マイク・タイソン vs イベンダー・ホリフィールド  不遇の黒人たちがボクシングに活路を見出し、アメリカの過酷な環境が最高のボクサーを産んだ。

マイク・タイソン vs イベンダー・ホリフィールド 不遇の黒人たちがボクシングに活路を見出し、アメリカの過酷な環境が最高のボクサーを産んだ。

マイク・タイソン、イベンダー・ホリフィールド、リディック・ボウ・・・ 1980~90年代、アメリカのボクシングは最強で、無一文のボクサーが拳だけで数百億円を手に入れることができた。しかしボクサーはお金のためだけにリングに上がるのではない。彼らが欲しいのは、最強の証明。そして人間は考え方や生き方を変えて人生を変えることができるという証だった。


アメリカは豊かな国だが、先進国の中でも富の分配が最も不公平な国で、多くの貧困が存在し、5人に1人が貧困家庭で育つ。
人はお金に困ると、とりあえず生きるためにと短絡的に行動しがちになる。
その結果、長期的にみると多くのチャンスを失うことになり、貧困から抜け出すことは困難になる。
困難が続くと夢を信じられなくなり底辺から這い上がれない。
多くのチャンピオンが過去に貧困や犯罪を経験したことがあるのをみると、ボクシングは貧困や反社会性から脱出する手段となり得ることがわかるが、貧困や反社会性からの逃避であるにも関わらずバイオレンス的なスポーツであるところが非常に面白い。
元来、人間は戦う生き物である。
凄惨な事故が起こればやじ馬ができるし、嫌いな人が苦しむことに快楽を覚える。
人は社会から暴力を排除しようとするが、暴力に興奮し、平和を望む反面、対立や闘争が好きである。
そして頂点を目指し、戦い、這い上がるボクサーの姿に感動する。

「ボクシングは、自分との戦い」

「ボクシングは、不安や恐怖に打ち克ち本当の自分を探し、自分自身を証明するための戦い」

「ボクサーはあえてボクシングを選び、リングで危険を冒す」

「ボクシングは、生き残ること、戦いという人間の本能に訴えかけてくる」

「ボクシングにはドラマがある。
なければ本物じゃない」

「金持ちは戦わない。
現状を抜け出したい者だけが戦う」

「リングサイドにいると圧倒される。
ボクサーは命をかけて何かのために戦っている
そこに惹かれる」

「1発のパンチですべてが決まる
ノックアウトすればスター。
だが食らえばダークサイドに転落する」

「ボクシングは、自分自身の努力によって成功するスポーツ。
勝ち続ければ最後にはチャンスが手に入る」

何も持たざる者でも偉業を成し遂げることができるボクシングは、アメリカンドリームそのものだった。

ボクシングはスポーツとしては純粋だが、ビジネス的には荒っぽい金持ちが大金が動かし、夢を追うボクサーにチャンスを与えていて、富裕層と貧困層の2極化した社会の現実も映し出している。
テレビ放映されるような大きな試合に出ることができるボクサーは一握りだが、例えばそれが実現し、ファイトマネー15000ドルを得たとすると
そこから

用具やジム利用代 、2000ドル
トレーナー(ファイトマネーの10%)、 1500ドル
マネージャー(上記差引額の1/3)

などを支払い、残った6955ドル(85万円)で、6~8週間後の試合に向け準備を行う。
年間4試合出場すれば最低限の生活ができるが、普通に仕事をする方が楽で稼げる。

MLB(野球) 49万ドル(6000万円)
NFL(アメリカンフットボール) 40万5000ドル(4900万円)
NBA(バスケットボール) 49万180ドル(6000万円)
NHL(アイスホッケー) 52万5000ドル(6400万円)

とアメリカの4大メジャープロスポーツでは、最低保証年俸が定められているが、プロボクシングでは最低年俸保証はなく、たった一部のトップ選手が報酬のほとんどを独占している。
ボクシングは、生計を立てるのが難しい上に、とてもデンジャラスなスポーツである。
多くのプロスポーツは、国レベル、世界レベルで1つの連盟で統一され、ルールや規制を共有している。
しかしボクシングは大小の団体やプロモーターがいくつも存在し、それぞれが運営している。
例えば、MLBは選手と審判に年1回の心理テストを義務づけたり、脳損傷に苦しむ選手にNFLが7億6500ドルを支払ったり、他のスポーツでは連盟が必要な資金を与え、選手を支える専門家チームや体制が存在する。
そういった規制も体制も労働組合もボクシングにはなく、試合前にMRIを1回受ければ試合は許可される
1対1で長時間殴り合うボクシングはとても危険。
前から強いパンチを顔面に受けると、脳が頭蓋骨の後頭部側に激突し、さらに反動で前側にもぶつかる。
いわゆる脳震盪の状態に陥ったり、脳が腫れ、出血し血腫ができると記憶喪失、脳梗塞、動脈瘤、血管破損なども起こり、多くのボクサーは何らかの脳損傷に苦しむことになる。
脳のダメージの度合いによっては死に至ることもある。
試合直後は、変わった様子がなくても、数日後、突然倒れることもある。
試合後、控室でトレーナーに負けたことを詫び、頭が痛いと訴え倒れこみ、そのまま意識が戻らず数日後亡くなったボクサーもいる。
ボクサーは、厳しい体重制限があるため、禁欲的な生活を強いられる。
勝つためには激しい練習が必要で、肉体的にも精神的も苦しい思いをしなければならない。
そして試合では命がけで戦う。
何の保証もないため、将来の生活に不安を抱えている。
その上、健康を損なう危険性も高い。
底辺から頂点に這い上がるサクセスストーリーには必ず悲話もつきまとう。

アメリカの心理学者アブラハム・マズローは、
「人間は自己実現に向かって絶えず成長する」
と自己実現理論( Maslow's hierarchy of needs)を提唱し、人間の欲求を低次から高次まで5段階に分けた。

自己実現の欲求 (Self-actualization)
承認(尊重)の欲求 (Esteem)
社会的 (所属と愛の)欲求欲求 (Social needs / Love and belonging)
安全の欲求 (Safety needs)
生理的欲求 (Physiological needs)

人間の欲求には「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求(所属と愛の欲求)」「承認欲求」「自己実現の欲求」の5段階があるという。
結局、人生は、本当の自分、最高の自分を探す旅なのかもしれないが、そこへたどり着ける人間は稀である。
ボクサーがボクシングに惹かれる理由は、この辺りにあるのではないだろうか?
ボクシングは自分自身を証明するための戦いであり、技術や知識があっても大きな代償を払う可能性があり、恐怖に打ち勝つ勇敢さが求められ、勝ち続け、最強の称号を得ること、得ようとすることで、彼らは最高の人生を送れるのかもしれない。
そして彼らは人間は考え方や生き方を変えることで、人生を再生できることを証明した。

1962年10月19日、「The Real Deal(ザ・リアルディール、本物、真の男)」、イベンダーホリフィールド(Evander Holyfield)がアラバマ州アトモアで9人兄
弟の末っ子として生まれた。
家はスラムといわれる地域にあった。
文字が読めない両親は働きづめだった。
母親は路上のゴミを拾って収集容器へ運ぶ仕事をしていて笑われることもあったが、
「自分らしく生きればいい」
といった。
近所の人や学校の先生から
「貧乏がうつる」と避けられ、
「正しい言葉も文字も知らない。
どうせ1人前になれない」
といわれ落ち込むイベンダー・ホリフィールに母親は訊ねた。
「学校で足が1番速いのは誰?」
「俺」
「人より秀でたものがあればいつか花咲く」
8歳のときに母親に連れられていったボーイズクラブでボクシンググローブをはめたが、イベンダー・ホリフィールドの夢はトレーナーの言葉で始まった。
「モハメド・アリを知っているだろう?
君も頑張ればアリのように世界ヘビー級チャンピオンになれるぞ」
底辺に生きるつらさを知っていたからこそ、ビッグになりたい気持ちは大きく、そのための努力を推しまなった。
ある日、トレーナーに
「白人はボクシングに向いていない」
といわれスパーリングに押し出され、2度も倒されたイベンダー・ホリフィールドは
「負けたらチャンピオンになれないから辞める」
といってジムを出て、家に帰って母親に報告した。
「負けたから辞めた」
「思い通りにいかないこともある。
辞めたら夢はかなわない」
結局、イベンダー・ホリフィールドはジムに戻り、しばらくしてその白人を倒した。

1966年6月30日、イベンダー・ホリフィールドが生まれた4年後、「Iron(鉄)」、「The Baddest Man on the Planet」、マイク・タイソン(MikeTyson)が、ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区で生まれた。
ブルックリン(Brooklyn)は、ニューヨーク市の5区のうちの1つ。
約50の地区にユダヤ系、ラテン系、ロシア系、イタリア系、ポーランド系、中東系、カリブ、アフリカンアメリカ系、アイルランド系、ギリシャ系、中国系などさまざまな民族が同居していた。
かつては造船業や製造業で栄えたが、第2次世界大戦後、技術革新が起こり経済がシフト。
工場や倉庫は閉鎖され、多くの人が去り、街の一部が廃墟化。
残った人の多くは貧困層となり、犯罪が多発。
ニューヨークにありながら1990年代初頭まで観光人は皆無だったが、マンハッタンの地価高騰に伴い、賃料が安いブルックリンに人々住むようになった。
街は再開発が進み、廃墟だった建物はリノベーションされていった。
1875年に開行した政府銀行(Williamsburgh Savings Bank)は、結婚式やパーティーなどを行うイベントスペース「ウェイリン(Weylin)」に、1929年開業の37F高層タワーは、1階がイベントスペース、上階は高級アパートメントとして現在も現役。
19世紀に外国から到着したコーヒーや砂糖、毛皮などの保管していた倉庫は、外観をそのまま残して店舗やレストランとなった。
レンガ壁。
打ちっ放しのコンクリート床。
廃材利用の家具
見上げればむき出しの配管が縦横無尽に天井を走る。
素朴で飾らない。
でもおしゃれ。
そんな「ブルックリンスタイル」は世界から注目を集めるようになった。

しかしマイク・タイソンが生まれたときは、まだ悪名高き街だった。
父親はマイク・タイソンが生まれてからすぐに家を出てしまい、母親は大学に通うほどのインテリだったが父親の看病のために中退し、彼女の友人はほとんどが売春婦で、毎週末にやってきては乱痴気パーティを繰り広げた。
一家はブルックリンや隣のフォート・グリースを転々とし、マイク・タイソンが7歳のときにブルックリン地区ブロンズビルのアンヴォイ通りにある集合住宅の2階へ引越してきた。
1980年代、このエリアは、アメリカ最悪のゲットー(Ghetto)と呼ばれ、黒人男性の平均寿命は25歳。
ゲットーとは、中世、西欧諸国でユダヤ人が強制的に住まわされた居住区で、キリスト教徒の支配者の支配が及ばないという宗教的な意味も持ち、宗教弾圧の象徴でもあった。
第2次世界大戦中は、ドイツがユダヤ人を強制的に移住させた地区 や迫害されて集まったユダヤ人コミュニティーがそう呼ばれた。
そして現在では、異国で同じ民族が集まって住む地域をそう呼ぶことがあり、マイク・タイソンが生まれた時代、アメリカでゲットーといえば一般に黒人が多く住む地区を意味した。
外国人記者が、アメリカで1番危険な街を取材しようとコーディネーターを雇おうとしたが、行き先を「ブルックリン、ブロンズビル」と告げると
「嫌だ。
絶対に行きたくない」
と断られ、代わりに過去にそこに住んでいたという男を紹介された。
「100ドル札を体のいろいろなところに入れろ。
1箇所ではなく、なるべく分散させるんだ。
そしてそれを出せといわれたら抵抗せず、1枚出せ。
いいか、絶対に抵抗しちゃダメだぞ」
男は厳しい口調で忠告。
そして車で街に向かうと、閑散とした通りで男たちがドラム缶に火を起こし暖をとっていたが、警戒するようにこっちをみてきた。
さらに進んでいくと、車が逆さまになって燃えていた。
結局、記者は車から降りることはできなかった。

マイク・タイソンは、大きな近眼鏡をかけ、チビで、デブで、外では近所の悪ガキによくイジメられた。
そして家の中も危険だった。
母親は、恋人を家に入れていたし、姉と寝るためにたくさんの男たちが現れた。
母親と姉、その恋人たちは、マイク・タイソンにネガティブな言葉を浴びせ殴った。
学校でもイジメられたマイク・タイソンは不登校になり、授業が終わるまで学校周辺で時間を潰していた。
ある日、数人の少年が近づいてきて押さえつけられた。
「俺たちと飛ばないか?」
逆らうことができず一緒についていくと、そこは廃墟で彼らのたまり場だったが、飼育箱が置いてあって中にたくさんのハトがいた。
「学校でイジメられるより、ここにいたほうがいい」
マイク・タイソンは彼らの盗みの手伝いを始めた。
この街で貴重品を身に着けて歩けばたちまち奪われてしまった。
やがて適応すれば奪われなくなるが、高度に適応した者は奪う側となった。
盗品を売りさばき、スウェット、ゴーグル、スポーツシューズを買った。
カッコ良さがステータスだった。
マイク・タイソンは自分と同じアパートの住人からも盗んだが、中には母親の友人もいた。
生活保護手当をもらって酒を買ってきた母親の友人が家に来て飲んでいるのを確認すると、マイク・タイソンは自分の部屋から非常階段を上って部屋に忍び込み、手当たり次第に盗んだ。
部屋に帰って盗難に気づいた母親の友人が戻ってきた。
「ローナ、みんな持っていかれちゃった。
ベビーフードまで」
彼女が帰ると母親はマイク・タイソンの部屋にいった。
「お見通しだよ。
お前なんだろ?」
「俺じゃないよ、母ちゃん。
ほら見てくれ。
俺はずっとこの部屋にいたよ」
「いや、お前は正真正銘の盗っ人だ。
私は生まれてから人様の物に手をつけたことは1度だってないのに。
いったい誰に似たんだろうね」
マイク・タイソンが不良の仲間に入ったのは、家や学校よりも、そこが暖かかったからで、たとえ悪いことをしたとしても警察に仲間のことはしゃべらなかった。
ヤクザやギャングは、親分、子分、兄弟など疑似家族を形成し、不良たちも仲間に強い絆を求める。
裏切ったり抜けるときは、指詰め、リンチなどキツい制裁が加えられた。
家や社会に居場所がないさみしい者同士が集まり、家族のような強い絆を求めるが故と思われるが、人生の価値を真剣に考えず、軽率に反社会的な行動を続けていけば、いつか破綻する可能性も高かった。
 

1965年1月15日、マイク・タイソンが生まれた翌年、「The Executioner(死刑執行人)」「The Alien(宇宙人)」、バーナード・ホプキンス(Bernard Hopkins)が、フィラデルフィア北部のスラム街で生まれた。
豚肉と豆の煮もの2缶を男女7人の兄弟で分けるため、母親は
「豚と豆の煮ものには変わりない」
と他の食べ物を混ぜた。
仕事づめの父親はドラッグをやっていた。
「家には両親がそろっていたが暮らしはかなり苦しかった。
とても普通とはいえない家庭だった」
バーナード・ホプキンスは、学校には通っていたが教室には入らず、仲間と学校の周辺にたむろしてサボった。
出席するとしたらバスケットボールができる体育の授業だけ。
勉強よりそっちの方が大切だと思っていた。
大統領になりたいとは思わなかったが、極悪のワルになることが目標で、路上の客引きや麻薬の売人が手本。
自分の車を持ち、たくさんのアクセサリーを身に着けている彼らが輝いてみえた。
悪いことをしているのはわかったが、普通の労働者より多くのものを持ち、いい暮らしをしていた。
街で暴力、ドラッグは日常茶飯事。
誰かが誰かを殴ってもとがめられない無法地帯。
痛めつけられた者は、恐怖に苦しみ続けるか、無神経になるか、悪党になるか、強くなるかだった。
道で物理的な障害に出会ったら、
「恐れてはいけない。
とにかく困ってないと見せかけるんだ。
むしろトラブルが好きだと」
フィラデルフィア北部はボクシングが盛んで、バーナード・ホプキンスも10歳で始めた。
99戦95勝4敗とアマチュアとして有望だったが、いつの間にか遠ざかり路上のストリートファイターとなっていった。

10歳のとき、マイク・タイソンは初めて逮捕された。
「ある日、何人かでアンボイ通りの貴金属店を通り過ぎようとしていると、宝石商が箱を運んでいるのがみえた。
俺がその箱をひったくって、みんなで逃げた。
うちのブロックの近くまで来たとき、タイヤがキキーッと音をさせ、車から私服警官が何人か駆け出してきて、俺たちめがけてパン、パンと発砲し始めた。
俺は日ごろから根城にしている廃墟に逃げ込み、難を逃れた。
警官が何人か建物に入ってきた。
『ちきしょう、あのガキども、頭にくるぜ、こんな建物に誘い込みやがって』
『殺してやるからな、ろくでなしども』
白人の警官たちが話すのを聞いて心の中で笑っていた。
ここは俺の庭なんだ。
奪った宝石箱の中には、高級腕時計や金貨のペンダントヘッド、ブレスレット、ダイヤモンド、ルビーがどっさり入っていた。
2週間かけてそれを売りさばいた。
ある場所で一部を売り、別の場所に行ってほかの品々を売った。
こういう路上強盗はうまくやってのけたのに、初めて逮捕されたのがクレジットカードの窃盗だったのは皮肉な話だ。
こんな子どもがクレジットカードを持っているわけないから、年上のやつを店に行かせ、俺が指示してあれやこれや買ってもらい、そいつにも何か買わせてやった。
後で別の年上のやつにそのカードを売りつけるつもりだった。
あるとき、ベルモント・アヴェニューの小売店に入ってカードを使おうとした。
俺たちはこぎれいな格好をしていたが、クレジットカードを持てる年齢にはみえない。
洋服やスニーカーをどっさり選んでカウンターに持っていき、レジの女にカードを渡した。
女はちょっと失礼といって席を外し、電話をかけた。
アッと思ったときにはお巡りがやってきて、俺たちは逮捕された。
俺は地元の警察署に連行された。
おふくろは電話を持っていなかったから、警察が迎えにいって署へ連れてきた。
おふくろは俺をみるなり怒鳴りつけ、その場で死ぬほどぶちのめされた。
おふくろが署に来てぶっ叩かれるのがいやでならなかった。
その後、おふくろは友達と酒を飲んで俺をぶちのめした話をする。
隅で体を丸めて身を守ろうとしても、かまわず攻撃された。
あれはちょっとした心の傷になっている。
今でも、部屋の隅にちらっと目が行くと、おふくろに叩かれたときのことが頭に甦り、思わず目をそむけてしまう。
食料雑貨店でも、外の通りでも、学校の友達の前でも、法廷でも、おふくろは平気で俺を叩いた」
逮捕されたマイク・タイソンは裁判所へいったが、未成年だったため刑務所に入らずにすんだ。

マイク・タイソンが入っていた「ザ・キャッツ」は、「ピューマボーイズ」 というグループとモメていた。
仲間が公園で「ピューマボーイズ」と言い争いになり、10歳のマイク・タイソンも加勢しにいった。
普段は武器など使わないが、盗んでためていた銃を仲間で分け合った。
マイク・タイソンは第1次世界大戦で使われた銃剣つきのM1ライフルを抱えて路上を歩いていった。
公園につくと仲間の1人がいきなり発砲したため、みんな逃げ出し、群衆がキレイに割れていった。
道に停めてあった車の影に隠れた数人の「ピューマボーイズ」を見つけたマイク・タイソンは、M1ライフルを構えようとしたとき背後に気配を感じ振り返ると、拳銃を持った男が自分に狙いを定めていた。
「何をしているんだ?」
マイク・タイソンの兄、ロドニーだった。
「さっさと家に戻れ!」
マイク・タイソンは公園を出て、家に帰った。
11歳のとき、マイク・タイソンは、年上の仲間と盗みに入り、現金2200ドルをいただき600ドルの分け前をもらったマイク・タイソンは、ペットショップにいって100ドル分の鳩を買った。
それは店員が地下鉄に乗せるのを手伝う大量の鳩で、廃墟までは近所の知り合いが運ぶのを手伝った。
ところがその知り合いが近所の悪ガキどもに鳩の話をいいふらした。
悪ガキのリーダー、ゲーリー・フラワーズは仲間と鳩を盗みにいった。
それを見かけた母親から教えてもらったマイク・タイソンは通りに飛び出し、急いで隠れ家に向かった。
マイク・タイソンが来たのをみると彼らは鳩をつかむ手を止めたが、ゲーリー・フラワーズはコートの下に1羽隠した。
「鳩を返せ」
マイク・タイソンは恐怖心を押し殺し叫んだ。
ゲーリー・フラワーズはコートの下から鳩を取り出し
「鳥が欲しいのか?
こんなものが?
なら返してやるよ!」
といい鳩の首をねじ切って投げつけた。
マイク・タイソンの頭とシャツに血がつき、鳩の胴体は道路にぐったり横たわっていた。
「俺の大切な鳩を・・・」
マイク・タイソンは、それまでずっと臆病で、喧嘩なんかしたことがなかった。
しかしそのときは湧き上がってくる怒りを抑えることができなかった。
覚悟を決め、何発かしゃにむにパンチを繰り出し、そのうちの1発が当たるとゲーリー・フラワーズは倒れ、起き上がってこなかった。

力に目覚めたマイク・タイソンは、以来、これまでとは違う次元の尊敬を集めるようになり、別の収入源もできた。
街で行われていた、観衆がどっちが勝つか金を賭けるストリートファイトだった。
マイク・タイソンはかなりの勝率で、負けても相手は
「すげえな!お前本当に11歳か?」
と目を丸くした。
マイク・タイソンの名はブルックリン中に知れ渡ったが、ストリートファイトにリングのようなルールはなく、何人かに囲まれバットでめった打ちにされ復讐されることもあった。
マイク・タイソンは以前、受けた屈辱を忘れていなかった。
街を歩いていて昔、自分をイジめていたやつをみかけると
「俺に何をしたか思い出させてやらなきゃいけない」
と引きずり出して容赦なく殴った。
近眼鏡をガソリンタンクの中に投げ込んだ相手をみつけたときは、封印した怒りが蘇ってきていきなりつかみかかり、路上で狂ったように殴りつけた。
相手はひたすら怯え、許しを請うた。
「俺のことなんか忘れていたんだろうな」
18歳くらいの男を相手にサイコロ博打をやっていたとき、11歳のマイク・タイソンは絶好調で、1回100ドルで6回連続で自分の数字を出し、600ドルを取っていた。
「もう1回だ。
腕時計を賭ける」
相手はいったが、またマイク・タイソンが勝った。
「まあ、よくあることさ」
「よこせよ、腕時計」
「いいや、何もやる気はない」
相手は自分のマイク・タイソンに払った金をつかもうとした。
マイク・タイソンは殴りつけた。
騒動を見かけた母親の友達が、アパートに駆け込み
「あんたの息子が大人とケンカしているよ」
と報告。
母親は現場にかけつけるなりマイク・タイソンに飛びかかって平手打ちをして投げ飛ばし
「この人に何をしたんだ?
本当にすみません」
と謝った。
「こいつは負けたくせに金を取り返そうとしたんだ」
そういうマイク・タイソンから母親は金を取り上げて男に渡し、再び平手打ち。
「本当にすみません」
「殺してやる」
母親に引き離されながらマイク・タイソンは叫んだ。

1979年、9歳から12歳の間に51回も逮捕されたマイク・タイソンは、13歳でニューヨーク州でも最悪の少年が収容されるトライオン少年院に収監されたが、ここでも並外れたパワーで暴れたため、手に負えない悪ガキが集められるエルムウッドという懲罰房に収容された。
すでにアルコールもコカインも大麻もハシシもアヘンもLSDも経験済みだったマイク・タイソンだったが、ソラジン(強力な精神安定剤)を飲まされると途端におとなしくなった。
週末になるとエルムウッドから外へ出て行き、瞼を腫らし鼻血を出し、でもなぜか楽しそうに帰ってくる少年たちがいた。
「痛めつけられているのになぜだ?」
マイク・タイソンは不思議に思い聞いてみると彼らは教官にボクシングを教えてもらっていた。
それは75㎏くらいの白人教官だという。
「俺なら倒せる」
マイク・タイソンは会わせてほしいと懲罰房の職員に頼んだ。
ある晩、ドアに大きなノック音が響いた。
「おい、お前、俺と話がしたいんだって?」
「ボクサーになりたいんだ」
「みんなそういうんだよ。
だが本気でボクサーになろうなんて根性のあるやつは1人もいなかった。
でもお前が態度を改めて、マジメに勉強して周囲に敬意を払えるようになったら、相手をしてやってもいいぞ」
以後、マイク・タイソンはマジメにやった。
「はい、わかりました」
「いいえ、先生」
と言葉遣いを改め、勉強もした。
1カ月後、お声がかかった。
(やっと叩きのめせる。
その後は少年院中の連中が俺に従うはずだ)
初めて練習場にいくと、さっそく白人教官にスパーリングを申し込んだ。
他の少年たちが興味津々で集まってきた。
(これだ、この感覚だ。
みんなの前でこの男を倒して、拍手喝采を浴びてやる)
意気揚々のマイク・タイソンは、白人教官と向き合うと、すぐに腕を振り回して連打。
打って、打って、打ちまくったがパンチはかすりもしない。
(おかしいな)
そう思った瞬間、白人教官がマイク・タイソンのわきをすり抜け、ボディに鋭いパンチをめり込ませた。
「このまま息ができず、死んでしまうんじゃないかと本気で思った」
マイク・タイソンは倒れ、呼吸困難になり胃の中のものを吐いた。
「起きろ、終わりだ」
白人教官、ボビー・スチュワートは、1974年にアメリカゴールデン・グローブ大会ライトヘビー級で優勝した事のあるアマチュアの名選手だった。
みんながいなくなるとマイク・タイソンは恐る恐るボビー・スチュワートに近寄った。
「あの、すみません。
今のやりかたを教えてもらえませんか?」
こうしてボクシングの世界に足を踏み入れた。
日中は猛練習、部屋に戻ってもずっとシャドーボクシング。
めきめき上達し、スパーリング中、ジャブ1発でボビー・スチュワートの鼻を折ってしまったこともあった。

「お前を伝説のボクシング・トレーナーのところに連れていってやる。
彼の名前はカス・ダマト。
そこで練習すれば、お前は違った世界をみられるはずだ」
「どういうこと?」
1980年3月のある週末、ボビー・スチュワートとマイク・タイソンは、トライオン少年院から南へ80km、ニューヨークのキャッツキルへ車で向かった。
カス・ダマトのジムは町の警察署の上にある集会所を改修したもので、窓がなくランプが天井から吊り下がっていて、壁にはたくさんのポスターやボクシングの記事の切り抜きが貼ってあった。
る。活躍している地元の少年を取り上げた記事の切り抜きだった。
「やあ、俺がカスだ」
71歳のカス・ダマトは背は低く、頭は禿げ、がっちりした体で、話しかたは強気で、愛想はみじんもなく、冷徹非情なボクシング・トレーナーそのものだった。
ボビー・スチュワートとマイク・タイソンはリングに上がって、スパーリングを始め、2R途中、パンチをもらったマイク・タイソンが鼻血を出したところで終わった。
リングを下りたボビー・スチュワートにカス・ダマトはいった。
「未来の世界ヘビー級チャンピオンだな」
その後、一同はカス・ダマトの家にいき昼食を食べた。
それは14部屋もあるヴィクトリア様式の白い大邸宅で、高くそびえる木々やバラ園もある10エーカー(約12000坪、東京ドームが11.5エーカー)の敷地の上に建ち、ベランダからはハドソン川を望めた。
「何歳だ」
「13です」
カス・ダマトは信じられないというポーズをとった。
「すばらしい」
「最高だ」
「俺のいうことを素直に聞けば史上最年少の世界ヘビー級チャンピオンにしてやる」
それまでまともな大人に褒められたことが1度もないマイク・タイソンは、なんて答えたらいいかわからなかった。
(おいおい、こいつ、ヤバいやつじゃないか?
俺の育った世界じゃ変態行為をしようとするやつがこういう甘い言葉を口にするんだ)
と思う反面、やはり人に認められるのはいい気分だった。
それまでテレビでしかみたことがなかったバラがあまりにきれいだったので、マイク・タイソンはバラ園から少し分けてもらった。
少年院に戻る車中、ボビー・スチュワートはうれしそうにいった。
「気に入ってもらえたみたいだな。
バカなマネしでかしてチャンスを逃すなよ」
マイク・タイソンは部屋に戻るとバラが枯れないようすぐに水に活け、その夜はカス・ダマトがくれたボクシングの百科事典を一睡もせずに読破した。
その後、毎週、週末になるとカス・ダマトのところで練習し、家に泊まった。
家にはほかにも何人かのボクサーとトレーナー、(一生独身だった)カス・ダマトのパートナー、カミール・イーワルドがいた。
最初の頃、マイク・タイソンは、昼間、一緒に練習し指導を受けたトレーナーの財布から金を盗んだ。
トレーナーは
「マイクに違いない」
と訴えたが、カス・ダマトは
「やつじゃない」
とかばった。
マイク・タイソンは盗んだ金でマリファナを買った。
それ以外はボクシング漬けの毎日だった。
ある週末、カス・ダマトの家でシュガー・レイ・レナード対ロベルト・デュラン戦(1980年)を観て、ボクシングに命を懸けたいと思った。
「すげえ!
全然次元が違う。
心底ワクワクした。
危険な感じで、パンチがおそろしく速かった。
まるで試合に振り付け師がいて、それを2人が演じているかのようだった。
あれほどの衝撃はそれまでなかったし、これからもないだろう」

カス・ダマト(Cus D'Amato)は、1908年にニューヨーク市ブロンクス区サウスブロンクスでイタリア系移民の子供として生まれ、幼少の頃にボクシングと出会い惚れ込み、街ではストリートファイトを繰り返した。
12歳のとき、24歳の男とケンカして、凶器で殴られ片目の視力を失い、22歳でマンハッタン14丁目のユニオン・スクウェアの近くにあったグラマシー・ジムで若いボクサーのコーチを始めたとき、すでに白髪で、残った片目も色盲だった。
グラマシー・ジムには、ロッキー・マルシアーノがいた。
身長178㎝、リーチ173㎝。体重は84㎏。
背が低く、胴が長く、脚は短くて太く、腕が短く、拳は小さく、不器用で覚えが悪く、トレーナーのゴールドマンいわく
「うまく構えられない、うまく打てない、まったくダメな新人だった」
が、努力に努力を重ね、決して退かないファイトスタイル、岩のような肩の筋肉から繰り出される強打は「ブロックトンの高性能爆弾」といわれ、49戦49勝43KO、生涯に一度も負けなかった偉大な世界ヘビー級チャンピオンだった。
そしてカス・ダマトの指導を受けたホセ・トーレス(ライトヘビー級)、フロイド・パターソン(ヘビー級)もボクシング史に残る世界チャンピオンとなった。
また自身、若気の至りとケガでボクサー人生を棒に振った経験のためか、カス・ダマトがセコンドについたボクサーは1人も試合が原因で死亡したり重度のケガや後遺症を負わなかった。
カス・ダマトの教えるファイトスタイルはオーソドックスではなかった。
通常、ボクシングでは右利きならば左の腰と肩を前に出して、相手に対して斜めに構え、前に出した肩から軽いジャブを出すが、カス・ダマトは
「つまるところ、ボクシングの究極の科学というのは、相手が打ち返せない位置からパンチを打つことだ。
打たれなければ試合に勝つからだ」
と両脇をしめて両腕でボディと顔面をガードして、相手とほぼ正面に向き合い、頭を振って相手のパンチをかわして、飛び込んで急所にパンチを叩き込むというピーカブー(Peekaboo、いないいないばあ)スタイルを教えた。
またフロイド・パターソンにソニー・リストンが挑戦してきたとき、ボクシングはクリーンで素晴らしいものであるべきという信念を持ち、、マフィアなどがボクシング界に進出することを嫌っていたカス・ダマトは
「暗黒街につながりのあるヤツはだめだ」
と突っぱね、プロモーターたちから疎んじられるなど、ボクシング界の異端児的な存在でもあった。

ソニー・リストンは、2人の妻との間に25人もの子供をつくったアルコール依存症の父親に虐待を受けながら農業を手伝っていたが、やがてセントルイスに脱出。
学校に通えず読み書きができない黒人少年にまともな仕事はなく、10代前半で強盗団を組織し、地元で知らぬ者はいない存在となった。
ミズーリ州の刑務所に収監され神父に教わってボクシングを始め、仮釈放後、アマチュア選手としてスタートし、すぐにミズーリ州チャンピオンとなった。
天性の肉体とパワーでプロ転向後も14勝1敗の好成績をマーク。
しかし昔の悪い仲間と縁が切れないソニー・リストンは路上で呼び止められた警官に暴行を加えた上、拳銃を奪い逃走し9ヵ月間、拘束された。
釈放後、拠点をフィラデルフィアに移して再始動し、復帰後19連勝(17KO)
しかし悪いつき合いは続き、ニューヨークの大物マフィア、ルッケーゼ一家の一員、マーダー・インクの殺し屋、フランキー・カルボとその右腕であるブリンキー・パレルモが、ソニー・リストンを援助し、その試合と興行を仕切った。
そんな闇社会と関係し続けるソニー・リストンがフロイド・パターソンに挑戦してきたとき、カス・ダマトは反対し、NAACP(アメリカ黒人地位向上協会)にソニー・リストン戦に同意しないよう直訴。
J・F・ケネディが否定的な見解を示すなど大騒動に発展した。
フロイド・パターソンは
「逃げているといわれるのは心外だし、彼にどんな問題があろうと現在はNo.1コンテンダーであり犯罪者ではない。
王者の義務を果たす」
とカス・ダマトの反対を押し切って契約書にサインし、2分余りでKOされた。
後年(1971年1月5日)、ソニー・リストンはラスベガスの自宅ベットの下で死んでいるのを発見された。
キッチンでヘロインがみつかり腕に注射痕があったため薬物の過剰摂取が死因とされたが、あまりに不審な死に方で、マフィアに利用されるだけ利用されて殺されたと囁かれた。

1981年、14歳のマイク・タイソンが少年院を仮退院するとカス・ダマトは
「もう家には戻るな」
と自宅に同居させた。
マイク・タイソンは
「ボロ家に戻らずにすむ」
と喜ぶ半面、それまで白人とつき合った事がなかったこともあり
「どうせ今に欺かれるに決まっている」
と警戒した。
基本的にトレーニングは週7日。

5:00
起床
ストレッチ
約5kmのジョギング
ジャンプエクササイズ×10回
ダッシュ10本
6:00
シャワーを浴びて再び寝る
10:00
食事(オートミール)
12:00
練習
スパーリング10R
14:00
食事(ステーキ、パスタ、フルーツジュース)
15:00
練習
エアロバイク×60分
17:00
腹筋200回×10セット
ディップス25~40回 ×10セット
腕立て伏せ50回×10セット
シュラッグ30kg×50回×10セット
ブリッジ10分
19:00
食事(ステーキ、パスタ、フルーツジュース)
20:00
エアロバイク×30分
21:00
ビデオや TVを観て就寝


夜、カス・ダマトとマイク・タイソンは、古今東西のボクシングの映像をみながら戦う技術や心について語り合った。
「高い次元においてリング上の勝敗を決するのは肉体のメカニズムではなく精神力である」

「物を欲しがり過ぎてはいけない。
堕落はそこから始まるのだ。
車が欲しいと思う。
洒落た家にピアノも欲しいと思う。
思ったが最後、したくない事までやり始める事になる。
たかが物のためにだ」

「ボクシングでは人間性と創意が問われる。
勝者となるのは、常により多くの意志力と決断力、野望、知力を持ったボクサーなのだ」

「勇者と臆病者には、大きな違いはない。
両者とも同じ様に倒されるのを恐れている。
英雄だって、皆と同じように怯えているのだ。
ただその恐怖に打ち勝つのが勇者、恐怖に負け逃げ出してしまうのが臆病者だ。
英雄は逃げたりしない。
最後までやり遂げようとする自制心を持っている。
つまり最後までやり遂げるかやり遂げないかで、人は英雄にも臆病者にもなるのだ」

「恐怖心はボクシングを学ぶうえで最大の障害だ。
しかし恐怖心は1番の友達でもある。
もし恐怖心をコントロールできれば用心深くなることができる。
恐怖心は火のようなものだ。
上手に扱えば身を暖めてくれるし、料理を手助けしてくれし、明かりにもなる。
でもコントロールできないと火はお前と周囲のあらゆるものを破壊する。
山上の雪玉のように、転がる前なら対処できるが、いちど転がりだしたらどんどん大きくなって押し潰される。
だから、恐怖心を肥大させてはならない」

「野原を横切っているシカを思い浮かべろ。
森に近づいたとき、突然、本能が告げる。
危険なものがいる、ピューマかもしれない。
ひとたびそうなると、おのずと生存本能が起動して、副腎髄質から血液にアドレナリンが放出され心臓の鼓動が速まって、並外れた敏捷性と力強さを発揮できるようになる。
通常そのシカが15フィート跳べるところを、アドレナリンによって最初の跳躍が40フィートにも50フィートにも延びる。
人間も同じだ。
傷つけられたり脅されたりといった状況に直面すると、アドレナリンが心臓の鼓動を速める。副腎髄質の作用で、普段は眠っている力を発揮できるんだ」

「自分の心は友達じゃないぞ、マイク。
それを知ってほしい。
自分の心と戦い、心を支配するんだ。
感情を制御しなくてはならない。
リングで感じる疲れは肉体的なものじゃない。
実は90%は精神的なものなんだ。
試合の前の夜は眠れなくなる。
心配するな、対戦相手も眠れてやしない。
計量に行くと、相手が自分よりずっと大きく、氷のように落ち着いて見えるだろうが、相手も心の中は恐怖に焼き焦がされている。
想像力があるせいで、強くもない相手が強く見えてしまうんだ。
覚えておけよ。
動けば緊張は和らぐ。
ゴングが鳴って、相手と接触した瞬間、急に相手が別人に見えてくる。
想像力が消えてなくなったからだ。
現実の戦い以外のことは問題でなくなる。
その現実に自分の意志を定め、制御することを学ばなければならない」

「私の仕事は、才能の火花を探してきて火をともしてやることだ。
それが小さな炎になり始めたら燃料を補給してやる。
そしてそれを小さな炎が猛り狂う大きな火になるまで続けてやり、さらに火に薪をくべれば、火は赤々と燃え上がるのだ」

マイク・タイソンは、13歳のとき、腹筋は50回もできず腕立て伏せも13回しか出来なかったが、カス・ダマトに
「Never Say Can't(できないっていうな)!!」
といわれ続け、頑張った結果、20歳になると腹筋2000回、腕立て伏せ500回を毎日こなすようになった。

「5-3-2」
「7-4-6」
トレーナーのケビン・ルーニー(Kevin Rooney)がいうと、ピーカーブーで構えたマイク・タイソンはサンドバッグに向かって電光石火のコンビネーションを叩き込んだ。
1~7の数字は、人体の7つの急所を指していた。
ケビン・ルーニーは、ボクサーとして3階級制覇を成し遂げたニカラグアの英雄、アレクシス・アルゲリョと対戦(2RKO負け)したこともあり、指導者としてもカス・ダマトの技術や精神を受け継いでいて、マイク・タイソンに実技を交えて指導した。
「俺は彼に毎日10Rのスパーリングを週5日させた。
毎日が力尽きるまでの戦争だった。
今でいう「1日やって翌日は体を休める」なんてバカげたことしてなかった。
偉大なファイターになるにはスパーリングするしかない。
毎日毎日、来る日も来る日もスパーリングをしなくてはならない。 
マイクの場合、試合の2、3日前までそれをやった。
あるときアトランティック市でマイクがスパーリング中、鼻血を出したことがある。 
そのときジミー・ヤコブが俺にスパーリングを止めさせるよういった。 
俺は「何? じゃ試合中にマイクが鼻血を出したら試合を止めさせるのか?」といった。
そしたらジミーは納得した。
またラスベガスでスパーリングをしていたとき、試合2日前にマイクは目の上をカットしたんだが、切り口は試合中開かなかった。
なぜならマイクは頭を動かし相手の攻撃をかわしたからな」
マイク・タイソンはあまりにパンチが強いためスパーリングパートナーに苦労した。
マイク・タイソンは20オンスという大きなグローブ、スパーリングパートナーは14オンスを着用。
週給1000ドル(約10万円)という賃金は、ビル・ケイトンやジム・ジェイコブスが負担した。
ボクシング界きっての篤志家であるビル・ケイトンは、マイク・タイソンのビジネスやマネージメントを担当。
ジム・ジェイコブスは、26000本ものボクシングフィルムを所有し、古今東西のボクサーを研究するマニアで、カス・ダマトとは古くから知り合いで協力者でマイク・タイソンを様々な面でサポートした。
「自分がそのファイターをAといい、ダマトがBといえば、そのファイターはBになってしまう。
ダマトは『マイク・タイソンこそ世界ヘビー級チャンピオンになる男だ』といった。
私はその考えに従うだけだ」
2人ともボクシング界とマイク・タイソンの未来に期待していた。

1982年、15歳のマイク・タイソンは、アメリカジュニア・オリンピック2連覇。
1983年、マイク・タイソンが16歳のとき、母親が亡くなった。
1984年、イベンダー・ホリフィールドはライトヘビー級(-81kg)、マイク・タイソンはヘビー級(-91kg)、でロサンゼルスオリンピック出場を狙った。
アメリカ代表候補の合宿で、2人は初めて会い、21歳のイベンダー・ホリフィールドは、17歳のマイク・タイソンの練習をみて驚いた。
「俺も努力家だと自負している。
だが彼がジムで練習するのを横目でみて驚いたよ。
こいつはやられたと思った。
まだ17歳の若造なのに・・・
俺以上に練習していたのは彼だけだった。
誰もかなわないと思ったよ」
しかしマイク・タイソンは、アメリカ国内の最終選考会決勝でヘンリー・ティルマンにダウンを奪いながらも判定負け。
オリンピック参加は叶わなかった。
(ヘンリー・ティルマンはロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲得)
アマチュアボクシングでは1発の有効打と1回のダウンが同じ1ポイント。
そのためにダメージを与えたりダウンを奪う格闘技というよりポイントを奪い合うポイントゲームになりやすい。
常にノックアウトを狙う荒々しいマイク・タイソンのファイトスタイルはアマチュアに合わない面があった。
「オリンピックには出られなかったが代表選考試合はいい経験になった。
ホリフィールドの戦い方は野心的で俺のスタイルと似ていた。
相手を軽くノックアウトする素晴らしいボクサーだった」
マイク・タイソンは、この後、プロの転向した。
アマチュアボクシングの戦績は52戦47勝5敗。

同じ頃、17歳のバーナード・ホプキンスは、9つの重罪で懲役18年を宣告され刑務所に入った。
「刑務所の中はストリートよりも酷い。
男がレイプされ、殴られ、拷問されていた」
入所後、間もなく、ケンカに巻き込まれた弟が逃げきれず銃で撃たれ、通りの外れの草むらで遺体で発見されたため、監視つきで葬儀に参列し、また刑務所に戻された。
「すべてが嫌になり自分の無知を責めた」
厳重に防護された刑務所で受刑者を苦しめるのは有り余る時間だった。
1日中1人でいるために孤独感で精神を病む者もいたし、憂さを晴らすために暴れる者もいた。
バーナード・ホプキンスも刑務所の中で暴れた。
太刀打ちできないと悟った敵は、
「刺してしまえ」
とスキをうかがった。
「おかしなことにケンカして刺されるたびに俺に対する評判が上がった」
毎日、恐怖にさらされながらバーナード・ホプキンスは
「18歳になる前に死ぬか、一生刑務所を出られない」
と思った。
「状況を変えなければ・・・」
「無知のままではダメだ」
勉強を始め、受刑者1人当たり年間数万ドルがかかることを知ると
「服役もビジネスだ。
このビジネスの中で押しつぶされるのはゴメンだ」
と思った。
刑務所内にはボクシングのリングとジムがあり、アマの経験を知ったトレーナーに誘われ、久しぶりにグローブをはめた21歳のバーナード・ホプキンスはスパーリングで圧勝。
その後、周囲のみる目が変わり、刑務所内で一目置かれるようになった。
ボクシングは
「まともな世界に戻るチャンスだ」
と思った。
キャンプヒル、ロックビュー、ダラス、グレーターフォードなどペンシルベニア州内38の刑務所にボクシングクラブがあり、トーナメント戦が行われていた。
バーナード・ホプキンスは銃を持った護衛に付き添われながら試合ごとにバスで移動し、各刑務所の強豪と対戦。
州刑務所ボクシングのミドル級チャンピオンになった。
「情熱が蘇ったんだ」

1984年7月29日~8月11日、ロサンゼルスオリンピックからスーパーヘビー級を加え12階級となったボクシング競技に、イベンダー・ホリフィールドライトヘビー級(-81kg)アメリカ代表として出場。
1984年といえば日本に原爆が落とされて第2次世界大戦が終結した後、新たに勃発した東西冷戦真っただ中。
1980年のモスクワオリンピックは西側諸国の多くは不参加。
日本も柔道の山下泰裕、ボクシングの赤井英和など多くの代表選手が出場できなくなり涙を飲んだ。
そしてロサンゼルスオリンピックでは東側の多くの国が不参加。
ボクシング競技でも、ソ連、東ドイツ、キューバ、ポーランド、ブルガリアといった強豪国はいなかった。
イベンダー・ホリフィールドは勝ち進み、準決勝でもケビン・バリー(カナダ)戦を圧倒していた。
10R、イベンダー・ホリフィールドの右のボディから左フックが顔面に入り、ケビン・バリーが倒れた。
レフリーがカウントを始めたが、ケビン・バリーが立ち上がった後、突然、ジャッジに合図し、イベンダー・ホリフィールドに失格を宣告した。
誰もがイベンダー・ホリフィールドの勝ちだと思っていたため、会場は騒然となった。
レフリーは、
「ブレイク後のヒッティング」
を理由としたが、いまビデオをみてもレフリーのブレイクは確認できない。
「ホリフィールドはハメられた」
「失格はおかしい」
この判定に誰も納得しなかった。
アメリカのテレビ解説は
「ホリフィールドは冷静に耐えています」
と伝えたが、イベンダー・ホリフィールドは
「何とか怒りを抑え口から出そうになる言葉を飲み込んだ」
と文句もいわず判定を受け入れた。
リング上で勝者のコールを受けたケビン・バリーは、イベンダー・ホリフィールドと握手し、その手を高く挙げた。
表彰式でも金メダリストとなったアントン・ヨシポビッチ(ユーゴスラビア) は、銅メダリストのイベンダー・ホリフィールドを自分の立っている表彰台の1番高い場所に立たせた。
それまでもオリンピックボクシングでは不思議な判定が多かったが、ロサンゼルスオリンピックの次の1988年のソウルオリンピックでも、ミドル級のロイ・ジョーンズ・Jr(アメリカ)が決勝戦で朴時憲(韓国、開催国)を2度ダウンさせ、有効打も86対32と優っていたにも関わらず判定負けした。
バンタム級の辺丁一(韓国)がアレクサンダー・フリストフ(ブルガリア)に判定負けするとセコンド陣が乱闘となり、辺丁一が1時間以上リング上に座り込んだため、その日の後の試合は中止となった。
オリンピックボクシングにおける疑惑の判定の原因を詮索すると、直接、金銭が絡まないため、ある意味、プロ以上に複雑で、利権絡みや政治的思惑にまで及び、結局、真相はわからない。
1992年のバルセロナオリンピックからはコンピューターポイントシステムが導入されるようになったが、これによってますます軽いパンチを当て離れるというタッチ&ラン的なアウトボクシングが主流となり、強いパンチで倒すというボクシング本来の姿と魅力は消えてしまった。

1984年11月15日、オリンピックで悲劇のヒーローとなったイベンダー・ホリフィールドがライトヘビー級(79.379kg以下)でプロデビュー。
ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われたプロデビュー戦はいきなりTV中継された。
1985年3月6日、 18歳のマイク・タイソンがヘビー級(90.719kg以上)でプロデビュー。
ヘクター・メルセデスに1RTKO勝ち。
デビュー戦を白星で飾ったが、イベンダー・ホリフィールドに比べると無名で地味なキャリアスタートとなった。
しかし古い時代の試合の映像をいくつもみて研究し「歩くボクシング辞書」と呼ばれるほど、その歴史を含めてボクシングを深く理解していたマイク・タイソンにとって逆境はチャンスだった。
「過去の偉大なボクサーは失敗の克服方法を研究した」
「凡人と天才の違いは、上を目指し続ける意志があるかどうか。
チャンピオンになりたいかどうかだ」
とハードなトレーニングと練習に敢行。
1985年7月20日、イベンダー・ホリフィールドがクルーザー級(90.719kg以下)へ階級を上げて試合を行い判定勝ち。
1985年10月、マイク・タイソンがデビュー後、11連勝。
早いときは9日間で2試合、8月から11月にかけては6試合戦ってすべて1RKOで勝った。
カス・ダマトには野望があった。
それはフロイド・パターソンが持つヘビー級史上最年少チャンピオン記録:21歳11ヶ月を破ることだった。
デビュー当時、マイク・タイソンは18歳9ヶ月。
約2年で世界タイトルを奪取しようというのである。

1985年11月4日、マイク・タイソンが11連勝を飾った直後、カス・ダマトがマウント・サイナイ病院で肺炎のため77歳で亡くなった。
死の直前に受けたインタビューで、こう答えていた。
「彼(マイク・タイソン)のためでなかったら私は多分もう生きてはいなかっただろう。
私はこう思う。
人間は生きてゆく間に心にかける人々や喜びの数を増やしていく。
それから自然がそれを1つまた1つと奪い去ってしまう。
自然はそうやって死への準備をしてくれるのだ。
私にはもはや何の喜びも残っていなかった。
友人たちは行ってしまった。
耳も聞こえないし目もよく見えない。
見えるのは思い出の中だけだ。
だから私は死ぬ用意をしなきゃならんと思っていた。
そこへマイクがやってきたのだ。
彼がここにいて、そして今やっていることをやっているという事実が私に生き続ける動機を与えてくれる」
3日後、葬儀が行われ、多くの関係者が参列した。
マイク・タイソンはずっと棺桶に付き添い、落ち着いているようにみせていたが家に帰るとカミール・イーワルドと2人で号泣した。
「おかしくなりそうな頭の中で考えていたのは彼のために成功することだけだった。
カスの遺産の正しさを証明するためならどんなことでもしただろう。
カス・ダマトはオレにとってオヤジ以上の存在だった。
誰でもオヤジになることはできるが、しかし、それは血がつながっているというだけの話だろう。
カスはオレのバックボーンであり、初めて出会った心の許せる人間だった」
(マイク・タイソン)
「カス・ダマトはボクシング界の無知や腐敗と真っ向から対決した。
敵には屈しなかったが、友人には理解があって情け深く信じられないくらい寛容でした」
(ジミー・ジェイコブズ)
「カスがボクシングの世界に与えた影響はヘミングウェイがアメリカの若い作家たちに与えた影響に勝るとも劣らない
(ノーマン・メイラー、作家)
「彼から多くのことを学びました。
ボクシングのことばかりでなく、生き方や人生についても」
(ピート・ハミル、ジャーナリスト)
葬儀から1週間後、エディ・リチャードソン戦のためマイク・タイソンたちは、テキサス州に飛んだ。
マイク・タイソンは、死んでから、毎晩、話しかけていたカス・ダマトの写真を持っていった。
「明日、このリチャードソンってやつと戦うんだ、カス。
どうしたらいいと思う?」
試合で体はちゃんと動いたが、気持ちは落ち、自信も失っていた。
「実をいうと今でもカスの死を乗り越えられたとは思っていない。
腹も立てていた。
もうちょっと早く医者に行っていれば死なずに俺を守れたかもしれないんだ。
なのにカスは我を通し治療を受けずに死んでボクシング界の獣たちのあいだに俺を1人で置き去りにした。
カスの死後はもう何もかもがどうでもよくなった。
戦ったのは単ににカネのためだ。
夢なんてなかった。
タイトルを獲ることよりも、ただワインを飲んで騒いで我を忘れたかった」
蒸発した父親は誰かも知らず、母親は16歳のときに失い、19歳で「オヤジ以上の存在だった」カス・ダマトを失ったマイク・タイソンは、肉体的には世界に出ていけるほどの器だったが、精神的には未熟だった。
以後、「自分を見失った子供」は、あるときは心を閉ざし、あるときは「俺は子どもじゃない、大人の男だ」と意味もなく自分を誇示するようになった。

マイク・タイソンのデビュー年の戦績は、15戦15勝15KO、内11が1RKO。
そして2年目、

1986年1月11日、デーブ・ジャコ 、1RTKO
1月24日 、マイク・ジェームソン 、5RTKO
2月16日、ジェシー・ファーガソン、6RTKO
3月10日、スティーブ・ゾースキー 、3RKO
5月.3日、ジェームス・ティリス 、判定勝ち
5月20日、ミッチ・グリーン 、判定 勝ち
6月13日、レジー・グロス 、1RTKO
6月28日、ウィリアム・ホシ-、 1RKO
7月11日、ロレンゾ・ボイド、2RKO
7月26日、マービス・フレージャー 、1RKO
8月17日 、ホセ・リバルタ 、10RTKO
9月6日、アルフォランゾ・ラトリフ 、2RTKO

と世界ランカーだったスティーブ・ゾースキー、ポスト アリと呼ばれていたジェームス“クィック”ティリス、ジョー・フレージャーの息子マービス・フレージャーなどヘビー級のホープたちに勝ち続けた。
1986年11月22日、27戦27勝0敗25KOでWBC世界ヘビー級チャンピオン、トレバー・バービックに挑戦。
試合当日、マイク・タイソンは、13時にパスタ、16時にステーキ、17時に再びパスタとスニッカーズを食べ、オレンジジュースを飲んだ。
そしてケビン・ルーニーが、マイク・タイソンの拳にバンデージを巻きグローブをはめた。
挑戦者のマイク・タイソンが先に入場したが、そのときアリーナが肌寒かったのでケビン・ルーニーはタオルを切ってマイク・タイソンの首を覆った。
マイク・タイソンが、ロープをくぐってリングに上がり、ゆっくり回っていると黒いフードのつきのガウンをまとったトレバー・バービックが入場。
5年前、モハメド・アリを破って引退に追い込んだトレバー・バービックは、常に試合で黒のトランクスをはいていたマイク・タイソンへの嫌がらせで黒のトランクスを選んだ。
ルールでトランクスの同色は認められず、色が重なった場合、チャンピオン優先となるが、マイク・タイソンは無視して黒のトランクスをはいたため5000ドルの罰金処分となった。
試合前、モハメド・アリが観衆に紹介されリングに上がり、両者を激励したが、マイク・タイソンに近づいたとき
「俺の代わりにぶちのめしてくれ」
といった。
試合前の賭け率は1:5でマイク・タイソン有利。

試合が始まるとマイク・タイソンは突進し強打を浴びせた。
「頭を動かせ、ジャブを忘れるな」
「頭に攻撃が集中しているぞ。
ボディから入れ」
ケビン・ルーニーの指示が飛んだ。
1R中盤、マイク・タイソンの強烈な右でトレバー・バービックはよろめき、さらに攻撃をもらい朦朧状態となった。
コーナーに戻って座ったマイク・タイソンの体は性病(淋病)に対する抗生物質を注射したせいもあり大量の汗をかいていた。
2R、開始10秒、マイク・タイソンの右でトレバー・バービックはダウン。
すぐ飛び起き飛び反撃を試みたが、もうパンチも体もパワーはなかった。
2R、残り30秒、マイク・タイソンは右ボディブローから右アッパー。
これは外れたが続く左フックがテンプルをとらえ、トレバー・バービックは倒れていった。
トレバー・バービックは立ち上がろうとしたが、後ろによろけ、足首がグニャリと曲がり、再び倒れた。
再度立ち上がろうとたが、キャンバスにのめるようにまた倒れ、なんとか立ち上がることはできたがレフリーのミルズ・レーンはトレバー・バービックバービックを抱きかかえ手を振って試合を止めた。
335秒で勝ったマイク・タイソンは、デビュー後28連勝、20歳5ヶ月という史上最年少記録でWBC世界ヘビー級チャンピオンとなり、カス・ダマトの夢を実現させた。
「試合終了です。
ボクシングに新たな時代が到来しました」
(TVアナウンサー)
「マイク・タイソンはマイク・タイソンがいつもやっていることをやった。
これぞファイトだ」
(TV解説者、シュガー・レイ・レナード)
「頭に大文字のFがつく正真正銘のFight(ファイト)だ」
(TVアナウンサー)
マイク・タイソとケビン・ルーニーは抱き合った。
「信じられない、ちきしょう。
20歳でチャンピオンになっちまった」
「嘘みたいだ。
20歳で世界チャンピオンだ。
こんなくそガキが」
ジミー・ジェイコブズもリングに入ってマイク・タイソンにキスした。
「カスもこうしてくれたかな?」
マイク・タイソンに聞かれてジミー・ジェイコブズはニッコリとした。
トレバー・バービックのマネジメントをしているドン・キングもマイク・タイソンに近づき祝福した。

足をもつれさせながら必死に立ち上がろうとするトレバー・バービックの姿は、「宇宙遊泳」といわれた。
マイク・タイソンの一瞬で勝負をつける、まるでショーのような戦慄のKOシーンに人々は興奮した。
この試合でもカーク・ダグラス、エディ・マーフィ、シルヴェスター・スタローンがリングサイドにいたが、マイク・タイソンの試合には多くの著名人がかけつけた。
マイク・タイソンは特別な存在だった。
ヘビー級の中では小柄なマイク・タイソンがKOの山を築き上げていく姿はアメリカンドリームそのもので、一種の社会現象となった。
「バービックはとても強かった。
自分と同じくらい強いとは全然思っていなかったけど・・・俺の打ったすべてのパンチには相手を破壊しようとする悪意が込められていた。
永遠に王者でい続けたい。
負けるくらいなら死んだほうがマシだ。
俺は相手を破壊するために、世界ヘビー級選手権を奪い取るためにやってきて、それを成し遂げた。
この試合を偉大な守護者カス・ダマトに捧げたい。
きっと彼は天国から見ていて、過去のいろんな名ボクサーたちと話をして、自分の息子を自慢しているだろう。
変わり者だったけど間違いなく天才だった。
彼がこうなるとずっと言い続けてきたことが現実になったんだ。
次の対戦相手?
誰でもかまわない。
偉大な選手になるには誰とでも戦わなくちゃいけない。
誰とでも戦ってやる」
マイク・タイソンは、その晩はずっとベルトを外さなかった。
腰に巻いたままホテルのロビーを歩き、ラスベガスのヒルトンホテルの向かいのバーでの祝勝会でも巻いたままだった。
一同は一晩中、飲み明かしたが、ウォッカでしたたかに酔ったマイク・タイソンは、夜更けにいろんな女の子たちの家を回ってチャンピオンベルトをみせた。
「セックスはしていない。
しばらく一緒に過ごして出ていって、他の女の子に電話して、その子の家に行って一緒に過ごした」
早朝、ホテルの部屋に戻ったときもベルトを腰に巻いたままだった。

マイク・タイソンがWBC世界ヘビー級チャンピオンになった同年(1986年)の7月12日、クルーザー級で11連勝した24歳のイベンダー・ホリフィールドがWBA世界クルーザー級チャンピオン、ベテランのドワイト・ムハマド・カウイに挑戦。
1Rは的確なパンチを当てて優勢だったが、その後は距離を詰められ苦戦。
10R終了時にはドワイト・ムハマド・カウイ優勢だった。
11Rは未体験だったがイベンダー・ホリフィールドの熱い闘志は尽きなかった。
「この試合で7㎏減った。
腎臓を傷めたようだが死ななきゃいいと思ってた」
両者はガッツむき出しで15Rを戦い抜き、イベンダー・ホリフィールドがドワイト・ムハマド・カウィに判定勝ちしWBA世界クルーザー級チャンピオンになった
「死なずに最後まで戦い抜き褒美にベルトをもらった」
バーナード・ホプキンスは、トレバー・バービック vs マイク・タイソン戦を刑務所の中でみた。
「俺なら倒せる」
その後、17歳で入った刑務所を23歳で仮出所したが、そのとき看守に予言された。
「半年で戻ってくる」
「いいや、2度とここには戻って来ない」
バーナード・ホプキンスは、そういって厚生施設に入った。
実際、多くの者はまた刑務所の戻った。
例えば、ニューヨーク州の刑務所には、理容師の訓練プログラムがあり、服役期中だけでなく出所後も使える技術が学べるが、犯罪歴があると理容師免許は取得できない。
10代後半を刑務所で過ごし、仕事もスキルもないまま、いきなり社会に放り出され、地元に戻り、近所の同年代や若者が新車を乗り回すのをみると自分が情けなくなる。
そして昔の仲間とつき合えば、ドラッグなどに接近し、悪い生活に戻る可能性は高い。
「結局、誰も助けてくれないし、自分で自分の環境を変える必要があった」
バーナード・ホプキンスは、ボクシングを仕事にしようと決意。
すべてを賭けられるのはボクシングしかなかった。
そして元に戻るまいと、麻薬、アルコール、ジャンクフードを断ち、地元のフィラデルフィアのホテルのキッチンで鍋やフライパンを洗ったり、屋根掃除の仕事をしながら、練習とトレーニングをを続け、仮釈放期間を無事に過ごし、その後、トレーナーのブイエ・フィッシャーが所有する自動変速機の修理店で働いた。

1987年3月7日、WBC世界ヘビー級チャンピオン、マイク・タイソンは2つ目のタイトルを獲りにいった。
試合開始のゴングと同時にWBA世界ヘビー級チャンピオン、ジェームス・スミスは足を使って、マイク・タイソンが懐に入るとクリンチでかわすという展開になった。
ファンの期待は何ラウンドでKOするかだったが、結局マイク・タイソンは倒せず判定勝ちし、WBC、WBA統一世界ヘビー級チャンピオンとなった。
マイク・タイソンは無類の女好きで、多いときには一晩で24人もの女性と寝たというがトレバー・バービック戦やジェームス・スミス戦は淋病の治療中だった。
1987年5月15日、WBA世界クルーザー級チャンピオン、イベンダー・ホリフィールドがIBF世界クルーザー級チャンピオン、リッキー・バーキーを3R KO。
WBA、IBF統一世界クルーザー級チャンピオンとなった。
1987年8月1日、WBC、WBA統一世界ヘビー級チャンピオン、マイク・タイソンがIBF世界ヘビー級チャンピオン、トニー・タッカーと対戦。
3Rまではトニー・タッカー優勢だったが、それからマイク・タイソンの猛攻が始まり大差の判定でマイク・タイソンが勝ち、WBC、WBA、IBF統一世界ヘビー級チャンピオンとなり、世界最強の男となった。
モハメド・アリ以降、低迷していたボクシング人気はマイク・タイソンによって再び火がついた。
モハメド・アリとマイク・タイソンは、共に偉大なボクサーとして名声と富を得たが、ボクシングスタイルは典型的なアウトボクサーとインファイターで異なる。
またモハメド・アリは人格者だったが、マイク・タイソンはそうではなかった。
モハメッド・アリは、ローマオリンピックで、アメリカ代表としてライトヘビー級の金メダルを獲ったにもかかわらず、白人専用レストランで
「ニガーに出す料理はない」
と入店を拒否され、
「こんなもの何の役にも立たない」
とメダルを川に投げ捨てた。
プロになると史上初めて対戦相手を挑発するコメントやパフォーマンスを行い、技術的にもヘビー級ボクシングに改革を起こし、ベトナム戦争の徴兵を拒否し世界ヘビー級チャンピオンのタイトルを剥奪されても屈っせず、アメリカの黒人差別(人種差別)とも戦い、全盛期を政府の奪われた後、世界ヘビー級チャンピオンに返り咲き、合計3度、世界ヘビー級チャンピオンになった唯一無二の存在だった。
それに対しマイク・タイソンは、セレブ的な生活をを嗜好し、これみよがしに浪費し、誇示した。
朝から夜までストイックに練習し、夜になると女と格闘。
飽きてくると別の女の家に向かい、2~3人ハシゴした挙げ句、夜更けに部屋に帰って、また別の女を電話で呼び出して、一緒に過ごした。
「もうやりたい放題やった。
ヴェガスのホテルの部屋に女を10人はべらせたこともあった。記者会見に出るときに1人だけ連れていって、残りは会見が終わったときのために部屋に置いてきた。
裸になってチャンピオンベルトを巻いてセックスしたこともあった。
その気のある相手がいるかぎりはやりたかった。
滑稽な話だが、全員を満足させようとしたんだ。
そんなことは不可能なのに。相手は頭のネジがぶっ飛んだやつらだしな。
しばらくすると、アメリカ中の女で住所録が埋まった。
ヴェガスの女、ロサンジェルスの女、フロリダの女、デトロイトの女。
まったく、何をやってたんだ
若造がカネを握ると、こんなろくでもないことしかやらないものさ」


女性関係は乱れに乱れたが、中には世界的なスーパーモデルもいた。
「ジェット機で世界を飛びまわって王族との晩餐会に出るようなファッション界の重鎮たちの集まりでのことだ。
当時はあるモデルと付き合っていたんだが、ある友人はカネをめぐってその女に腹を立てていた。
『マイク、あいつのことは忘れろ。
たぶん世界でいちばんきれいな女と付き合わせてやるから。
まだ10代だが、すぐにトップモデルになる。
今のうちにツバをつけておけ
2、3年はコッソリつき合えるぞ』
そういってそのとびきりの女が出席するパーティに招待してくれた。
会場は5番街の豪奢なマンションだ。
手持ち無沙汰にしていると、その友人ががそのモデルを連れてきて、俺と引き合わせた。
友人がのいっていた通りの女で、その上、ビックリするほど綺麗なイギリス英語を話すんだ。
業界のトップに立つであろうことは、ひと目みればわかった。
話を始めると彼女は俺のことを知っていて興味があるみたいだった。
電話番号を交換し、翌日、彼女のくれたメモをみた。
電話番号と一緒に”ナオミ・キャンベル”という名前が書き添えられていた。
驚くべきことに、俺たちはつき合い始めたんだ。
彼女は情熱的で性的な好奇心も旺盛だった。
2人にはいろんな共通点があった。
彼女も片親に育てられていた。
彼女の母親は必死に働いて、娘をイギリスの私立学校に通わせられるだけカネを貯めたそうだ。
少女時代、ナオミはずっと特別扱いされていた。
ナオミとは喧嘩もよくやった。
俺はしょっちゅうほかの女たちと遊び、彼女はそれが気に入らなかったんだ。
互いに夢中ってわけじゃなかったが彼女とは一緒にいてすごく居心地がよかった。
また彼女はすごく仕事熱心で、意志の固い人間だった。
俺が喧嘩に巻き込まれたときも、彼女は俺のそばを離れず戦うことを恐れない。
俺のことで誰にもとやかくいわせなかった。
若くして自力で道を切り開こうとしていた2人だ。
あの頃の俺たちは人生について何も知らなかった。
少なくとも俺は知らなかった。
しかし彼女は数年で世界のトップに立ち誰も太刀打ちできなくなった。
地球上のどんな男でも手に入っただろう。
彼女の存在は強烈すぎた。
男は屈するしかない。
ところが、俺は1人の女に落ち着く気がなかった。
だから気軽にセックスできる女たちを抱えた上に、シュゼット・チャールズとも付き合い始めたんだ。
シュゼットは準ミス・アメリカだったが、ミスに選ばれたヴァネッサ・ウィリアムスが『ペントハウス』誌にヌード写真を掲載されてタイトルを返上し繰り上がりでミス・アメリカと認められていた。
すごくいい子だったよ。
大人だったし、俺より2~3歳年上だった。
これだけの女と付き合えたというのに、どうして俺は女をとっかえひっかえしていたんだろう?
今じゃ想像もできない」

1988年1月22日、マイク・タイソンはモハメド・アリが引退後、1970年代後半から1980年代に長期政権を築いた名チャンピオン、ラリー・ホームズを4R KO。
1988年2月7日、マイク・タイソンが女優のロビン・ギブンスと結婚。
1986年3月にTVでロビン・ギブンスをみて気に入ったマイク・タイソンが強引に会ったのが始まりだった。
ロビン・ギブンスはマイク・タイソンと同じニューヨーク出身のアフリカ系アメリカ人で年齢は2歳上。
10歳でアメリカンドラマティックアーツアカデミー(AADA、ハーバード大学教授のフランクリン サージェントにより創設された演劇学校)に入学し、15歳でサラ・ローレンス大学に飛び級入学した才女だった。
マイク・タイソンはロビン・ギブンスに
「妊娠した」
といわれ結婚。
「美女と野獣夫婦」といわれた。
1988年2月17日、マイク・タイソンが、バブル景気の真っ只中の日本に降り立った。
この試合、ドン・キングは、殺人の前科が問題となって試合直前になるまで入国できなかった。
まだ海外のボクシングをTVで観ることなど不可能な時代。
「世界で1番強いのはどんな男だろう?」
と想像を膨らませていたファンは熱狂した。
東京ドームのこけら落としとして開催される「WBA、WBC公認世界ヘビー級タイトルマッチ In Big Egg、マイク・タイソンvsトニー・タッブス」の10万円のリングサイドチケットは発売から3日で売り切れた。
マイク・タイソンは、ホテルニューオータニの1泊15万円するジュニアスイートルームでは全裸で過ごし、世界一物価の高い東京で1個8000円のメロンや1粒2000円のサクランボを含め食べたいものを食べたいだけ食べた。
部屋には多くの女性が出入りし、性欲も、満たしたいときに満たした。
早朝4時からのロードワークを行い、ジムワークは、スピードや技術もすごいが、220ポンド(100㎏)の筋肉の塊がムチのようにしなり襲いかかる姿は、殴りたいから殴るという感じで殺人本能を持った獣のようだった。
一方、相撲部屋に連れて行ったり、著名人に会ったり、パチンコを打ったりしてテレビのロケやマスコミの取材にも協力。
浅草寺に行ったとき、ファンをかき分けながら境内へと進むと、たくさんの鳩がいた。
マイク・タイソンは足元にいた一羽をサッと捕まえ、優しい顔でソッとそっと撫でた。
1988年3月21日、試合当日、東京ドームに集まった観衆は51000人。
マイク・タイソンは、激しく上体を振りながらジグザグな軌道でタップスの懐に飛びんでボディに右フック。
前屈みになったトニー・タップスに右アッパー。
体が反ってかわすトニー・タップスに、右ボディフック、右フック顔面、右アッパー顔面。
トニー・タップスはなにもできずに倒れ、マイク・タイソンが 2R KO勝ち。
354秒の試合にために買った高額チケットはまるで馬券のようだった。
このときアメリカでは、カス・ダマト亡き後、チーム・タイソンを牽引していたジム・ジェイコブスが白血病で亡くなっていた(58歳)
1988年4月9日、WBA、IBF統一世界クルーザー級チャンピオン、イベンダー・ホリフィールドがWBC世界クルーザー級チャンピオン、、カルロス・デ・レオンに8R TKO勝ち。
WBC、WBA、IBF統一世界クルーザー級チャンピオンとなった。
この後、ヘビー級への野望をあらわにしてクルーザー級のタイトルを無敗のまま返上。
スピード、パワー、スタミナ、1階級上げるために科学的なトレーニングを導入し徹底的に鍛えた。
そして
「いつかはやることになる」
とマイク・タイソンの試合を全部、注意深くみて研究し
「やれば厳しい試合になるだろう」
と思った。
1988年5月、いつまでたってもお腹が大きくならないことに変だと思っていたマイク・タイソンが聞いてみるとロビン・ギブンスは
「流産した」
といった。
以後、関係が悪化。
財産目当ての結婚だった疑いが強まった。

1988年6月27日、マイク・タイソンがマイケル・スピンクスと対戦。
マイケル・スピンクスは、モンタナ州セントルイスの悪名高いゲットー、プルーイット・アイゴー出身。
モントリオールオリンピックで兄弟揃って金メダルを獲得したレオンとマイケルはプロでも兄弟チャンピオンとなったが、ヘビー級での兄弟チャンピオンは史上初にして唯一である。
77年プロ入りしたマイケル・スピンクスは順調に勝ち進むが、翌年、兄レオンが世紀の番狂わせでモハメド・アリを破り、その世話をするのに忙しかったため、10ヶ月のブランクをつくった。
レオンが王座転落後、復帰し、自分ボクシング生活に専念し、WBAライトヘビー級チャンオンになった。
WBCライトヘビー級チャンピオン、ドワイト・カウイを判定で下して王座を統一し、タイトルを10度防衛するなど、ライトヘビー級ではスピンクス・ジンクスといわれた右ストレートで無敵を誇り、ヘビー級転向後も48連勝中のラリー・ホームズに挑戦し判定勝ちし、IBFヘビー級世界チャンピオンとなった。
マイク・タイソン、34戦全勝30KO。
スピンクス、31戦全勝21KO。
無敗同士の最強決定戦ということもあり
「OneceAndForAll」
というコピーがつけられ、当時のイベント記録をことごとく塗り替えたビッグマッチとなった。
開始からエンジン全開で飛び出たマイク・タイソンに対して、スピンクスは足を使ってロープづたいに動く格好となった。
1R1分経過、マイク・タイソンの右がスピンクスのボディにめり込むとマイケル・スピンクスはあっけなくダウン。
再開直後、無謀にも前に出ていくマイケル・スピンクスの顎をマイク・タイソンのアッパーが直撃。
リングに沈みロープを頼って立ち上がろうとするが身動きできず、マイケル・スピンクスは、そのまま10カウン トを聞いた。
試合開始からたったの91秒。
1RKO負けを喫したマイケル・スピンクスは引退した。
22歳のマイク・タイソンの報酬は2200万ドル(約30億円)だったが、試合前、マイク・タイソンとビル・ケイトンは報酬の配分で揉めた。
ビル・ケイトンは1/3(約10億円)を要求。
「私はデビューから君の面倒をみてきた。
マネージャー料として1/3を受け取るのは当然の権利だ!!」
「リングで戦うのは俺だ。
それは取り過ぎだ!!」
結局、マイク・タイソンの言い分が通ったが、試合後、ビル・ケイトンは解雇された。
さらに我がままで怠惰になりがちなマイク・タイソンを叱り励まし続けたトレーナーのケビン・ルーニーも方針面の相違から解雇された。
こうしてカス・ダマトが遺したチーム・タイソンは崩壊。
マイク・タイソンは、新トレーナーとして当時、まだ経験が浅かったアーロン・スノーウェル、新マネージャーとして、なんとドン・キングと契約した。
ジム・ジェイコブス、ビル・ケイトン、ケビン・ルーニー、マイク・タイソンは、カス・ダマトを父とする家族だった。
カス・ダマトの死後も一緒だった3人から離れたマイク・タイソンは急激に乱れ始めた。

ドン・キングは、カス・ダマトが生前、
「絶対に組んではいけないプロモーター」
と嫌っていた男だった。
ドン・キングはロビン・ギブンスを通じてマイク・タイソンに接近したといわれているが、同じゲットー出身という共感性、ヘビー級のトップボクサーの多くがドン・キングの契約下にあり試合が組みやすいという点、また金脈を大事に扱うドン・キングの待遇は破格だった。
儲けられなくなるなればゴミのように捨てるのは目にみえていたが、そんなプロフェッショナル同士のドライな関係は、アスリートにとってはある意味好ましいものかもしれない。
ドン・キングは、多くのトップボクサーと契約を結び、ビックマッチ、統一トーナメント、8大タイトルマッチなどを手がけるやり手と評価される一方、マフィアと繋がり、不正行為、ファイトマネーの搾取、契約違反、金銭トラブルなど悪評も併せ持つプロモーターだった。
ゲットーで育ち、地元の中学と高校を経てケース・ウェスタン・リザーブ大学に進学。
大学中退後、合法、非合法を問わず様々な職を経験し、違法賭博場を開き胴元となり、違法賭博や交通違反などで35回もの逮捕歴を重ね、賭博場に盗みに入ったとされる男を背後から射殺。
この1人目は正当殺人と見なされたが、その後、600ドルを貸していた賭博場の元従業員を踏み殺した。
脅迫や賄賂のせいか目撃者の多くが証言を変えたが、現場を目撃していた巡査が
「キングの横で拳銃を持った男が見守っていた」
「元従業員の男の頭が地面にゴムマリのようにはねるほど頭を強く踏みつけていた」
と証言。
ドン・キングは、、第2級殺人罪で懲役20年の有罪判決を受け、仮釈放されるまで3年11ヶ月を刑務所で過ごした。
出所後、地元に戻り、自宅ベッドへ横たわっていると突如髪の毛が1本ずつ逆立ち始め
「神の啓示を受けた」
「神の啓示以来、髪の毛を切ったりセットしたりしたことはなく、触れることもない」
というドン・キングは、経営危機に陥っていた病院のためにボクシングのチャリティー大会を企画。
モハメド・アリに交渉し、エキシビジョンマッチに出場させ、8万ドルを黒字を出した。
ラリー・ホームズのマネージャー、ドン・バトラーを口説いて共同マネージャーになったり
(2年後には仲たがいしたバトラーから告訴された)
アフリカのザイール(現:コンゴ)の・キンシャサで、モハメド・アリ vs ジョージ・フォアマン戦をプロモート。
圧倒的不利とみられていたモハメド・アリの劇的なノックアウト勝利は「キンシャサの奇跡」と呼ばれた。
フィリピンのマニラでのモハメド・アリ vs ジョー・フレージャー戦、「スリラ・イン・マニラ」もプロモート。
シュガー・レイ・レナード vs ロベルト・デュラン戦で、シュガー・レイ・レナードに1000万ドルを支払った。

輝きが強い分、その闇は深かった。
モハメド・アリは、ラリー・ホームズ戦のファイトマネーのうち110万ドルが未払いだとしてドン・キングを告訴しようとした。
ドン・キングは、モハメド・アリの旧友、エレミヤ・シャバスに5万ドルが入ったスーツケースと書類を渡し、入院中のモハメド・アリにサインをもらって来るよう頼んだ。
病気を患い金が必要だったモハメド・アリは5万ドルを受け取り、告訴を取り下げるだけでなくモハメド・アリのプロモート権をキングに与えると書かれた文書にもサインをしてしまった。
モハメド・アリの弁護士は、なんの相談もなくたった5万ドルのために訴訟を取り下げてしまったことに涙した。
ラリー・ホームズは、
・ドン・キングが陰のマネージャーとしてファイトマネーの25%を搾取していた上に
・ケン・ノートン戦では契約は50万ドルだったが受け取ったのは15万ドル、アーニー・シェイバース戦の契約は20万ドルだったが受け取ったのは5万ドル、その他、モハメド・アリ戦では200万ドル、テクス・カッブ戦では70万ドル、レオン・スピンクス戦では25万ドル低く支払われ、
・ゲーリー・クーニー戦は200万〜300万ドルが未払い
と合計1000万ドルを騙し取られたとドン・キングを告訴。
ドン・キングは、示談金15万ドルを払い、今後、自身についてネガティブな情報を公表しない事に合意させた。
「俺がボクシングで犯した唯一のミスはキングと契約したことだ。
俺はあいつの中に悪魔をみた。
あいつがあんな変な髪型をしてるのは角を隠すためだ。
あいつから離れようとすると足をヘシ折ってやるとかいって脅されたよ」
(ラリー・ホームズ)
ティム・ウィザスプーンは、ドン・キングから独占契約を結ばなければボクシング界から追放すると脅され、弁護士の同席を許されないまま4枚の"奴隷契約書"に署名をした。
1枚目は、ドン・キングを独占プロモーターとする契約書。
2枚目は、“表向きの偽物の”契約書で、キングの継息子カール・キングをマネージャーに迎え33%の報酬を支払うとした契約書。
3枚目は、”本当の”契約書でカール・キングをマネージャーに迎え、ほとんどのボクシング・コミッションが定めた上限を超える50%の報酬を支払うとした契約書。
4枚目は、完全に白紙の契約書だった。
ラリー・ホームズ戦の契約は15万ドルだったが、カール・キングが報酬50%とWBCの認可手数料を天引きし、ティム・ウィザスプーンが受け取ったのは5万2750ドル。
グレグ・ペイジ戦は25万ドルだったが、トレーニング経費、スパーリングパートナー代、キングの家族と友人達の飛行機チケット代と試合観戦チケット代を天引きされ、受け取ったのは4万4460ドル。
明記されていたトレーニング費10万ドルは支払われなかったばかりか、モハメド・アリが無料で使ってよいといってくれたジーアレイクのキャンプ地の代わりに、オハイオ州のドン・キング所有のキャンプ地を使うことを強制され、利用料として1日150ドルを徴収された。
この試合でもカール・キングは50%の報酬を受け取ったが、ドン・キング・プロモーションズは33%しか受け取っていないと虚偽の報告をした。
フランク・ブルーノ戦では50万ドルを受け取ることになっていたが、ティム・ウィザスプーンが受け取ったのは9万ドルだった。
(ティム・ウィザスプーンは、ドン・キングに対し2500万ドルの損害賠償訴訟を起こし最終的に示談金100万ドルを手にした)
ドン・キングは、マネージャーやボクサーから100件以上の訴訟を起こされ、裁判費用として3000万ドル以上を費やしたといわれる。
その他にも、選手の戦績改ざん、八百長試合、ランキングの売買、不正操作でFBIから捜査を受けたり、脱税容疑や保険金詐欺など9つの容疑で起訴されたが、すべて無罪となった。

1988年7月16日、イベンダー・ホリフィールドがヘビー級で初試合を行い、ジェームス・ティルスを的確なコンビネーションとフックで6R TKO。
10ポンド(4.54 kg)ほどの増量だったため、まだヘビー級としては小柄だったが、クルーザー級時代の硬質でキレのあるパンチとコンビネーション、スピード、回転力は落ちていなかった。
1988年8月、マイク・タイソンは、以前に対戦した(プロ21戦目、判定勝ち)ミッチ・グリーンと路上でストリートファイトし右手を骨折。
1988年9月、マイク・タイソンは、運転していた車を自宅の木に激突させ病院へ担ぎ込まれた。
1988年10月11日、23歳のバーナード・ホプキンスがライトヘビー級でデビューしたが、いきなり負けた。
落胆した彼は1年以上リングへは上がらず、16ヵ月後の2戦目以降は、ミドル級で試合経験を重ねた。
同時期、ロビン・ギブンスはマイク・タイソンと一緒に出演したインタビュー番組で
「マイクは感情をコントロールできないの。
躁鬱病だから本当に怖い。
怒鳴られ、体を激しく揺さぶられ、押し倒されそうになったり」
と激白し世間に大きな衝撃を与えたが、怒ったマイク・タイソンは自宅で大暴れ。
その後、ロビン・ギブンスがDVを理由に離婚を申請し2人は別居。
離婚協議してる間もマイク・タイソンは
「毎日彼女の家にセックスをしに行ってた」
が、ある日、ロビン・ギブンスがブラッド・ピットがいるところに遭遇した。
「ヤッてる現場を押さえたわけじゃないんだよ。
最中じゃないんだ。
ヤる直前だったんだよ。
離婚弁護士のところに行く前に妻と一発ヤろうと思って家に戻ったんだよ。
オレたちが住んでいた家だしさ。
みんな、離婚前にヤるだろ?
だってまだ正式には離婚してないんだしほかに付き合ってる人がいないんだから溜まった時には家に戻ってセックスするだろ?
まぁ、そういうわけで家に着いたんだけど、誰もいなくて静かなんだ。
そしたらBMWが滑り込んできたんだよ。
すぐに彼女の車だとわかった。
オレが買ってあげたBMWだからね。
助手席に誰かが乗っていて彼女が女友達を連れて来たんだなって思った。
でも違った。
男だったんだ。
激怒したよ。
嫉妬したしね。
今でも少し嫉妬してるくらいだ。
オレをみた彼女はビックリして、『マイク!』って叫んだ。
ヤツはさ、オレをみずに『チィ~ッス』って。
神に助けを求める気分だったね。
これがオレとブラッドとの最初の出会い。
ヤツは真っ青な顔で『お願いだから殴らないでくれ、台本の読み合わせをしていただけなんだよ』って必死に弁解した。
ロビンは、ブラッドが半殺しの目に遭うとおびえていたがオレは殴ろうなんて思っていなかった」
TVシリーズ「Head of the Class」でロビン・ギブンスと共演し、当時、まだほとんど無名のブラッド・ピッドは、彼女と離婚前から90年代前半まで交際した。
マイク・タイソンは、トレーニングでも集中力を欠き、フランク・ブルーノ(イギリス)戦は延期を繰り返し、あれだけ頻繁にリングに上がり続けていたマイク・タイソンが初めてブランクをつくった。
「マイクは至上最高のヘビー級ボクサーとして勝ち続ける事が出来ただろう。 
100戦100勝だって可能だった。
だがマイクは自分自身を最低な連中で取り囲み、連中がマイクの金を使って毎日パーティしてたんだ。
マイクは巨額の金を手に入れていたが、それはジミーとビルのお陰だ。 
彼等がマイケル・スピンクス戦で2千万ドル(22億円以上)という当時至上最高のファイトマネーをマイクに提供するよう話を決めたんだ。
日本でトニー・タブ戦のときは10億円をマイクに提供している。
またマイクは日本でTVコマーシャル出演で、何億円も稼いだ。 
その後マイクはロビン・ギブンズと結婚するがドン・キングがやってきてマイクをかっさらって行ったんだ。
でもマイクには「カスはこんな事教えてくれなかった!」なんてことはいわせないぞ。 
甘ったれちゃイカン!
マイクには最高のチームがついてたんだ! 
自分が最高から最低に転落したからってナイーブに犠牲者ぶっちゃイカン!
それはマイク自身が悪いんであって、すべてマイク自身の責任だ!
マイクは自分自身も傷付けたし、俺やビルを裏切ってドン・キングのところへいってしまった。 
でもマイクはキングにひどい目にあった。 
マイクは自分をトップに連れて行ってくれた人達と一緒に居るべきだったんだよ。 
でもキングを選び、しくじった。
散々キングに絞り取られたがマイクはもう少し相手を選ぶべきだったな」
(ケビン・ルーニ)

1989年2月14日、マイク・タイソンとロビン・ギブンスの離婚が確定。
結局、1年持たずのスピード離婚でマイク・タイソンは、500万ド(約5億7,000万円)の家と1000万ドル(約11億円)を渡すハメになった。
ロビン・ギブンスは
「金目当てに結婚した悪女」
「白人のイケメンの方がいいわけ!」
「史上最高のビッチ!」
「アメリカで最も嫌われた女性」
と大バッシングを受けて仕事が激減した。
1989年2月25日、8ヵ月ぶりにリングに上がったマイク・タイソンは、開始早々、フランク・ブルーノからダウンを奪ったが、1R終盤、不用意に右フックを大振りしたところに右をもらって一瞬腰が落ちた。
5R、左ボディーから右アッパー連打でフランク・ブルーノを棒立ちにさせ、レフリーに試合をストップさせた。
しかし全体的にフランク・ブルーノを攻めあぐねる展開が続き、スピードや爆発力に欠け、ボクシングが緩慢で雑だった。
「カスが教えたものは何もかも失われていた。
左右への動き、コンビネーション、タイミング、忍耐、最も基本的な左ジャブ・・・
そして、カス・ダマトと深い繋がりのあったコーナーマン達もそこにはいなかった・・・」
(ホセ・トーレス、元ライトヘビー級世界チャンピオン、カス・ダマト門下としてマイク・タイソンの兄弟子に当たる)
「マイクは俺から離れてから頭を動かさなくなった。
マイクについたトレーナーは、俺がやった「マイクの心の中からものをみる」ということをやっていない。
俺は伝説のトレーナーであるカスにコーチを受けたトレーナーだ。
だからマイクは俺のいうことを信じて疑わなかった。
一般の人は何も知らないが偉大なるファイターになるには継続なる自己戒律(忍耐)と反復が必要だ。
ボクシングとは80%が精神的なもので残りの20%程度が肉体の要因となる。 
だから誰でもエクササイズで引き締まった体を得られてもチャンプにはなれないんだ。
マイクが雇ったトレーナー達は何もわかっちゃいない。
マイクは俺に対しては絶対バカなマネはできなかった。 
特にボクシングのスタイルとテクニックにかけてはマイクは一切口答えしなかった。 
マイクに雇われたトレーナー連中はマイクに何をいうべきかわからなかったんだよ。  
俺はマイクをコーチするようになって「頭を動かせ!」というのが口癖になったよ。
でもそれをマイクにいうのは誰にでもできるわけじゃないんだ」
(ケビン・ルーニー)
1989年7月21日、マイク・タイソンは長身でジャブの巧いカール・ウィリアムズを左フック一撃で沈め、1R33秒TKO勝ち。
6度目の防衛に成功。
37戦37勝KO。
試合は短時間で終わったが、マイク・タイソンの動きにかつてのキレがなく、解説の浜田剛史も首を傾げた。

1990年1月8日、マイク・タイソンは試合のため、東京行きの飛行機に乗ったが、この時点で体重は、いつもの試合時より30ポンド(13.61 kg)重かった。

ドン・キングは、2月11日の試合までいつもの体重に戻っていたらボーナスを出すといった。
相手は、WBA 4位、WBC3位、29歳のジェームス・ダグラス。
3年前、(マイク・タイソンが勝った)トニー・タッカーに10R TKO負けしていた。
1200万円の白のミンクコートを羽織り、取り巻きを大勢引き連れ成田空港に登場したマイク・タイソンは、無数のフラッシュを浴びると笑みをみせ、黒のリムジン6台に乗り込んで消えていった。
その後も、一昨年のトニー・タッブス戦とは違いマイク・タイソンはまともに練習せず遊びまくった。
一方、捨て身のジェームス・バスター・ダグラスは懸命に練習した。
「バスター・ダグラスは大した相手じゃないと侮っていた。
ビデオで試合を観ることさえしなかった。
あいつをKOしてきたボクサー全員に楽勝していたからだ。
アンソニー・ピッツは早起きして俺のスパーリング・パートナーのグレッグ・ペイジと走っていたが、俺はやる気になれなかった。
アーミーブーツに防寒マスクで走り込んでいるバスターをよくみかけるとアンソニーがいっていた」
常に3人のボディーガードを付き添わせたマイク・タイソンはアメリカン・エキスプレスのプラチナカードをみせて
「飛行機だって買えるんだぜ」
といいながらホテルの高級ブティックで買い物にふけった。
練習は、脂肪を燃焼するスープを飲み、ときどきトレーニング場で運動したりスパーリングしたりする程度で、メインのトレーニングは女だった。
たくさんの女性とデートして楽しみ、チップをはずんだ。
前回のトニー・タッブス戦で来たとき知り合い、ロビン・ギブンスが買い物に出かけたすきにデートした日本人女性の部屋にも行った。
「初めて会ってからの2年間で、すごく大人になっていた。」
1990年1月23日、ドン・キングが1人60ドルの有料公開スパーを開いた。
マイク・タイソンはスパーリングでグレッグ・ペイジのパンチをもらいダウン。
周囲は静まり返った。
スパーは2Rの予定だったがトレーナーが1Rで打ち切った。
「俺はあのときは有料だってことさえ知らなかった。
ドンはカンカンだった。
一儲けしたかったんだ。
俺の状態があんなに悪いなんて知らなくて。
ボクシングはズブの素人だったからな。
調子の良し悪しの区別もつかなかった」
そういうマイク・タイソンもスパーリング後、グレッグ・ペイジに
「何やってるんだ?」
といわれた。

1990年2月10日、試合前日、計量が行われ、ジェームス・ダグラスは105㎏。
マイク・タイソンは100kgで、デビュー以来1番重かったが、それでもボーナスをせしめ、試合前夜だというのに何人もの女と楽しんだ。
「俺は知らなかったが、ダグラスにはこの試合に懸ける理由があった。
1989年の7月、あいつは信仰を新たにし、その後、妻に捨てられ、産みの母親は病気の末期状態に陥り、キャンプ中の1月上旬に亡くなった。
その話は全然知らなかったし、関心もなかった。
HBO(アメリカのケーブルTV)は母親のために戦うダグラスを大きく取り上げていたが、当時の俺の傲慢さを考えると、その話を聞いていたら、母親のところに送り込んでやるとかいっていただろう」
1990年2月11日、試合当日、東京ドームには51600人が入った。
ピッチャーマウンドがリングだとして外野手が守っている位置ぐらいの席が3万円。
20万円のリングサイド席には、次期挑戦者、イベンダー・ホリフィールドもいた。
実業家のドナルド・トランプが、6月にマイク・タイソン vs イベンダー・ホリフィールド戦を自らのホテルで開催する予定をしていた。
イベンダー・ホリフィールドは、クルーザー級から転級後、ヘビー級の上位ランカーを次から次へとKO。
「ファイナルチャレンジャー」
と呼ばれていたが、それは
「タイソンを倒すとしたら、この男」
という意味ではなく、
「ホリフィールドをかたづけたら、タイソンにはもう敵はいない」
という意味だった。
試合は生中継アメリカのゴールデン・タイムに合わせるため、前座試合は午前9時に開始され、時間調整のためのアンダーカードも用意されていた。
その前座試合でプロ2戦目の辰吉丈一郎がリングに上がり、バンタム級ノンタイトル10回戦で元タイ王者、チュチャード・エアウサンパンと対戦。
「なんでプロ2戦目で10回戦なんだ」
とヤジも飛ぶ中、辰吉丈一郎はダウンを奪われながら、2R2分18秒、左ボディでKO勝ち。
「何て凄いボクサーなんだ・・・」
観客は大器を感じた。

12時27分、メインイベントのマイク・タイソン vs ジェームス・ダグラス戦のゴングが鳴った。
ジェームス・ダグラスは、筋肉が太い体型ではないが、フットワークは軽く、リーチが長く、ジャブはスピードがあり、ロングレンジからジャブジャブ右ストレートというボクシングスタイル。
ニックネームは「Buster"(バスター、破壊者)」
しかし37戦33勝33KOの「Iron」が早い回でKOしてしまうと誰もが思っていた。
マイク・タイソンは両拳を顎に当てピーカブースタイルで構えたが、小刻みな頭の動きはなく、踏み込みが甘く、逆に身長で13㎝、体重で5kg、リーチで31cmセンチ上回るジェームス・ダグラスの左ジャブ、右ストレートをがヒット。
ジェームス・ダグラスは、左ジャブを間断なく突いて右ストレートを当てていき、マイク・タイソンが接近するとクリンチでしのいで、左右のフック、右アッパーを命中させていく。
5R、マイク・タイソンの左目が腫れ上がった。
しかし誰もがマイク・タイソンの逆転を信じて疑わなかった。
そしてそれは突然やってきた。
8R、残り5秒、勝利を意識したのか、この試合で始めて強引に攻めに出たジェームス・ダグラスの顎を、ロープへ詰められたマイク・タイソンがもの凄い右アッパーでとらえた。
ジェームス・ダグラスの顎が跳ね上がり背中からダウン。
それまで沈黙していた東京ドームは鬱憤を晴らすかのような大歓声に包まれた。
ダウンと同時にリング下のタイムキーパーがカウントを開始。
レフリーはこれに合わせなければならないが、キーパーがカウント「4」に差し掛かろうというとき、メキシコ人レフリーのオクタビオ・メイランは、なぜか「1」から数え始め、「5」といったとき、ジェームス・ダグラスは8秒間倒れていた。
ロングカウントだった。
ジェームス・ダグラスは片膝をついたまま少し息を整え、カウント「9」で立ち上がった。
倒れてから13秒が経過していたが、そのままラウンド終了のゴングに救われた。
ドン・キングは
「今のはノックアウトだ!!」
とWBAやWBCの会長が陣取る席にいき大声で訴えた。
9R、マイク・タイソンはゴングと同時につめ寄ったが、パンチが続かず仕留められなかった。
逆にジェームス・ダグラスが猛然と打ち返し、マイク・タイソンがロープに釘付けにするとドームに悲鳴に起きた。
これまでダウンを知らないマイク・タイソンは、足元をグラグラと揺らせながら何とかゴングに救われた。
10R、、1分過ぎ、ジェームス・ダグラスがアッパーでマイク・タイソンは顎を跳ね上げられ、続いて顔面に無情の拳が突き刺さると背中からゆっくりと倒れていった。
「ドーンッ」
口からマウスピースがこぼれ落ちた。
5万人は声を失い、誰もがもう立ち上がれないと思った。
マイク・タイソンは混濁する意識の中で左手でキャンバスを掴むと膝をつき、這ったままマウスピースを探すと、それを右のグローブで掴み、咥え、立ち上がろうとした。
なぜ、立てるのか。
なぜ、立とうとするのか。
KOだけではない、もう1つのマイク・タイソンの戦慄シーンだった。
ようやく立ち上がったとき、すでにカウント10を数え終えたレフリーはマイク・タイソンを抱きかかえ、手を大きく振った。
隣でジェームス・ダグラスが拳を突き上げた。
10R 1分23秒、TKO負け。
マイク・タイソンは、無敗記録を止められた上、世界ヘビー級チャンピオンのタイトルも失った。
ボクシングの神様は敗者を容赦しなかった。
大番狂わせに、リングサイドにいたイベンダー・ホリフィールドも驚きを隠せなかった。

13時に試合が終わった後も、ドン・キングは
「レフリーのミスは明らかだ!
マイクの8R KO勝ちだ!」
と白髪を天に向かって逆立てまくし立てていた。
IBFはジェームス・ダグラスを新チャンピオンを認めたが、WBAとWBCは
「タイソン側から8ラウンドのレフリーのカウントに疑義があったという提訴を受けた。
その結論が出るまで、誰が新チャンピオンなのかはいえない」
と勝敗を保留した。
(3日後に認定)
オクタビオ・メイランは、WBCの母国、メキシコを代表するレフリーだった。
シュガー・レイ・レナード、ロベルト・デュラン、トーマス・ハーンズ、アレクシス・アルゲリョ、マービン・ハグラー、ウィルフレド・ゴメス、アズマー・ネルソン、マッチョ・カマチョ、数々の有名選手の世界戦を担当し、WBCの終身会長であるホセ・スライマンからの信頼も厚かったが、リングを下りた後、東京ドームの控え室で
「お前のせいで2億ドルのファイトがパーになってしまったぞ」
と怒鳴られた。
「2度とあのレフリーを世界タイトルマッチで使うな!」
ドン・キングもすごい剣幕だった。
ドナルド・トランプには何もいわれなかったが、
「きっと彼は私が英語がよくわからないと思ったんじゃないかな」
そういうオクタビオ・メイランは宿泊先のホテル・ニューオータニでもホセ・スライマン会長に罵られたが
「自分のレフリングは間違っていない」
と謝罪はしなかった。
もしマイク・タイソンが勝っていれば2億ドル(220億円)のビジネスといわれたイベンダー・ホリフィールド戦が実現し、ドン・キングやドナルド・トランプは潤い、WBCも承認料もらえるはずだった。
オクタビオ・メイランは、この後に世界タイトルマッチに登場することはなかった。
1度だけライセンスを発行してもらいWBOのフライ級の世界戦を裁いたが、1993年までメキシコシティで定期ファイトを受け持ち、ボクシングとの関係を断った。
「もしあの試合で私に過失があったとすれば、起き上がったダグラスのグローブをシャツで拭かなかったことだ」
そういうオクタビオ・メイランの誤審も大変なことだったが、ファンにとって最大の問題はマイク・タイソンが弱くなっていたということだった。
プロ5年目、38戦目で初めて負けたマイクタイソンのを味わったタイソンの左目は完全に塞がっていた。
ヘビー級では小柄なマイク・タイソンが、トレーニング不足(アンダーワーク)やオーバーワークでコンディションが崩せばかんたんに負けてしまう危険があったが、実際、フィジカルもボクシングも衰え、無敵のピーカーブースタイルは相手に突進するだけブルファイトスタイルになっていた。
試合後、ホテルニューオータニのロビーは前日までの騒ぎがウソのように静かだった。
「See you・・」
左目にガーゼが当てたマイク・タイソンは、少なくなった報道陣にマスコミに対してポツリといって去っていった。

1990年6月16日、東京ドームでの衝撃の敗戦から4ヵ月後、マイク・タイソンがタイトル奪回を目指して再起。
アマチュア時代、ロサンゼルスオリンピックの国内予選決勝戦で敗れたヘンリー・ティルマン を1RKO。
1990年10月25日、WBA・WBC・IBF世界ヘビー級チャンピオン、ジェームス・ダグラスにイベンダー・ホリフィールドが挑戦。
イベンダー・ホリフィールドは、、ヘビー級転向後、5戦5KO。
WBA、WBC、IBFのいずれも世界1位にランクされていた。
ピンクロン・トーマス、マイケル・ドークスと、2人の元世界チャンピオンも破り、クルーザー級時代から通算すると23戦23勝19KO。
試合前、マイク・タイソンはインタビューで勝者を予想した。
「あいつ(ジェームス・ダグラス)は実力もないくせにチャンピオンぶっている。
間抜けな犬のような奴だ。
ホリフィールドが勝つだろう」
8ヵ月前、マイク・タイソンに勝ったときとは別人のような肥満体でリングに上がったジェームス・ダグラスは、ギリシャ彫刻のような体をしたイベンダー・ホリフィールドに押された。
イベンダーホリフィールドにはスキがなく、パンチは重く硬く強く速かった。
3R、ジェームス・ダグラスが上体をグッと沈めて右アッパート。
イベンダー・ホリフィールドは、それを最小限のバックステップでかわし、後ろ足を着地と同時に踏ん張って右ストレート。
大きなアッパーの空振りで無防備になったところに右ストレートをもらったジェームス・ダグラスはダウン。
東京ドームでマイク・タイソンを番狂わせで破って4ヵ月、1度も防衛はできなかった。
イベンダーホリフィールドは、ヘビー級転向後、6連続KO勝利でWBA・WBC・IBF統一世界ヘビー級チャンピオンとなった。
しかし
「タイソンを倒してないから本物のチャンピオンじゃない」
と世間の評価は低かった。
「みんな彼こそ真のチャンピオンと思っていた。
実際は俺もベルトを獲得したのに」
イベンダー・ホリフィールドは怒りをこらえ、マイク・タイソン戦に向けて準備を続けた。
一方、ジェームス・ダグラスとの雪辱戦を望んでいたマイク・タイソンのターゲットは、イベンダー・ホリフィールドに変わった。
1990年12月25日、マイク・タイソンがアレックス・ステュワートを一方的に攻めまくって1RTKO。
1991年、3月18日、マイク・タイソンがドノバン・ラドックを7RKO。

1991年4月19日、WBA・WBC・IBF統一世界ヘビー級チャンピオン、28歳のイベンダー・ホリフィールド vs 「象をも倒す男」、元世界ヘビー級世界チャンピオン、42歳のジョージ・フォアマンの「Battle of the Ages」が行われた。
1987年に10年ぶりに現役のリングに大きなお腹で帰ってきたジョージ・フォアマンに世間の目は冷ややかだった。
しかしカムバック後、24連勝23KO。
オールドグレートの「本気」は、ファンの注目を集めていき、ついに16年ぶりの世界ヘビー級タイトルマッチにまでたどり着いてみせた。
ジョージ・フォアマンは見た目は変わったが、パワーの凄まじさは相変わらずで、アディルソン・ロドリゲスを粉砕したハードな左ジャブ、ジェリー・クーニーを失神させた左右のアッパー、ハードブローで若くて速いチャンピオンを追い詰める場面もあった。
初防衛戦となるイベンダー・ホリフィールドは、その攻撃を堂々と受け止める威厳ある戦いをみせ、回転の速いコンビネーションで多くのヒットを奪った。
しかしジョージ・フォアマンは倒れずに強打を当ててイベンダー・ホリフィールドがふらつく場面も。
激しい打ち合いの末、116-111、115-112、117-100でイベンダー・ホリフィールドが判定勝ちしたが、両者に拍手を送りたくなる感動的なファイトとなった。
「俺は逃げなかった。
堂々と戦った。
恥じる必要はない。」
試合後、ジョージ・フォアマンはいったが、3年半後、マイケル・モーラーをノックアウトして20年ぶりにヘビー級王座に返り咲いた。
1991年6月28日、マイク・タイソンがドノバン・ラドック に12R判定 勝ち。
ドノバン・ラドックとの2連戦は、イベンダー・ホリフィールドへの挑戦権をかけたサバイバル戦だった。
ドノバン・ラドックは「スマッシュ」と呼ばれる強打の左アッパーを武器にマイク・タイソンと真っ向から打ち合った。
マイク・タイソンに打ち勝ち後退させる場面もあったが、勝つことはできなかった。

1991年11月8日、イベンダー・ホリフィールド vs マイク・タイソン戦が行われる予定だったが、マイク・タイソンのケガにより延期。
1991年11月23日、イベンダー・ホリフィールドは代役のバート・クーパーとの2度目の防衛戦に臨んだ。
バート・クーパーは、元NABFチャンピオンで、クルーザー級上がりながらハードパンチと常に前に出るエキサイティングな試合で人気を博していた。
1R、イベンダー・ホリフィールドはスピードに乗ったコンビネーションで硬いパンチを打ちこみ、体格で劣るバート・クーパーをボディブローでダウンさせた。
3R、イベンダー・ホリフィールドが左ロングフックをダブルヒット。
バート・クーパーはボディを返す。
イベンダー・ホリフィールドは頭をつけてボディを返した。
バート・クーパーの右フックをもらったイベンダー・ホリフィールドがふらつき、さらに右を被弾してロープ下に膝をついた。
イベンダー・ホリフィールドの初のダウンだった。
バート・クーパーはここぞとばかりにフックを振り回したがイベンダー・ホリフィールドはふらつきながらクリンチ。
そして右クロスカウンター。
今度はバート・クーパーがふらつき左右フックで打たれるままになった。
最終的にイベンダー・ホリフィールドは7R、TKOで勝ったが、格下相手にダウンするという大失態によって世界ヘビーチャンピオンとしての評価を落とした。
1992年3月、「ミス・ブラックアメリカコンテスト」の出場者、ディズィリー・ワシントンが、1991年の夏にホテルでレイプされたとしてマイク・タイソンを訴えた。
「夜中の1時過ぎにマイクから電話があったの。
パーティをやってるから来ないかって。
それで出かけたわ。
部屋に入るとマイクは私を押さえつけて自由を奪い酷いことをしたの。
やめてって懇願したけど彼はお構いなしだった。
逆らえば殺される。
そう確信したわ」
マイク・タイソンは合意の上でのSEXだったと話した。
「あの女がホテルまで来て自分からパンツを脱いだんだ。
ファック準備完了ってやつさ。
だから俺はファックした。
体の隅々まで舐めてやった。
アソコもケツも舐めてやったなのに俺はあいつのケツをヤッた(レイプした)という事になってる。
どうせ最初っから全部計画してたんだろうよ。
今じゃ俺は最低のゲス野郎さ。
もう慣れちまったがな」

1992年4月10日、平仲明信がメキシコでWBA世界ジュニアウェルター級チャンピオン:エドウィン・ロサリオに挑戦。
1R、エドウィン・ロサリオをロープに詰め、怒涛の連打。
王者も逃げずに応戦したが平仲明信が打ち合いで圧倒。
エドウィン・ロサリオは立ったまま白目をむいて失神。
1R 1分32秒、レフリーが止めTKOで平仲明信がニュー世界チャンピオンとなった。
エドウィン・ロサリオはドン・キングと契約していたが、試合後、ドン・キングはリングに上がって
「ヒラナカーッ!ヒラナカッー!」
と叫び平仲明信の手首をつかんで上に挙げた。
そのとき平仲明信は初めてまじかでドン・キングをみたが、腕時計にはダイヤモンドがちりばめられ、顔は笑っていたが眼はトカゲのように冷たかったという。
1992年4月15日、婦女暴行罪の他にも2つの違法行為および監禁罪など4つの罪で起訴され、インディアナ州マリオン郡高裁により実刑6年罰金3万ドルの判決を受けたマイク・タイソンが、同州ペルドルトンの刑務所に収監された。
この裁判は、状況証拠が一切なく被害者であるディズィリー・ワシントンの証言のみの心証裁判だった。
その後、ディズリィー・ワシントンの友人、ウェイン・ウォーカーが、マイク・タイソンの冤罪を主張して控訴しようとしたが、証拠不十分で再裁判の要求は却下された。
ディズリィー・ワシントンは高校時代、友人の男子生徒をレイプで告発しようとしたことがあり、捏造だと判明して警察と学校から厳重注意を受けたという。
このようにいわくつきの裁判となったが、間違いなくマイク・タイソンが犯ったという人、素行が悪いマイク・タイソンの世間の評価だという人、そしてマイク・タイソンがハメられたと思っている人もいる。
「俺の言葉は1つとして彼ら(判事と陪審員)の心に残らなかった。
裁判は始めから有罪と決まっていた。
公正じゃなかったと今でも思ってる。
だけど彼らを恨んでも仕方がない。
すべては俺自身の未熟さが招いたことだ」
(マイク・タイソン)
「マイクは、ハメられたのさ。
夜中の2時に女が部屋へやって来て自分から下着になってベッドの中にもぐり込んできたら、あんたいったいどうする?
だいたいレイプで訴えられて会計弁護士をつけて勝てるか?
あの事件のすぐ前だがマイクがドン・キングを離れてハロルド・スミスのところに移籍する噂が流れてたんだ。
それを考慮に入れると大体わかるだろう」
(ケビン・ルーニー)
「あの裁判はでっち上げに等しいね。
ディズリーの言い分だけさ。
無罪の人間が3年半もブタ箱に放り込まれたんだ。
ディズリーとの行為は、あくまで合意の上だったと信じているよ。
俺はマイクを25年間知っているが、もし本当に彼がレイプをしていたら、この映画(『TYSON』)を絶対に製作していなかったよ。
彼は、当時あらゆる女性から声をかけられたり追っかけられていたんだ。
彼自身も認めているが、そのあらゆる女性たちといろいろなことをしてきたと話している。
だが決してレイプのようなひどいことではないんだ。
それだけは理解しなくてはいけない。
もちろん実際に起きたことは2人以外、誰にもわからないが、あの裁判はマイクの中で真実からほど遠く、不正に行われた裁判によって3年半刑務所に入ってしまった堪え難い事件と思っている。
ディズリィーとの性交は同意のもとで行われたと今でも強く主張しているんだよ。
出所後、友人たちは「あの事件から離れて生きていかなければならない」と助言したが、彼はいまだにあの不幸な結果が脳裏に焼き付いているらしく、人生を変えてしまった事件として今でもそのことを考えると「夜は眠れない」といっている」
(ジェームズ・トバック、映画監督、脚本家、マイク・タイソンの友人、映画『TYSON』では友人にカメラを向け栄光とドン底の人生を赤裸々に語らせた)

刑務所に入ったマイク・タイソンは、最初、ほとんどの時間を電話に費やした。
「タイソン、お前、1時間も話しているぞ」
順番待ちの受刑者からいわれても
「訴訟がこじれてるんだよ」
と返し友達や女性と話し続けた。
電話をしていないときは、部屋で本を読んだ。
毛沢東、チェ・ゲバラ、マキアヴェリ、トルストイ、ドストエフスキー、マルクス、シェイクスピア、ヘミングウェイ、いろいろ読んだが、心を魅かれたのはレジスタンスや革命の話。
もともと社会に腹を立てていたが、毛沢東やチェ・ゲバラを読んで、いっそう反体制的になった。
売店では、日用品やお菓子、煙草などが売っていたが、金銭的に裕福なマイク・タイソンはポテトチップが欲しいが金がない受刑者に1袋渡して相手の名前を書き留め、後日、2袋で返済させた。
返済や支払いを渋る受刑者やつには力を振るい、他の誰かに借りさせても払わせた。
在庫はドンドン増えていった。
「(刑務所では)誰が1番強いのか確かめたがる奴が多いんだ。
ああいうところにいるときの俺は無敵だよ」
有名人が訪ねてくれば一緒に写真を撮り、
「おい、ブラザー、この写真をみろ。
少なくとも50ドルはする代物だ」
とファンの受刑者に売って、10ドルずつ小分けにして、50ドルを完済させた。
手紙と一緒に自分のエッチな写真を送ってくる女性ファンもいたが、マイク・タイソンは写真と手紙を別々に売った。
コレクトコールで友人に電話し、友人は女性とセックスして受刑者に聴かせるテレホンセックスのサービスも行った。
オプションで受刑者の名前を事前に伝え、
「Oh、〇〇〇〇、もう濡れてきちゃった」
とその受刑者の名前を女性にいってもらうサービスもあった。
外の友人たちに女を抱かせることもあった。
手紙を送ってきた女性を友人のクラブに送り込み、上物かどうか確かめさせた。
「あれは将来への投資だった。
いい女だったら出所したとき会いにいこうってことだ」
金を渡せばどんなことでもする刑務官もいて、マイク・タイソンは、ピザ、中華料理、ケンタッキーフライドチキン、ハンバーガー、ロブスター、バーベキューなんでも好きなものを注文して、刑務官に届けさせた。
家庭料理が恋しくなると友人に電話をして、その嫁に料理をつくってもらい届けさせた。
マイク・タイソンは、ほかの受刑者とうまくつき合い、塀の中にいる間、1度も酒を飲まずマリファナも吸わなかった。

1992年6月、イベンダーホリフィールドがラリー・ホームズに大差で判定勝利。
しかし勝利が確実視されていた試合でKOできないイベンダー・ホリフィールドのパフォーマンスに不満の声を上げるファンもいた。
イベンダー・ホリフィールドは、実力は認められていたが、世界ヘビー級チャンピオンとして何かが足りなかった。
そんな中、マイク・タイソン不在のヘビー級戦線に2人のネクストジェネレーションが台頭してきた。
1人は、1988年のソウルオリンピックのスーパーヘビー級で金メダルを獲得したレノックス・ルイス(Lennox Lewis)
もう1人は、レノックス・ルイスに敗れ銀メダリストとなったリディック・ボウ(Riddick Bowe)
2人がプロに転向した1989年、マイク・タイソンが快進撃が続けていたが、翌年、東京ドームでジェイムス・ダグラスにまさかの敗北した。
レノックス・ルイスは、196cm、112kgの恵まれた肉体、テクニック、ハードパンチ、クレバーさを兼ね備えた次世代のファイターだった。
自慢のドレッドヘアーは
「尊敬するボブ・マーリーと、ジャマイカの神の影響さ」
という。
「ジャマイカ移民の血が流れているんだ。
生まれたのはイングランドで、12歳のとき母親と共ににカナダに移住して、そこで育った。
だから国籍は2つ持ってる。
子供の頃からバスケット、フットボール、テニス、チェス、何でも得意だったなぁ。
カレッジはバスケットの推薦で入ったんだよ。
でもいつの間にかボクシングがメインになった。
で、オリンピックで勝って、プロに誘われてね。
学問はカムバックできるけどボクシングは人生の一時期しかできないだろう。
それで中退したんだけど、引退したらもう1度勉強し直すつもり。
哲学を学んでみたいんだ。
教育って、人間が生きる上で必要不可欠なものだろう。
どんな理由があるにせよ、若い世代には学ぶ機会をつくってあげないと。
世界中すべての子供を救えはしないけれど、自分にできることをやろうと、ロンドンにレノックス・ルイス・カレッジを設けた。
カレッジっていっても、通うのは小中学生だけどね。
今はイングランドに家を持っていて、トレーニングはアメリカでして、バケーションはジャマイカっていうスタイルなんだけど、いずれはジャマイカに住みたいね」 

一方、リディック・ボウは、マイク・タイソンが育った場所と目と鼻の先のニューヨーク、ブルックリンブラウンビルで13人兄弟の12番目として生まれた。
朝、通りで人間の死体が転がっているのは日常だった。
ボクシングをみつけ、犯罪人生を脱出し、ニューヨークで最高のファイターに成長し4つのゴールデングローブで優勝した。
1988年のソウルオリンピックで銀メダルを獲得し、1989年、プロに転向し、1990年、アメリカ国内のヘビー級チャンピオンとなった。
196㎝という身長を生かしたボクシング、優れたジャブと鈍器のような重いパンチで
「モハメド・アリの再来」
といわれ、才能ではオリンピック決勝で2度ダウンを奪われRSC負けしたレノックス・ルイスに決して負けていなかった。
1992年10月31日、レノックス・ルイスは、かつてマイク・タイソンを苦しめ、自身がアマチュア時代に唯一負けた相手、ドノバン・ラドックと対戦し、3度ダウンさせて2RTKO勝ち。
これで22連勝。
WBCランキング1位になった。
1992年11月13日、イベンダーホリフィールドとリディック・ボウが対戦。
試合はボクシング史上に残る大激戦となった。
2人は開始から激しく打ち合い、イベンダー・ホリフィールドは大柄なリディック・ボウに燃えるような闘志で前に常に出続けた。
リディック・ボウはジャブとアッパーを駆使してイベンダー・ホリフィールドはダウン。
キャリア初のダウンを奪われたイベンダー・ホリフィールドは、あきらめずにファイトし続けたが、10Rにはストップ寸前にまで追い詰められた。
それでも果敢に打ち合いを挑んでいき、最終ラウンド終了のゴングが鳴ったあと、立ち尽くすイベンダー・ホリフィールドの姿はたくさんの人に勇気と感動を与えた。
しかし判定で負け、王座から陥落。
リディック・ボウは体がシャープでパンチもコンビネーションもキレていた。
体格で優っているため遠い間合いでは必然的に有利だったが、接近戦でもインサイドからパンチを打ち、10Rには右アッパーでイベンダー・ホリフィールドをフラつかせた。
こうして26歳のリディック・ボウは、プロ4年目、32戦無敗でWBA、WBC、IBF統一世界ヘビー級チャンピオンとなった。


その後、リディック・ボウは、ジョージ・フォアマンと初防衛戦話が持ち上がったが、フォアマンサイドが高額なファイトマネーを要求したため破談。
WBCは、指名試合でリディック・ボウにWBCランキング1位のレノックス・ルイスとの対戦を義務づけた。
しかしリディック・ボウは拒否。
記者会見でWBCのベルトをゴミ箱に捨てるパフォーマンスを行った。
これについて、ボウが逃げた、ボウは精神病、ボウは脳障害だった、ボウはルイスとの試合を望んでいたがマネージャーとの確執があったなど、いろいろいわれたが真相は不明。
しかしリディック・ボウはすごく体が大きいが精神的には子供であることは間違いないだろう。
1992年12月14日、WBCは、タイトルの決定戦を行わず、レノックス・ルイスルイスを新チャンピオンに認定すると発表。
こうして1987年にマイク・タイソンが統一した最重量級の主要3団体のベルトは分裂することになった。
両親の祖国、ジャマイカで休暇を過ごしていたレノックス・ルイスは、国際電話でそれを告げられた。
世界ヘビー級チャンピオンの座がイギリスが来たのは1899年以来のことだった。
「夢に描いていた世界ヘビー級チャンピオンになれたのだから、当然、嬉しかった。
でも少なからず虚しさも感じたよ。
やっぱり戦ってベルトを手に入れたかった。
ボウとはやりたかった。
もちろん勝算もあったしね。
オリンピックのファイナルが楽な試合だったとはいわないし、ボウもプロとしてキャリアを積んで進歩していただろう。
でも自信はたっぷりあったんだ」
レノックス・ルイスがそういうように認定による王座獲得はあまりよいことではなかった。
チャンピオンベルトを他国に持ち去られたアメリカのファンは、レノックス・ルイスを
「ぺーパーチャンプ」
と非難。
長年、世界ヘビー級タイトルを独占していたアメリカにとって認定で王座に就いたイギリス人は腹立たしい存在だったのかもしれない。
以降、レノックス・ルイスはアメリカのリングに上がるたびにブーイングを浴びた。

1993年11月6日、リディック・ボウに敗れてタイトルを失い「もう終わった」といわれたイベンダー・ホリフィールドが1年ぶりに復帰。
WBCのベルトをゴミ箱に捨てた後、WBA・IBF世界ヘビー級チャンピオンとして2度、防衛に成功していたリディック・ボウとのリマッチに挑んだ。
試合開始直後からガンガン前に出るリディック・ボウに、イベンダー・ホリフィールドは右を振り回してジャブを放ち、リディック・ボウの長いジャブで顔を弾かれながらイベンダー・ホリフィールドは果敢に前に出た。
5R、リディック・ボウは目の上をカットし流血したが、ガードを固めながらの攻撃でもパワーの差を見せつけた。
リディック・ボウはよりダメージを与えるパンチを、イベンダー・ホリフィールドは速いコンビネーションなど見栄えのよいパンチを当てた。
7R、パラシュート男がリングに落下。
試合は20分中断。
再開後、イベンダー・ホリフィールドはステップを踏んで間合いを取ってジャブ。
右ストレートを被弾したリディック・ボウは右アッパーを返した。
2人は12Rを戦い抜いた。
判定は115-114、115-113、114-114。
2-0でイベンダー・ホリフィールドが勝利し2団体(WBA、IBF)統一世界ヘビー級チャンピオンに返り咲いた。
一方、リディック・ボウは3度目の防衛戦で王座から陥落した。
この試合の判定は今でもよく議論されるほど微妙で、リディック・ボウが勝っていたというファンも多い。
1994年4月22日、WBA、IBF世界ヘビー級チャンピオン、イベンダー・ホリフィールドは、初防衛戦で元WBOヘビー級チャンピオンのマイケル・モーラーと対戦。
マイケル・モーラーは、ライトヘビー級世界チャンピオンとして9度の防衛に成功した後、WBOとマイナーながら、サウスポーとして初めて世界ヘビー級チャンピオンとなった。
ヘビー級として体格は小さいものの左のパワーは凄まじかった。
この試合、イベンダー・ホリフィールドの動きは重く、2Rにダウンを奪いながらも右ジャブと左ストレートを駆使するマイケル・モーラーにフラつかされる場面もあり、一進一退の攻防の末に判定負け。
わずか半年で王座から陥落したイベンダー・ホリフィールドは、ネバダ州アスレチック委員会に心臓病と診断されたことを理由に引退を発表。
ネバダ州アスレチック委員会は、イベンダー・ホリフィールドの心臓病は、禁止薬物であるヒト成長ホルモン(hGH)の使用による副作用の可能性があると発表した。
その後、イベンダー・ホリフィールドは、テレビで宗教家のベニー・ヒンをみて興味を持ち面会を希望。
2人は友人関係となった。
イベンダー・ホリフィールドは多額の寄付をし、ベニー・ヒンは心臓の治療を行った。
そしてネバダ州アスレチック委員会の再検査を受けると心臓病は完治していたので引退を撤回した。

1994年9月24日、WBC世界ヘビー級チャンピオン、レノックス・ルイスが、4度目の防衛戦で、身長は188㎝ながらリーチが208㎝もあるハードパンチャー、オリバー・マッコールと対戦。
1R、レノックス・ルイス優勢。
2R、オリバー・マッコールの右でレノックス・ルイスはダウン。
ダメージは大きく、なんとか立ち上がり続行の意思を示したものの、レフリーがストップし、TKO負け。
プロ26戦目にして初敗北し王座から陥落した。
「派手にやられたな。
カークラッシュのような敗戦だった。
まあラッキーパンチってやつじゃないか。
でもあの敗北のお陰で強くなれたと思う。
モハメド・アリだって2度王座から滑り落ち、強さを増して帰って来ただろう。
負けがメンタル、フィジカルをパワーアップさせたのさ。
俺も同じだよ」
レノックス・ルイスはオリバー・マコールのコーナーにいたエマニュエル・スチュワード(Emanuel Steward)をトレーナーとして迎え入れ、自身の弱点を熟知した指導者と共に再スタートを切った。
「彼はビッグファイトの経験が少ないので、知名度の低いチャンピオンなのかもしれません。
ですが今後、誰もがレノックスの名前を覚えることになるでしょう。
間違いなく現在最強のヘビー級ボクサーです。
ホリフィールドと戦っても、タイソンと戦ってもKOで勝つでしょう。
彼の特徴は、左右の破壊力抜群のパンチを、正確に、シャープにヒットできる点です。
さらにスピードのあるコンビネーションを覚えれば、歴史に残るヘビー級王者になれるでしょう。
1年後には、驚くほどの選手になっていると思いますよ」
そういうエマニュエル・スチュワードの最高傑作といわれるのが、驚異的な射程距離、スピード、破壊力を併せ持ったフリッカージャブでKOの山を築いた、「ヒットマン」、トーマス・ハーンズだった。
「ハーンズは尊敬するボクサーの1人だし、エマニュエルの論理的な指導には説得力があるんだよ。
彼のいうことはすごく理解しやすいんだ。
もう1度出直して、さらにスケールの大きいチャンピオンを目指すには、どうしても彼のアドバイスが必要だった」
この後、距離を取り、緩いボクシングをすることもあったレノックス・ルイスが、徹底的な攻撃的スタイルへと変貌していった。

1995年4月29日、バーナード・ホプキンスがセグンド・メルガドを7RTKOしIBF世界ミドル級チャンピオンになった。
1988年に敗戦デビューした後、22連勝していたバーナード・ホプキンスは、1993年のIBF世界ミドル級王者決定戦でロイ・ジョーンズJr. に惜敗。
2ヵ月半後には再起し、4勝してランキング1位に再浮上。
ロイ・ジョーンズJr. がSミドル級に転向しIBF世界ミドル級王座を返上したため、1994年12月17日、バーナード・ホプキンスとセグンド・メルカドが対戦。
セグンド・メルカドの地元、エクアドルのキトが2800mの高地だったこともあり、バーナード・ホプキンスは、5Rにプロ初ダウン、7Rにもダウン。
しかし終盤、追い上げて、試合は三者三様のドロー。
そして4ヵ月後、アメリカで再戦が行われ、バーナード・ホプキンスが7R TKO勝ちし、3度目の世界挑戦で念願のベルトを腰に巻いた。
ここから30歳の王者は、IBF世界ミドル級の王座を、20回、11年間、防衛。
その20回の防衛、19勝12KO(1無効試合)の中には、1996年1月のスティーブ・フランクとの初防衛戦は1R24秒TKOという世界最短KOタイ記録、オスカー・デ・ラ・ホーヤ、フェリックス・トリニダード、ウィリアム・ジョッピー、キース・ホームズ、グレン・ジョンソンといったビッグネームも含まれている。
バーナード・ホプキンスは、努力を惜しまず、ハングリー精神も失わなかった。
「自分の過去を忘れないため」
とプロボクサーになった後もトレーナーを連れて、かつて自分が入っていた刑務所のジムで練習することもあり
「2度と過去に戻らない」
という決意を強固にした。
トレーナーのブイエ・フィッシャーは、バーナード・ホプキンスの最大の武器は、才能や肉体ではなく、「自制心」だという。
バーナード・ホプキンスは、2011年年5月に46歳4ヵ月でWBC世界ライトヘビー級チャンピオンになり、ジョージ・フォアマンの最年長戴冠記録、45歳9ヵ月を18年ぶりに塗り替え、その記録をさらに2年近くも更新。
人間は考え方や生き方を変えて、人生を再生できることを証明した。

1994年11月5日、イベンダー・ホリフィールドに勝ってWBA、IBF統一世界ヘビー級チャンピオンとなったマイケル・モーラーは、初防衛戦にジョージ・フォアマンを選んだ。
ジョージ・フォアマンは復帰後3度目のタイトル挑戦。
サム・クックの「天使のハンマー」のBGMと「ジョージ」コールが鳴り響く中、フードをかぶったジョージ・フォアマンが入場。
マイケル・モーラーはラップミュージックに乗って入場した。
試合は序盤から一方的なマイケル・モーラーペースで毎ラウンド、ポイントで優った。
ジョージ・フォアマンは打たれまくれ顔が大きく腫らせたが、ダウンは拒否。
リングに根が生えたように、圧倒的なタフネスで立ち続け、しぶとく獲物を狙い続けた。
とても勝機はないようにみえたがジョージ・フォアマンはまったくあきらめなかった。
10R、打っても打ってもビクともしない相手に散漫になり始めたマイケル・モーラーにジョージ・フォアマンの右が炸裂。
象をも倒す拳をまともにもらったモーラーは立ち上がることができなかった。
劇的な逆転KOでジョージ・フォアマンは20年ぶりに世界ヘビー級チャンピオンに返り咲いた。
勝利の瞬間、ジョージ・フォアマンはコーナーポストの前で跪き、神に感謝した。
メキシコシティオリンピックで金メダルを獲ったのが1968年。
「キングストンの惨劇」でジョー・フレージャーを倒し世界チャンピオンになったのが1973年。
「キンシャサの奇跡」でモハメド・アリに8Rノックアウトされたのが1974年。
ジミー・ヤングに負けてリングから消えたのが1977年。
そしてマイケル・モーラーを逆転KOで倒して再び世界チャンピオンになったのが1994年。
45歳9カ月での戴冠は、最年長王座獲得記録となった。
「老いは恥ではない
あきらめず挑戦し続ければ輝き続けられる」
(ジョージ・フォアマン)
1994年12月、薬師寺保栄 vs 辰吉丈一郎のWBC世界バンタム級統一戦で、両陣営がどちらも地元で試合を行いたいため話がまとまらず、WBCによる入札になった際、両者とは何の接点もないが、ドン・キングがこの入札に参加。
ドン・キングは試合をプロモートするつもりはなく、落札したときは、どちらかに興行権を売るつもりでいた。

1995年3月10日、リディック・ボウが世界再挑戦。
WBO世界ヘビー級王者、ハービー・ハイドに挑み、6RKO勝ちし、1年4ヵ月ぶりの世界チャンピオンに返り咲いた。
1995年3月25日、3年半、26歳から29歳まで服役した後、マイク・タイソンは仮釈放となった。
釈放される日、刑務所の上空は報道のヘリが飛び、世界中の報道陣が集まった。
服役中、マイク・タイソンに面会するため、多くの人が刑務所を訪れたが、その中には契約をとるためのビジネス関係者が含まれていた。
マイク・タイソンは、服役中にイスラム教に改宗し、マリク・アブドゥル・アシスという名を持った。
そして読書によって感銘を受けた、毛沢東(右腕)、アーサー・アッシュ(左腕、男子テニス選手、4大大会で男子シングルスを制覇した初の黒人選手、黒人テニス選手の先駆者として活躍しエイズのため49歳で死去)、チェ・ゲバラ(左脇腹)の刺青を入れた。
1995年4月29日、バーナード・ホプキンスがセグンド・メルカドに7RTKO勝ちし、IBF世界ミドル級チャンピオンとなった。
1995年5月20日、1年前、マイケル・モーラーに判定負けし、わずか半年で王座陥落し、心臓病と診断されたことを理由に引退を発表したイベンダー・ホリフィールドがソウルオリンピックのヘビー級で金メダルを獲得したレイ・マーサー戦で復帰。
イベンダー・ホリフィールドは序盤から飛ばしてくるレイ・マーサーに苦戦したが、2度ダウンさせ、ストップ寸前まで追い込むなどして判定勝ち。
1995年8月19日、
「He's Back」
マイク・タイソンが、ピーター・マクニーリーというアイルランド系アメリカンを相手にカムバック。
試合前、マクニーリーは吼え、汚い言葉を吐きまくった。
一方、マイク・タイソンは物静かだった
試合当日、リングに向かうマイク・タイソンがビッグモニターに映し出されると会場は異様な空気となった。
まさに今から人を殺しに行くような男の顔に、みんなゾッとした。
戦うを生業に生きてきた男の黒い体は筋肉の鎧で覆われ、わずかな動作をする度に生き物のように動いた。
ピーター・マクニーリーは、記者会見の威勢はどこに行ったのか、明らかにビビっていた。
試合はたった89秒で終わった。
1R、マイク・タイソンがダウンを奪うとピーター・マクニーリーのセコンドがリングに乱入。
ピーター・マクニーリーは失格負けとなった。

1995年11月4日、WBO世界ヘビー級のタイトルを1度防衛した後、返上したリディック・ボウとイベンダー・ホリフィールドが3度目の対戦。
これまでの戦績は1勝1敗。
1戦目2戦目3戦目、リディック・ボウは肉体はドンドン大きくなり、イベンダー・ホリフィールドはドンドン髪の毛が薄くなっていきスキンヘッド。
3戦目は、これまでと違いノンタイトル戦だったが、1番激しい打ち合いとなり、ダウンの応酬となった。
体が数段大きいリディック・ボウに対しイベンダー・ホリフィールドは勇敢に打ち合っていった。
リディック・ボウはイベンダー・ホリフィールドのボディにパンチを集めた。
6R、打ち合いの中で放ったイベンダー・ホリフィールドの左フックで204㎏のリディック・ボウがダウン。
リディック・ボウはやっとの思いで立ち上がったが、イベンダー・ホリフィールドの追撃にコーナーにつまりピンチ。
イベンダー・ホリフィールドも疲れていたのか攻め切れなかった。
7R、イベンダー・ホリフィールド有利。
8R、両者強気の打ち合いの中、イベンダー・ホリフィールドのパンチでリディック・ボウがグラついた。
瞬間、チャンスと前に出たイベンダー・ホリフィールドにリディック・ボウがなぎ払うように放った右がヒット。
カウンターとなりイベンダー・ホリフィールドは前のめりにリングに崩れ落ちた。
深刻なダメージを抱えながら、不屈の精神力でノロノロと立ち上がったが、イベンダー・ホリフィールドはファイティングポーズは取れない。
レフリーは試合を再開。
リディック・ボウはラッシュ。
右のパンチを2発もらって横倒しになり、ロープに跳ね返されマットに落ちたイベンダー・ホリフィールドをみてレフリーは試合を止めた。
イベンダー・ホリフィールド、初のKO負けだった。

1996年1月27日、バーナード・ホプキンスがスティーブ・フランクを1R24秒、右アッパーで倒し、TKO勝ち(ミドル級世界戦最速KO記録)
1996年3月16日、WBC世界ヘビー級チャンピオン、フランク・ブルーノにマイク・タイソンが挑戦。
7年ぶりに再戦となった。
ラスベガスのMGMグランドガーデンに1万6000人の観客が集まり、世界97ヵ国で放送された。
ファイトマネーは、チャンピオン、フランク・ブルーノが600万ドルなのに対して挑戦者、マイク・タイソンは3000万ドル。
世界中のボクシングファンがマイク・タイソンを待ち望んでいたのがわかる。
身長で11㎝センチ、リーチで28㎝、体重で12㎏で上回る相手にマイク・タイソンは懐へ鋭く飛び込んで強打を振るった。
フランク・ブルーノは飛び込んでくるマイク・タイソンに右ストレートと右アッパーのカウンターを狙った。
1R終盤、フランク・ブルーノが強烈な右アッパーを突き上げ、マイク・タイソンの腰が一瞬沈んだ。
しかしマイク・タイソンは強烈な右ストレートをフランク・ブルーノのアゴへ叩き込んで反撃。
2人とも相手を一撃で沈めるパンチ力を持っているので目が離せない。
2R開始直後、いきなりマイク・タイソンが飛び込んで左右のフック。
フランク・ブルーノはクリンチを使い必死に耐えた。
2R中盤、マイク・タイソンの左フックがフランク・ブルーノのテンプルをとらえ、さらにショートの右ストレートがアゴを打ち抜いた。
フランク・ブルーノは驚異的なタフネスでフラつきながら倒れなかった。
3R、一気に勝負に出たマイク・タイソンは左フックを力いっぱい振り回した。
フランク・ブルーノがサウスポーにスイッチして攻撃を防ごうとした瞬間、マイク・タイソンの強烈な左フックがフランク・ブルーノのアゴを打ち抜いた。
フランク・ブルーノは腰が落としたが何とかマイク・タイソンに抱きついてクリンチ。
マイク・タイソンは力任せにクリンチを振りほどき体重を乗せた左フック、右フック、右アッパーの3連打。
最後は左フック、右アッパーの2連打でフランク・ブルーノが崩れ落ちたところでレフリーが試合をストップ。
マイク・タイソンが3R TKO勝ち。
世界王者へ復権。
ボクシング界の中心に戻った。
1996年4月9日、マイク・タイソンは25歳の女性美容師から性的暴行で警察に訴えられた。
女性の弁護士によると、この美容師はタイソンとは面識がなく、 7日夜にインディアナ州ゲーリーから友人と共に訪れていたシカゴのナイトクラブで暴行され、近くの病院で手当てを受け退院した後、警察に訴えた。
警察は事件を捜査中であることを認めたが、ナイトクラブの支配人はラジオ局とのインタビューで
「タイソンは暴行していない
彼女はタイソンと2人きりにならなかった」
と語った。

1996年7月11日、イベンダー・ホリフィールドとの第3戦で6Rにダウンしながらも8RでTKO勝ちし決着をつけ、いよいよマイク・タイソン戦も視野に入ってきたリディック・ボウがアンドリュー・ゴロタと対戦。
アンドリュー・ゴロタは、193cm、108kg。
アマチュアでポーランド国内王座を7回獲得し、ソウルオリンピックで銅メダル獲得。
近年稀にみる実力派白人ヘビー級ボクサーとして14年ぶりの黒人以外の世界ヘビー級チャンピオンも期待されていた。
しかしソウルオリンピック、銀メダリストと銅メダリストの対決は、期待通りのものではなかった。
まずリディック・ボウは油断したのか、体に緊張感がなく、ボクシングもそれに倣った。
アンドリュー・ゴロタは、ダウンを奪うなど勝っていたが7R、ローブローで反則負け。
リディック・ボウは、オーバーウェイトでリングに上がり反則勝ちで辛勝。
どちらもイマイチという試合だった。
1996年9月7日、WBC世界ヘビー級チャンピオンマイク・タイソンとWBA世界チャンピオン、ブルース・セルドンが対戦。
ブルース・セルドンは、2度目の防衛戦。
ニュージャージー州アトランティックシティ出身でニックネームは「アトランティックシティ・エクスプレス」
マイク・タイソン同様、小柄だがスピードに優れた強打者で過去に強盗容疑で服役したこともあるのも似ていた。
1R、マイク・タイソンのフックが頭頂部をかするブルース・セルドンはダウン。
明らかにブルース・セルドンはマイク・タイソンを恐れていた。
2発目もクリーンヒットではなかったがブルース・セルドンは2度目のダウン。
「止めろ!」
観客が叫んだ直後、試合は中断された。
ボクシングにおけるタフネスとは、肉体的なものと精神的なものがあることが証明された瞬間だった。
マイク・タイソンは規格外のパワーを見せつけ、WBA、WBC世界ヘビー級統一チャンピオンとなった。
「ああ・・カス・ダマト。
あんたはツーダウンをとったぞ。
あとワンダウンで俺達の勝ちだ
あんたは遠い遠いところで寂しがってるんだろうな。
もう少し待っててくれ。
俺が肩の荷を下ろしてやるぞ」
(マイク・タイソン、リング上でのインタビュー)
セルドンは控え室で号泣し、以降8年近くリングから遠ざかった。
この試合の後、HIP HOP界の頂点に立ち、アメリカに大きな影響を与えた2パック(2Pac)が観戦した帰り道、乗車したまま何者かに射殺された。
2パックは、マイク・タイソン同様、ニューヨークのスラム生まれで、年齢は5歳下で、刑務所にいたマイク・タイソンを2パックが訪ねたときから友人となった。
マイク・タイソンは、2パックが所属するデス・ロウ・レコードのオーナー、シュグ・ナイトが経営するクラブ662で2パックに会う予定だったが、試合の疲れもあって家に帰って寝てしまっていたところ
「マイク、トゥパックが撃たれた!」
と起こされた。
2パックは試合後、カジノにいきギャングと口論になっていた。
そしてシュグ・ナイトの運転する車に乗っていて交差点で停止したら隣の車から発砲された。

2パックの両親はブラックパンサー党(1960~1970年代、黒人に武装蜂起を訴えた急進的政治組織)の党員だった。
母親は2パックを妊娠中、ニューヨークのの公共施設への爆弾テロ謀議を含む156件の罪状で投獄された。
2パックが生まれたとき、父親はおらず、母親と恋人と間にできた妹が生まれたが、その直前に母親の恋人は強盗容疑で60年の実刑判決を受けて投獄された。
生活は困窮しブロンクスやハーレムを転々とし、数年後、2パックの父親と母親が同居を開始。
12歳でハーレムの劇団に入った2パックは、1984年、牧師で公民権活動家だったジェシー・ジャクソンの選挙資金調達のためのイベントでアポロ劇場の舞台に立った。
「アレですっかりその気になっちまった」
1986年、メリーゴーランド州、ボルチモアの芸術学校に入り、演劇を学びながら、ラップに傾倒するようになり数々の詩を書きためた。
「ラップっていうのは演じることなんだ。
もっと上手くなりたいから努力もする。
誰よりも飛び抜けていたいしデカいことをやってやりたいんだ。
それに俺は生まれながらにしてリーダーの素質があると思ってる。
自分のルールで、自分の心のままに生きたいんだ。
だからといって誰かを支配したいなんて微塵も思わないけどね」
1988年、
「母親が知り合いの知り合いの知り合いのツテを頼って」
カリフォーニア州、マリーンシティに移住。
生活は荒れ、高校をドロップアウト(後に大検取得)し、ピザ屋とスーパーマーケットで働いたが、どちらも1ヶ月半、2週間と長続きせず、ドラッグの売買にも手を染めた。
やがてヒップホップ・グループ「デジタル・アンダーグラウンド」の一員となり、「Same Song」はグラミーにもノミネートされ、来日も果たしたが、ツアー中に母親がドラッグ中毒であることを知りショックを受けた。
1991年10月、20歳の2パックは、道路を歩行中に信号無視で切符を切られ警官に噛みつき、血だらけになって拘置された。
1ヵ月後、若いシングルマザーや警察の腐敗にも言及したアルバム「2Paqcalypse Now」を発表しソロデビュー。
1992年1月、人種差別に苦しむ黒人の行き場のない怒りを描いた映画「Juice(ジュース)」に準主役で出演。
4月、19歳の青年が騎馬警官を殺害した事件の裁判で、弁護人は警察を激しく批判した「2Paqcalypse Now」を被告が聞いたことが事件を起こしたきっかけとなったと主張。
9月、ダン・クエール副大統領は「2Paqcalypse Now」の回収を要求したがレコード会社は拒否。
1993年3月、リムジンの中でマリファナを吸って、それを嫌った運転手と口論になり訴えられ、4月にはミシガンで地元のラッパーのショーに乱入し、野球のバットを振り回して脅迫したとして逮捕され10日間拘留。
10月、2パックと仲間の乗った車が道路を横断中の女性と接触しそうになり、2人の白人男性(女性の夫と夫の兄弟)と口論になった。
2人の白人男性は共に非番の警察官で、彼らが銃を抜いたため2パックも銃を抜き3発発砲し、2人にケガを負わせ逮捕された。
(55000ドルを払って釈放された)
この2週間後、2パックはファンの19歳の女の子を3人の仲間と一緒に強姦しアナルセックスを強要したという容疑で告訴された。
1994年11月30日、2パックは
「ギャラ7000ドルのコンサートの話がある」
とレコーディングスタジオに呼び出された。
ビルの中に入りエレベーターのボタンを押すと、2人の黒人男性が乗り込んできて自動小銃を突きつけた。
連れはみんな床に飛び伏せたが2パックは立ったままだった。
強盗の1人が2パックからダイヤの指輪とゴールドのチェーンをもぎとり、
「バカ野郎、死にやがれ」
と頭部に2発、股間に2発、手に1発、銃弾を打ち込んだ。
病院に搬送され手術を受けて一命をとりとめた2パックは、3時間後、強姦事件の裁判に痛々しい車イス姿で出廷し判決を聞いた。
「強姦」、「武器の所持」については無罪。
「同意のない性的な接触」については有罪。
24歳の2パックは、11ヵ月間、刑務所に入ったが、その間にサードアルバムが発売され、長年のガールフレンド、キーシャ・モリスと獄中結婚。
そして娑婆に復帰後、2枚組アルバムを発表するなど活動していたが、1996年9月8日、ラスベガスでマイク・タイソン vs ブルース・セルドン戦を観た後、銃撃され、6日後に25歳で死亡した。
犯人は判明していないが、約2ヵ月後、2パックと車に同乗し後部座席から犯人をみたと証言したヤフー・フラーが何者かに頭部を撃たれ死亡した。

マイク・タイソンはいう。
「2パックが刑務所に来てくれたときのことは、絶対に忘れない。
2パックはすごいやつだった。
初めて会ったのは1990年、ロサンゼルスのサンセット大通りにあるクラブで開かれた業界のパーティだ。
パーティの主催者は俺の友人で、みんな粋な身なりをしていたが、小柄な黒人のストリートキッズがドアの近くでくすぶっているのがみえた。
『どうした、チビ?
調子はどうだ?』
俺はその小僧に声をかけた。
『べつに。
あんたはどうだい?』
とそいつは返した。
パーティに入りたいのがわかったから口を利いてやった。
小僧は『ちょっと待って』といい駆け出して仲間を50人連れて戻ってきた。
それが2パックだった。
全員裏口へ連れていって、そこから入れてやった。
俺はそのまま外でしばらく話をしていたんだが、中へ戻ると小僧がマイクを手にステージに上がってパーティを盛り上げているじゃないか。
信じられなかった。
ステージを下りたそいつと抱き合って一緒に高笑いした。
いつか特別な人間になるだろう予感がした。
話を刑務所に戻そう。
2パックの母親から手紙が来たんだ。
2パックは有名人だったから名前くらい知っていたが1990年にあのクラブを揺らした小僧だとは知らなかった。
手紙には2パックがショーに出演するためインディアナポリスに行く、俺に会いたいといっているとだけ書かれていた。
彼が面会室に入ってくるなり大変な騒ぎになった。
あいつの体重はたぶん60kgに満たなかったが実際よりずっと大きくみえた。
黒人も、白人も、ヒスパニックも、火星人も、みんな熱狂している。
刑務官たちまで喝采を送っていた。
あいつがそこまで有名なんて全然知らなかった。
姿をみて何年か前にロサンジェルスのパーティに入れてやった小僧だと思い出した。
あいつは『あんたのためにここでコンサートを開かなくちゃな』といい、テーブルの上に飛び上がった。
そして『愛してるぜ!!』と叫んだ。
俺はテーブルの前に座ったまま『下りてくれ、頼むから』と懇願した。
『マイク、自由になれ。
ブラザー、自由になれ』
みんなが喝采を送っている。
あいつは即興コンサートをやる気だったが、俺は心配になってきた。
全部平穏無事にいっていたのに、突然、2パックがテーブルに上がって、
おお、なんてこった、面倒なことになっちまう。
ようやくあいつをテーブルから下ろした。
初めて会ったときのことは絶対に忘れないとあいつはいう。
『あのときのことを忘れたことはない。
ストリートキッズの群れをあんな素敵なクラブに入れてくれたんだ。
あんたは自分の心に正直だった』
『いやいや、そいつはおかしいぜ、ブラザー』と俺はいった。
『俺たちみんなにこの世を楽しむ権利はあるんだ。
どうってことはない。
同じ人間じゃないか』
2パックは不動の心の持ち主だった。
おびただしい痛みと困難をみてきたからだ。
ときに俺たちが体験するつらい思いは心に傷をつけて重荷を背負わせ、どこへ行くにもその重荷がついてくる。
宗教にも、恋愛にも、戦いにもついてくる。
たとえどれだけ成功しようとも。
2パックは刑務所で生まれ、母親の友人たちが殺されたり終身刑を食らって投獄されたりするところをみてきた。
まわりは誰も耳を貸してくれず、気にもかけてくれない。
だから周囲を気にせず、信じるままに突き進み、自分にできる最善を尽くした。
2パックこそ自由の闘士だった」

1996年11月9日、
「FINALLY」
「ついにこのときが来た」
ラスベガス、MGMグランドガーデン・アリーナに1万6103人が集め、WBA世界チャンピオン(WBCのタイトルは1位のレノックス・ルイスとの指名試合をキャンセルしたため剥奪)、マイク・タイソンがイベンダー・ホリフィールドと対戦。
34歳のイベンダー・ホリフィールドと30歳のマイク・タイソン、2人ともスラム出身の黒人だが、片やオリンピックの悲劇を乗り越えた真のヒーロー、片や強姦で有罪になった前科者は、最初の対戦予定から6年を経て、ようやく初対決となったが、6年前と違うのは、イベンダー・ホリフィールドのスキンヘッドとマイク・タイソンの入れ墨だった。
最初、1990年6月に戦う予定だったが、マイク・タイソンが東京ドームでジェームズ・ダグラスに負けたためになくなり、1991年11月、ジェームズ・ダグラスに勝ってチャンピオンとなったイベンダー・ホリフィールドにマイク・タイソンが挑む予定だったが、マイク・タイソンが肋骨を負傷したため延期。
そしてマイク・タイソンがレイプ罪で逮捕され3年半服役している間に、イベンダー・ホリフィールドは、リディック・ボウにタイトルを奪われ、1年後にWBAとIBFタイトルを取り返したが、再びマイケル・モーラーに奪われ、心臓病を理由に引退し、1年後復帰し、その後、3戦2勝1敗。
前戦、リディック・ボウにKO負けしているイベンダー・ホリフィールドに対し、マイク・タイソンは出所後、ピーター・マクニーリーを89秒、バスター・マシス・ジュニアを3R、フランク・ブルーノを3R、ブルース・セルドンを109秒で連勝中。
戦前の予想は、
「タイソン圧倒的有利」
多くの観客の注目は
「タイソンが何ラウンドでホリフィールドを仕留めるか」
試合が早く終わってしまうことを危惧したある中継会社は、ラウンドごとに視聴者が5ドルを課金するペイパーラウンドチャージを採用しようとした。
21時6分、ゴング。
同時にマイク・タイソンは襲いかかった。
その最初のパンチでビルドアップされ紫色のトランクスをはいたイベンダー・ホリフィールドは吹っ飛ばされたが、すぐにパンチを返し踏ん張った。
1R終了のゴングが鳴っても2人は殴り合いをやめなかった。

その後、マイク・タイソンは力でねじ伏せようとしたが、クルーザー級からヘビー級に転向した8年前からこの日のためにマイク・タイソンの動きを研究し、身長で7㎝上回る189㎝のイベンダー・ホリフィールドは、身体的有利を利用し自分の距離を保ちながらも決して退かずマイク・タイソンの動きを冷静に見切り、強打を空転させて知的なカウンターをしばしばヒットさせた。
驚いたことにマイク・タイソンはイベンダー・ホリフィールドを圧すことができなかった。
イベンダー・ホリフィールドのセコンド、ドン・ターナーはいった。
「しなければいけないことは冷静でいることだ。
なんでもみえるように」
「お前はここでは大将なんだ。
あいつはそうじゃない」
バンチが当たらないマイク・タイソンは焦り、動きが単調になっていく。
イベンダー・ホリフィールドは、シャーブなジャブとスピーディーなコンビネーションで迎え撃ち、ときに打ち合いにも応じ左右のフックを浴びせた。
復帰後、4戦行い、すべて3R以内で勝っていたマイク・タイソンは徐々に失速。
観客は目の前に起こる「奇跡」に驚いた。
6R、マイク・タイソンはイベンダー・ホリフィールドのバッティングで左目を切り、この試合で初めて「ホリフィールドコール」が起こった。
その30秒後、マイク・タイソンはイベンダー・ホリフィールドの左アッパーで倒された。
7R、バッティングでマイク・タイソンが出血。
10R残り20秒、イベンダー・ホリフィールドは強烈な右でマイク・タイソンをロープによろめかせ、続く連打で棒立ちにさせた。
11R開始後、イベンダー・ホリフィールドはラッシュ。
ジャブ、ジャブ、右、フック、フック、右、右アッパー、左フック、右、爆発的な9連打で滅多打ちにされるマイク・タイソンをみたレフリーのミッチー・ハルパーンが割って入り試合を止めた。
11R34秒。
イベンダー・ホリフィールドのTKO勝ち。
ボクシング史上、最大の番狂わせで3度目の世界ヘビー級チャンピオンになった。
「これがボクシングだ」
試合後の記者会見で、イベンダー・ホリフィールドは白い歯をみせながら語った。
「俺は前に出るのが好きなんだけど、みんな俺がタイソンから逃げ回ると思っていた。
彼をみて俺はどこにも逃げないと示した。
それが最も大きなことだった。
俺の方がリーチがあってハンドスピードもあると感じたね。
俺は彼のパンチを受けたけどみんながいうようにタイソンのパンチを受けて変わるようなことはなかった。
俺も多くのファイターと同じように多くのパンチを受けてきたけど俺はそれを耐えられるからね。
マイクは自信過剰だったのかわからないけどあまり多くのパンチを受けたことはない。
俺はそんなことなかったし彼の右をもらってもすぐに打ち返したよ。
ボクシングの試合において彼に彼が間違えた相手を選んだことを教えてやったよ。
俺はすでに打ち合うことを決めてたし俺のパンチがどんなにハードなのかわからせてやった」
(イベンダー・ホリフィールド)
一方、マイク・タイソンは才能を発揮できなかった。
生涯2度目の敗北で、2度とも壮絶なKO負けだった。
そして試合後、タイソンサイドは、試合中、イベンダー・ホリフィールドに頭突きを入れられたと不満を爆発させた。
イベンダー・ホリフィールドは、クルーザー級時代は、パワー、スピード、パンチ、コンビネーション、アグレッシブ、完全無欠の最強チャンピオンだったが、ヘビー級に上がってから自分よりも体格的に大きな相手に対抗するためにダーティーなテクニックも使うようになった。
褒められたことではないが、これも「うまさ」のうちであり、反則にならなければ立派なテクニックの1つとなる。
この試合でイベンダー・ホリフィールドは戦法の1つとして、マイク・タイソンのボクシングスタイルを逆手にとり、頭を低くしてバッティングを誘った。
7R、それが見事にヒットしてマイク・タイソンはのけ反らせて瞼から出血させた。
VTRでみてもよくわからないほど巧妙だったが、戦っているマイク・タイソンにはわざと頭をぶつけているとわかった。
こうして8ヵ月後、遺恨を清算させるための試合が用意された。

1996年12月14日 、リディック・ボウとアンドリュー・ゴロタが再戦。
リディック・ボウは、前戦より17ポンド減量。
2R、アンドリュー・ゴロタのジャブからの右がテンプルに入り、リディック・ボウはよろけるように後退し、膝が突っ張らせてダウン。
その後もロープに詰められパンチの連打を浴びたが、この最中にアンドリュー・ゴロタは頭突きを入れてしまい減点1。
これで時間を稼いだリディック・ボウは、このラウンドを生き延びた。
4R、リディック・ボウの右でアンドリュー・ゴロタがグラつき、続く連打から右アッパー、左フックでダウン。
アンドリュー・ゴロタは左目から出血。
ローブローで減点1をもらいながらなんとかピンチを乗り切った。
5R、アンドリュー・ゴロタがダウンを奪った。
リディック・ボウはグロッキーになりながらロープに体をあずけてなんとかピンチを乗り切った。
6R、7R、アンドリュー・ゴロタ優勢。
8R、リディック・ボウのワン・ツーをもらってもアンドリュー・ゴロタは平然としていた。
9R、自らが攻めるときもフラつくリディック・ボウに、勝利まであと一歩のアンドリュー・ゴロタがローブロー。
崩れ落ちるリディック・ボウをみてレフリーはアンドリュー・ゴロタを失格負けにした。
アンドリュー・ゴロタは、試合を優位に運びながら2戦連続失格負け。
「喧嘩師」
「東欧のゴロツキ」
「ポーランドの悪童」
とダーティーファイターというレッテルを張られた。
2度もダウンをする大苦戦の末にローブローによって反則勝ちしたリディック・ボウは引退。
7Rにパラシュート男がリングに落下してきたイベンダー・ホリフィールドとの2戦目の判定負け以外負けなし。
「モハメド・アリの再来」といわれながら、スターになることはなかった。
その後、リディック・ボウはアメリカ海兵隊に入隊したが、新兵訓練中の態度が問題となり11日間で除隊となった。
1997年2月7日、マイク・タイソンがWBCランキング1位のレノックス・ルイスを蹴ってイベンダー・ホリフィールド戦を優先して同タイトルを返上したことで空位となったWBC世界ヘビー級王座決定戦、オリバー・マッコール vs レノックス・ルイスが行われた。
オリバー・マッコールは、3年前にレノックス・ルイスからこの王座を奪ったが、その後、フランク・ブルーノ、マイク・タイソンへと渡った。
レノックス・ルイスにとってオリバー・マッコールはプロで唯一負けた相手で雪辱戦でもあったが、オリバー・マッコールは明らかに戦意を喪失した状態で、ついには試合中に泣き出してしまう醜態をみせ、レノックス・ルイスは5RTKO勝ちで2度目のWBC王座に返り咲いた。
1度目はリディック・ボウがゴミ箱に捨てたベルト与えられ「ペーパー・チャンプ」と揶揄され、2度目も勝ち方が勝ち方だけに世界ヘビー級チャンピオンにして強烈なインパクトを与えることができず、マイク・タイソン、イベンダー・ホリフィールド、リディックボウに続くヘビー級第4の男という存在しかなかった。
1997年4月、リディック・ボウが妻のジョディを気絶させるほど殴り逮捕。
息子が母親は死んだと勘違いするほど壮絶な暴力だったという。
その後、リディック・ボウは、家族との関係を回復させようと努力したがうまくいかなかった。

1997年 6月28日、WBA世界ヘビー級チャンピオン、イベンダー・ホリフィールド vs マイク・タイソンが行われた。
世界中が注目した世紀のリターンマッチでマイク・タイソンは、大きいのを狙わずシャープなパンチに徹し、とらえどころなく動きまわった。
イベンダー・ホリフィールドは、マイク・タイソンが俺が打ってくるのに合わせて飛び込んだが、身長で7㎝上回る189㎝のイベンダー・ホリフィールドの頭がマイク・タイソンの頭より低い位置にあり、頭突きとなった。
(俺より背が高いのに、俺より頭を低くしてどうするんだ?)
マイク・タイソンは頭突きは偶然の出来事ではなく戦略だと確信した。
2R、バッティングでマイク・タイソンが目の上を大きく切り、レフリーが傷口をチェック。
「頭突きだ」
マイク・タイソンはレフリーにアピールしたが、偶然のバッティングと判断したミルズ・レーンは何もいわなかった。
3R、ハラワタが煮えくり返っていたマイク・タイソンは、早く戦いたくてマウスピースを着けずにコーナーを出てしまい、セコンドに呼び戻されて口に入れられた。
そして強いパンチを2発当てたとき、バッティングで意識が飛びそうになった。
「殺してやる」
冷静さを失い、イベンダー・ホリフィールドの耳に噛みついた。
右耳の一部を噛みちぎりリングに吐き捨て、
「おい、拾え」
といわんばかりにそれを指差した。
(実際、イベンダー・ホリフィールド陣営は、試合後にその断片を拾って縫いつけようとしたがくっつかなかった)
イベンダー・ホリフィールドは痛みに飛び上がり、クルリと背を向けてコーナーに歩いた。
(逃げるな!!)
マイク・タイソンは背中を突いた。
もう町のケンカだった。
コーナーでドクターが調べ続行を許可。
そこでミルズ・レーンはマイク・タイソンに2点減点を申し渡した。
試合再開後、また頭がぶつかった。
クリンチしたとき、マイク・タイソンが反対側の耳に噛みついたが。3Rが終わるまで試合は続行された。
そこから大混乱が始まった。
イベンダー・ホリフィールドのセコンドの訴えを聞いて、レフリーのミルズ・レーンは試合を止めた。
マイク・タイソンは目をひん剥いて
「Why!」
と叫び、イベンダー・ホリフィールドにつっかかっていった。
「ホリフィールドは自分のコーナーにいた。
もうまっぴらごめんだったろうが、俺はまだあいつのコーナーにある何もかも、あそこにいる誰もかれもぶち壊したい。
みんなが俺を引っぱり、前に立ちはだかった。
やつはコーナーで体を丸め、みんなでやつを守っていた。
おびえた顔のあいつに、なおも俺は手をかけようとした」

リングから下ろされたマイク・タイソンは、控え室に戻る途中、ペットボトルを投げつけられ、中指を立てられた。
手すりを乗り越えて襲いかかろうとしたが、セコンドたちに引き戻され、さらにあちこちから炭酸飲料やビールが投げつけられ、控え室に入ってもグラブをはめたまま壁を殴りつけ怒り狂っていた。
「マイクは目の上に3インチの裂傷を負い、イヴェンダーはちょっと耳を噛まれたが、あんなものなんでもない。
小さな雌犬みたいにリングを飛び回りやがって。
あんな長い間、頭突きを許すなんてどういうことだ。
いいかげんにしろ。
バッティングのうち1回は偶然だったかもしれないが、あとの15回はそうじゃない」
(ジョン・ホーン、マイク・タイソンのスタッフ、キャンプコーディネーター)
試合後、MGMグランドでは、カジノのあちこちでケンカが起こり、ケガ人が病院に搬送され、営業中止を余儀なくされた。
ひっくり返ったゲーム台からチップが盗まれ、警察は監視カメラが録画したビデオをみて、盗んだ人間たちを追うなど大混乱だった。
マイク・タイソンは車で自宅に帰ったが、外には抗議の群衆がいて、クラクションを鳴らし、
「八百長」
「出ていけ」
などと叫び、家の敷地にゴミを投げ込んだ。
医者に切れた箇所を縫ってもらった後、徐々に冷静になったマイク・タイソンは
「あんなことはすべきじゃなかった」
とファイターとして規律やルールを守り、最後まで戦うべきだったと後悔し
「ファンは俺のことを嫌いになる」
と気に病んだが、周囲に慰められ、マリファナを吸い、少し酒を飲んで眠りについた。
「(マイク・タイソンがイベンダー・ホリフィールドの耳を噛んだのは)ホリフィールドがマイクに頭突きをし続けたからだと思うよ。 
ホリフィールドという選手は非常に汚いテクニックを使うファイターだ。
その事について誰も指摘しないがね!
ホリフィールドは汚いテクニックと戦略を使うのが非常に上手く巧妙な奴だ。 
あのジョージ・フォーマンですら、「ホリフィールドは今まで戦った相手の中で最も汚いテクニックを使うファイターだ」といったくらいだ。
最初。ホリフィールドがマイクをロープに弾き飛ばし跳ね返って来たところにホリフィールドがマイクに頭突きを食らわしたところから始まってたんだ。 
それでマイクは顔を切ったんだ 。
その後、試合中、同じ事をホリフィールドが繰り返したんだ。 
注意してみなくてはならないが、あの試合はかなり過熱していたんだ。 
でもよ~く試合をいてみるとマイクがホリフィールドの耳を噛み切る前に頭突きを止めろという警告としてホリフィールドの耳を軽くかじる行為をしているんだ。
もちろんマイクがそんな行為に出たのは間違ってるよ。 
以前は、ああいう違反はよくあったんだよ。
例えばどういう風に相手を掴むや、頭から頭突きをするように相手に入り込むや、肘を相手のアゴの下に置くや、親指で相手の目を狙うや、下腹部を殴るや、膝で相手の股間を蹴るなどだ。
自分がヤバい状態に追い込まれたらこういうテクニックで逃げ切れる事ができる。
これらはレフリーにとっても見分けにくいんだ。 
試合はどちらかが勝者と敗者に決定される戦争だからね。
もちろん試合にはルールがありそれに従おうとするものだが、ホリフィールドのようなファイターは、これらルールを度々破るタイプだね。
俺ならマイクに、「ホリフィールドの顔めがけて突っ込み、頭をもっと動かせ!」といったね。 
頭を動かすスタイルこそ、マイクのファイティングスタイルの基本なんだ。
そうすれば相手は苦しくなる。 
ファイターがパンチを放って空振りすると慎重になり同じパンチを出さなくなる。 
そうして困惑したときに頭を動かしているマイクがパンチをお見舞いしKOとなるんだ。
もし正しいトレーニングをマイクがし俺がセコンドについたならホリフィールドをノックアウトできるよ。 
それは疑う余地のない事だ」
(ケビン・ルーニー)

6月30日、試合から2日後、マイク・タイソンは当地のホテルで会見し謝罪。
『どうして耳を噛んだのですか?』
「ホリフィールドとは2度目の対戦だった。
俺は何より頭にきてた奴をメチャクチャにしてやりたいと思った。
それでキレちまったんだ」
『何に怒ってたんですか?』
「俺の人生のこと、(イベンダー・ホリフィールドとの)最初の対戦のこと、俺を悪くいった奴らのこと、そういうことを考えたら腹が立って仕方がなかった。
例えば最初の対戦のとき、ホリフィールドは最初の2R、わざとバッティングをしてきた。
こっちが気を失いかけたほどだったんだぜ。
それを2度目も同じようにやられたんだ。
またかと思ってプツンときちまった。
ジョージ・フォアマンはホリフィールドはこれまでみたなかで1番ダーティーなファイターだっていってたんだ。
最初の対戦のときなんてあのおかげですっかり感覚が麻痺しちまってパンチをもらってるのもわからなくなってたほどだった。
ああ、あのバッティングはわざとだったよ。
絶対にな」
『つまり復讐するために噛み付いたってことですか?』
「殺してやりたかったんだよ。
噛みついてやりたかった。
頭にきまくってたのさ」
『試合後はどう思いましたか?』
「どうしようもなくなっちまった。
あんなことをやっちまった自分が腹立たしかったよ。
それ以前は怒りを感じながら試合に臨んだことなんてなかった。
1度もな。
そうはみえなかったかもしれないが、あの試合まで俺は絶対に怒りを引きずったままリングに立ったことなんてなかったんだだから、あんな事をやった自分が恥ずかしかった。
ショックだったし怖かった。
あんな事になるなら、(普通に戦って)負けたほうが良かったさ」
『2度のホリフィールド戦はあなたの経歴にどんな影響を与えたんでしょう』
「あんまりいい影響じゃないな。
俺には敵が多すぎる。
そういう奴らが全てをコントロールしてるんだからな。
奴らは俺の評判をできるだけ下げようとしてるのさ。
クソッタレどものことなんて、もうどうでもいい。
俺は名誉の殿堂入りするチャンスを自分でダメにしちまった。
そういう男になることを、あれだけ夢みてたっていうのにな。
だから、もうどうでもいいんだ
評論家どもは、ホリフィールド戦のことを持ち出して俺を否定するだろう。
でもアリだって負けたことはあるんだぜ?
もう本当にどうでもいいよ。
俺の人生なんて、もう終わりさ。
あとはただ生きていくだけだよ」
『終わり?』
「もちろんカネは稼げるだろうさ。
タイトルだって獲れるかもしれない。
だが俺の社会的地位ってやつは?
ゼロさ」
勝つために反則ギリギリのテクニックとして頭突きを使うイベンダー・ホリフィールド。
それに怒り、堂々と公明正大に反則をやり返すマイク・タイソン。
多くのファンは
「獣か」
とあきれたがマイク・タイソンのピュアさに魅力を感じるファンもいた。
反面、イベンダー・ホリフィールドはしたたかではあるが、強い精神力を持っていることを疑う人間はいなかった。

1997年7月、マイク・タイソンがイベンダー・ホリフィールドの耳を噛みちぎった2週間後、WBC世界ヘビー級チャンピオン、レノックス・ルイスが挑戦者、ヘンリー・アキワンデと対戦。
このWBCタイトルマッチは1500人しか収容できないアリーナで行われた。
イベンダー・ホリフィールド vs マイク・タイソン戦の1/10以下の規模だった。
レノックス・ルイスは、5ヵ月前、、オリバー・マコールを下して2度目のWBC世界ヘビー級チャンピオンになったが、コカイン中毒のオリバー・マコールが戦意を喪失し、リング上で泣き出し、失格勝ちによっての復権だった。
この試合も、ヘンリー・アキワンデがほとんどパンチを出さず、再三のレフリーの注意にも関わらずクリンチを繰り返したため、レノックス・ルイスの失格勝ちというお粗末な結果に終わった。
「タイソン、マコール、アキワンデ、ドン・キングがプロモートする選手は失格負けが好きなようだな。
次戦はWBAチャンプのイベンダー・ホリフィールド戦を希望する。
IBFヘビー級のベルトはマイケル・モーラーが巻いているが、あんな選手は単なる絵に過ぎない。
ここにお集りの皆さんがご存知のように、ホリフィールドと自分の試合こそ、最強のヘビー級を決めるに相応しい。
ヘビー級タイトルマッチで1度ならず3度も失格によって勝敗が付くことは、ボクシングビジネスを衰退させてしまうことに繋がる。
そうならないためにもホリフィールドとの統一戦を早急に実現させたい」
(レノックス・ルイス)
しかしイベンダー・ホリフィールドが次戦の相手にマイケル・モーラーを選んだため、レノックス・ルイスはアンドリュー・ゴロタ(WBC世界ヘビー級2位)との防衛戦にサインした。
1997年8月、リディック・ボウが、妻、ジョディと子供が住むノースカロライナ州まで車を走らせ、3人の子供をバスの停留所で待ち伏せし誘拐。
さらにジョディが住む家に押しかけ車の中に用意してあったナイフや手錠、催涙スプレーをみせて脅し車に乗せた。
ジョディはボウの自宅のあるバージニア州に行くまで間にトイレに行きたいと嘆願しレストランに駆け込んで助けを求め、警察へ通報され事件が発覚。
ボウは誘拐容疑で逮捕。

1997年10月4日、レノックス・ルイスが2度目の防衛戦のリングに上がり、95秒で挑戦者、アンドリュー・ゴロタをKOした。
「ホリフィールドには、過去に何回もオファーを出しているんだ。
いいかい、ヤツはリディック・ボウと3回、タイソンと2回戦って、マイケル・モーラーとも11月に2度目のファイトをするんだよ。
なのになぜオレとはやろうとしないんだ?
恐れているっていわれてもしょうがないだろう。
実現したら必ずヤツをKOしてみせる。
楽しみにしていてくれ」
1997年11月、耳を噛まれながらもマイク・タイソンを返り討ちにしたイベンダー・ホリフィールドは、ジョージ・フォアマンにノックアウトされて王座から陥落した後、IBF世界ヘビー級チャンピオンに返り咲いていた宿敵、マイケル・モーラーと対戦。
パワーで勝るイベンダー・ホリフィールドは押しつぶすように攻め、5R、7R、8Rに5回ダウンを奪った。
マイケル・モーラーは、その度に立ち上がったが、8R終了後、試合を棄権。
イベンダー・ホリフィールドは、マイク・タイソンから奪ったWBAに加え、IBFのベルトも再度獲得することに成功。
WBA、IBFとくれば残っているのはWBCのタイトルのみ。
そのベルトを巻いていたのはレノックス・ルイスだった。
1998年2月、リディック・ボウが、テリという女性と再婚。
家もニューヨーク郊外のメリーランドに引っ越したが、ジュディと5人の子供を誘拐したとして有罪判決を受け、17ヶ月間刑務所で服役することが決まった。
1999年 1月16日、マイク・タイソンが1年半ぶりにリングに復帰。
相手は、フランソワ・ボタ(Francois Botha)
187cm、116kg。
ニックネームは「The White Buffaro(ザ・ホワイト・バッファロー)」
1R終了間際、フランソワ・ボタとマイク・タイソンが乱闘。
リング上で両軍のセコンドが入り乱れての大混乱となった。
5R、マイク・タイソンが右1発でKO。
フランソワ・ボタは首の骨がズレるほどの重症を負い担架で運ばれた。
1999年2月5日、マイク・タイソンは1998年8月の暴行事件でメリーランド州から懲役2年実質1年の実刑判決を受けた。
模範囚なら1カ月後には、昼に拘置所から外出して練習や試合をできる特別待遇の「更生プログラム」の適用を受ける見通しだった。
2月19日、拘置所内で大暴れし特別待遇は微妙になり、3月にはテレビを投げつける大騒ぎを起こしたが、その後、模範囚を続けた。

1999年3月13日、WBA、IBF統一世界ヘビー級チャンピオン、マイク・タイソンに2連勝し、モハメド・アリとならぶ3度のヘビー級王座獲得を果たし、4度目の防衛戦となるイベンダー・ホリフィールド vs WBC世界ヘビー級チャンピオン、5度目の防衛戦となるレノックス・ルイス戦が行われた。
この一戦は統一戦だったが、多くの人が実績や格からイベンダー・ホリフィールドにレノックス・ルイスが挑戦する試合とみていて、体重で13.6kg、身長で7.6㎝、リーチで17.8㎝優るレノックス・ルイスにイベンダー・ホリフィールドが逃げずに戦って最終的に勝利者になることを期待していた。
「とにかく1番戦いたいのはホリフィールド。
その後、ヘビー級のベルトを統一したらタイソンにチャンスを与えてやってもいい」
とレノックス・ルイスはずっと対戦を希望していたが、マイク・タイソンへ戦で「金ではなく自分が最強であることを証明するため」といっていたイベンダー・ホリフィールドが、2000万ドル、2500万ドル、3000万ドルとファイトマネーをつり上げ、対戦を引き延ばしていた。
またイベンダー・ホリフィールドには、かなり以前からステロイド、筋肉増強剤使用の疑惑があり、スキンヘッド、心臓病はその副作用だといわれていた。
抜き打ち検査がないために、試合数ヵ月前に使用をやめれば痕跡は残らない。
「聖者みたいな顔をしやがって、あっちこっちに子供をつくりまくっている。
ホリフィールドはとんだ偽善者だ」
(レノックス・ルイス)
「私はホリフィールドにとても親近感を持っているのだが、彼にとって今回のルイス戦は最悪の悪夢になる。
彼は対戦を後悔することだろう。
私がイベンダーのスタッフだったらルイスとは対戦させない。
タイソンを破った時点で引退すればよかったと思うよ。
ルイスが精神を集中してリングに上がったならホリフィールドにはノーチャンスだ。
ルイスは強いジャブを持っている。
ホリフィールドは強いジャブを持つ相手には常に苦しんできたんだ。
それに多くの戦いをしてきた彼は腫れやすく切れやすくなっている。
パンチ力だってルイスの方がはるかにナチュラルなハードヒッターだ。
なにより重要なファクターは、ルイスは今まで得られなかった認知を得ようと非常にハングリーになっているという点だ。
ルイスには、あんまり(趣味である)チェスみたいなことを考えないでほしいんだ。
エモーショナルになってガンガン攻めて欲しい。
ルイスはまだポテンシャルの75%くらいしかみせていない。
ホリフィールド戦では、残り25%、少なくとも10%はみせて欲しいね」
(エマニュエル・スチュワード、レノックス・ルイスのトレーナー)
対するイベンダー・ホリフィールドは
「3RKO」
を宣言した。
「たしかに私の9人の子供のうち、5人までが私生児(未婚の母の生んだ子)だ。
2人は去年生まれた。
しかし私は偽善者などではない。
偽善者とは逃げる人々のことだ。
私は逃げない。
ルイスがなんといおうと彼の勝手だが、その代償は払ってもらうぞ。
私は28年と17週間もリングで戦ってきた。
リングで何が起こるのかは予測できる。
信じない人は3月13日を見ればいいさ」
「3R KOの予言は感心しないな。
だって1Rと2Rに起きたらどうするんだ?
それに私は、勝負を5R以降に持ち込みたい。
ハートがないとまではいわないが、ルイスは苦しくなったら逃げのファイトをすると思う。
あからさまに試合を投げることはしなくてもホールディングに終始するとか足で逃げ回るとかね。
一方、勝利をあきらめるくらいなら死を選ぶようなファイターがごく稀にいる。
アリとかホリフィールドがそうだ。
どんな試合でも5Rを過ぎたら意志の勝負になるんだ。
今回も5Rを過ぎたらホリフィールドのものさ」
(ドン・ターナー、イベンダー・ホリフィールドのトレーナー)

試合が始まると、体重で13.6kg、身長で7.6㎝、リーチで17.8㎝優るレノックス・ルイスは、その巨体に似合わぬスピードで長いジャブをコツコツ当てて、イベンダー・ホリフィールドはこれが邪魔で入れない。
リーチで負けるイベンダー・ホリフィールドは飛び込んで左右フックを効かせたが、レノックス・ルイスは接近戦でも右アッパーとフックでロープに追い込む場面もあった。
7R、レノックス・ルイスの右ボディでイベンダー・ホリフィールドはロープに後退。
左フックを打ち返して前に出てクリンチ。
レノックス・ルイスはサイドに回っての右ストレート、右ボディ、さらに打ち下ろすような右、右アッパーでイベンダー・ホリフィールドはでフラつかせて右ボディ。
イベンダー・ホリフィールドは明らかに苦痛で体が曲げたが、ジャブをダブルで当ててパワフルな左フックを返した。
8R、イベンダー・ホリフィールドは前に出て右フックを顔面に。
外れてもさらに踏み込んでボディにフック。
さらに潜り込んで左ボディを当てるがいつものコンビネーションが出ない。
9R、イベンダー・ホリフィールドは踏み込んで左フックで顔面を狙うが、レノックス・ルイスはジャブを動き出しに当てて出鼻をくじき、さらに長い右を当てた。
イベンダー・ホリフィールドは打ち終わりに左フックを出したが間合いが遠い。
10R、イベンダー・ホリフィールドはガンガン出てきて左右フックを出したが、レノックス・ルイスはジャブを突いてクリンチして押し込んだ。
12R、イベンダー・ルイスは攻めたが思うように踏み込めないままゴングが鳴り、がっくり肩を落とした。
レノックス・ルイスは両手を上げた。
明らかにレノックス・ルイスが勝ったと思ったが、判定は116-113、113-115、115-115で1-1でドロー。
お互い、タイトルを獲得することも失うこともなかった。
この判定は議論を呼び、8ヶ月後、リマッチとなった。
1999年11月13日、WBA、IBF統一世界ヘビー級チャンピオン、イベンダー・ホリフィールド、イベンダー・ホリフィールドとWBC世界ヘビー級チャンピオン、レノックス・ルイスが再戦。
前戦同様、レノックス・ルイスが遠い間合いからパンチを突き、イベンダー・ホリフィールドは必ず打ち返すという展開になったが、イベンダー・ホリフィールドは前回よりアグレッシブに攻めハードな戦いとなった。
しかしヘビー級としては中型ながら真っ向から打ち合うタイプのイベンダー・ホリフィールドはパンチを受けることも多く、ヒットで優ったレノックス・ルイスが判定勝ちし、WBC、WBA、IBF統一世界ヘビー級チャンピオンとなった。

2000年6月24日、マイク・タイソンがスコットランドでルー・サバリーゼと対戦。
ゴングが鳴り、長身のルー・サバリーゼはジャブを突いていった。
マイク・タイソンは動きながらかわし続け、低い姿勢から伸び上がるようにして左ロングフック。
この1発目のパンチでルー・サバリーゼはダウン。
起き上がったルー・サバリーゼをマイク・タイソンは容赦なくラッシュ。
レフリーが割って入ったが、マイク・タイソンは試合を止めているのかどうかわからず、そのままラッシュ、ラッシュ。
マイク・タイソン、ルー・サバリーゼ、レフリーがもみ合いになっている状態で、マイク・タイソンは右パンチを連打して、左のパンチを入れようとしたとき、それがレフリーの後頭部を入り、レフリーは落ちかけた。
レフリーは立ち続け、ここでマイク・タイソンも攻撃をやめた。
両陣営のセコンドがリングに上がり、試合は止まったが、そのままおそらくレフリーがマイク・タイソンの勝ちを宣告し、1R 0:38 TKOとなった。
試合の前、コカインとマリファナもちやったマイク・タイソンは、人工ペニスに他人のきれいな尿を入れて薬物検査をスリ抜けていた。
「マイク、これまでで最短の試合じゃなかったですか?」
「アッサラーム・アライクム(あなたに神の平安を、イスラム教徒が使うアラビア語の挨拶)
わからない。そ
うだ、レノックス・ルイス、レノックス、行くからな、待ってろよ」
「たくさん練習してきて、7、8秒で試合が終わってしまうと物足りなくないですか?」
「この試合のためには2週間ほどしか練習しなかった。
親友を埋葬しなくちゃならなかったからな。
(ブルクリン時代からの友人がギャング同士の争いで撃ち殺されていた)
その友人にこの試合を捧げた。
あいつの心臓をぶち破るつもりで戦った。
俺は史上最高、ボクシング史上もっとも残虐で、獰猛で、情け容赦ないチャンピオンだ。
俺を止められる者はどこにもいない。
レノックスは征服者か?
違う!
俺がアレクサンダー大王だ。
俺はソニー・リストンだ。
ジャック・デンプシーだ。
俺は彼らと同類だ。
俺に並ぶ者はいない。
攻めは強烈、防御は鉄壁、ひたすら獰猛だ。
お前の心臓が欲しい。
あいつの子どもたちを食らいたい。
アッラーを称えよ!」

2000年8月12日、レノックス・ルイスが返上したこWBAのタイトルをめぐって、イベンダー・ホリフィールドと「静かなる男」、ジョン・ルイスが対戦。
イベンダー・ホリフィールドは、コンビネーションでダウンを奪ったが、ジョン・ルイスも持ち前のクリンチワークとタフネスで肉薄。
かなりの接戦となったが、イベンダー・ホリフィールドが判定勝ちし、4度目の世界ヘビー級チャンピオンへ返り咲いた。
2001年2月、リディック・ボウが自宅の私道で妻のテリに対して暴力を振るった容疑で逮捕。
リディック・ボウは、離婚訴訟を有利に進めるためにテリが行った自作自演だと主張したが、裁判所は妻と2人の子供に接触を禁じた。
2001年3月3日、イベンダー・ホリフィールドとジョン・ルイスとリマッチ。
前戦よりジョン・ルイスはアグレッシブで、イベンダー・ホリフィールドをアッパーでふらつかせるなどして判定勝ち。
イベンダー・ホリフィールドは王座陥落。
2001年4月14日、WBA、WBC、IBF、主要3団体のミドル級チャンピオンと1階級上げたフェリックス・トリニダードの4人による統一トーナメントで、IBF世界ミドル級チャンピオン、バーナード・ホプキンスとWBC世界ミドル級チャンピオン、キース・ホームズが対戦し、バーナード・ホプキンスが3-0で判定勝ちし、WBC、IBF統一世界ミドル級チャンピオンとなった。
2001年9月29日、WBC、IBF統一世界ミドル級チャンピオン、バーナード・ホプキンスとWBA世界ミドル級チャンピオン、フェリックス・トリニダードが対戦し、バーナード・ホプキンスが12R1分18秒TKO勝ち。
WBA、WBC、IBF統一世界ミドル級チャンピオンとなった。
2001年12月15日、イベンダー・ホリフィールドがジョン・ルイスと2度目のリマッチ。
試合は、ジョン・ルイスが前に出てパンチとクリンチ、パンチとクリンチを繰り返す凡戦になったが、判定はドローで防衛を果たした。

2002年1月、ニューヨーク市内のホテルで、WBC、IBF世界ヘビー級チャンピオン、レノックス・ルイスにマイク・タイソンが挑戦することが決まり、記者会見が行われた。
先に全身黒ずくめのマイク・タイソンが入場し、壇上に立った。
そして次にレノックス・ルイスが入場し壇上に立つと、突然、マイク・タイソンが壇上から下りてレノックス・ルイスに向かって歩き出した。
詰め寄ろうとするマイク・タイソンにレノックス・ルイスボディーガードが反応し、壁となって押し戻そうとした。
それにキレたマイク・タイソンが左フック。
よけながら倒れるボディガードの後ろからレノックス・ルイスが右ストレート。
これがかすってマイク・タイソンが額から流血。
両陣営と関係者、20人以上が入り乱れての大乱闘に発展。
マイク・タイソンはレノックス・ルイスの脚に噛みつき歯形を残し、立会人のWBC会長、スライマンは乱闘に巻き込まれて失神し病院送りになった。
乱闘が収まり、呆然と立ち尽くすマイク・タイソンにヤジが飛んだ。
「オマエは何しに来たんだ!」
「何しに来ただと?
オレはただ偉大なチャンピオンに挨拶したかっただけだ!」
そして引き上げるレノックス・ルイスを放送禁止用語をまじえて罵った。
2002年1月29日、ネバダ州アスレティックコミッションの公聴会が開かれた。
ネバダ州のコミッションは試合中にマイク・タイソンがイベンダー・ホーリフィールドの耳の一部を食いちぎった件で、実質1年間の無期限出場停止処分をタイソンに下したことがあったが、今回も5人のコミッショナーによって審議される聴聞会が開かれ、マイク・タイソンも召集された。
2002年6月5日、試合3日前、マイク・タイソンの公開練習が行われたが、内容は、ぶら下がったヘッドスリップバッグを2回、もう2回ウィービング練習だけだった。
記者会見はキャンセルされたが
「5R以内のKO」
を予告した。
レノックス・ルイスも5R以内のKOを予告し、ナックルの薄いREYESグローブを選択した。
2002年6月6日、テロに備えてなのか、1月の記者会見の乱闘事件のためなのか、計量会場がものものしい雰囲気に包まれた。
警備は過去にないほど厳重で会場には2重3重のチェックポイントが設けられ金属探知機まで出動した。
計量は両者のトラブルを避けるため、
レノックス・ルイスが12時から、マイク・タイソンは15時から行われ、

レノックス・ルイス 249 1/4(113kg)
マイク・タイソン 234 1/2(106.5kg)

マイク・タイソンのトレーナー、ロニー・シールズ・トレーナーが、
「計量前量ったとき、229ポンドだった。
おかしい」
とマイク・タイソンが去った後、秤を点検した。


2002年6月8日、ロックンロールの伝説的スーパースター、エルビス・プレスリーが誕生した聖地、テネシー州メンフィスのザ・ピラミッドで、WBC、IBF世界ヘビー級チャンピオン:レノックス・ルイス vs マイク・タイソンが行われた。
両者の報酬が最低で約22億円ずつ。
アメリカでのPPV視聴料金は約7千円で60万件予約があり、最終的には100万件を超えると予想された。
リングサイドチケットが約30万円。
天文学的な金額が並ぶが、驚くべきはチャンピオンと挑戦者のファイトマネーが同額であること。
やはりマイク・タイソンの人気はズバ抜けていた。
対するレノックス・ルイスも、1990年代最強ヘビー級ボクサーという声もあった。
身長196cm、リーチ208cm、という大きな体と長いリーチを最大限に活かし、教科書のようなオーソドックススタイルでクレバーに戦う上、パンチ、スピード、パワー、テクニックを兼ね備えていた。
36歳独身で母親の手料理を好み、趣味はチェス。
トラブルとは無縁の「理想的アスリート」
最少年ヘビー級王者になるも怠惰により陥落し、レイプ事件、耳噛み事件リングの中でも外でも野獣そのものの「惑星最悪の男」、マイク・タイソンは180cmとヘビー級では小型。
歴代ヘビー級チャンピオンで、身長6フィート(約180cm)未満は僅か6人で、1973年のジョー・フレジャー以降はマイク・タイソンだけ。
2人は好対照だった。
1R、マイク・タイソンはいきなり攻めていった。
頭を左右に振り、ダブルジャブから危険な距離に飛び込み左フック。
レノックス・ルイスは上体が立ってしまい、真っすぐに下がってしまい、たまらず抱きつき196cmの身長を使い180cmの男を上から押さえつけた。
2R、レノックス・ルイスが伝家の宝刀を抜いた。
懐に飛び込もうとするマイク・タイソンに強烈な右アッパー。
この一撃が勝負の一打となった。
アッパーを喰らったマイク・タイソンの動きはパタッと止まった。
それ以後何かを考えているように一瞬遅い、迷ったような動きを繰り返した。
レノックス・ルイスの右アッパーにより警戒心が煽られ迷いながらのボクシングをするようになったのだ。
懐に飛び込むことだけでなく、頭を振ることも忘れてしまい、それからはラウンドを追うごとにレノックス・ルイスのリズムが良くなる。
マイク・タイソンは相手の正面に立ち、戸惑っているうちに攻撃をモロに受け続けてしまう。
196cm、113kgのジャブの威力は想像以上だろうが、マイク・タイソンはなす術なくもらい続けた。
レノックス・ルイスはあくまで慎重で絶対に深追いしない。
ジャブ、右ストレート、右アッパーでいたぶり続けた。
6R、マイク・タイソンの足がフラつき、得意の踏み込みも強烈なパンチも出せない。
左右の目尻をカットし、左瞼大きく腫れ、鼻からは血が滴り落ちている。
8R、マイク・タイソンは、左右の瞼が腫れ上がり視界は奪われている
レノックス・ルイスは猛攻を仕掛け、マイク・タイソンをサンドバッグ状態にして、右アッパーで、この試合初めてのダウンを奪った。
何とか立ち上がるマイク・タイソン。
頭を左に避けるように動かした瞬間、レノックス・ルイスの右フックを顎にモロにもらって、顔を反対方向に捻じ曲げられ、静かに崩れた。
再び立ち上がろうとするマイク・タイソン。
レフリーのカウントに反応するのではなく本能のみで立ち上がろうとするが、無情にもカウントは進み、8RKOで試合は終わった。
世界中のボクシングファンが待ち望んだヘビー級最強決定戦はレノックス・ルイスの圧勝だった。
「あと2、3試合してからルイスと戦いたかった。
挑戦を受けてくれたルイスに感謝する」
試合後のインタビューも優等生発言に終始したマイク・タイソンにかつてのパワーは感じられなかった。
試合後、レノックス・ルイスは引退を示唆。
マイク・タイソンに勝ってすべてを達成したと考えているのかもしれない。
実際は、もう1戦(6R TKO勝ち)して、2004年に引退。
ヘビー級で世界チャンピオンのままでの引退は、ロッキー・マルシアーノ以来だった。
2002年12月14日、40歳のイベンダー・ホリフィールドが、オリンピック銀メダリストでサウスポーのアウトボクサー、クリス・バードと空位のIBF世界ヘビー級タイトルを争った。
クリス・バードが持ち前のスピードを生かして間合いを取りまくり、イベンダー・ホリフィールドはその動きについていけず判定負け。

2003年6月、新しく左目周りにニュージーランドのマオリ族の刺青を入れたマイク・タイソンが暴行容疑で逮捕。
8月には、連邦裁判所に自己破産を申請。
アメリカでは、よく映画スターやアーティストの巨額浪費、そして破産が報道されるが、スポーツ界でもスター選手は引退後、70%以上の確率で破産するといわれている。
その原因は、稼ぐ以上に使ったからで、たとえ100億円あろうと年20億円を使っていたら5年で破産するしかないが、年収300万円でも、年間100万円しか使わなかったら200万円残る。
欲望をコントロールすることができるか否かなのだ。
マイケル・ジャクソンは、負債額400億円以上。
エルトン・ジョンの総資産は、200億円以上だが、2001年に破産。
ビリージョエルは、稼いでは破産、稼いでは破産という破天荒な人生を送っている。
マービン・ゲイは、現役時代から浪費や離婚で財産が吹き飛び、ドラッグに溺れて隠遁生活を余儀なくされて、最後は父親に撃ち殺された。
ニコラス・ケイジは、破産寸前。
ジョニー・デップは、生活費が月2億円を超え、破産に追い込まれる確率大。
フロイド・メイウェザー(ボクサー)のあだ名は「マネー」。
貪欲にカネを稼ぐことで有名なのだが、稼いだカネをやはり使い果たし、税金滞納や債権の未払いな金銭トラブルがついて回っている。
不動産王としてビジネス的に大成功を収めていたドナルド・トランプも、離婚訴訟や不動産不況による事業の失敗で、凄まじい額の財産を失った経験も持ち、過去に4回も破産申請した経験がある。
マイク・タイソンが現役中に稼ぎ出した金額は約4億ドル(410億円)ともいわれているが、使い果たした。
世界で73台しかない、ウールの絨毯、電話、取り外し可能なガラスルーフを装備した420馬力のベントレー コンチネンタルSCを50万ドルで買うなど車やバイクにだ450万ドルを使い、200万ドルの浴槽、14万ドルで2匹のトラ、遊園地や動物園を貸し切るなど派手に浪費し、ドラッグと娼婦にもとんでもない額をつぎこみ、訴訟、横領などもあった。
そしてロールスロイス(1600万円)、ダイヤの指輪(19億5000万円)、ジェット機(44億円)などを差し押さえられ、それでも元妻への慰謝料900万ドル、アメリカ、イギリスでの税金の滞納1340万ドルなど約2700万ドル(28億円)の支払いが残った。

2003年10月、イベンダー・ホリフィールドが、ミドル級、スーパーミドル級、クルーザー級、3階級を制覇しヘビー級に上げたジェームス・トニーとのノンタイトルマッチで、9Rにダウンし、タオルが投入されてリディック・ボウに負けて以来のKO負け。
2004年4月15日、マイク・タイソンがK-1の試合出場契約を結んだが、薬物犯罪者は日本に入国できないため、日本での試合は不可能だった。
2004年7月30日、マイク・タイソンが1年半ぶりの復帰戦となるダニー・ウィリアムズとのノンタイトルマッチに臨んだ。
1R、マイク・タイソンは試合開始から積極的に攻め、強烈な左右のパンチを顔面、ボディーへと打ち込み、何度もダニー・ウィリアムズをフラつかせた。
しかし1R終盤、膝の靭帯を断裂。
その後は失速し次第に後退する場面が多くなった。
4R、マイク・タイソンはダニーウィリアムズの20発以上のラッシュをまともに受けグロッキーとなり、最後は右フックを浴び、腰からダウン。
ロープにもたれたままテンカウントを聞いた。
2004年9月18日、WBA、WBC、WBO、IBF統一世界ミドル級チャンピオン、バーナード・ホプキンスが、「ゴールデンボーイ」、WBO世界ミドル級世界ヘビー級チャンピオン、オスカー・デ・ラ・ホーヤと対戦。
9R1分38秒、それまでKO負けがなったオスカー・デ・ラ・ホーヤを左ボディ1発でノックアウト。
史上初、主要4団体の王座を統一し、WBA、WBC、WBO、IBF統一世界ミドル級チャンピオンとなった。
2004年11月13日、イベンダー・ホリフィールドがラリー・ドナルドと空位のNABCヘビー級王座をかけて対戦。
ラリー・ドナルドは世界タイトルマッチの経験がない、いわゆる格下の選手だったが、全盛期とは程遠い動きのイベンダー・ホリフィールドは被弾を重ね判定負け。
これで3連敗となった。
2004年12月、マイク・タイソンが器物損壊容疑で逮捕。

2005年6月12日、約1年ぶりの再起戦となるマイク・タイソン vs 元アイルランド・ヘビー級チャンピオン、ケビン・マクブライド戦が行われた。
リングアナウンサー、ジミー・レノン・ジュニアは、マイク・タイソンを
「ロンリー・アイアン(孤独の鉄人)」
とコール。
1R、ケヴィン・マクブライドは、198cm、123kg、マイク・タイソンとのリーチ差は23cm。
その長い先制のリード2発をマイク・タイソンはダッキングでかわした。
2R、マイク・タイソンのパンチ力は健在。
左を振って飛び込んで左のアッパーから左右のフック、さらに左ボディー。
クリンチに逃げるケヴィン・マクブライドに左。
ケヴィン・マクブライドは右のアッパーで応戦。
マイク・タイソンも応戦し左が肘打ち気味に入る。
3R、マイク・タイソンは突進から左アッパー。
ケヴィン・マクブライドはクリンチで逃げたが、マイク・タイソンは、その左腕をつかんで左で顔面を叩き、さらにボディーを狙って突進。
ケヴィン・マクブライドはクリンチで逃げた。
4R、マイク・タイソンは、突進から左、右の連打で、ケヴィン・マクブライドを棒立ちにさせ、さらに左ボディー、左アッパー。
観客は総立ち。
さらに左アッパーから右のボディー。
ケヴィン・マクブライドはクリンチ。
マイク・タイソンは右ボディー、左アッパー、ボディーの連打。
ケヴィン・マクブライドはクリンチ。
マイク・タイソンは顔面をガッチリ固めた相手に右フック、左ボディー。
5R、突進するマイク・タイソンにケヴィン・マクブライドはクリンチで逃れ、右のショートをヒットさせた。
マイク・タイソンは左アッパー、左肘打ち(反則)、さらに頭突き(反則)を突き上げた。
ケヴィン・マクブライド、左ボディーから左フックを顔面に。
マイク・タイソンも左ボディー、さらに右も放ったが、ケヴィン・マクブライドにクリンチされロープに押し込まれた。
マイク・タイソン優勢だったが、動きが止まった。
足が動かなくなり、終始守勢だったケヴィン・マクブライドがマイク・タイソンをロープに詰め、巨体を上から覆い被さるように連打。
マイク・タイソンは危なかったがゴングに救われた。
6R、マイク・タイソンはラッシュしたが、脚が動いておらず、ケヴィン・マクブライドは例の如くクリンチで逃れ、さらに至近距離からパンチを打っていく。
マイク・タイソンは腕を極め関節技で反撃。
ケヴィン・マクブライドは悲鳴を上げた。
さらにクリンチにきたところをバッティング(頭突き)
これが「故意」と判定され減点2。
ケヴィン・マクブライドは流血。
マイク・タイソン、起死回生の大きな右を空振り。
ケヴィン・マクブライドは懲りずにクリンチにいき、再度、腕を極められ悲鳴。
残り30秒、マイク・タイソンは脚が動かず、棒立ちになり、左右の連打を頭部に食らい、さらに棒立ち。
マクブライドは攻勢をかけながらもクリンチ。
アッパーを突き上げ、ロープに押し込み、左右の連打。
棒立ちのマイク・タイソンはロープに詰まり、巨体に上からのしかかられ、連打を食らい、瞬間、崩れ落ちた。
レフリーはスリップと判定。
ここで6R終了のゴング。
7R、セコンドがストップを促し、マイク・タイソンもれを受け入れ、ゴングが鳴っても出ていかなかったため、レフリーは試合終了させた。
マイク・タイソンの7R TKO負けだった。
試合後の会見で引退を示唆した
「もうこれ以上、ボクシングを侮辱したくない」
予期していたこととはいえボクシングファンにとって寂しいことだった。
ボクサーは、引退後、やることがない。
職業的なスキルがないため、輝かしい戦績を誇り絶大な人気を持ったボクサーがカジノの用心棒になったり、苦労を重ねてチャンピオンになったが引退して無一文になることは珍しくなかった。
「その後(刑務所から出た後)の7、8年はメチャクチャだった。
ボクシングに希望を見出せなかった。
引退瞬間は最高だった」
そういうマイク・タイソンはそういったが、現役引退後、アルコール、麻薬、セックスと快楽に溺れ、生活はますます滅茶苦茶になっていた。

2005年7月16日、バーナード・ホプキンスがジャーメイン・テイラーに、ロイ・ジョーンズ・ジュニア戦以来、12年ぶりの敗戦。
WBAは7度目、WBCは8度目、IBFは21度目、WBOは2度目の防衛に失敗し、王座から陥落。
2005年8月末、マイク・タイソンはラスベガスのアラジン・ホテル&カジノでボクシングの公開練習を行った。
「あれはおいしい仕事だった。
ホテルから立派なスイートをあてがわれ、ボクシング用リングを設置した部屋で練習していると、カネを払ってくれたんだ。
ホテルを通り抜けていく何千人もの人たちが、スパーリングをしたりヘビーバッグを叩いている俺をみていった。
好きな食べ物をなんでも無料でもらえたから、
『会いに来いよ。
ここに1ヵ月いるんだ。
何を注文してもビッチ(売女、この場合、ホテルのこと)持ちだぞ、ニッガ(兄弟)』
といっていろんな友達を呼んだ。
この頃からコカインの入手が難しくなってきた。
街にコカインがなかったわけじゃない。
売人たちが提供を渋るようになったんだ。
持ってくるといっても必ず遅れたし辛抱できずハンバーガー屋で手に入れることもあった。
日照り状態はスラム街で始まった。
まずウエストサイドの酒場がトイレに入れてくれなくなった。
次に売人たちが提供を断るようになった。
やむを得ず、ザ・ストリップの白人たちに声をかけた。
カジノで客を迎え入れるグリーターやクラブのドアマンたちは、みんなコネを持っていた。
懐が寂しくなってくると、まだ売ってくれていた数少ない売人に無理強いするようになった。
ある日、1人の売人が助けを求めてきた。
『なあ、マイク、助けてくれないか?
頼むから、クロコダイル(マイク・タイソンの元トレーナーで友人)にカネを払うよういってくれ。
あいつにコカイン全部渡しちまったんだ』
この話を俺にしたのが運の尽きだ。
クロコダイルが払わないなら俺だってそうしていいはずだ。
『いいとも、クロコダイルに話してやろう。
ただし、手持ちのブツを今よこせ』
そいつの手からコカインをひったくった。
『まずいよ、ボスに殺されちまう。
少しはカネを持ち帰らないと』
『お前のボスは別のやつから回収すりゃあいい』
『まずいよ、あんたからもらわないと』
『なら、俺のところへ相談に来いとボスにいえ。
おい、人を中毒にさせといて、こんどはカネを請求するのか?
俺はお前ら売人のせいでコカイン中毒になったんだぞ』
カネがなくなるとコカインを扱う大物たちが住むサマリン(ラスベガスの西)に車で向かった。
彼らの大豪邸で会い、いっしょに写真を撮ったりコカインのラインをつくって吸ったり、何時間か一緒に過ごした。
値段をいわれたときは、こう切り返す。
『おい、一体どういうことだ?
本気でこの麻薬を売りつける気か、ブラザー?
1日中、俺と遊んでおいて、その上まだカネを払わせるのか?』
『わかった、持ってけ』と最後に彼らはいった。
コカインは悪魔だ。
その点は疑いの余地がない。
俺はずっと女にはフェミニストだった。
金欠のときだって夕食代を払わせたことなんて1度もなかったんだ。
なのにコカイン代に事欠くようになると女友達の落としたカネを拾ってポケットに入れた。
あんなみじめな気分はなかったな。
これ以上、悪魔と戯れたくなかったが、向こうはまだ戯れたがっていて、これでおしまいといってくれない」
2005年12月3日、バーナード・ホプキンスがジャーメイン・テイラーとのダイレクトリマッチで0-3の判定負け。

2006年10月20日、マイク・タイソンがコーリー・サンダースとエキシビション・マッチを行った。
コーリー・サンダースはヘッドギアを着用したが、マイク・タイソンは着用しなかった。
「極貧に耐えられず、とうとうオハイオ州のヤングスタウンまで出向いて、昔のスパーリング・パートナー、コーリー・サンダースと4Rのエキシビション・マッチをやった。
プロモートしたのはスターリング・マクファーソンという元ボクサーだ。
スターリングは6000席の会場で25ドルから200ドルのチケットを4000枚売って、ペイ・パー・ビューにも29ドル95セント課金していたのに、俺は支払いを受けた覚えがない。
だが体を動かしていれば麻薬から抜けられると思った。
世界中でこのエキシビション・ツアーをやれば、たんまり儲かるかもしれないとスターリングはいっていた。
試合は大失敗だった。
コーリーは俺より50ポンド近く重い292・5ポンドでやってきた。
ヘッドギアを着用したコーリーに観衆はブーイングを浴びせた。
試合開始。
1Rでいい1発が入ってコーリーをダウンさせた。
3Rと4Rにも相手を窮地に立たせたが、無理に追わなかった。
痛めつけたい気持ちはなかったからな」
このエキシビジョンは当初、「マイク・タイソン・ワールド・ツアー」として世界中を回る予定だったが、この1試合で終了した。
「エキシビションが終了するなりラスベガスへ戻り、それまでにも増してハイになった。
ある晩、街へ出かけたら、何年か前にニューヨークのベントレーというクラブで俺に銃を突きつけたやつにばったり出くわした。
クラブで俺をみかけたが、ひどいみてくれでかわいそうになったという。
「大丈夫か、おい?」とそいつにまで同情されちまった。
この頃にはコカインのやりすぎで鼻がボロボロになっていたから煙にして吸い始めた。
クラックじゃなく普通の粉状コカインに煙草の葉を混ぜて。
ブルックリンの子ども時代はよくそうやっていた。
コカインを鼻から吸っているやつらはみんな、コカインの喫煙をみるといやな顔をした。
コカインを燃やすとこの上なくいやな臭いがする。
プラスチックと殺鼠剤をいっしょに燃やしているみたいな臭いがするんだ。
友達の1人からいわれたことがある。
何かについて知りたいときは火であぶってみろ。
火はすべてをあぶり出すと。
どこかのロクデナシのことを知りたいときはケツを火であぶってみろってことだ。
コカインを火であぶると何でできているかよくわかる。
あれの毒素、麻薬成分が立ちのぼってひどい臭いがするんだ。
麻薬をやりまくり売春婦を連れ込みまくっていたこのとんでもない時期は、毎日頭にカスの声が聞こえていた。
しかし生身のカスがいるわけじゃない。
声には耳を貸さなかった。
当時は生きることなんて二の次だった。
今は生きていたいと真剣に願っているよ。
だがあの頃の俺にはなんの意味もないことだった。
20歳でチャンピオンになったときには友達の多くが死んだり破滅したりしていたんだからな。
この頃はコカインに陶酔感なんてなく、ただ鈍い痺れに身をまかせていた。
もはやコカインをやりながらセックスすることもなくなっていた。
ときには女を同伴することもあったが、もうセックスのためじゃなくくつろぐためだった。
とんでもない暮らしだった。
ある日、掃き溜めみたいなところで街娼を口説いて、コンドームも着けずにセックスしようとしていたかと思えば、次の晩は、顔に楽しげな表情を貼りつけてベル・エアで裕福な友人たちとユダヤ教のロシュ・ハシャーナ(新年祭)を祝っていたりする。
『死ぬまでこれをやるぜ、ベイビー。
もうこれ以上遊べないってところまで遊び倒してやる』
なんていっていた。
もちろん、ただのハッタリだ。
ジャッキー・ロウが薬物のことで説教しようとしても、こっちは『俺を愛してるなら、こいつをやらせてくれ』の一点張りだ」


マイク・タイソンは、女医のマリリン・マレーとランチを食べていた。
マリリン・マレーは、パーティーでマイク・タイソンと知り合い、依存症の話を聞いて更生(リハビリ)施設へ入ることを勧めた。
マイク・タイソンは、別の席に好みの女性がいたため、彼女の食事代を持つとウェイターにいうと、女性は電話番号を教えて去っていった。
彼女が立ち去った後、マリリン・マレーはいった。
「賭けてもいいわ。
あなたは絶対、更生(リハビリ)施設に6週間いられない」
「バカいっちゃいけない。
6週間くらい屁でもないさ。
俺は意志が強いんだ」
ちょうど6週間、イギリスへ懇親会(ミート&グリート)ツアーが決まっていたので
「アメリカに戻るまでに準備を整えよう」
とツアー中は麻薬を断つことに決め、コカインもマリファナも酒も断った。
最初の2週間くらいは完全に正気を失った。
ホテルの部屋を壊し半狂乱になったが、それでも麻薬には手をつけず、アメリカに戻ったときは、すっかりクリーンになっていた。
そしてマリリン・マレーに連れられて、アンガー・マネージメント(怒りや苛立ちを管理すること)とセックス依存症治療の施設、「ザ・メドウズ」にいった。
「中に入った途端、更生施設じゃなくて刑務所じゃないかと思ったよ。
厚顔無恥なうさん臭いやつらから質問攻めに遭った。
『どれくらい前から麻薬をやっていますか?』
『どんな麻薬を使ってきましたか?』
『麻薬を使用するきっかけになったのは、どういう状況でした?』
『子供の頃はどんな家庭生活を送っていましたか?』
『ひょっとしてあなたは同性愛者ですか?』
チキショウ、気に障る質問をとめどなく浴びせてきやがる。
見ず知らずのやつにこんなにズケズケ質問されて答えると思っているのか。
自分の本性や悪魔たちとの関係に取り組むなんて真っ平ごめんだ。
人の頭に勝手に入り込みやがって。
どいつもこいつも、いいかげんにしろ。
偉そうな口叩くんじゃねえ。
白いゴミ野郎が。
そういって、次の日には出ていった」
2006年11月10日、44歳のイベンダー・ホリフィールドがUSBA王座決定戦でフレス・オケンドと対戦。
リーチが200㎝以上あり遠い間合いを保つフレス・オケンドリーチに対してイベンダー・ホリフィールドは接近戦で対抗。
1Rにダウンを奪うなどして判定勝ちしUSBA世界ヘビー級チャンピオンになった。
イベンダー・ホリフィールドは次戦でビニー・マダローンを3R KO。
さらにルー・サバリースにも判定勝ちし、45歳にして世界タイトルマッチを迎える。
2006年12月29日、マイク・タイソンが自動車でナイトクラブから帰宅する途中、パトカーと衝突しかけ、取り調べを受け、飲酒運転およびコカイン使用が発覚し逮捕された。

2007年2月28日、イベンダー・ホリフィールドが偽名を使ってヒト成長ホルモン(hGH)などの違法ステロイドを扱うアラバマ州の薬局を利用していた事が発覚。
公開された文書には「エヴァン・フィールド」の偽名で記載されており、生年月日がイベンダー・ホリフィールドとまったく同じで住所もほぼ一致し、テストステロンやヒト成長ホルモン(hGH)、サイゼン、注射器など違法ステロイドの購入履歴が残っていて、記者がエヴァン・フィールドの連絡先へ電話をかけるとイベンダー・ホリフィールド本人が電話に出た。
イベンダー・ホリフィールドは父親の薬を購入していたとして、ヒト成長ホルモンなどの使用を否定した。
2007年9月、フロリダ州で違法ステロイドを販売していた薬局が摘発され、イベンダー・ホリフィールドが同薬局を利用していた事が発覚。
2007年10月13日、45歳のイベンダー・ホリフィールドがWBO世界ヘビー級チャンピオン、モスクワでスルタン・イブラギモフに挑戦。
スルタン・イブラギモフは、オリンピック銀メダリストでサウスポーのアウトボクサー。
止まることなくステップを踏むスルタン・イブラギモフの動きにイベンダー・ホリフィールドはついていけず、0-3で判定負けしたが、12ラウンド戦えることを示した。
2007年11月19日、マイク・タイソンが昨年12月にコカインを使用、所持したまま自動車を運転したとして逮捕された件で禁固1日、執行猶予3年の判決を受けた.
2008年1月30日、
マイク・タイソンは、チャリティー募金の活動で訪れた南アフリカでのインタビューで
「戦争のない場所であればどこへでも行きたい。
ケニアにも行きたいがあそこは内戦状態になっている」
と語り、もう自分自身は悪童ではなく、ボクシングへの関心もないとコメントした。
「年を取り過ぎたと感じる。
記憶してもらうだけで幸せだ」
2008年5月16日、ジェームズ・トバック監督によるドキュメンタリー映画「Tyson」がカンヌ映画祭の「ある視点部門」で上映された。
スーツに白のポケットチーフをしのばせたマイク・タイソンが舞台あいさつに立つと観客はスタンディングオベーション。
「俺はアスリートで映画はフィールド外だが、監督を信じて、このプロジェクトに挑もうと決めたんだ。
映画の中では、かなり自分の気持ちを正直に話している。
ぜひ楽しんで欲しい」
と語り、観客に向かって一礼。
緊張で吹き出した汗をポケットチーフを取りだして拭った。
古くからマイク・タイソンと親交のあるジェームズ・トバック監督が手がけた同作では、元王者の知られざる側面が描かれた。
「絶頂に上り詰めたあと、ごう慢さと陰謀と無謀さによって自滅した男の古典的な悲劇です」
マイク・タイソンが酒とドラッグ漬けの生活を断つべくリハビリ施設に入ったとき、自身もかつて酒やドラッグで問題を抱えていたジェームズ・トバック監督がドキュメンタリー映画のオファーした。
マイク・タイソンは1週間にわたるインタビュー取材を許可し、それが今回のドキュメンタリー映画「Tyson」の始まりとなった。
2008年12月20日、46歳のイベンダー・ホリフィールドがスイスのチューリッヒでWBA世界ヘビー級チャンピオン、身長213㎝のニコライ・ワルーエフに挑戦。
46歳のイベンダー・ホリフィールドは、自分より45㎏も重いニコライ・ワルーエフのインサイドに入ってパンチをいれ、後一歩のところまで追い詰めたが0-2で判定負け。

2009年5月27日、マイク・タイソンの末っ子、4歳のエクソドス・タイソンが、アリゾナ州の自宅にあるトレッドミルのコードが首を巻きつく事故で窒息死した。
家の掃除をしていた母親が、7歳になる息子に妹の様子をみにいくよう頼んだところ、トレッドミルのコードが首に巻きついたエクソドスが発見された。
母親は救急車を呼び、到着するまでの間、人工呼吸を行い、病院では生命維持装置をつけられたが死亡した。
事件当時、ラスベガスにいたマイク・タイソンは娘の事故を聞き、すぐに病院に駆けつけた。
2009年6月9日、マイク・タイソンが3度目の結婚。
最初の結婚は、ロビン・ギブンズ。
2度目は、看護師のモニカ・ターナー。
そしてラキハ・キキ・スパイサー(Lakiha Kiki Spicer)が10歳上のマイク・タイソンと知り合ったとき、彼女は19歳。
その後、5年間ほどはつき合いがなかったが2000年、24歳のときニューヨークで再会してデートを始めてからは
「ローラー・コースターみたい」
だったという。
「あれだけたくさんの女をとっかえひっかえだった男とデートするようになっちゃって。
別れようと思ったこともキレたこともあったけど、でも私たち、ずっといい関係だったの」
キキの継父、クラレンス・ファウラー、イスラム名、シャムスッド・ディン・アリは、 1970年代、殺人で有罪判決を受け、数年間刑務所で過ご、釈放後、ペンシルベニア州フィラデルフィアで影響力のあるイスラム教の聖職者となり、2004年9月、詐欺および恐喝の有罪判決を受け、9年の刑を宣告され、2013年まで刑務所に入った。
母親のリタスパイサー、イスラム名、ファリダアリも、詐欺罪で1年半の短期収監をいい渡されている。
キキも、やってもいない仕事で7万1000ドルの収入を両親の経営するムスリムの学校、シラークララムハンマドから得たとして2008年、半年間、連邦刑務所に収監されたが、そのときにはマイク・タイソンの娘がお腹にいた。
釈放後、薬物中毒と戦っていたマイク・タイソンと会い、2008年12月、ミランを出産。
結婚の日付はすでに決まっていたが、4歳の娘、エクソダスの事故で亡くなったため、多くの人が式を遅らせるべきと考えていたが、2人は予定通り、ラスベガスのヒルトンホテルにあるLa Bella Wedding Chapelで結婚し、論争を引き起こした。
リハビリからブクブクに太って薬漬けみたいになって退院してきたマイク・タイソンをキキは
「威張ったゾンビ」
と呼んでいたが
「やりたいことといったら、キャプテンクランチのシリアルを食べながらテレビで刑事ドラマ『ロー&オーダー』を観ること、それだけ。
そこにいるんだけど、心はないの」
薬をすべて取り上げてもみたが、そうするとマイク・タイソンは、毎晩ほぼ決まった時刻に起き出しては暗くなっていた。
「なにをいってるのかよくわからないんだけど、要は誰も俺のことを愛してないとか、人生終わりだとか、もうすぐ死ぬとか」
妥協点として大麻に落ち着いた。
キキ自身は、大麻はあまりやらない。
年に4回程度。
マイク・タイソンとの結婚生活で心底ツラいときがあるという。
「ときどきだけど、マイクは精神的に自己破壊モードになっちゃうの。
物事が上手くいきすぎているときにそうなるの。
恐怖からなんだと思う。
人生のずっとがカオス状態で、むしろそれに依存してきたような人だから、急にフッと穏やかになっちゃうとね」
そういうモードになったときマイク・タイソンは、クラブ通いを再開し、よからぬ人たちとつき合うようにもなり、コカインもやってしまった。
「悪いループに入って抜けたくてもダメだった。
女と会ってヤりまくり、コカインもやって、酒も飲んで、自分の人生をぶっ壊す。
罪を重ねて、自分を殺す」
(マイク・タイソン)

2009年10月18日、イベンダー・ホリフィールドとマイク・タイソンがテレビのトーク番組で共演。
マイク・タイソンは、1997年の「Bite Fight(噛みつき試合)」を謝罪し、イベンダー・ホリフィールドを
「素晴らしい人間だ」
と評し、イベンダー・ホリフィールドも
「2人のファイターがすべてを許しあい、和解したメッセージを世界の人に送りたい」
と発言し、2人良い友達でいるようだ。
マイク・タイソンとイベンダー・ホリフィールド、2人の直接対決は2度、そして2度ともイベンダー・ホリフィールドが勝利しているが、2人のライバルストーリーには様々なバックグラウンドがあった。

マイク・タイソン

・20歳、史上最年少で世界ヘビー級王者
・WBA、WBC、IBF統一世界ヘビー級チャンピオン
・ショッキングなジェームズ・ダグラス戦の敗北から復帰後、1996年にWBAとWBCの王座に返り咲くも2度目の王座は短命に終わった。

イベンダー・ホリフィールド

・WBA、WBC、IBF統一世界クルーザー級チャンピオン
・WBA、WBC、IBF統一世界ヘビー級チャンピオン
・4度、世界ヘビー級チャンピオン

直接対決ではイベンダー・ホリフィールドが2戦2勝。
しかしマイク・タイソンは、インパクトという点でモハメド・アリ以来の衝撃をもたらし、あの興奮を忘れられないというファンは多く、どんなボクサーも敵わないところがある。
一方、イベンダー・ホリフィールドは、努力と勇気とタフネスで、確実にリスペクトを集めた。

2010年4月10日、イベンダー・ホリフィールドWBF世界ヘビー級タイトルマッチでフランソワ・ボタと対戦し、8R TKO勝ちし王座を獲得。
2010年12月12日、マイク・タイソンが
「タイソンは完璧なボクサーではなかったが、殿堂入りには十分な実績がある」
と殿堂入り。
2011年5月、バーナード・ホプキンスが、46歳4ヵ月でWBC世界ライトヘビー級タイトルマッチに勝利し、ジョージ・フォアマンの持つ最年長王座獲得記録、45歳9ヵ月を更新。
2012年、マイク・タイソンと3番目の妻、キキが共同で実話で構成した脚本を書き、『ドゥ・ザ・ライト・シング』、『マルコムX』などでおなじみのスパイク・リー監督が制作、撮影したマイク・タイソンの自伝的ストーリー「Mike Tyson: Undisputed Truth(マイク・タイソン:正真正銘の真実)」がブロードウェイで上演された。
「タイソンほど正直に生きた人間はいない」
(スパイク・リー)
2012年、2億ドルを稼いだイベンンダー・ホリフィールドが破産。
イベンンダー・ホリフィールドは、一見、手堅く不動産に財産をつぎ込んだ。
しかし、5016m²、109部屋、バスルーム21ヶ所、100人が会食できるダイニングルーム、135席のシアター、ボーリング場、インドアプール、ボクシングジム、レコーディングスタジオ、ナイター照明つき野球場、個人所有のものとしてはアメリカでも最大クラスといわれる132万ℓ、25メートルプール3.7個分の巨大プールという自宅は大きすぎた。
また6人の女性の間に11人の子供をもうけたのも破産の原因だった。
借金を抱えたイベンダー・ホリフィールドは、結局、家を差し押さえられ無一文になった。
中には法律やビジネスの知識を利用して、まともに教育を受けていないスラム出身のボクサーに近づき搾取しようとする人間もいた。
彼らにとって成功したボクサーは金づるで、銃で脅すわけではなく書類を使い、路上強盗よりひどいことを組織ぐるみで仕組み奪っていき、金を生み出せなくなるとゴミのように捨てた。
「金を手にしたことがなかったから何も知らなかった。
金を奪われたことより無知につけこまれたことが悔しい」
イベンダー・ホリフィールドはそういうが、彼もマイク・タイソンも自分自身や自分のお金の守り方を知らずに破産した。

2013年、マイク・タイソンがラリィ・スローマンとの共著で「Undisputed Truth(真相:マイク・タイソン自伝)」を上梓。
2014年4月、バーナード・ホプキンスが、49歳3ヵ月でWBA世界ライトヘビー級スーパー王座獲得に成功し、自身の持つ最年長王座獲得記録を更新すると共に最年長防衛記録も更新。
2014年6月、49歳のイベンダー・ホリフィールドが引退を表明。
クルーザー級、ヘビー級、2階級でWBA、WBC、IBF統一世界チャンピオン。
クルーザー級では歴代最強といわれ、ヘビー級では史上唯一の4度、世界チャンピオンになった。
40歳後半になっても機関車のように戦い続け、負けるたびに「もうダメだろう」といわれ続けながら5度目のヘビー級王座獲得を目指しリングに立ち続けた。
「母の言葉がある。
『あきらめてしまうと、そこで終わりなんだ』と。
その言葉を信じて30年間、戦ってくることができた。
どこにゴールがあるかを考えながらやっていくよ」
2014年9月10日、ワンマンショー『Mike Tyson: Undisputed Truth』を開催するべくカナダのトロントを訪れたマイク・タイソンは、トロント市長のロブ・フォード氏と面会。
そして地元のトーク番組に生放送で出演した。
ロブ・フォードは、昨年、薬物使用を認めて物議を醸し出すなど問題の多い市長だった。
そんなロブ・フォードについて、マイク・タイソンに質問を投げかけたキャスターが思わず失言してしまった。
「あなたが有罪判決を受けた婦女暴行犯だという事実が市長選にダメージを与えかねないとの声もありますが、その意見をどう思われますか?」
「そんなことをいうのはアンタだけだろ!? 
コメントする必要はねえ。
エラくネガティブだな。
市長にはもう会ったんだからしょうがねえだろ!?
お前はクソ野郎だな! 
ファック・ユー!! 
ホントにお前はクソだ!!」
「生放送中ですよ」
「知ったこっちゃねえ! 
どうしろってんだ!?」
「今夜のワンマンショーに緊張していますか?」
「お前と婦女暴行の前科について話すほうがナーバスになるぜ。
ホントにお前はクソだ! 
ファック・ユー!!」
2015年、2度、世界ヘビー級チャンピオンになり、投獄され、自己破産したリディック・ボウが、レストラン「Bowe’s」をオープン。
「Bowe’s」は、116番街のフレデリックダグラス大通りにあるテーブル4つの小さなレストランで、ロティサリーチキンとジューサーでつくるフレッシュジュースを販売。
店の看板は肩にチャンピオンベルトをかけている筋肉質なリディック・ボウ。
室内は装飾でパンチングバッグをつけられ、スクリーンもあり、イベンダー・ホリフィールド戦など栄光の試合が映し出される。
47歳のリディック・ボウは月に2回は店に顔を出し、1人席に座って、求められばサインし、一緒に写真を撮った。
2016年12月17日、バーナード・ホプキンスが、WBC世界ライトヘビー級2位、WBCインターナショナルライトヘビー級王者、ジョー・スミス・ジュニアと対戦。
8R53秒、ジョー・スミス・ジュニアのパンチでリング下に転落し、20カウント以内にリングに戻れず、プロ初のKO負け。
試合後に引退を表明。
67戦 55勝 (32KO) 8敗 2引分 2無効試合。

2016年、50歳になったマイク・タイソンは、ラスベガスの丘の上にある豪華な家で家族と共に住んでいた。
ラスベガスは、エンターテインメント、ギャンブル、そして格闘技のメッカで歴史的なボクシングの試合も数多く行われてきた。
マイク・タイソンも、そのリングに何度も上がり、街での場外乱闘も含め、ボクシングの歴史に強烈な爪痕を残した。

Q:今のボクシング界に足りないと思うことはありますか?

「ボクシングの本当のゴールはお金を稼ぐことではなく歴史に名前を残すことです。
人々はボクシングを崇高な殴り合いの美学だといいますが、実のところ、私は「戦う」ことが好きなんです。
たしかに「戦い」という言葉にはネガティブなイメージがあり、政治的にも不適切な言葉かもしれません。
けれどもボクシングはなにより精神的な「戦い」です。
精神的な強さはボクシングの肉体で隠されてしまいますが、実際、選手たちはみなギリシャ神話のアキレウスのように、つまり英雄になりたいのです。

Q:もしあなたがいま子供だとしたら、やはりボクシングを始めたと思いますか。
それとも総合格闘技などに興味を持つでしょうか。

「わかりません。
私がボクシングの世界に入ったのは、まだ若かった頃にボクシングを教えてくれる人と出会ったからです。
もし彼がプロレスの選手だったら、プロレスを始めたと思います。
当時を振り返って、いまひとつだけいえるのは、チャンピオンになるための訓練をしたということです。
最終的にはボクシングの道に行きましたが、私にとって大切なのは「戦う」ことでした。
私は「戦い」において世界一になりたかったんです。
本当にクレイジーな夢だということは、わかっていますけどね」

Q:これまであなたの一挙手一投足はよいときもそうでないときも常に報道されました。
いまあなたは人生を挽回しチャンスを掴みました。
以前のあなたのような境遇にいる人に何かアドバイスはありますか?

「考え方を変えることが大切です。
それは他の誰でもなく自分にしかできません。
あなたはなりたい人間になれるのです。
あなたさえ、それを本当に望むのであれば。
もし「今日から画家になろう」と思ったのなら、その目標のために一所懸命努力しなさい。
画家としての人生を掴むまで諦めないことです。
私は詐欺師や泥棒のような人生を送ってきましたが、今は社会の一員として責任ある行動を取る人間になりました。
仕事から家に帰ると子供たちが、私を待っていてくれること、ここに存在していることに感謝します。
こんな家や家族を持てるような人間ではなかった私が、いま大切な家族とここに住んでいる。
感謝の気持ちで胸がいっぱいです」

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