1948年
別所引き抜き事件

別所毅彦
1948年から1949年にかけて起こった日本のプロ野球投手・別所毅彦(当時は別所昭)をめぐる移籍騒動である。別所が当時所属していた南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)の待遇に不満を持ち、そこへ優勝に向けて補強を模索していた読売ジャイアンツ(巨人)の思惑が絡んで、巨人と他球団の有力選手確保をめぐる紛争までに発展した。
別所の不満とは?

別所毅彦 べっしょ・たけひこ
南海ホークスの投手・別所昭は1946年に19勝、1947年に30勝を記録し、名実共に南海のエースであった。
別所本人は旧制中学時代から巨人入団を望んでいたが、当時は親権者による契約が優先され実家が入団契約した南海に入団した。
また「実働年数が短い」という理由で年俸も低く抑えていた。
1949年
三原ボコボコ事件

三原脩
1949年の日本のプロ野球公式戦に於いて当時の東京讀賣巨人軍監督・三原脩が相手チームの選手を殴打した事件。
真相は?

筒井 敬三
1949年4月12日から始まった後楽園球場での巨人対南海の3連戦は殺伐とした雰囲気に包まれた。
一塁手の川上哲治が二塁に送球してフォースアウトし、遊撃手の白石勝巳が一塁に転送しようとしたとき、一塁走者の筒井敬三が白石に組み付くように滑り込み、白石は送球できず、併殺が崩れた。
白石と筒井が口論になる中、巨人ベンチを飛び出した三原脩監督は守備妨害だと強く津田四郎審判にアピールしたが認められなかった。三原はベンチに帰ろうとすると、筒井と白石がまだ口論となっていた。これを見た三原は自分を抑えきれなくなり、筒井の頭を殴打した。
この事件で三原は無期限出場停止処分を受けた。
救済運動によって三原は出場停止期間は100日に減じられ、同年7月23日で監督に復帰した。
三原監督排斥運動事件

水原茂
シベリア抑留から帰還した水原茂への扱いに不満を持っていた多くの選手達が、
三原に替えて水原を監督にするよう求めた騒動。
これを受けて、翌年から三原は総監督に異動し、水原が選手兼任監督に就任した。
1956年
木戸美摸投手負傷事件

木戸 美摸(きど よしのり)
広島総合球場での対広島東洋カープ戦後に、大敗に激高した広島ファンがグラウンドに投げ込んだビール瓶により木戸美摸投手が負傷した。
結果
球場で販売する飲料物が紙コップ類に限定され、ビン・カン類の持ち込みが制限されるきっかけとなった事件。
1973年
甲子園球場阪神ファン乱入乱闘事件

ジェット風船を飛ばす阪神ファン
甲子園での対阪神タイガース戦で巨人がセ・リーグ9連覇を達成した直後、激昂した阪神ファンが多数グラウンドに乱入し巨人選手やよみうりテレビの放送席などに襲いかかった。
このとき王貞治は下駄で顔を殴られたといわれる。このためグラウンドでの胴上げは中止され、宿舎の大広間で行われた。
湯口事件

湯口敏彦
読売ジャイアンツに投手として所属した湯口敏彦が1973年3月22日に急死したことをきっかけに、監督の川上哲治はもとより、球団全体へのバッシングに発展した事件。
発生に至るまでの経緯
1973年3月22日夕、湯口は病院のベッドで変死体となって見つかった。
球団・病院は「湯口敏彦投手の死因は心臓麻痺」と発表したが、湯口の死因を巡り、
マスコミからは「湯口の死は自殺で、その原因は球団にあるのではないか」と非難されることとなる。
週刊ポストは湯口の急死を「事件」と報じ、死から約2週間後「巨人軍・湯口敏彦投手の死は自殺だった」という特集記事を掲載。湯口の父親の手記を登場させるなどバッシング報道を展開した。これに報知新聞以外のスポーツ新聞・週刊誌も追随したため、スポーツマスコミのほぼ全体から非難を受けることになった。
1978年
江川事件

作新学院 江川卓
【海星堂】名古屋の古本屋 古本/雑誌/写真集/DVD買取販売 スポーツ
1978年のドラフト会議前日にプロ野球セ・リーグの読売ジャイアンツとの電撃的な入団契約を結んだ投手・江川卓の去就をめぐる一連の騒動である。江川問題(えがわもんだい)、江川騒動(えがわそうどう)、空白の一日(くうはくのいちにち)とも言われる。
発端は?
当時ほぼ全球団のスカウトが江川の家を訪問・交渉をする中、
野球協約の盲点をついた巨人が、ドラフト会議の前日に江川卓と電撃契約したことに発する騒動。
巨人側は「ドラフト会議の前日は自由の身分で、ドラフト外の選手として入団契約可能」と解釈し、ドラフト外入団という形で契約締結を決行する形となった。
1985年
定岡正二投手のトレード拒否事件

定岡正二
定岡正二投手が当時、近鉄へのトレード移籍を拒否した事件。
内容

定岡 正二
オフにトレード要員となり、ベテラン捕手有田修三との交換トレードで近鉄バファローズへの移籍が発表されるが、移籍を拒否。任意引退というかたちで突然の現役引退を表明。
29歳の若さでプロ野球界から引退した。
このとき相談を野球関係者ではなく友人のデザイナーなどに持ちかけ、「巨人のまま辞めた方がいい」とのアドバイスを受けたという。
KKドラフト事件
PL学園高等学校の桑田真澄と清原和博を巡るプロ野球ドラフト会議での騒動。

1986年 PL高校 清原和博 桑田真澄
高校野球 KKコンビ 甲子園 1986年 PL高校 清原和... - ヤフオク!
概要
PL学園高等学校の桑田真澄と清原和博は、1年生時からエースと4番としてそれぞれ活躍。
清原はプロ入りを志望し、読売ジャイアンツへの入団を希望。
桑田は大学への進学を表明。
しかし、1985年のドラフト会議(11月20日開催)では巨人は清原ではなく、桑田を1位で単独指名して交渉権を獲得。
清原には6球団が1位指名で競合し、抽選の結果西武ライオンズが交渉権を獲得した。
その後、清原は西武に入団、桑田も早稲田大学の入学試験を辞退し巨人に入団した。
1990年
広島市民球場忍者事件
試合中に一人の男が本塁側の網フェンスによじ登り「巨人ハ永遠ニ不ケツデス!」「ファンヲアザムクナ!」「天誅!悪ハ必ヅ滅ビル!」の垂れ幕を下げた(垂れ幕は他に1種あったが、これは下げることができずに落下)。これはNHKのプロ野球中継でも一部始終が放送された。
【画像】『爆笑THEフライデー』で元広島・川口和久が因縁の“クモ男”と対面 : なんでもnews実況まとめページ目
桑田真澄投手の登板日漏洩疑惑事件

中牧 昭二
中牧昭二 - Wikipedia
桑田と専属契約を結んでいたスポーツ用具メーカーを解雇された中牧昭二が、桑田が自らの登板日を知人に漏らしていたことを暴露本で明らかにした。
話が膨らみ

桑田真澄(くわた ますみ)
2000年
暴露本で桑田が「前科がある人」に登板日を教えたらしい旨の記述があったため、桑田が野球賭博に関与しているのではないかとの憶測を招き、その件も週刊誌やスポーツ紙等で騒がれることとなった。
しかし、野球賭博に関与した事実はないことが後に分かり和解となった。
杉山直輝捕手の強制わいせつ致傷事件

杉山直輝
R-motion(アールモーション)|サインカード|巨人
スナックに居合わせた女性の体に触れ、靴で頭を殴ったとして逮捕された事件。
本件により読売ジャイアンツを解雇されています。
最後に・・・
いかがだったでしょうか?
また面白そうなネタがあったらまとめてみたいと思います。
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