いまもなお世界の男性を魅了し続けるマリリン・モンロー!!
マリリン・モンローとは??
映画『ナイアガラ』(1953年)出演時のマリリン・モンロー
マリリン・モンローの出生証明書
生後6ヶ月頃のマリリン
マリリン・モンローは、チャーミングだが何処か憂いを持った笑顔で多くの人々を魅了したが、その笑顔は不遇な子供時代に周囲の大人たちの歓心を買うため自然と身に付いたものだと言われているのだ。今や、天才子役全盛時代となったが、オーディションなどで笑顔の印象的な子役を選んでみると、両親の離婚など家庭に複雑な事情を抱えている子供が多いそうで、マリリンにちなんでこの名が付けられたそうだ。
マリリンが19歳の頃に雑誌『YANK』に掲載されたもの
マリリンのその写真ネガを見せられた商業写真家のポッター・ヒューズにマリリンは雑誌のカバーガールになることをすすめられると、工場を辞めてハリウッドのモデルクラブ「ブルーブックス・モデルズ・エージェンシー」の専属モデルに応募した(勿論、ポッター・ヒューズの強力な後押しがあればこそだが・・・)。ここでモデルの基礎教程をみっちり仕込まれる。やがて新進の写真家アンドレ・ド・ディーンズと知り合い、モデルとしての才能を開花させる。この年、二人で長い撮影旅行に出かけている。ド・ディーンズはその後、髪をゴールデン・ブロンドに染めたセクシーなピンナップが売りものの雑誌に写真が掲載されるようになる。
マリリンの本当の髪の毛の色は??
マリリンの本当と髪の毛の色は、茶色に近い色で、あの美しいブロンドの髪は染めたものだったのだ。「プレイボーイ」誌にその見事な裸体を載せた際にも、勿論アンダーヘアーの方も茶色でしたが、抜かりなく、金髪に染められていた。自分で、茶色のアンダーヘアーを漂泊していて、薬剤でヤケドしたこともあったそうだ。そのため、有名なシャネルの5番に加えて、裸のまま股間に氷をはさんで寝たというエピソードも残っている。
ちなみに、私もお湯で股間を火傷したことがあるが、それはそれはデリケートな部分の火傷は痛いことこの上なかった。まさに生き地獄の様でした!!。
悩ましい!!マリリン!
さあ、皆さん!!お待ちかねの写真だ!!
Playboy International Specials - First Edition Reprint
1951年にエージェントのジョニー・ハイドの尽力で『アスファルト・ジャングル』、『イヴの総て』に出演、注目される。以後、数本の映画に脇役で出演し、1952年の『ノックは無用』で準主役。1953年『ナイアガラ』では不倫相手と夫の殺害を計画する悪女を主演し、腰を振って歩く仕草(モンロー・ウォーク)で世の男性の注目を集める。続く『紳士は金髪がお好き』(1953)、『百万長者と結婚する方法』(1953)や『七年目の浮気』(1955)が大ヒットして一躍トップスターとなった。
出演作の紹介
マリリン・モンローの最大の魅力は、そのセクシーさでは決して無い。子供じみた可愛らしさ、悪く言えばノータリン、良く言えば、脳の一部が少女のまま成長してしまった女の天真爛漫さを堂々と演じ通すところにある。
たとえダンスがプロっぽくなくても、そのぎこちなさが逆に愛らしく狂おしい。意図的でやり過ぎな流し目を飛ばしながら動き回るだけで充分なのである。それだけで彼女の魅惑的パフュームが、画面を越えて溢れ来る。
魔術的なまでのまぶた使いや、もったいぶった口の動かし方、瞳孔を開きっ放しにした表情作りも、匠的な技では決してないものの、彼女がするからこそその魅力は拡大拡張する。
そこまで見え見えの大袈裟な誘惑顔をしなくても、という演技でも、全く嫌味を感じさせない、そこにマリリン・モンローの特異さがある。
ローレン・バコール,ベティ・グレイブル,マリリン・モンローのスター三人が出ていて、軽いのりのコメディで、まずまず楽しめる映画だ。
まず、マリリンが殆ど眼鏡なしでは何も見えない設定が面白いし、ベティを見たのはミュージカルが殆どだが、懐かしい女優の一人だ。役者としては、やはりローレンが一枚上手で、ウィリアム・パウエルに言い寄る時「年上が好きで、例えば’アフリカの女王’のハンフリー・ボガートのような」という台詞が面白い。当時、彼女は25才年上のボギーの奥さんだったのだ。
酒場でギタ-をかき鳴らしながら歌うモンロ-は実に妖艶である。そのモンロ-が一転してジ-ンズを穿き洗いざらしのシャツを着て筏で激流に挑まざるを得なくなる。同行のミッチャムに協力してその息子と共に筏の舵を操作して激流の飛沫を浴びている内に、酒場女としての脂粉が洗い流され素のオンナに戻ってゆき、自然の光を浴びても色あせぬ素肌の魅力を獲得するに到る。眠たげな目のミッチャムはあくまでも男らしく息子(トミ-・レティッグ)は健気で、この二人に家族として迎えられたモンロ-は、もう必要としなくなった赤いハイヒ-ルを捨て二人と肩を並べて馬車でホ-ムへ向かうのだった。マリリン・モンロー渾身の作品。
七年目の浮気(特別編) [DVD]
マリリン・モンローと2番目の夫ジョー・ディマジオ(右)(1954年)
その後、”セックスシンボル”を脱したかった彼女は、ニューヨークに移りリー・ストラスバーグが主催するアクターズ・スタジオで演技の指導を受けていて、『アンナ・クリスティ』や『欲望という名の電車』を演じ好評を博した。
アーサー・ミラーとの結婚式時
大統領まで虜にしてしまう魔性の女・マリリン!!
1961年にミラーとの離婚に先立つ1959年頃から、ケネディの妹の夫で俳優のピーター・ローフォードやフランク・シナトラの紹介で、前年に大統領となったジョン・F・ケネディと肉体関係にあったことが、ローフォードやモンローの家の家政婦のレナ・ペピートーンなどの多数の証言により明らかにされている。
ケネディ大統領の誕生日祝賀会の後にケネディ兄弟と話すマリリン(1962年5月19日)
花の命は短くて・・・
遺体が発見されたモンローの家(1992年)