寺内貫太郎一家 あらすじとキャスト

1974年1月16日~1974年10月9日 TBS水曜劇場で全39話放送
平均視聴率「31.3%」を記録した人気ドラマで、「寺内貫太郎一家2」やスペシャルドラマ3本も放送されました。
寺内家の最後となった「寺内貫太郎一家2000」は、第1作目からなんと26年後!
すぐにちゃぶ台をひっくり返す短気で頑固なオヤジは、脚本家「向田邦子」先生のお父様がモデルだということです。
体重が100キロを超すドでかい頑固オヤジの迫力は凄かったですし、一人一人のキャラクターが丁寧に描かれていて魅力的でした。
”昭和の古き良き時代”
「向こう三軒両隣」どころか町内中が親戚みたいだった、今の時代なら「ウザイ」と思われるような関係性もユーモアたっぷりに描かれていて、笑いあり涙あり…そして心温まるドラマでしたね。
寺内貫太郎 | 小林亜星 | 寺内家の主人・頑固オヤジ | 49歳~50歳 |
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寺内里子 | 加藤治子 | 貫太郎の妻・優しくて働き者 | 47歳~48歳 |
寺内静江 | 梶芽衣子 | 寺内家の長女・事故に遭い左足が不自由 | 23歳 |
寺内周平 | 西城秀樹 | 寺内家の長男・浪人中 | 18歳~19歳 |
寺内きん | 悠木千帆(樹木希林) | 貫太郎の母・沢田研二の大ファン | 70歳 |
相馬ミヨコ | 浅田美代子 | 寺内家のお手伝い | 17歳~18歳 |
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倉島岩次郎(岩さん) | 伴淳三郎 | 石貫の職人 | 66歳 |
榊原為光(タメさん) | 左とん平 | 石貫の職人 | 35歳~36歳 |
寺内貫太郎(設定50歳)ー小林亜星(当時41歳)

小林亜星さんは「ご両親が医師にしたかった」という事で、医学部に入学したものの医師にはなりたくなくて、ジャズなど音楽に惹かれていったそうです。その結果、ご両親には内緒で勝手に医学部から経済学部に移られています。
大学卒業後、一般企業に就職するも仕事が面白くない!「人間は好きなことをやるに限る」と思って退職し、作曲家「服部正」先生に弟子入り。
CMソングを中心とした作曲家として活躍する。
代表作は
<CMソング>ふりむかないで・ワンサカ娘・日生のおばちゃん・この木なんの木
童謡「あわてんぼうのサンタクロース」
アニメ「ひみつのアッコちゃん」のオープニングテーマ
都はるみ「北の宿から」
小林亜星さんは「寺内貫太郎」のインパクトが強いので俳優のイメージですが、作曲家としての功績が大きい方です。
「寺内貫太郎一家」が亜星さんの俳優デビュー作となります。
当時、TBSでドラマの音楽を担当していた関係で「貫太郎」役の話しがきたそうです。
「高木ブー」さん、「フランキー堺」さんに打診したけれど忙しくて断られた為、「巨漢の人」を探していたという事だったとか。
亜星さん曰く
「意外とデブが芸能界にはいないぞ!って、役が飛び込んできた。」
この時の亜星さんは長髪だった為、脚本家の「向田邦子」先生からは「あんなスケベそうな人」と嫌がられたそうです。
そこで、プロデューサーから「坊主にして来い!」と言われ、坊主頭で半纏(はんてん)を着て黒縁の丸眼鏡をかけた姿になると、向田先生から「これが貫太郎よ!」の言葉。
「貫太郎」は向田先生のお父様がモデルという事なので、そっくりだったのでしょうね!
「よくどなり、よく殴る」お父様だったようです。
親子げんかのシーンは名シーンの一つにあげられますね。
秀樹ファンから大量の抗議の手紙が届いた!
最初のうちは亜星さんも西城秀樹さんも遠慮がちに演技をしていたそうですが、「ダメ! 本気になってやれ!」というプロデューサーの激が飛び、段々と熱くなっていったそうです。
本気度が増して、とうとう秀樹さんを縁側から庭へ突き落すまでに。
そうなると、秀樹さんが怪我をするまでになり包帯を巻いていた周平(秀樹)さんは、本当に怪我をされていたそうです。
それを観た女子高生のファンから、ものすごい量の抗議の手紙が届き「恐ろしいこと」も書いてあったとの事です。
当時の西城秀樹さんの人気を考えると想像できますが、亜星さん怖かったでしょうね。
■小林亜星の現在は?作曲はライフワーク
小林亜星、昨年3度入院していた「その時が来たらサヨナラってだけ」現在も毎日作曲かかさず : スポーツ報知
これは、2019年9月17日の単独インタビューで語られた言葉で、亜星さん87歳の時です。
その前年86歳の時は文春のインタビューに「いやあ86になっても、不良の癖は抜けませんね(笑)。」と答えられていたのですが、、、
きっと、今もコツコツ曲作りをされているのでしょうね。
寺内里子(設定48歳)ー加藤治子(当時51歳)

加藤治子さんは東京で呉服屋を営む家庭に生まれ、「松竹少女歌劇学校」から「松竹少女歌劇団」に入られました。
「松竹少女歌劇団」はミュージカルの劇団で当時、御舟京子(みふね きょうこ)の芸名でデビュー。
1939年に「東宝」から映画デビュー。以降、女優として様々な作品に出演。
1964年「七人の孫」で母親を演じ人気を得たことで、ホームドラマの母親役が当たり役になり「加藤治子」さんと言えば、「上品で優しいお母さん」のイメージです。
怒りんぼの昭和の頑固オヤジに寄り添う和服姿のお母さんに、なんだか安心感がありました。
脚本家の向田邦子先生とは公私共に親しく、
向田作品には欠かせない存在だったという事です。
長い間 名女優として活躍され、2015年11月2日 自宅にて92年間の生涯を閉じられました。
■加藤治子と樹木希林 50年にわたる友情
加藤治子さんと「きんお婆さん」を演じられた樹木希林さんは、1964年のドラマ「七人の孫」で共演して以来の仲だという事です。
ドラマ以外、CMでも共演されていましたね。
年齢は20歳以上も加藤さんの方が上なのですが、加藤さんは樹木希林さんの旧芸名「悠木千帆」にちなんで「ちほチャン」と呼び、樹木さんは加藤治子さんを「はるこサン」と呼ばれていたそうで、お2人でニューヨーク旅行へ行かれた事もあるんだとか。
樹木希林さんは「全身がん」を公表されていましたが、加藤さんも87歳の時に「乳がん」が発覚。
樹木さんが当時、通われていた鹿児島県の「癌治療」へお2人で通われることもあったようです。
(加藤さんの死因は癌ではなく、心不全でした。)
そんな友情を築いた加藤治子さんとの別れに樹木希林さんは…
樹木希林と加藤治子が通った…鹿児島の「がん放射線治療」病院とは(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(4/4)
寺内静江(設定23歳)ー梶芽衣子(当時26歳)

梶芽衣子さんは高校在学中、アナウンサーの「高橋圭三」さんにスカウトされ高橋さんが司会を務める「おのろけ夫婦合戦」のアシスタントに抜擢されます。
これがキッカケになり、1965年 高校卒業後に日活に入社 本名の「太田雅子」の名前で映画「悲しき別れの歌」でスクリーンデビュー。
「吉永小百合」さんの後継者と期待されていましたが、デビューから1年後には脇役に徹することに。
1969年 映画「日本残侠伝」に出演した際、マキノ雅弘監督に勧められ芸名を「梶 芽衣子」に改名すると、これが幸運を呼んだのか主演が続くようになる。
以降、
「70年代の映画界において最も客を呼べる女優」と評される活躍は海外でも人気を呼び、映画監督「クエンティン・タランティーノ」は、梶芽衣子さんの熱狂的ファンを公言されています。
なんと!YouTubeを開設されていました。
それまで映画ではハードボイルド系を演じられてきた梶芽衣子さんが、ホームドラマに出演されるという事でファンはビックリ!ご本人も抵抗があったと明かされています。
頑なに出演を断り続けていたそうですが、当時の久世光彦プロデューサーの粘り強さに根負けし出演を決められたようです。
慣れないホームドラマに不安が一杯の中、恋人役が日活時代に共演が多かった「藤竜也」さんだった事で救われたそうです。
■梶芽衣子 2020 最新情報
43年ぶりのオリジナルフルアルバム「追憶」を2018年3月4日に発表!
「クールビューティ」という言葉がありますが、まさに梶芽衣子さんにピッタリの表現ですね。
きっと「クールビューティ」の元祖は"梶芽衣子"さんに違いないでしょう。
今もお美しさは健在です。
NHKドラマ「天使にリクエストを〜人生最後の願い〜」に出演!
放送期間: 2020年9月19日~
放送時間:土曜 21:00~ 21:49
回数:5回(予定)
余命いくばくもない女性「大松幹枝」役
寺内周平(設定19歳)ー西城秀樹(当時19歳)

広島で裕福な家庭に育ち、ジャズギターが趣味だった父親の影響で子供の頃からジャズスクールに通われていたそうです。
小学生で洋楽とは、さすがに同級生に話しが合う友達がいなくて音楽の話しはお兄さんとばかり。小学4年生の時には、そのお兄さんとエレキバンド「ベガーズ(beggars)」を結成。
この頃はすでに「ミュージシャンになりたい!」と夢をもっていた秀樹さんですが、一方で結構な「ワル」だったとか。
「売られた喧嘩で負けたことはいっぺんもない。」そうです。
GS全盛期の中学1年生の時に学校の文化祭でステージに立ち、女子生徒から人気となる。この頃から、ボーカルに魅力を感じ始める。
「ベガーズ」はメンバーの入れ替えにより「「ジプシー」を結成(リードボーカルを担当)。
「ジプシー」でヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト第一回、第二回に出場し、中国大会で優勝。
高校1年生の時にR&B喫茶「パンチ」から声がかかり、店のレギュラーバンドとして歌っていたところスカウトされる。
父親が厳格な人だったため芸能界入りを反対されたが、家出同然で上京し「芸映」に所属する。
1972年3月25日 「恋する季節」で歌手デビュー

郷ひろみさん、野口五郎さんと共に「新御三家」と呼ばれ、トップアイドルの座へ!
以降はご存知の通り、歌手としては勿論の事俳優としてもバラエティー番組でも欠かせない存在として広くファンの心を掴んでいきます。
「情熱の嵐」がオリコン初のベストテン入りし、ヒデキの人気に拍車がかかっていた頃に「寺内貫太郎一家」への出演になります。
多忙なスケジュールの中、愚痴一つこぼさず「寺内周平」役を演じられていたそうです。
特に、父「貫太郎」との親子ゲンカのシーンは本当に骨折するまで本気でケンカをしていたとか。
子供の頃から「ワルガキ」で「喧嘩っ早い」というヒデキさんですから、チョッと納得できる気もしますが(笑)
今の時代なら大問題ですね。
西城秀樹 - Wikipedia
西城秀樹さんのこういった仕事への姿勢や、スター気取りがまったくなく「気のいい近所のお兄さん」風の自然体なところが、ファンのみならず芸能界で共演者やスタッフから愛された所以でしょうね。
ヒデキの歌唱は「絶叫型」と呼ばれ、ハスキーな声を絞り出すように歌う姿がセクシーでしたね。
アイドル的な人気が高かった西城秀樹さんですが、歌唱力の方も一流アーティスト達が絶賛する歌声でした。
共演者で作曲家の小林亜星さんも
日本ではナンバーワンを争うような音楽性の高い歌手だったね。当時はアイドル的な人気が先行して、歌手としての実力が正当に評価されなくて、ほんとうにもったいなかったと思う。
https://tokyo.whatsin.jp/571554小林亜星と西城秀樹の出会いを演出した久世光彦のドラマ『寺内貫太郎一家』の全作品を観て | WHAT's IN? tokyo
リハビリを続けながらの歌手活動 最後のシングルは「めぐり逢い/Same old story 〜男の生き様〜」
西城さんは2001年秋に最初の「脳梗塞」を発症されて以降、厳しい闘病生活の中「再びステージに立つ」為にリハビリに励まれました。それは、最後お亡くなりになられる直前まで続けられていたそうです。
生涯、歌うことに情熱を注ぎこまれてきた"西城秀樹"さんですが、2018年5月16日 ご家族に見守られる中 63歳で旅立たれました。
「LOVE SONGを永遠に」 “戦友”西城秀樹と野口五郎の絆
野口五郎デビュー50周年 ステージは“戦友”西城秀樹さんと共に | 女性自身
「新御三家」の3人の中で家族ぐるみで仲の良かった「野口五郎」さんは、共にスターの座へ登りつめた「戦友」から、闘病生活を支え又、秀樹さんが亡くなった後は奥さまやお子さまの支えになられているようです。
「LOVE SONGを永遠に」優しくて心に染みわたるいい曲です。
寺内きん(設定70歳)ー悠木千帆のちに樹木希林(当時31歳)

樹木希林さんは高校時代 演劇部に所属していたものの大学へ進学して薬剤師になろうと思っていたそうです。
が、大学受験直前にスキーで足を怪我した為、大学進学を断念。
1961年に文学座一期生として付属演劇研究所に入り、芸名「悠木千帆」として女優活動をスタートさせます。
文学座研究所では付き人を務める程、杉村春子さんに可愛がられていて後に文学座の正座員となられています。(1966年に退団)
1964年にレギュラー出演したテレビドラマ「七人の孫」で一躍人気を獲得。
1970年から放送が始まった水曜劇場「時間ですよ」で個性派女優として不動の人気を得る。20代の頃から老婆役を演じ、老け役が当たり役になっていて、「寺内貫太郎一家」でもまさにリアルにお婆さんでしたね。
70歳の「寺内きん」さんを当時、31歳の悠木千帆(樹木希林)さんが演じられていました。
完璧に老婆を演じる為に、髪の毛だけでなく、まつげまでも脱色した上で老けメイクをされていたそうです。
「きん婆さん」がいつも指ぬき手袋をつけていたのは、手が露出すると若さが目立ってしまうからという理由でした。
腰の曲がり具合も完璧で、「ジュリー」が大好きな姿が可愛らしかったですね。
第29話では本物の「ジュリー」沢田研二さんがゲスト出演されたのも楽しかったです。

2012年に公開された映画「わが母の記」で「第36回日本アカデミー賞」の最優秀主演女優賞
に輝いた際、受賞スピーチで「全身ガン」を公表。
その後も数々の映画に出演され、個性派女優として記憶に残る作品を世に送り出し 2018年9月15日 75歳で永眠されました。
女優として自分の中に哲学を持ち、沢山の出演作と沢山の受賞歴を残された「樹木希林」さんですが、個性的な生き方も又、記憶に残っています。
ロックミュージシャン・内田裕也との夫婦関係<夫という重し>
内田裕也さんと樹木希林さんは、1973年に結婚され半年後には暴力が原因で別居。
普通ならそのまま離婚となるはずですが、40年以上も別居のまま夫婦関係を続け、希林さんが亡くなると後を追うように裕也さんも亡くなられました。
女性問題や大麻所持事件など破天荒すぎる夫に振り回されてきた希林さんですが、「純なものがひとかけら見えるから。自分も逃げないで引き受ける」と離婚をせずに裕也さんを支えてこられたようです。
そして又、希林さんにとっての「夫・内田裕也」は自分を制御するための「重し」
希林さんは東京・港区内にある内田家のお墓で眠っておられますが、生前には「死んだ後は同居ね」と笑っておられたとか。
夫婦には夫婦にしかわからない絆があるものです。
無駄な物をそぎ落とした潔い生き方<モノがあるとモノにおいかけられます>
「トロフィーを電気スタンド」って大爆笑のコメントですが、TV番組で希林さんのご自宅が紹介された時、本当に電気スタンドに様変わりしたトロフィーが置いてありました。
余計なモノを増やしたくないので人からモノを貰うのが嫌いで、お中元をくれた人には「今後は二度と贈らないで下さい」と連絡されていたというエピソードもあります。
旧芸名「悠木千帆」をオークションで売って芸名を「樹木希林」に変更
樹木希林 - Wikipedia
新しい芸名は、辞書を引いて文字を拾いながら希林さん自ら決められたそうです。
「樹や木が集まり希(まれ)な林を作る=みんなが集まり何かを生み育てる」
樹木希林の実家「叶屋」が9月27日をもって閉店
樹木希林さんの実家として知られる横浜・野毛にある居酒屋「叶家」さんが、長い歴史に一旦幕を閉じられました。
「悠木千帆」時代の希林さんが手伝うことがあったり、一人 隅っこで静かに飲まれている事もあったそうです。
希林さんの姪っ子さんが切り盛りされていたようですが、想い出の場所というのはこうして消えてゆくこともありますね。
でも、希林さんの数多くの作品や名言は、いつまでも心に残ります。
相馬ミヨコ(設定18歳)ー浅田美代子(当時18歳)

東京都港区の自動車修理工場を経営する家庭に育った"浅田美代子"さんは、高校2年生の時に街頭でスカウトされます。
このスカウトの時に事務所関係者と一緒に居たのは、なんと!西城秀樹さんだったそうです。
ご両親が芸能界入りを反対された為、ドラマ「時間ですよ」の新人オーディションを受ける事になり、約25,000名の中から見事に合格。
1973年2月14日「時間ですよ」(第3シリーズ)のお手伝い「相馬ミヨコ」役でデビュー
「相馬ミヨコ」の名前は、「寺内貫太郎一家」へ引き継がれていますね。
「時間ですよ」は当時、ホームドラマの中でも国民的人気番組だった為、浅田美代子さんにも人気が集まり、劇中で歌ったデビュー曲「赤い風船」も大ヒットとなりました。
歌唱力には色々な意見がありますので、そこは置いておいて(笑)とっても可愛かったですよね。
1973年の第15回日本レコード大賞で新人賞を受賞
以降、数々のドラマや映画に出演し歌手としてもヒットしていましたが、1977年7月にフォークシンガー「吉田拓郎」さんと結婚・芸能界を引退し主婦業に専念。
1983年に吉田さんと協議離婚が成立し芸能界へ復帰、以降それまで以上にドラマや映画に出演する一方、天然キャラが人気となりバラエティー番組でも活躍されています。
「寺内貫太郎一家」では、母親を亡くして新潟からやってきた「お手伝い」のミヨちゃんを演じられていました。
初回の放送でお手伝いとしてやってきたミヨちゃんはお下げ髪が初々しく、もうそれだけで「お手伝いのミヨちゃん」として成立していました。
きん婆ちゃんとのドタバタも面白かったですね。
きん婆ちゃんを演じた「樹木希林」さんとは、「時間ですよ」で共演して以来の大親友で、樹木さんが亡くなるまでの浅田さんの人生の中にはいつも樹木希林さんの存在があったそうです。
樹木さんから教わったことは数えきれないくらいあるとか。
浅田美代子「樹木希林さんに教わったこと」 | hers-web.jp
■浅田美代子 2020 最新情報
朝が来る(2020年10月23日公開予定) - 浅見静恵 役で出演
実の子を持てなかった夫婦と、実の子を育てることができなかった14歳の少女を繋ぐ「特別養子縁組」によって、新たに芽生える家族の美しい絆と胸を揺さぶる葛藤を描くヒューマンミステリー。
http://asagakuru-movie.jp/映画『朝が来る』公式サイト | 10月23日(金)ロードショー!
寺内貫太郎一家が帰ってくる!!「寺内貫太郎一家2」再放送
10月22日(木)毎週夜7:00スタート
「寺内貫太郎一家」は出演された主要なキャストの方が亡くなられていますが、後に語られたお話によると、本当の家族のように仲が良かったようです。
その心の通い合った演技が、人情味あふれる素敵なホームドラマを作り上げたのでしょうね。
今の時代に見直してみたいドラマです。
最後までおつき合い頂き、ありがとうございました。