最初のうちは亜星さんも西城秀樹さんも遠慮がちに演技をしていたそうですが、「ダメ! 本気になってやれ!」というプロデューサーの激が飛び、段々と熱くなっていったそうです。
本気度が増して、とうとう秀樹さんを縁側から庭へ突き落すまでに。
そうなると、秀樹さんが怪我をするまでになり包帯を巻いていた周平(秀樹)さんは、本当に怪我をされていたそうです。
それを観た女子高生のファンから、ものすごい量の抗議の手紙が届き「恐ろしいこと」も書いてあったとの事です。
当時の西城秀樹さんの人気を考えると想像できますが、亜星さん怖かったでしょうね。
■小林亜星の現在は?作曲はライフワーク
小林亜星、昨年3度入院していた「その時が来たらサヨナラってだけ」現在も毎日作曲かかさず : スポーツ報知
これは、2019年9月17日の単独インタビューで語られた言葉で、亜星さん87歳の時です。
その前年86歳の時は文春のインタビューに「いやあ86になっても、不良の癖は抜けませんね(笑)。」と答えられていたのですが、、、
きっと、今もコツコツ曲作りをされているのでしょうね。
寺内里子(設定48歳)ー加藤治子(当時51歳)
加藤治子さんは東京で呉服屋を営む家庭に生まれ、「松竹少女歌劇学校」から「松竹少女歌劇団」に入られました。
「松竹少女歌劇団」はミュージカルの劇団で当時、御舟京子(みふね きょうこ)の芸名でデビュー。
1939年に「東宝」から映画デビュー。以降、女優として様々な作品に出演。
1964年「七人の孫」で母親を演じ人気を得たことで、ホームドラマの母親役が当たり役になり「加藤治子」さんと言えば、「上品で優しいお母さん」のイメージです。
怒りんぼの昭和の頑固オヤジに寄り添う和服姿のお母さんに、なんだか安心感がありました。
脚本家の向田邦子先生とは公私共に親しく、
向田作品には欠かせない存在だったという事です。
長い間 名女優として活躍され、2015年11月2日 自宅にて92年間の生涯を閉じられました。
■加藤治子と樹木希林 50年にわたる友情
加藤治子さんと「きんお婆さん」を演じられた樹木希林さんは、1964年のドラマ「七人の孫」で共演して以来の仲だという事です。
ドラマ以外、CMでも共演されていましたね。
年齢は20歳以上も加藤さんの方が上なのですが、加藤さんは樹木希林さんの旧芸名「悠木千帆」にちなんで「ちほチャン」と呼び、樹木さんは加藤治子さんを「はるこサン」と呼ばれていたそうで、お2人でニューヨーク旅行へ行かれた事もあるんだとか。
樹木希林さんは「全身がん」を公表されていましたが、加藤さんも87歳の時に「乳がん」が発覚。
樹木さんが当時、通われていた鹿児島県の「癌治療」へお2人で通われることもあったようです。
(加藤さんの死因は癌ではなく、心不全でした。)
そんな友情を築いた加藤治子さんとの別れに樹木希林さんは…
樹木希林と加藤治子が通った…鹿児島の「がん放射線治療」病院とは(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(4/4)
寺内静江(設定23歳)ー梶芽衣子(当時26歳)
梶芽衣子さんは高校在学中、アナウンサーの「高橋圭三」さんにスカウトされ高橋さんが司会を務める「おのろけ夫婦合戦」のアシスタントに抜擢されます。
これがキッカケになり、1965年 高校卒業後に日活に入社 本名の「太田雅子」の名前で映画「悲しき別れの歌」でスクリーンデビュー。
「吉永小百合」さんの後継者と期待されていましたが、デビューから1年後には脇役に徹することに。
1969年 映画「日本残侠伝」に出演した際、マキノ雅弘監督に勧められ芸名を「梶 芽衣子」に改名すると、これが幸運を呼んだのか主演が続くようになる。
以降、
「70年代の映画界において最も客を呼べる女優」と評される活躍は海外でも人気を呼び、映画監督「クエンティン・タランティーノ」は、梶芽衣子さんの熱狂的ファンを公言されています。