広島で裕福な家庭に育ち、ジャズギターが趣味だった父親の影響で子供の頃からジャズスクールに通われていたそうです。
小学生で洋楽とは、さすがに同級生に話しが合う友達がいなくて音楽の話しはお兄さんとばかり。小学4年生の時には、そのお兄さんとエレキバンド「ベガーズ(beggars)」を結成。
この頃はすでに「ミュージシャンになりたい!」と夢をもっていた秀樹さんですが、一方で結構な「ワル」だったとか。
「売られた喧嘩で負けたことはいっぺんもない。」そうです。
GS全盛期の中学1年生の時に学校の文化祭でステージに立ち、女子生徒から人気となる。この頃から、ボーカルに魅力を感じ始める。
「ベガーズ」はメンバーの入れ替えにより「「ジプシー」を結成(リードボーカルを担当)。
「ジプシー」でヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト第一回、第二回に出場し、中国大会で優勝。
高校1年生の時にR&B喫茶「パンチ」から声がかかり、店のレギュラーバンドとして歌っていたところスカウトされる。
父親が厳格な人だったため芸能界入りを反対されたが、家出同然で上京し「芸映」に所属する。
1972年3月25日 「恋する季節」で歌手デビュー
郷ひろみさん、野口五郎さんと共に「新御三家」と呼ばれ、トップアイドルの座へ!
以降はご存知の通り、歌手としては勿論の事俳優としてもバラエティー番組でも欠かせない存在として広くファンの心を掴んでいきます。
「情熱の嵐」がオリコン初のベストテン入りし、ヒデキの人気に拍車がかかっていた頃に「寺内貫太郎一家」への出演になります。
多忙なスケジュールの中、愚痴一つこぼさず「寺内周平」役を演じられていたそうです。
特に、父「貫太郎」との親子ゲンカのシーンは本当に骨折するまで本気でケンカをしていたとか。
子供の頃から「ワルガキ」で「喧嘩っ早い」というヒデキさんですから、チョッと納得できる気もしますが(笑)
今の時代なら大問題ですね。
西城秀樹 - Wikipedia
西城秀樹さんのこういった仕事への姿勢や、スター気取りがまったくなく「気のいい近所のお兄さん」風の自然体なところが、ファンのみならず芸能界で共演者やスタッフから愛された所以でしょうね。
ヒデキの歌唱は「絶叫型」と呼ばれ、ハスキーな声を絞り出すように歌う姿がセクシーでしたね。
アイドル的な人気が高かった西城秀樹さんですが、歌唱力の方も一流アーティスト達が絶賛する歌声でした。
共演者で作曲家の小林亜星さんも
日本ではナンバーワンを争うような音楽性の高い歌手だったね。当時はアイドル的な人気が先行して、歌手としての実力が正当に評価されなくて、ほんとうにもったいなかったと思う。
https://tokyo.whatsin.jp/571554小林亜星と西城秀樹の出会いを演出した久世光彦のドラマ『寺内貫太郎一家』の全作品を観て | WHAT's IN? tokyo
リハビリを続けながらの歌手活動 最後のシングルは「めぐり逢い/Same old story 〜男の生き様〜」
西城さんは2001年秋に最初の「脳梗塞」を発症されて以降、厳しい闘病生活の中「再びステージに立つ」為にリハビリに励まれました。それは、最後お亡くなりになられる直前まで続けられていたそうです。
生涯、歌うことに情熱を注ぎこまれてきた"西城秀樹"さんですが、2018年5月16日 ご家族に見守られる中 63歳で旅立たれました。
「LOVE SONGを永遠に」 “戦友”西城秀樹と野口五郎の絆
野口五郎デビュー50周年 ステージは“戦友”西城秀樹さんと共に | 女性自身
「新御三家」の3人の中で家族ぐるみで仲の良かった「野口五郎」さんは、共にスターの座へ登りつめた「戦友」から、闘病生活を支え又、秀樹さんが亡くなった後は奥さまやお子さまの支えになられているようです。
「LOVE SONGを永遠に」優しくて心に染みわたるいい曲です。
寺内きん(設定70歳)ー悠木千帆のちに樹木希林(当時31歳)
樹木希林さんは高校時代 演劇部に所属していたものの大学へ進学して薬剤師になろうと思っていたそうです。
が、大学受験直前にスキーで足を怪我した為、大学進学を断念。
1961年に文学座一期生として付属演劇研究所に入り、芸名「悠木千帆」として女優活動をスタートさせます。
文学座研究所では付き人を務める程、杉村春子さんに可愛がられていて後に文学座の正座員となられています。(1966年に退団)
1964年にレギュラー出演したテレビドラマ「七人の孫」で一躍人気を獲得。
1970年から放送が始まった水曜劇場「時間ですよ」で個性派女優として不動の人気を得る。20代の頃から老婆役を演じ、老け役が当たり役になっていて、「寺内貫太郎一家」でもまさにリアルにお婆さんでしたね。
70歳の「寺内きん」さんを当時、31歳の悠木千帆(樹木希林)さんが演じられていました。
完璧に老婆を演じる為に、髪の毛だけでなく、まつげまでも脱色した上で老けメイクをされていたそうです。
「きん婆さん」がいつも指ぬき手袋をつけていたのは、手が露出すると若さが目立ってしまうからという理由でした。
腰の曲がり具合も完璧で、「ジュリー」が大好きな姿が可愛らしかったですね。
第29話では本物の「ジュリー」沢田研二さんがゲスト出演されたのも楽しかったです。
2012年に公開された映画「わが母の記」で「第36回日本アカデミー賞」の最優秀主演女優賞
に輝いた際、受賞スピーチで「全身ガン」を公表。
その後も数々の映画に出演され、個性派女優として記憶に残る作品を世に送り出し 2018年9月15日 75歳で永眠されました。
女優として自分の中に哲学を持ち、沢山の出演作と沢山の受賞歴を残された「樹木希林」さんですが、個性的な生き方も又、記憶に残っています。
ロックミュージシャン・内田裕也との夫婦関係<夫という重し>
内田裕也さんと樹木希林さんは、1973年に結婚され半年後には暴力が原因で別居。
普通ならそのまま離婚となるはずですが、40年以上も別居のまま夫婦関係を続け、希林さんが亡くなると後を追うように裕也さんも亡くなられました。
女性問題や大麻所持事件など破天荒すぎる夫に振り回されてきた希林さんですが、「純なものがひとかけら見えるから。自分も逃げないで引き受ける」と離婚をせずに裕也さんを支えてこられたようです。
そして又、希林さんにとっての「夫・内田裕也」は自分を制御するための「重し」
希林さんは東京・港区内にある内田家のお墓で眠っておられますが、生前には「死んだ後は同居ね」と笑っておられたとか。
夫婦には夫婦にしかわからない絆があるものです。
無駄な物をそぎ落とした潔い生き方<モノがあるとモノにおいかけられます>
「トロフィーを電気スタンド」って大爆笑のコメントですが、TV番組で希林さんのご自宅が紹介された時、本当に電気スタンドに様変わりしたトロフィーが置いてありました。
余計なモノを増やしたくないので人からモノを貰うのが嫌いで、お中元をくれた人には「今後は二度と贈らないで下さい」と連絡されていたというエピソードもあります。
旧芸名「悠木千帆」をオークションで売って芸名を「樹木希林」に変更
樹木希林 - Wikipedia
新しい芸名は、辞書を引いて文字を拾いながら希林さん自ら決められたそうです。
「樹や木が集まり希(まれ)な林を作る=みんなが集まり何かを生み育てる」
樹木希林の実家「叶屋」が9月27日をもって閉店
樹木希林さんの実家として知られる横浜・野毛にある居酒屋「叶家」さんが、長い歴史に一旦幕を閉じられました。
「悠木千帆」時代の希林さんが手伝うことがあったり、一人 隅っこで静かに飲まれている事もあったそうです。
希林さんの姪っ子さんが切り盛りされていたようですが、想い出の場所というのはこうして消えてゆくこともありますね。
でも、希林さんの数多くの作品や名言は、いつまでも心に残ります。
相馬ミヨコ(設定18歳)ー浅田美代子(当時18歳)
東京都港区の自動車修理工場を経営する家庭に育った"浅田美代子"さんは、高校2年生の時に街頭でスカウトされます。
このスカウトの時に事務所関係者と一緒に居たのは、なんと!西城秀樹さんだったそうです。
ご両親が芸能界入りを反対された為、ドラマ「時間ですよ」の新人オーディションを受ける事になり、約25,000名の中から見事に合格。
1973年2月14日「時間ですよ」(第3シリーズ)のお手伝い「相馬ミヨコ」役でデビュー
「相馬ミヨコ」の名前は、「寺内貫太郎一家」へ引き継がれていますね。
「時間ですよ」は当時、ホームドラマの中でも国民的人気番組だった為、浅田美代子さんにも人気が集まり、劇中で歌ったデビュー曲「赤い風船」も大ヒットとなりました。
歌唱力には色々な意見がありますので、そこは置いておいて(笑)とっても可愛かったですよね。