車で街に向かうと、閑散とした通りで男たちがドラム缶に火を起こし暖をとっていたが、警戒するようにこっちをみてきた。
さらに進んでいくと、車が逆さまになって燃えていた。
結局、記者は車から降りることはできなかった。

マイク・タイソンは、大きな近眼鏡をかけ、チビで、デブで、外では近所の悪ガキによくイジメられた。
そして家の中も危険だった。
母親は、恋人を家に入れていたし、姉と寝るためにたくさんの男たちが現れた。
母親と姉、その恋人たちは、マイク・タイソンにネガティブな言葉を浴びせ殴った。
学校でもイジメられたマイク・タイソンは不登校になり、授業が終わるまで学校周辺で時間を潰していた。
ある日、数人の少年が近づいてきて押さえつけられた。
「俺たちと飛ばないか?」
逆らうことができず一緒についていくと、そこは廃墟で彼らのたまり場だったが、飼育箱が置いてあって中にたくさんのハトがいた。
「学校でイジメられるより、ここにいたほうがいい」
マイク・タイソンは彼らの盗みの手伝いを始めた。
この街で貴重品を身に着けて歩けばたちまち奪われてしまった。
やがて適応すれば奪われなくなるが、高度に適応した者は奪う側となった。
盗品を売りさばき、スウェット、ゴーグル、スポーツシューズを買った。
カッコ良さがステータスだった。
マイク・タイソンは自分と同じアパートの住人からも盗んだが、中には母親の友人もいた。
生活保護手当をもらって酒を買ってきた母親の友人が家に来て飲んでいるのを確認すると、マイク・タイソンは自分の部屋から非常階段を上って部屋に忍び込み、手当たり次第に盗んだ。
部屋に帰って盗難に気づいた母親の友人が戻ってきた。
「ローナ、みんな持っていかれちゃった。
ベビーフードまで」
彼女が帰ると母親はマイク・タイソンの部屋にいった。
「お見通しだよ。
お前なんだろ?」
「俺じゃないよ、母ちゃん。
ほら見てくれ。
俺はずっとこの部屋にいたよ」
「いや、お前は正真正銘の盗っ人だ。
私は生まれてから人様の物に手をつけたことは1度だってないのに。
いったい誰に似たんだろうね」
マイク・タイソンが不良の仲間に入ったのは、家や学校よりも、そこが暖かかったからで、たとえ悪いことをしたとしても警察に仲間のことはしゃべらなかった。
ヤクザやギャングは、親分、子分、兄弟など疑似家族を形成し、不良たちも仲間に強い絆を求める。
裏切ったり抜けるときは、指詰め、リンチなどキツい制裁が加えられた。
家や社会に居場所がないさみしい者同士が集まり、家族のような強い絆を求めるが故と思われるが、人生の価値を真剣に考えず、軽率に反社会的な行動を続けていけば、いつか破綻する可能性も高かった。
 

1965年1月15日、マイク・タイソンが生まれた翌年、「The Executioner(死刑執行人)」「The Alien(宇宙人)」、バーナード・ホプキンス(Bernard Hopkins)が、フィラデルフィア北部のスラム街で生まれた。
豚肉と豆の煮もの2缶を男女7人の兄弟で分けるため、母親は
「豚と豆の煮ものには変わりない」
と他の食べ物を混ぜた。
仕事づめの父親はドラッグをやっていた。
「家には両親がそろっていたが暮らしはかなり苦しかった。
とても普通とはいえない家庭だった」
バーナード・ホプキンスは、学校には通っていたが教室には入らず、仲間と学校の周辺にたむろしてサボった。
出席するとしたらバスケットボールができる体育の授業だけ。
勉強よりそっちの方が大切だと思っていた。
大統領になりたいとは思わなかったが、極悪のワルになることが目標で、路上の客引きや麻薬の売人が手本。
自分の車を持ち、たくさんのアクセサリーを身に着けている彼らが輝いてみえた。
悪いことをしているのはわかったが、普通の労働者より多くのものを持ち、いい暮らしをしていた。
街で暴力、ドラッグは日常茶飯事。
誰かが誰かを殴ってもとがめられない無法地帯。
痛めつけられた者は、恐怖に苦しみ続けるか、無神経になるか、悪党になるか、強くなるかだった。
道で物理的な障害に出会ったら、
「恐れてはいけない。
とにかく困ってないと見せかけるんだ。
むしろトラブルが好きだと」
フィラデルフィア北部はボクシングが盛んで、バーナード・ホプキンスも10歳で始めた。
99戦95勝4敗とアマチュアとして有望だったが、いつの間にか遠ざかり路上のストリートファイターとなっていった。

10歳のとき、マイク・タイソンは初めて逮捕された。
「ある日、何人かでアンボイ通りの貴金属店を通り過ぎようとしていると、宝石商が箱を運んでいるのがみえた。
俺がその箱をひったくって、みんなで逃げた。
うちのブロックの近くまで来たとき、タイヤがキキーッと音をさせ、車から私服警官が何人か駆け出してきて、俺たちめがけてパン、パンと発砲し始めた。
俺は日ごろから根城にしている廃墟に逃げ込み、難を逃れた。
警官が何人か建物に入ってきた。
『ちきしょう、あのガキども、頭にくるぜ、こんな建物に誘い込みやがって』
『殺してやるからな、ろくでなしども』
白人の警官たちが話すのを聞いて心の中で笑っていた。
ここは俺の庭なんだ。
奪った宝石箱の中には、高級腕時計や金貨のペンダントヘッド、ブレスレット、ダイヤモンド、ルビーがどっさり入っていた。
2週間かけてそれを売りさばいた。
ある場所で一部を売り、別の場所に行ってほかの品々を売った。
こういう路上強盗はうまくやってのけたのに、初めて逮捕されたのがクレジットカードの窃盗だったのは皮肉な話だ。
こんな子どもがクレジットカードを持っているわけないから、年上のやつを店に行かせ、俺が指示してあれやこれや買ってもらい、そいつにも何か買わせてやった。
後で別の年上のやつにそのカードを売りつけるつもりだった。
あるとき、ベルモント・アヴェニューの小売店に入ってカードを使おうとした。
俺たちはこぎれいな格好をしていたが、クレジットカードを持てる年齢にはみえない。
洋服やスニーカーをどっさり選んでカウンターに持っていき、レジの女にカードを渡した。
女はちょっと失礼といって席を外し、電話をかけた。
アッと思ったときにはお巡りがやってきて、俺たちは逮捕された。
俺は地元の警察署に連行された。
おふくろは電話を持っていなかったから、警察が迎えにいって署へ連れてきた。
おふくろは俺をみるなり怒鳴りつけ、その場で死ぬほどぶちのめされた。
おふくろが署に来てぶっ叩かれるのがいやでならなかった。
その後、おふくろは友達と酒を飲んで俺をぶちのめした話をする。
隅で体を丸めて身を守ろうとしても、かまわず攻撃された。
あれはちょっとした心の傷になっている。
今でも、部屋の隅にちらっと目が行くと、おふくろに叩かれたときのことが頭に甦り、思わず目をそむけてしまう。
食料雑貨店でも、外の通りでも、学校の友達の前でも、法廷でも、おふくろは平気で俺を叩いた」
逮捕されたマイク・タイソンは裁判所へいったが、未成年だったため刑務所に入らずにすんだ。

マイク・タイソンが入っていた「ザ・キャッツ」は、「ピューマボーイズ」 というグループとモメていた。
仲間が公園で「ピューマボーイズ」と言い争いになり、10歳のマイク・タイソンも加勢しにいった。
普段は武器など使わないが、盗んでためていた銃を仲間で分け合った。
マイク・タイソンは第1次世界大戦で使われた銃剣つきのM1ライフルを抱えて路上を歩いていった。
公園につくと仲間の1人がいきなり発砲したため、みんな逃げ出し、群衆がキレイに割れていった。
道に停めてあった車の影に隠れた数人の「ピューマボーイズ」を見つけたマイク・タイソンは、M1ライフルを構えようとしたとき背後に気配を感じ振り返ると、拳銃を持った男が自分に狙いを定めていた。
「何をしているんだ?」
マイク・タイソンの兄、ロドニーだった。
「さっさと家に戻れ!」
マイク・タイソンは公園を出て、家に帰った。
11歳のとき、マイク・タイソンは、年上の仲間と盗みに入り、現金2200ドルをいただき600ドルの分け前をもらったマイク・タイソンは、ペットショップにいって100ドル分の鳩を買った。
それは店員が地下鉄に乗せるのを手伝う大量の鳩で、廃墟までは近所の知り合いが運ぶのを手伝った。
ところがその知り合いが近所の悪ガキどもに鳩の話をいいふらした。
悪ガキのリーダー、ゲーリー・フラワーズは仲間と鳩を盗みにいった。
それを見かけた母親から教えてもらったマイク・タイソンは通りに飛び出し、急いで隠れ家に向かった。
マイク・タイソンが来たのをみると彼らは鳩をつかむ手を止めたが、ゲーリー・フラワーズはコートの下に1羽隠した。
「鳩を返せ」
マイク・タイソンは恐怖心を押し殺し叫んだ。
ゲーリー・フラワーズはコートの下から鳩を取り出し
「鳥が欲しいのか?
こんなものが?
なら返してやるよ!」
といい鳩の首をねじ切って投げつけた。
マイク・タイソンの頭とシャツに血がつき、鳩の胴体は道路にぐったり横たわっていた。
「俺の大切な鳩を・・・」
マイク・タイソンは、それまでずっと臆病で、喧嘩なんかしたことがなかった。
しかしそのときは湧き上がってくる怒りを抑えることができなかった。
覚悟を決め、何発かしゃにむにパンチを繰り出し、そのうちの1発が当たるとゲーリー・フラワーズは倒れ、起き上がってこなかった。

力に目覚めたマイク・タイソンは、以来、これまでとは違う次元の尊敬を集めるようになり、別の収入源もできた。
街で行われていた、観衆がどっちが勝つか金を賭けるストリートファイトだった。
マイク・タイソンはかなりの勝率で、負けても相手は
「すげえな!お前本当に11歳か?」
と目を丸くした。
マイク・タイソンの名はブルックリン中に知れ渡ったが、ストリートファイトにリングのようなルールはなく、何人かに囲まれバットでめった打ちにされ復讐されることもあった。
マイク・タイソンは以前、受けた屈辱を忘れていなかった。
街を歩いていて昔、自分をイジめていたやつをみかけると
「俺に何をしたか思い出させてやらなきゃいけない」
と引きずり出して容赦なく殴った。
近眼鏡をガソリンタンクの中に投げ込んだ相手をみつけたときは、封印した怒りが蘇ってきていきなりつかみかかり、路上で狂ったように殴りつけた。
相手はひたすら怯え、許しを請うた。
「俺のことなんか忘れていたんだろうな」
18歳くらいの男を相手にサイコロ博打をやっていたとき、11歳のマイク・タイソンは絶好調で、1回100ドルで6回連続で自分の数字を出し、600ドルを取っていた。
「もう1回だ。
腕時計を賭ける」
相手はいったが、またマイク・タイソンが勝った。
「まあ、よくあることさ」
「よこせよ、腕時計」
「いいや、何もやる気はない」
相手は自分のマイク・タイソンに払った金をつかもうとした。
マイク・タイソンは殴りつけた。
騒動を見かけた母親の友達が、アパートに駆け込み
「あんたの息子が大人とケンカしているよ」
と報告。
母親は現場にかけつけるなりマイク・タイソンに飛びかかって平手打ちをして投げ飛ばし
「この人に何をしたんだ?
本当にすみません」
と謝った。
「こいつは負けたくせに金を取り返そうとしたんだ」
そういうマイク・タイソンから母親は金を取り上げて男に渡し、再び平手打ち。
「本当にすみません」
「殺してやる」
母親に引き離されながらマイク・タイソンは叫んだ。

1979年、9歳から12歳の間に51回も逮捕されたマイク・タイソンは、13歳でニューヨーク州でも最悪の少年が収容されるトライオン少年院に収監されたが、ここでも並外れたパワーで暴れたため、手に負えない悪ガキが集められるエルムウッドという懲罰房に収容された。
すでにアルコールもコカインも大麻もハシシもアヘンもLSDも経験済みだったマイク・タイソンだったが、ソラジン(強力な精神安定剤)を飲まされると途端におとなしくなった。
週末になるとエルムウッドから外へ出て行き、瞼を腫らし鼻血を出し、でもなぜか楽しそうに帰ってくる少年たちがいた。
「痛めつけられているのになぜだ?」
マイク・タイソンは不思議に思い聞いてみると彼らは教官にボクシングを教えてもらっていた。
それは75㎏くらいの白人教官だという。
「俺なら倒せる」
マイク・タイソンは会わせてほしいと懲罰房の職員に頼んだ。
ある晩、ドアに大きなノック音が響いた。
「おい、お前、俺と話がしたいんだって?」
「ボクサーになりたいんだ」
「みんなそういうんだよ。
だが本気でボクサーになろうなんて根性のあるやつは1人もいなかった。
でもお前が態度を改めて、マジメに勉強して周囲に敬意を払えるようになったら、相手をしてやってもいいぞ」
以後、マイク・タイソンはマジメにやった。
「はい、わかりました」
「いいえ、先生」
と言葉遣いを改め、勉強もした。
1カ月後、お声がかかった。
(やっと叩きのめせる。
その後は少年院中の連中が俺に従うはずだ)
初めて練習場にいくと、さっそく白人教官にスパーリングを申し込んだ。
他の少年たちが興味津々で集まってきた。
(これだ、この感覚だ。
みんなの前でこの男を倒して、拍手喝采を浴びてやる)
意気揚々のマイク・タイソンは、白人教官と向き合うと、すぐに腕を振り回して連打。
打って、打って、打ちまくったがパンチはかすりもしない。
(おかしいな)
そう思った瞬間、白人教官がマイク・タイソンのわきをすり抜け、ボディに鋭いパンチをめり込ませた。
「このまま息ができず、死んでしまうんじゃないかと本気で思った」
マイク・タイソンは倒れ、呼吸困難になり胃の中のものを吐いた。
「起きろ、終わりだ」
白人教官、ボビー・スチュワートは、1974年にアメリカゴールデン・グローブ大会ライトヘビー級で優勝した事のあるアマチュアの名選手だった。
みんながいなくなるとマイク・タイソンは恐る恐るボビー・スチュワートに近寄った。
「あの、すみません。
今のやりかたを教えてもらえませんか?」
こうしてボクシングの世界に足を踏み入れた。
日中は猛練習、部屋に戻ってもずっとシャドーボクシング。
めきめき上達し、スパーリング中、ジャブ1発でボビー・スチュワートの鼻を折ってしまったこともあった。

「お前を伝説のボクシング・トレーナーのところに連れていってやる。
彼の名前はカス・ダマト。
そこで練習すれば、お前は違った世界をみられるはずだ」
「どういうこと?」
1980年3月のある週末、ボビー・スチュワートとマイク・タイソンは、トライオン少年院から南へ80km、ニューヨークのキャッツキルへ車で向かった。
カス・ダマトのジムは町の警察署の上にある集会所を改修したもので、窓がなくランプが天井から吊り下がっていて、壁にはたくさんのポスターやボクシングの記事の切り抜きが貼ってあった。
る。活躍している地元の少年を取り上げた記事の切り抜きだった。
「やあ、俺がカスだ」
71歳のカス・ダマトは背は低く、頭は禿げ、がっちりした体で、話しかたは強気で、愛想はみじんもなく、冷徹非情なボクシング・トレーナーそのものだった。
ボビー・スチュワートとマイク・タイソンはリングに上がって、スパーリングを始め、2R途中、パンチをもらったマイク・タイソンが鼻血を出したところで終わった。
リングを下りたボビー・スチュワートにカス・ダマトはいった。
「未来の世界ヘビー級チャンピオンだな」
その後、一同はカス・ダマトの家にいき昼食を食べた。
それは14部屋もあるヴィクトリア様式の白い大邸宅で、高くそびえる木々やバラ園もある10エーカー(約12000坪、東京ドームが11.5エーカー)の敷地の上に建ち、ベランダからはハドソン川を望めた。
「何歳だ」
「13です」
カス・ダマトは信じられないというポーズをとった。
「すばらしい」
「最高だ」
「俺のいうことを素直に聞けば史上最年少の世界ヘビー級チャンピオンにしてやる」
それまでまともな大人に褒められたことが1度もないマイク・タイソンは、なんて答えたらいいかわからなかった。
(おいおい、こいつ、ヤバいやつじゃないか?
俺の育った世界じゃ変態行為をしようとするやつがこういう甘い言葉を口にするんだ)
と思う反面、やはり人に認められるのはいい気分だった。
それまでテレビでしかみたことがなかったバラがあまりにきれいだったので、マイク・タイソンはバラ園から少し分けてもらった。
少年院に戻る車中、ボビー・スチュワートはうれしそうにいった。
「気に入ってもらえたみたいだな。
バカなマネしでかしてチャンスを逃すなよ」
マイク・タイソンは部屋に戻るとバラが枯れないようすぐに水に活け、その夜はカス・ダマトがくれたボクシングの百科事典を一睡もせずに読破した。
その後、毎週、週末になるとカス・ダマトのところで練習し、家に泊まった。
家にはほかにも何人かのボクサーとトレーナー、(一生独身だった)カス・ダマトのパートナー、カミール・イーワルドがいた。
最初の頃、マイク・タイソンは、昼間、一緒に練習し指導を受けたトレーナーの財布から金を盗んだ。
トレーナーは
「マイクに違いない」
と訴えたが、カス・ダマトは
「やつじゃない」
とかばった。
マイク・タイソンは盗んだ金でマリファナを買った。
それ以外はボクシング漬けの毎日だった。
ある週末、カス・ダマトの家でシュガー・レイ・レナード対ロベルト・デュラン戦(1980年)を観て、ボクシングに命を懸けたいと思った。
「すげえ!
全然次元が違う。
心底ワクワクした。
危険な感じで、パンチがおそろしく速かった。
まるで試合に振り付け師がいて、それを2人が演じているかのようだった。
あれほどの衝撃はそれまでなかったし、これからもないだろう」

カス・ダマト(Cus D'Amato)は、1908年にニューヨーク市ブロンクス区サウスブロンクスでイタリア系移民の子供として生まれ、幼少の頃にボクシングと出会い惚れ込み、街ではストリートファイトを繰り返した。
12歳のとき、24歳の男とケンカして、凶器で殴られ片目の視力を失い、22歳でマンハッタン14丁目のユニオン・スクウェアの近くにあったグラマシー・ジムで若いボクサーのコーチを始めたとき、すでに白髪で、残った片目も色盲だった。
グラマシー・ジムには、ロッキー・マルシアーノがいた。
身長178㎝、リーチ173㎝。体重は84㎏。
背が低く、胴が長く、脚は短くて太く、腕が短く、拳は小さく、不器用で覚えが悪く、トレーナーのゴールドマンいわく
「うまく構えられない、うまく打てない、まったくダメな新人だった」
が、努力に努力を重ね、決して退かないファイトスタイル、岩のような肩の筋肉から繰り出される強打は「ブロックトンの高性能爆弾」といわれ、49戦49勝43KO、生涯に一度も負けなかった偉大な世界ヘビー級チャンピオンだった。
そしてカス・ダマトの指導を受けたホセ・トーレス(ライトヘビー級)、フロイド・パターソン(ヘビー級)もボクシング史に残る世界チャンピオンとなった。
また自身、若気の至りとケガでボクサー人生を棒に振った経験のためか、カス・ダマトがセコンドについたボクサーは1人も試合が原因で死亡したり重度のケガや後遺症を負わなかった。
カス・ダマトの教えるファイトスタイルはオーソドックスではなかった。
通常、ボクシングでは右利きならば左の腰と肩を前に出して、相手に対して斜めに構え、前に出した肩から軽いジャブを出すが、カス・ダマトは
「つまるところ、ボクシングの究極の科学というのは、相手が打ち返せない位置からパンチを打つことだ。
打たれなければ試合に勝つからだ」
と両脇をしめて両腕でボディと顔面をガードして、相手とほぼ正面に向き合い、頭を振って相手のパンチをかわして、飛び込んで急所にパンチを叩き込むというピーカブー(Peekaboo、いないいないばあ)スタイルを教えた。
またフロイド・パターソンにソニー・リストンが挑戦してきたとき、ボクシングはクリーンで素晴らしいものであるべきという信念を持ち、、マフィアなどがボクシング界に進出することを嫌っていたカス・ダマトは
「暗黒街につながりのあるヤツはだめだ」
と突っぱね、プロモーターたちから疎んじられるなど、ボクシング界の異端児的な存在でもあった。

ソニー・リストンは、2人の妻との間に25人もの子供をつくったアルコール依存症の父親に虐待を受けながら農業を手伝っていたが、やがてセントルイスに脱出。
学校に通えず読み書きができない黒人少年にまともな仕事はなく、10代前半で強盗団を組織し、地元で知らぬ者はいない存在となった。
ミズーリ州の刑務所に収監され神父に教わってボクシングを始め、仮釈放後、アマチュア選手としてスタートし、すぐにミズーリ州チャンピオンとなった。
天性の肉体とパワーでプロ転向後も14勝1敗の好成績をマーク。
しかし昔の悪い仲間と縁が切れないソニー・リストンは路上で呼び止められた警官に暴行を加えた上、拳銃を奪い逃走し9ヵ月間、拘束された。
釈放後、拠点をフィラデルフィアに移して再始動し、復帰後19連勝(17KO)
しかし悪いつき合いは続き、ニューヨークの大物マフィア、ルッケーゼ一家の一員、マーダー・インクの殺し屋、フランキー・カルボとその右腕であるブリンキー・パレルモが、ソニー・リストンを援助し、その試合と興行を仕切った。
そんな闇社会と関係し続けるソニー・リストンがフロイド・パターソンに挑戦してきたとき、カス・ダマトは反対し、NAACP(アメリカ黒人地位向上協会)にソニー・リストン戦に同意しないよう直訴。
J・F・ケネディが否定的な見解を示すなど大騒動に発展した。
フロイド・パターソンは
「逃げているといわれるのは心外だし、彼にどんな問題があろうと現在はNo.1コンテンダーであり犯罪者ではない。
王者の義務を果たす」
とカス・ダマトの反対を押し切って契約書にサインし、2分余りでKOされた。
後年(1971年1月5日)、ソニー・リストンはラスベガスの自宅ベットの下で死んでいるのを発見された。
キッチンでヘロインがみつかり腕に注射痕があったため薬物の過剰摂取が死因とされたが、あまりに不審な死に方で、マフィアに利用されるだけ利用されて殺されたと囁かれた。

1981年、14歳のマイク・タイソンが少年院を仮退院するとカス・ダマトは
「もう家には戻るな」
と自宅に同居させた。
マイク・タイソンは
「ボロ家に戻らずにすむ」
と喜ぶ半面、それまで白人とつき合った事がなかったこともあり
「どうせ今に欺かれるに決まっている」
と警戒した。
基本的にトレーニングは週7日。

5:00
起床
ストレッチ
約5kmのジョギング
ジャンプエクササイズ×10回
ダッシュ10本
6:00
シャワーを浴びて再び寝る
10:00
食事(オートミール)
12:00
練習
スパーリング10R
14:00
食事(ステーキ、パスタ、フルーツジュース)
15:00
練習
エアロバイク×60分
17:00
腹筋200回×10セット
ディップス25~40回 ×10セット
腕立て伏せ50回×10セット
シュラッグ30kg×50回×10セット
ブリッジ10分
19:00
食事(ステーキ、パスタ、フルーツジュース)
20:00
エアロバイク×30分
21:00
ビデオや TVを観て就寝


夜、カス・ダマトとマイク・タイソンは、古今東西のボクシングの映像をみながら戦う技術や心について語り合った。
「高い次元においてリング上の勝敗を決するのは肉体のメカニズムではなく精神力である」

「物を欲しがり過ぎてはいけない。
堕落はそこから始まるのだ。
車が欲しいと思う。
洒落た家にピアノも欲しいと思う。
思ったが最後、したくない事までやり始める事になる。
たかが物のためにだ」

「ボクシングでは人間性と創意が問われる。
勝者となるのは、常により多くの意志力と決断力、野望、知力を持ったボクサーなのだ」

「勇者と臆病者には、大きな違いはない。
両者とも同じ様に倒されるのを恐れている。
英雄だって、皆と同じように怯えているのだ。
ただその恐怖に打ち勝つのが勇者、恐怖に負け逃げ出してしまうのが臆病者だ。
英雄は逃げたりしない。
最後までやり遂げようとする自制心を持っている。
つまり最後までやり遂げるかやり遂げないかで、人は英雄にも臆病者にもなるのだ」

「恐怖心はボクシングを学ぶうえで最大の障害だ。
しかし恐怖心は1番の友達でもある。
もし恐怖心をコントロールできれば用心深くなることができる。
恐怖心は火のようなものだ。
上手に扱えば身を暖めてくれるし、料理を手助けしてくれし、明かりにもなる。
でもコントロールできないと火はお前と周囲のあらゆるものを破壊する。
山上の雪玉のように、転がる前なら対処できるが、いちど転がりだしたらどんどん大きくなって押し潰される。
だから、恐怖心を肥大させてはならない」

「野原を横切っているシカを思い浮かべろ。
森に近づいたとき、突然、本能が告げる。
危険なものがいる、ピューマかもしれない。
ひとたびそうなると、おのずと生存本能が起動して、副腎髄質から血液にアドレナリンが放出され心臓の鼓動が速まって、並外れた敏捷性と力強さを発揮できるようになる。
通常そのシカが15フィート跳べるところを、アドレナリンによって最初の跳躍が40フィートにも50フィートにも延びる。
人間も同じだ。
傷つけられたり脅されたりといった状況に直面すると、アドレナリンが心臓の鼓動を速める。副腎髄質の作用で、普段は眠っている力を発揮できるんだ」

「自分の心は友達じゃないぞ、マイク。
それを知ってほしい。
自分の心と戦い、心を支配するんだ。
感情を制御しなくてはならない。
リングで感じる疲れは肉体的なものじゃない。
実は90%は精神的なものなんだ。
試合の前の夜は眠れなくなる。
心配するな、対戦相手も眠れてやしない。
計量に行くと、相手が自分よりずっと大きく、氷のように落ち着いて見えるだろうが、相手も心の中は恐怖に焼き焦がされている。
想像力があるせいで、強くもない相手が強く見えてしまうんだ。
覚えておけよ。
動けば緊張は和らぐ。
ゴングが鳴って、相手と接触した瞬間、急に相手が別人に見えてくる。
想像力が消えてなくなったからだ。
現実の戦い以外のことは問題でなくなる。
その現実に自分の意志を定め、制御することを学ばなければならない」

「私の仕事は、才能の火花を探してきて火をともしてやることだ。
それが小さな炎になり始めたら燃料を補給してやる。
そしてそれを小さな炎が猛り狂う大きな火になるまで続けてやり、さらに火に薪をくべれば、火は赤々と燃え上がるのだ」

マイク・タイソンは、13歳のとき、腹筋は50回もできず腕立て伏せも13回しか出来なかったが、カス・ダマトに
「Never Say Can't(できないっていうな)!!」
といわれ続け、頑張った結果、20歳になると腹筋2000回、腕立て伏せ500回を毎日こなすようになった。

「5-3-2」
「7-4-6」
トレーナーのケビン・ルーニー(Kevin Rooney)がいうと、ピーカーブーで構えたマイク・タイソンはサンドバッグに向かって電光石火のコンビネーションを叩き込んだ。
1~7の数字は、人体の7つの急所を指していた。
ケビン・ルーニーは、ボクサーとして3階級制覇を成し遂げたニカラグアの英雄、アレクシス・アルゲリョと対戦(2RKO負け)したこともあり、指導者としてもカス・ダマトの技術や精神を受け継いでいて、マイク・タイソンに実技を交えて指導した。
「俺は彼に毎日10Rのスパーリングを週5日させた。
毎日が力尽きるまでの戦争だった。
今でいう「1日やって翌日は体を休める」なんてバカげたことしてなかった。
偉大なファイターになるにはスパーリングするしかない。
毎日毎日、来る日も来る日もスパーリングをしなくてはならない。 
マイクの場合、試合の2、3日前までそれをやった。
あるときアトランティック市でマイクがスパーリング中、鼻血を出したことがある。 
そのときジミー・ヤコブが俺にスパーリングを止めさせるよういった。 
俺は「何? じゃ試合中にマイクが鼻血を出したら試合を止めさせるのか?」といった。
そしたらジミーは納得した。
またラスベガスでスパーリングをしていたとき、試合2日前にマイクは目の上をカットしたんだが、切り口は試合中開かなかった。
なぜならマイクは頭を動かし相手の攻撃をかわしたからな」
マイク・タイソンはあまりにパンチが強いためスパーリングパートナーに苦労した。
マイク・タイソンは20オンスという大きなグローブ、スパーリングパートナーは14オンスを着用。
週給1000ドル(約10万円)という賃金は、ビル・ケイトンやジム・ジェイコブスが負担した。
ボクシング界きっての篤志家であるビル・ケイトンは、マイク・タイソンのビジネスやマネージメントを担当。
ジム・ジェイコブスは、26000本ものボクシングフィルムを所有し、古今東西のボクサーを研究するマニアで、カス・ダマトとは古くから知り合いで協力者でマイク・タイソンを様々な面でサポートした。
「自分がそのファイターをAといい、ダマトがBといえば、そのファイターはBになってしまう。
ダマトは『マイク・タイソンこそ世界ヘビー級チャンピオンになる男だ』といった。
私はその考えに従うだけだ」
2人ともボクシング界とマイク・タイソンの未来に期待していた。

1982年、15歳のマイク・タイソンは、アメリカジュニア・オリンピック2連覇。
1983年、マイク・タイソンが16歳のとき、母親が亡くなった。
1984年、イベンダー・ホリフィールドはライトヘビー級(-81kg)、マイク・タイソンはヘビー級(-91kg)、でロサンゼルスオリンピック出場を狙った。
アメリカ代表候補の合宿で、2人は初めて会い、21歳のイベンダー・ホリフィールドは、17歳のマイク・タイソンの練習をみて驚いた。
「俺も努力家だと自負している。
だが彼がジムで練習するのを横目でみて驚いたよ。
こいつはやられたと思った。
まだ17歳の若造なのに・・・
俺以上に練習していたのは彼だけだった。
誰もかなわないと思ったよ」
しかしマイク・タイソンは、アメリカ国内の最終選考会決勝でヘンリー・ティルマンにダウンを奪いながらも判定負け。
オリンピック参加は叶わなかった。
(ヘンリー・ティルマンはロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲得)
アマチュアボクシングでは1発の有効打と1回のダウンが同じ1ポイント。
そのためにダメージを与えたりダウンを奪う格闘技というよりポイントを奪い合うポイントゲームになりやすい。
常にノックアウトを狙う荒々しいマイク・タイソンのファイトスタイルはアマチュアに合わない面があった。
「オリンピックには出られなかったが代表選考試合はいい経験になった。
ホリフィールドの戦い方は野心的で俺のスタイルと似ていた。
相手を軽くノックアウトする素晴らしいボクサーだった」
マイク・タイソンは、この後、プロの転向した。
アマチュアボクシングの戦績は52戦47勝5敗。

同じ頃、17歳のバーナード・ホプキンスは、9つの重罪で懲役18年を宣告され刑務所に入った。
「刑務所の中はストリートよりも酷い。
男がレイプされ、殴られ、拷問されていた」
入所後、間もなく、ケンカに巻き込まれた弟が逃げきれず銃で撃たれ、通りの外れの草むらで遺体で発見されたため、監視つきで葬儀に参列し、また刑務所に戻された。
「すべてが嫌になり自分の無知を責めた」
厳重に防護された刑務所で受刑者を苦しめるのは有り余る時間だった。
1日中1人でいるために孤独感で精神を病む者もいたし、憂さを晴らすために暴れる者もいた。
バーナード・ホプキンスも刑務所の中で暴れた。
太刀打ちできないと悟った敵は、
「刺してしまえ」
とスキをうかがった。
「おかしなことにケンカして刺されるたびに俺に対する評判が上がった」
毎日、恐怖にさらされながらバーナード・ホプキンスは
「18歳になる前に死ぬか、一生刑務所を出られない」
と思った。
「状況を変えなければ・・・」
「無知のままではダメだ」
勉強を始め、受刑者1人当たり年間数万ドルがかかることを知ると
「服役もビジネスだ。
このビジネスの中で押しつぶされるのはゴメンだ」
と思った。
刑務所内にはボクシングのリングとジムがあり、アマの経験を知ったトレーナーに誘われ、久しぶりにグローブをはめた21歳のバーナード・ホプキンスはスパーリングで圧勝。
その後、周囲のみる目が変わり、刑務所内で一目置かれるようになった。
ボクシングは
「まともな世界に戻るチャンスだ」
と思った。
キャンプヒル、ロックビュー、ダラス、グレーターフォードなどペンシルベニア州内38の刑務所にボクシングクラブがあり、トーナメント戦が行われていた。
バーナード・ホプキンスは銃を持った護衛に付き添われながら試合ごとにバスで移動し、各刑務所の強豪と対戦。
州刑務所ボクシングのミドル級チャンピオンになった。
「情熱が蘇ったんだ」

1984年7月29日~8月11日、ロサンゼルスオリンピックからスーパーヘビー級を加え12階級となったボクシング競技に、イベンダー・ホリフィールドライトヘビー級(-81kg)アメリカ代表として出場。
1984年といえば日本に原爆が落とされて第2次世界大戦が終結した後、新たに勃発した東西冷戦真っただ中。
1980年のモスクワオリンピックは西側諸国の多くは不参加。
日本も柔道の山下泰裕、ボクシングの赤井英和など多くの代表選手が出場できなくなり涙を飲んだ。
そしてロサンゼルスオリンピックでは東側の多くの国が不参加。
ボクシング競技でも、ソ連、東ドイツ、キューバ、ポーランド、ブルガリアといった強豪国はいなかった。
イベンダー・ホリフィールドは勝ち進み、準決勝でもケビン・バリー(カナダ)戦を圧倒していた。
10R、イベンダー・ホリフィールドの右のボディから左フックが顔面に入り、ケビン・バリーが倒れた。
レフリーがカウントを始めたが、ケビン・バリーが立ち上がった後、突然、ジャッジに合図し、イベンダー・ホリフィールドに失格を宣告した。
誰もがイベンダー・ホリフィールドの勝ちだと思っていたため、会場は騒然となった。
レフリーは、
「ブレイク後のヒッティング」
を理由としたが、いまビデオをみてもレフリーのブレイクは確認できない。
「ホリフィールドはハメられた」
「失格はおかしい」
この判定に誰も納得しなかった。
アメリカのテレビ解説は
「ホリフィールドは冷静に耐えています」
と伝えたが、イベンダー・ホリフィールドは
「何とか怒りを抑え口から出そうになる言葉を飲み込んだ」
と文句もいわず判定を受け入れた。
リング上で勝者のコールを受けたケビン・バリーは、イベンダー・ホリフィールドと握手し、その手を高く挙げた。
表彰式でも金メダリストとなったアントン・ヨシポビッチ(ユーゴスラビア) は、銅メダリストのイベンダー・ホリフィールドを自分の立っている表彰台の1番高い場所に立たせた。
それまでもオリンピックボクシングでは不思議な判定が多かったが、ロサンゼルスオリンピックの次の1988年のソウルオリンピックでも、ミドル級のロイ・ジョーンズ・Jr(アメリカ)が決勝戦で朴時憲(韓国、開催国)を2度ダウンさせ、有効打も86対32と優っていたにも関わらず判定負けした。
バンタム級の辺丁一(韓国)がアレクサンダー・フリストフ(ブルガリア)に判定負けするとセコンド陣が乱闘となり、辺丁一が1時間以上リング上に座り込んだため、その日の後の試合は中止となった。
オリンピックボクシングにおける疑惑の判定の原因を詮索すると、直接、金銭が絡まないため、ある意味、プロ以上に複雑で、利権絡みや政治的思惑にまで及び、結局、真相はわからない。
1992年のバルセロナオリンピックからはコンピューターポイントシステムが導入されるようになったが、これによってますます軽いパンチを当て離れるというタッチ&ラン的なアウトボクシングが主流となり、強いパンチで倒すというボクシング本来の姿と魅力は消えてしまった。

1984年11月15日、オリンピックで悲劇のヒーローとなったイベンダー・ホリフィールドがライトヘビー級(79.379kg以下)でプロデビュー。
ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われたプロデビュー戦はいきなりTV中継された。
1985年3月6日、 18歳のマイク・タイソンがヘビー級(90.719kg以上)でプロデビュー。
ヘクター・メルセデスに1RTKO勝ち。
デビュー戦を白星で飾ったが、イベンダー・ホリフィールドに比べると無名で地味なキャリアスタートとなった。
しかし古い時代の試合の映像をいくつもみて研究し「歩くボクシング辞書」と呼ばれるほど、その歴史を含めてボクシングを深く理解していたマイク・タイソンにとって逆境はチャンスだった。
「過去の偉大なボクサーは失敗の克服方法を研究した」
「凡人と天才の違いは、上を目指し続ける意志があるかどうか。
チャンピオンになりたいかどうかだ」
とハードなトレーニングと練習に敢行。
1985年7月20日、イベンダー・ホリフィールドがクルーザー級(90.719kg以下)へ階級を上げて試合を行い判定勝ち。
1985年10月、マイク・タイソンがデビュー後、11連勝。
早いときは9日間で2試合、8月から11月にかけては6試合戦ってすべて1RKOで勝った。
カス・ダマトには野望があった。
それはフロイド・パターソンが持つヘビー級史上最年少チャンピオン記録:21歳11ヶ月を破ることだった。
デビュー当時、マイク・タイソンは18歳9ヶ月。
約2年で世界タイトルを奪取しようというのである。

1985年11月4日、マイク・タイソンが11連勝を飾った直後、カス・ダマトがマウント・サイナイ病院で肺炎のため77歳で亡くなった。
死の直前に受けたインタビューで、こう答えていた。
「彼(マイク・タイソン)のためでなかったら私は多分もう生きてはいなかっただろう。
私はこう思う。
人間は生きてゆく間に心にかける人々や喜びの数を増やしていく。
それから自然がそれを1つまた1つと奪い去ってしまう。
自然はそうやって死への準備をしてくれるのだ。
私にはもはや何の喜びも残っていなかった。
友人たちは行ってしまった。
耳も聞こえないし目もよく見えない。
見えるのは思い出の中だけだ。
だから私は死ぬ用意をしなきゃならんと思っていた。
そこへマイクがやってきたのだ。
彼がここにいて、そして今やっていることをやっているという事実が私に生き続ける動機を与えてくれる」
3日後、葬儀が行われ、多くの関係者が参列した。
マイク・タイソンはずっと棺桶に付き添い、落ち着いているようにみせていたが家に帰るとカミール・イーワルドと2人で号泣した。
「おかしくなりそうな頭の中で考えていたのは彼のために成功することだけだった。
カスの遺産の正しさを証明するためならどんなことでもしただろう。
カス・ダマトはオレにとってオヤジ以上の存在だった。
誰でもオヤジになることはできるが、しかし、それは血がつながっているというだけの話だろう。
カスはオレのバックボーンであり、初めて出会った心の許せる人間だった」
(マイク・タイソン)
「カス・ダマトはボクシング界の無知や腐敗と真っ向から対決した。
敵には屈しなかったが、友人には理解があって情け深く信じられないくらい寛容でした」
(ジミー・ジェイコブズ)
「カスがボクシングの世界に与えた影響はヘミングウェイがアメリカの若い作家たちに与えた影響に勝るとも劣らない
(ノーマン・メイラー、作家)
「彼から多くのことを学びました。
ボクシングのことばかりでなく、生き方や人生についても」
(ピート・ハミル、ジャーナリスト)
葬儀から1週間後、エディ・リチャードソン戦のためマイク・タイソンたちは、テキサス州に飛んだ。
マイク・タイソンは、死んでから、毎晩、話しかけていたカス・ダマトの写真を持っていった。
「明日、このリチャードソンってやつと戦うんだ、カス。
どうしたらいいと思う?」
試合で体はちゃんと動いたが、気持ちは落ち、自信も失っていた。
「実をいうと今でもカスの死を乗り越えられたとは思っていない。
腹も立てていた。
もうちょっと早く医者に行っていれば死なずに俺を守れたかもしれないんだ。
なのにカスは我を通し治療を受けずに死んでボクシング界の獣たちのあいだに俺を1人で置き去りにした。
カスの死後はもう何もかもがどうでもよくなった。
戦ったのは単ににカネのためだ。
夢なんてなかった。
タイトルを獲ることよりも、ただワインを飲んで騒いで我を忘れたかった」
蒸発した父親は誰かも知らず、母親は16歳のときに失い、19歳で「オヤジ以上の存在だった」カス・ダマトを失ったマイク・タイソンは、肉体的には世界に出ていけるほどの器だったが、精神的には未熟だった。
以後、「自分を見失った子供」は、あるときは心を閉ざし、あるときは「俺は子どもじゃない、大人の男だ」と意味もなく自分を誇示するようになった。

マイク・タイソンのデビュー年の戦績は、15戦15勝15KO、内11が1RKO。
そして2年目、

1986年1月11日、デーブ・ジャコ 、1RTKO
1月24日 、マイク・ジェームソン 、5RTKO
2月16日、ジェシー・ファーガソン、6RTKO
3月10日、スティーブ・ゾースキー 、3RKO
5月.3日、ジェームス・ティリス 、判定勝ち
5月20日、ミッチ・グリーン 、判定 勝ち
6月13日、レジー・グロス 、1RTKO
6月28日、ウィリアム・ホシ-、 1RKO
7月11日、ロレンゾ・ボイド、2RKO
7月26日、マービス・フレージャー 、1RKO
8月17日 、ホセ・リバルタ 、10RTKO
9月6日、アルフォランゾ・ラトリフ 、2RTKO

と世界ランカーだったスティーブ・ゾースキー、ポスト アリと呼ばれていたジェームス“クィック”ティリス、ジョー・フレージャーの息子マービス・フレージャーなどヘビー級のホープたちに勝ち続けた。
1986年11月22日、27戦27勝0敗25KOでWBC世界ヘビー級チャンピオン、トレバー・バービックに挑戦。
試合当日、マイク・タイソンは、13時にパスタ、16時にステーキ、17時に再びパスタとスニッカーズを食べ、オレンジジュースを飲んだ。
そしてケビン・ルーニーが、マイク・タイソンの拳にバンデージを巻きグローブをはめた。
挑戦者のマイク・タイソンが先に入場したが、そのときアリーナが肌寒かったのでケビン・ルーニーはタオルを切ってマイク・タイソンの首を覆った。
マイク・タイソンが、ロープをくぐってリングに上がり、ゆっくり回っていると黒いフードのつきのガウンをまとったトレバー・バービックが入場。
5年前、モハメド・アリを破って引退に追い込んだトレバー・バービックは、常に試合で黒のトランクスをはいていたマイク・タイソンへの嫌がらせで黒のトランクスを選んだ。
ルールでトランクスの同色は認められず、色が重なった場合、チャンピオン優先となるが、マイク・タイソンは無視して黒のトランクスをはいたため5000ドルの罰金処分となった。
試合前、モハメド・アリが観衆に紹介されリングに上がり、両者を激励したが、マイク・タイソンに近づいたとき
「俺の代わりにぶちのめしてくれ」
といった。
試合前の賭け率は1:5でマイク・タイソン有利。

試合が始まるとマイク・タイソンは突進し強打を浴びせた。
「頭を動かせ、ジャブを忘れるな」
「頭に攻撃が集中しているぞ。
ボディから入れ」
ケビン・ルーニーの指示が飛んだ。
1R中盤、マイク・タイソンの強烈な右でトレバー・バービックはよろめき、さらに攻撃をもらい朦朧状態となった。
コーナーに戻って座ったマイク・タイソンの体は性病(淋病)に対する抗生物質を注射したせいもあり大量の汗をかいていた。
2R、開始10秒、マイク・タイソンの右でトレバー・バービックはダウン。
すぐ飛び起き飛び反撃を試みたが、もうパンチも体もパワーはなかった。
2R、残り30秒、マイク・タイソンは右ボディブローから右アッパー。
これは外れたが続く左フックがテンプルをとらえ、トレバー・バービックは倒れていった。
トレバー・バービックは立ち上がろうとしたが、後ろによろけ、足首がグニャリと曲がり、再び倒れた。
再度立ち上がろうとたが、キャンバスにのめるようにまた倒れ、なんとか立ち上がることはできたがレフリーのミルズ・レーンはトレバー・バービックバービックを抱きかかえ手を振って試合を止めた。
335秒で勝ったマイク・タイソンは、デビュー後28連勝、20歳5ヶ月という史上最年少記録でWBC世界ヘビー級チャンピオンとなり、カス・ダマトの夢を実現させた。
「試合終了です。
ボクシングに新たな時代が到来しました」
(TVアナウンサー)
「マイク・タイソンはマイク・タイソンがいつもやっていることをやった。
これぞファイトだ」
(TV解説者、シュガー・レイ・レナード)
「頭に大文字のFがつく正真正銘のFight(ファイト)だ」
(TVアナウンサー)
マイク・タイソとケビン・ルーニーは抱き合った。
「信じられない、ちきしょう。
20歳でチャンピオンになっちまった」
「嘘みたいだ。
20歳で世界チャンピオンだ。
こんなくそガキが」
ジミー・ジェイコブズもリングに入ってマイク・タイソンにキスした。
「カスもこうしてくれたかな?」
マイク・タイソンに聞かれてジミー・ジェイコブズはニッコリとした。
トレバー・バービックのマネジメントをしているドン・キングもマイク・タイソンに近づき祝福した。

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「週刊少年マガジン」で『はじめの一歩』を連載中の漫画家・森川ジョージが、11月27日に放送された麻雀対局トーナメント『麻雀オールスター Japanext CUP 決勝戦』にて優勝を飾りました。それを記念し、『はじめの一歩』の麻雀回が「マガポケ」にて現在無料公開中となっています。


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昭和100年を祝う夜!グランドプリンスホテル広島でTEPPANの歌謡ライブ&打ち上げ花火が開催決定

昭和100年を祝う夜!グランドプリンスホテル広島でTEPPANの歌謡ライブ&打ち上げ花火が開催決定

2026年5月5日、グランドプリンスホテル広島にて「昭和100年」を記念したスペシャルイベントが開催される。広島発の4人組ボーカルグループ「TEPPAN」による昭和歌謡ライブに加え、夜空を彩る打ち上げ花火も予定。ライブ観覧は無料。さらにホテル上層階のレストランではCD付きの特別ディナープランも登場する。


樋屋奇応丸の倉庫から幻の音源発見!デューク・エイセスが歌う昭和のCMソングが高音質で蘇る

樋屋奇応丸の倉庫から幻の音源発見!デューク・エイセスが歌う昭和のCMソングが高音質で蘇る

「ひや・きおーがん」のフレーズで親しまれる樋屋製薬の社内倉庫から、長らく歌唱者不明だった過去のCMソング音源が発見された。調査の結果、昭和を代表するコーラスグループ「デューク・エイセス」による歌唱と判明。当時のクリアな歌声を再現した「高音質版」が公開され、昭和歌謡ファンを中心に大きな話題を呼んでいる。


福岡の食のテーマパーク「直方がんだ びっくり市」が50周年!大盛況で幕を閉じた「半世紀祭」をレポ

福岡の食のテーマパーク「直方がんだ びっくり市」が50周年!大盛況で幕を閉じた「半世紀祭」をレポ

1976年の創業から50周年を迎えた福岡県直方市の「直方がんだ びっくり市」にて、2026年4月17日から19日までアニバーサリーイベント「半世紀祭」が開催された。銘柄牛が50%OFFになる「肉袋」や名物セールの復活、地元ヒーローの参戦など、半世紀の感謝を込めた熱気あふれる3日間の模様を振り返る。


『メタルスラッグ』シリーズ30周年記念プロジェクト始動!新作開発や特設サイト、記念映像が一挙公開

『メタルスラッグ』シリーズ30周年記念プロジェクト始動!新作開発や特設サイト、記念映像が一挙公開

アクションゲームの金字塔『メタルスラッグ』が2026年4月19日に誕生30周年を迎えた。株式会社SNKはこれを記念し、シリーズの再燃・リブートを掲げた記念プロジェクトを始動。新作ゲームの開発を含む多彩な企画の推進や、歴史を振り返る記念映像の公開、特設サイトの開設など、世界中のファンへ向けた展開が始まる。


山下達郎ソロ・デビュー50周年記念!JOURNAL STANDARDとコラボした限定Tシャツが発売

山下達郎ソロ・デビュー50周年記念!JOURNAL STANDARDとコラボした限定Tシャツが発売

ソロ・デビュー50周年を迎えた音楽界のレジェンド・山下達郎とJOURNAL STANDARDが特別なコラボレーションを実現。1stアルバム『CIRCUS TOWN』収録の名曲「WINDY LADY」をテーマにしたTEEがリリースされる。音楽史に刻まれた名盤の空気感を纏える、ファン垂涎の記念アイテムが登場だ。