読者の皆さんはかつて、どんな人生を歩みたいと夢見ましたか?
野球選手やサッカー選手、アーティストや芸能人。
政治家に宇宙飛行士にと、きっと様々な人生を思い描いたことと思います。
志して挫折して、気が付けば会社員になっていたり。
そんな十人十色の人生がある中で、実に異色な道を歩む方がいらっしゃいます。
明治大学教授、堀田秀吾先生。
かつて志し、そしてそのステージ目前まで辿り着いた人生から一転、まったく異なる境地でもう一度駆け上がっていった人生。
今回ミドルエッジ編集部(ミド編)は、明治大学の堀田秀吾教授にお話を伺って参りました。
堀田秀吾教授
堀田秀吾 - Wikipedia
メジャーデビュー目前!?堀田先生の少年時代
-本日はよろしくお願いいたします。法と言語学の研究分野で第一人者でいらっしゃる堀田先生の半生を伺えたらと思っています。
「宜しくお願いします。教授になったのはほぼ偶然で、それは後ほどお話します。実は全然それを目指していたわけじゃないんですよ。」
-えっ、そうなんですか??それではまず子供のころからお伺いできればと思います。
「小学生の時はよくいる元気な皆勤賞系の小学生でした。あんまり病気もしないし冬でも半ズボン。服装といえば、あの頃ってプーマとか、アシックスとか、アディダスをみんなこぞって着ていた時代でした。当時から僕はプーマが大好きで、いまだによく着てます(笑。」
-みんな着てましたね~(笑
秘密基地にメンコにスーパーカー消しゴムにウルトラマン!
ガキ大将だった少年時代
「小学生の頃はスーパーカーブームでスーパーカー消しゴムを集めてました。それをBOXYで飛ばして。バネを二重にしたり裏にセメダインを塗ると速いとかね(笑。」
「僕らの世代はファミコンやDSなどもなかったので、メンコとかやっていましたね、あと遊びって言ったらハンカチ落としとか。近所のガキ大将的な役割だったので周りの子たち集めて野球もやったし鬼ごっこもやったし。」
「秘密基地をつくったりとかもしましたね。それとドラえもんが始まったのは小学校3年くらいだったかな。連載がコロコロコミックで始まって。創刊号から持ってた気がします。」
「ウルトラマンは、リアルタイムで放映していたのはタロウとかですね。お祭りに行けばウルトラマンのお面を買いました。ウルトラマンの消しゴム――そうウルトラマン消しゴムは地域で1番持ってたんじゃないかな?2000体くらい持ってましたからね。大きなクーラーボックスのなかに入れてて(笑。」
冒頭から堀田先生の話につい惹きこまれて、お互いの少年時代を語ってしまいました。
地元ではガキ大将だったと笑う堀田先生。
活発に遊んだ少年時代からその好奇心が向かった先は「音楽」でした。
「母親がフォークソング世代で白いギターを持つのがトレンドだったらしく、9歳の時に母親が白いフォークギターを買ってきて僕に習わせたのが最初なんです。なんか気に入ったんでしょうね、それからずっとギターをやっています。」
本気でプロを目指し、9社からのスカウト!
「中学に入る頃になってからは楽器にのめりこんじゃって。ギター、ドラム、ベース、キーボードなど片っ端からやってたんですけど、いまだにシンセ2台とギター7台にベースと電子ドラムを所有しています。DTMも最近はやってます。音楽は自分のライフワークみたいなところがありますね。当時は本気でプロを目指してました。」
-そして結果、なんと9社からスカウトが来ました。
「色んな話をいただいて。僕らのバンドって当時、ライブハウスで200人くらい集められたんですよね。グラムロックを意識した派手な服装でロックやってました(笑)。で、今考えるとお恥ずかしい限りですが、当時はもしかしたらプロでも食べていけるかなって無謀にも思ってたんですけど、やっぱり東京って層がすごく厚くて、埼玉県でいくら有名でも東京に出てくるとほんとゴミみたいな感じなんです。全然名前売れてなくても腕のある人がいっぱいいて。これはダメだと思って高3の時に当時の事務所を辞めました。」
-あまりにも判断が早いような印象を受けますね。
「なんだろう、デビューするまでは簡単だけど売れるのは難しい。周りが何人もデビューしていくけれど誰も売れてないんですよ。実際にいま残ってる人はひとりもいないですし。周りも苦労してるの見てて、僕はそういう意味ではデビューまでも辿り着いてなかったから。一緒にやってる人たちがあんなレベル高いのにこんなにくすぶってるんだ、じゃあ、僕なんか絶対無理だなって思って…それで辞めたんです。」
世はバブル景気!当時のバリバリのエピソード!?
「結局大学生になると1、2年の頃はチャランポランだったかな~。テニスサークルに入ってイッキ飲みをしまくってみたいな。ホント典型的な当時の大学生でした(笑。」
「まさにバブルを謳歌してました。当時の仲の良い友達が後のジュリアナ東京のチーフDJになったりしてました。そういう自由な時代でしたよほんとに。」
「中学・高校の頃は、週に何日かは東京に出て遊んでました。でも地元に帰ると結構普通に部活やってっていう感じですね。陸上部とか入って。ただ世代的には不良が多い世代でした。金八先生の第2シリーズ全盛の時代だったんで校内暴力とかもすごかったし。」
-制服は短ランボンタンですか、それとも長ランドカンですか?
「残念ながら、そういうのは着ませんでしたね。僕はパンクファッションっていう、当時流行っていた細身のズボンでサスペンダーをしてましたね。原宿の古着屋とか行って買ってました。」
「母親が渋谷生まれ渋谷育ちで母の実家が渋谷にあったので、週末になるとおばあちゃんちのほうに行って、いつも泊まってました。で土日は地元の友達がロッケンローラー族のチームに入って踊っていたりしたので、原宿のホコ天に遊びに行って、僕はローラー族じゃないんでお話だけして帰ってくるみたいな。タケノコ族とかもまだ残党がいましたね(笑。」
まさに当時をリアルタイムに体感されていた堀田先生のコメントが躍動します。
そんななか、スタッフの方からツッコミが…!
-え!?
「ああそうそう。当時は音楽としてもファッションとしてもヘビメタとか流行ってたしパンクスも流行ってましたよね。そういう意味じゃ僕も例外なくそういう格好してました。服のあちらこちらに鋲や鎖がじゃらじゃらついていて、背中に安全ピンも200個くらいついて、そのうえ昔の軍隊のマークの腕章が付いていたり。それって僕のライブ衣装の一張羅だったんで、それを着てデートに行ったんですよ。そしたらその子、二度と会ってくれなくなっちゃって(笑。」
「髪型はそこまで派手じゃなくて、――ちょっと立ってるくらいチェッカーズみたいな頭だったんですけど。でも自分はロッケンローラーだという意識があるから、チェッカーズの格好はしないんですよ。だからなのか極端なほうに走っていくんですよね、間違えられちゃイヤだから。で、いき過ぎた結果ドクロのシャツとか着ちゃったりね(笑。」
ファッションの話からクールスにあぶ刑事。
もはや目の前でインタビューしているのが大学教授とは思えない話の展開です。
「結構そういう意味では高校でも大学でも異端児というか、変わってましたね。大学院に入学した時の写真が最近でてきたんでフェイスブックにアップしたんですけれども、こんな格好で大学院入学してるの僕だけでしたからね」
「本当のアメリカ人はしないという、日本流「アメカジ」でした。当時シカゴ大学って全米でトップ3に入るぐらいの学校だったんですけどこんな格好で日本から来てる奴なんてひとりもいなかったから最初はすごくいろいろ言われました。」
これがそのお写真!
修士過程のつもりが博士課程??
-ここで改めて、高3で音楽でのメジャーデビューを断念してからアメリカに赴くまでをお話しいただけませんか?
音楽の道から一転、大学教授の道へ
「音楽事務所の名前は出せませんけれど、かつてモンスターユニットを数多く生んだ某音楽事務所でして、そこに入って頑張ってたんですけど層が厚くて。ここでは多分僕のチャンスは無いなと判断して辞めました。」
「普通に大学に行って勉強していたらなんか海外に行く道が開けたんです。当時は高校の先生とか中学の先生になりたいなと思って英語教師としての箔を付けにアメリカに行ったんですよ。」
「そしたら、そこで人生最大の勘違いが起きまして、修士課程に入って1年で帰ってくるつもりが修士課程なんてシカゴ大学にはなかったんですよ。なんと、間違って博士課程に入っちゃってたんです。だから1年で帰ることが出来なくて、周囲のすすめもあって、仕方がないので博士号を取って帰国したら大学の先生になることになったっていうとんでもない方向転換というか、勘違い(笑。」
「思い立ったら一直線に走ってしまうタイプの人間なのでよく分からずに進んで行っちゃうわけですよ。何も考えないで行ってるから、状況を理解出来た時には、もう時は既に遅しで。ヤバい間違えた!もうやるしかない!!ってまた突き進んで行ったら此処にいた、みたいなとこありますね(笑。」
のめりこんだ学問「言語学」と「法学」
-音楽の道を諦めて、次にのめりこんだ道がそのまま今に繋がったという…。
「だからある意味、僕のなかではこの結果はちっともブレてなくて、なんでもやりだしたら、のめりこんで突き進むという生き方なんですよね。それがたまたま音楽の後が言語学っていう学問だったわけです。言語学にのめり込んだきっかけは、大学2年生の時に教わった先生が言語学の先生で、先生のもとで学んでいくうちにこれ面白いじゃんと思って。」
「その方がアメリカの大学院を出た先生だったんで、アメリカ留学っていいなと思って留学のための勉強を始めました。そうして、アメリカで博士号が取得出来たら今度は法律の世界に興味が出てロースクールに行ったりして。そうやってその場その場を全力で走って、気がついたらその道でなんとか食べていけるようになったって感じです。」
「だからそういうそれぞれの時代に自分の進路を決めるきっかけになったのは、人との出会いっていうのはありますね。当時珍しかった海外の大学院に進学しようと思ったのも、言語学を勉強しようと思ったのも、大学でその先生と出会ったから。もともと中学高校の先生になろうと思ったのも、中学の時の先生に心酔してたから。その先生が英語の先生だったから自分も英語の先生になろうと思ったっていうのはあると思いますね。」
変わらないのは突き進むエネルギーと自己表現への欲求
9歳で出会ったギターを初め、節目で出会ったヒト/モノへの関心が自身の次へのエネルギーとなり道を突き進む原動力となった堀田先生。
「音楽はいまでも趣味でやっていますよ。でもたぶん、当時音楽に打ち込んだのは、自己表現で世に自分の名前を知らしめたいって部分があったと思うんです。まあそこでは成功しなかったけど今は本とか色々出すようになって、なんだかんだ自己表現の場を得ることが出来ました。」
「そういう意味では形は変わりましたが、当時から目指してるものは根幹の部分では実現出来ているかなと自分では思っていますね。」
10年のめりこんだ言語学、そして法学に
先ほどの略歴にもありますが「勘違い」でシカゴ大学博士号取得の後、立命館大学で教鞭を執った堀田先生。
2004年からはヨーク大学のロースクールに進み、ここでもまた博士過程に進まれています。
「そうですね。法学をやろうって思ったのは2000年です。もう言語学だけだと面白くないと思って。10年やったんで。」
-えっ??