オリックスバッファローズ入団

2005年12月5日、清原和博は電話で仰木彬監督に、オリックスバッファローズで復活を賭ける意志を伝えた。
「キヨ、明日大阪に来てくれへんか」
そういわれたが都合がつかず断った。
12月15日、仰木彬は肺ガンによる呼吸不全のため亡くなった。
3年ぶり、70歳で監督に就任。
球場の階段を自力で上ることができず外野の大道具搬入口からグラウンドに出入りし、ベンチで動けなくなったり居眠りしたりしながら、病を隠し気丈に振舞った。
そして2005年シーズン最後までチームを指揮し、その2か月後に亡くなった。
「グラウンドで倒れたら本望」
といった通りの人生だった。
その日、清原は名球会の会合でハワイにいっていたが、ホノルルで訃報を聞き、すぐに日本に帰った。
「キヨ、ワシや」
「大阪に戻ってこい」
「お前の花道はオレがつくったる」
そういう仰木に対して、清原は
「客寄せパンダとして自分が欲しいのではないか?」
と少しでも疑っていた自分を恥じた。
清原は自分の人生において後悔していることはたった2つだけあり、1つは覚醒剤使用、そして仰木の死についてだという。
2006年2月20日、清原は正式にオリックスバッファローズへの入団を発表。
家族を東京に残し、兵庫県芦屋市で一人暮らしを始めた。
球団が吉本興業と業務提携したことから吉本新喜劇にも出演することもあった。
芸人がボケて、舞台上の全員が転ぶ中、膝のせいか清原だけはよろけるが転ぶことはなかった。
2006年4月、シーズン開幕して間もなく、日本ハム戦で196個目(プロ野球記録)のデッドボールを受ける。
逆転!満塁!サヨナラ!ホームラン!
2006年5月27日、スカイマークスタジアムで行われたオリックス vs 横浜ベイスターズ戦。
0対3で迎えた9回裏、1死満塁。
ピッチャーは、ハマの守護神、最速162km/hのストレートと151km/hのフォークボールを持つマーク・クルーン。
打席は4番、清原。
そして152㎞/hのストレートを右中間スタンドにたたき込んだ。
清原の23年間のプロ野球のキャリアの中で1本だけのサヨナラ逆転満塁ホームランだった。
「野球を辞めずによかった」
東京ドーム、巨人ファンから「キ・ヨ・ハ・ラ」コール

2006年6月14日、東京ドームで行われた交流戦で、清原は昨年の戦力外通告後、巨人との初対戦。
3点リードの7回、
「代打、清原」
が告げられると巨人ファンは総立ち。
オリックスファンの声援をかき消すほどの「キ・ヨ・ハ・ラ」コールが起こった。
清原は内野ゴロに倒れ、昨年8月に堀内監督から戦力外を伝えられた東京ドームのライトスタンドにヘルメットを掲げた。
大ケガ

2006年9月、日本ハム戦で打って走り出した瞬間、左膝にこれまで感じたことのないような痛みが走った。
2005年に手術して以来、以前のようなバッティングはできなくなっていた。
しかし違和感がありながらもフルスイングでき、ホームランも打てた。
しかしその膝が、再び、突然爆発した。
「またか」
「もうダメかもしれない」
清原は初めて引退を意識した。
結局、このシーズンは、67試合に出場し、打率2割2分2厘、ホームラン12本という成績だった。
同時期に桑田真澄が自身のホームページでジャイアンツ退団を示唆。
4月13日、走塁中に右足首を捻挫し、4月27日、広島戦では3回途中6失点でKOされ、4月29日には1軍から登録が抹消されていた。
引退か、他球団で現役を続行するのか、注目された。
そして11月2日、2007年シーズンよりメジャーリーグに挑戦することを表明。
12月20日、ピッツバーグ・パイレーツと契約。
キャンプに参加し、開幕メジャー入りを目指した。
清原もオリックスで現役を続行。
2007年シーズンに向けてキャンプに参加した。
しかし左膝の痛みはひどくバッティング練習では踏ん張れないため、打球は飛ばず、軽く打っているフリをした。
2007年2月、清原は開幕レギュラーを断念し、東京の病院で内視鏡手術を受けた。
毎週、神戸から通院したが、左膝はあまり回復しなかった。
そのうち普通に歩くことも困難になり、階段も、「右、左、右、左・・」と降りることができなくなり1段1段、右と左が揃うようになった。
「自分のように大きなサイズの選手が多いアメリカなら・・・」
とロスアンゼルスの病院で世界的なドクターに診てもらったが
「You`re Old Man」
といわれ、望みは見出せず、帰国。
2007年3月26日、桑田はパイレーツのオープン戦で登板。
センター前ヒットを打たれ、三塁ベースカバーに入ったとき、球審と激突し、右足首の靭帯を断裂してしまう。
パイレーツは桑田を解雇せず、故障者リストに入れて、リハビリをサポートした。
そして2007年6月2日、3Aのインディアナポリス・インディアンズで、公式戦初登板を果たした。
この投球が評価され、2007年6月9日にメジャー昇格。
2007年6月10日、39歳70日でヤンキースタジアムのマウンドに立ち、メジャー初登板を果たす。
大手術

2007年7月6日、清原は神戸医大で「軟骨骨移植手術」を受ける。
損傷のない部分の軟骨を損傷している部分に移植するという、主に歩行が困難になった高齢者に施される手術で、プロスポーツ選手ではまだ前例がなかった。
損傷の少ない部分から軟骨を骨ごと円柱状にくり抜かれ、損傷の激しい部分に穴が開けられ、それが打ち込まれた。
10カ所、穴が開けられた左膝は、術直後、頭部のように腫れ上がった。
固定された両サイドから金属とチューブが出ていて黒い血がパックの中に流さた。
その後、寝た切り生活が数週間続いた。
2007年8月14日、桑田は1勝も挙げられないまま、ピッツバーグから戦力外通告を受けた。
19試合に登板し、0勝1敗、防御率9.43だった。
清原はリハビリを開始。
まずは松葉杖をつく練習だった。
次に床に広げて置かれたバスタオルを足の指で引っ張る練習。
毎日、午前中はひたすらタオルを指でつかむ練習を繰り返した。
何度も諦めそうになりながら
「もう1本、ホームランを・・・」
と思い直しリハビリを続けた。
装具をつけて歩けるようになるまで半年かかった。
結局、2007年シーズンは1度も試合に出られなかった。
12月10日の契約更改では、野球協約の減額制限(40%)を超える45%、9000万円ダウンの1億1000万円で更改された。
穴だらけの壁

2008年度シーズンも2軍調整が続いた。
リハビリが進み、芦屋の自宅への帰宅が認められ、1人、テレビで巨人阪神戦をみていた。
オリックスに入団したときは巨人の首脳陣を後悔させてやるつもりだった。
しかし現状は相手の思惑通りに進んでいる。
むしゃくしゃして大量の酒を飲んだ。
「いつになったら野球ができるんだ!」
気持ちが昂ぶり部屋に置いてあったバットを持った。
すると体は支えきれずバランスを崩し左膝に痛みが走った。
清原は、情けなくなりバットを手首だけで壁に叩きつけ、穴だらけにした。
ずっとバットだけは大切にしてきた。
寝るときも一緒に寝て、PL学園の最後の夏の甲子園でサヨナラ勝ちしたときもバットは離さなかった。
しかしこのときは情けなさや腹立たしさで止められなかった。
そして穴だらけの壁をみて呆然とした。
数日後、穴は、亜希夫人の手と子供が絵を描いた画用紙によってふさがれた。
家族以外にも、長渕剛、松坂大輔、イチロー、先輩、同輩、後輩、球団スタッフたちから応援を受けた。
2008年3月26日、桑田がアメリカフロリダ州ブラデントンのパイレーツのキャンプ地で練習を行い
「(今日の)試合が終わってから」
と話し、試合後、現役引退を表明した。
「ここで燃え尽きたという気持ちになれた。
やれることはやったし何ひとつ悔いはないという気持ちになった」
翌日のニュースでそれを知った清原は、抜け殻化してしまい、リハビリと練習を3日も休んでしまった。
その後、リハビリを続けた結果、術後8ヵ月でようやくバッティング練習ができるようになった。
装具をつけた左膝は逃げてしまい打球に力はなく飛距離も出なかった。
「あと1本、ホームランを打ちたい」
それだけを目標に練習を続けた。
最後のKK対決
2008年7月29日、桑田は8月3日に1軍復帰が決まった清原のバッティングピッチャーを買って出た。
パイレーツのユニフォームを着てスカイマークスタジアムのマウンドに立った桑田は、引退後もこの日のために毎日、ピッチング練習を続けてきた。
オリックスのユニフォームでバッターボックスに立った清原も、大きな手術とリハビリと練習を経てつくってきた体で渾身の力でバットを振った。
何球目かに清原が打ち返したライナーが桑田の左足を直撃。
しかし桑田はポーカーフェイスで投げ続けた。
31球のバッティング練習の後、2人は真剣勝負を行った。
初球はボール。
2球目、ファール。
3球目、空振り。
4球目、ファール。
5球目、ファール。
6球目、桑田の真ん中高のストレートを清原は空振り三振。
2人は歩み寄り、マウンドとバッターボックスの真ん中で抱き合った。
2008年8月2日、清原は会見を開いた。
「もう来年はグラウンドに立てないだろうと思います」
そして8月3日、1軍に合流。
7回に代打で出て空振り三振に終わった。
手術して痛い思いをして、長いリハビリを経て、やっとグラウンドに戻ったが、みるのがつらいほどバットに力がなかった。
「まぐれでもいいからあと1本、ホームランが打ちたい」
毎試合、5回が過ぎると座薬を入れ、痛み止めの薬を飲み、ベンチ裏で素振りをして、いつでも代打に出られるように準備した。
そして打席に立てばホームランを狙った。
しかし1軍に復帰して2ヵ月間、ヒットも2塁打も打ったが、ホームランは打てないまま、10月1日のシーズン最終戦を迎えた。
最終戦
2008年9月29日、オリックスは西武戦で延長戦の末に勝利し、11年ぶりの2位、初のクライマックスシリーズ進出を決めた。
そして10月1日に京セラドーム大阪で行われたリーグ最終戦は、清原の引退試合となった。
相手は王貞治が率いるソフトバンクだった。
試合前、清原は王から花束を贈られた。
王は23年前のドラフト会議のとき、巨人の監督。
西武時代、清原は毎年自らの年度ごとの通算本塁打数を王のそれと比較していた。
子供のころからの憧れとドラフト以来の憎しみが入り乱れた存在だった。
「生まれ変わったら必ず同じチームでホームラン競争しような」
そう王に耳元で囁かれたとき、清原の心の奥にあった氷が溶けてなくなった。
(王さんは、あのことをずっと思っていてくれたんだ)
清原は、4番・DH(指名打者)」で約2年ぶりの先発出場。
試合前、痛み止めの薬を飲み、坐薬を入れてグラウンドに立った。
ソフトバンクの杉内俊哉は、清原に対し容赦ないて全力投球で勝負にいった。
2回裏、清原の第1打席は、3球目を打ち上げライトフライ。
4回裏、第2打席は、1死1塁、カウント2-1から140㎞/hのストレートを空振り三振。
その直後、ローズの40号ホームランでオリックスが2点先取。
6回裏、阿部真宏のタイムリーで3対1となり、なお1死1塁の場面で、清原はカウント2-1からタイムリー2塁打を決めた。
8回裏、最終打席となった第4打席。
清原は2-2からフルスイングで空振り三振した。
西武、巨人、オリックスを渡り歩き、22年間で、2122安打、525ホームラン、1530打点。
しかし首位打者、最多本塁打、最多打点、三冠王などのタイトルは無く
1番三振したバッター(1955回)
1番デッドボールを受けたバッター(196球)
1番サヨナラホームランを打ったバッター(12本)
というプロ野球最多記録、そして多くのエピソードや感動を残した。
オリックスが4対1で試合に勝利した後、引退セレモニーが行われた。
長渕剛が「とんぼ」を熱唱。
清原は直立不動で聞き入った。
2人の息子から小さな花束を受け取り、グラウンドを1周。
ホームベースで選手の輪に吸い込まれ5度宙を舞った。