DDTプロレス高木三四郎「90sナイトライフ回想録」

これぞ伝説の一枚!
このコラムは人気プロレス団体「DDTプロレス」社長兼レスラーとして君臨する高木三四郎がプロレス業界に足を踏み入れる以前、90年代東京のディスコやクラブ界隈で名うてのイベンターとしてキラキラ輝いていた若き日を回想するコラム。
その風景にはバブル期のTV局から90年代東京のナイトライフを彩ったディスコやクラブ、そして当時の煌びやかな人間模様までが赤裸々に描かれます。
ミドルエッジ読者のみなさんで90年代の若かりし頃を東京で過ごした方、もしかしたら当時の高木社長と意外な接点があったかもしれませんよ!?
本邦初公開のネタが次々に明かされる、コラム第4回は「リベンジの舞台はジュリアナ!」をお届けします。
(聞き手:ミドルエッジ編集部)
リーグの没落、ハコ取り屋の台頭
-圧倒的な集客力と仕切りきれなかったイベントの内容。様々な思いが同居した芝浦GOLDでのイベントデビュー戦だったと思います。学習院の仲間と袂を分かち、その後はどのように展開されたのでしょう?
当時は1990年、大学4年だったかな…。前回の続きとなりますが結局どうしようってなりました。
その翌年にジュリアナ東京が出来て、芝浦GOLDはもう無理だと思っていたので「よし、ジュリアナでやろう!」と。
とはいえ、ジュリアナでのイベント実績はもちろんないですから段取りが分からないんですよ。で、当時「ハコ取り屋」っていう人種が出始めていたんです。これちょうど、前回お話ししたリーグが没落し始めた代わりに台頭してきた勢力で。

-一大勢力を誇ったイベントサークルが没落して、代わりにイベントサークルとお店双方に顔が利くハコ取り業が台頭してきたと。
バブルの崩壊も関係あるんでしょうかね。要するにクラブイベントの場所貸しを手掛ける代理店のような機能を持った存在が、どんどん力を持ち始めました。
この後のクラブイベント/イベントサークルの歴史は、このハコ取り屋の歴史でもあるわけなんです。
彼らはハコ(お店)と例えば年間20本分のイベント契約をまとめて行うんですよ。すると当時のマハラジャで50~60万が一般料金だったところ、20~30万くらいで契約が出来てしまうんです。
そして彼らはそこに10万ほどの利益を乗せて学生イベンター向けに30~40万で提供する。結局、捌く力がある集団がどんどん台頭していきました。
ジュリアナ1回200万!?
このハコ取り屋にジュリアナの件を相談するんですよ。すると200万円の提示があったんですね。
正直、200万も!?って感覚です。大体当時のパー券相場が3,000円くらいだったんで、最低でも700人は入れないといけない…。
だからそれはしんどいな、どうにか値引き交渉しないとって。
で、僕はハコ取り屋が値段に乗っけている分が嫌だなと思って、じゃあハコ取り屋を外しちゃえばいいじゃん!と。
当時、ハコ取り屋と呼ばれる人たちはバックに変なのがいたりして、そういう力をちらつかせながら、俺を経由しろってのがあったんですけど。でも僕らは新興勢力だし、基本的に知り合いもいないじゃないですか。だから別にそんな奴ら通してやることなんてないって(笑。
ジュリアナと直談判!
で、ジュリアナに直接行こう!となって電話して行ったんです。
電話して「すみません、イベントやりたいんですけど」って。でも単にジュリアナにイベントを売り込みに行ってもハコ貸しの定価は高いじゃないですか。200万という金額だって定価よりは随分と安い印象でしたから。
ここで、当時のハコ貸しって大体フリードリンク/フリーフードがついていたんですよ。大体、バイキング形式でのフードが併設してあって、それも込みでの料金設定でした。
でもぶっちゃけ、フードなんていらないわけです(笑。ドリンクだってキャッシュオンにしちゃえば随分と落とせると思っていました。
ただ、そうやって交渉していってもジュリアナはせいぜい150万?いや、やっぱり200万を切ることも厳しいんじゃないか?なんて色々と考えてしまいます。
で、どうしようとなった時に、僕が「芸能人呼ぼう」と。
芸能人を呼んでイベントにしちゃおう、と。イベントにしてお店にとってのプロモーションとしてバーター出来るんじゃない?っていうのを企んだです。
「ハコを借りる」からプロモーションバーターの提案へ
その辺の発想は自分でもテレビ的な感覚だったなと思っています。
なんでこの発想が出来たかといいますと、テレビの業界で何となく経験していたんですね。
例えばですが、某バラエティ番組のディレクターから
「番組内で商品とかさ~、露出したりすると宣伝効果高いと思うんだよね~、そういうの希望する企業って探せばあると思わない?」なんて言われたんです。
「広告掲載料払ってでも希望する企業ってあるんじゃないかな~、だとしたらお金をいただいちゃってもいいよね~、たかぎがお金もらってこっちに半分回してくれる?」って。
まあ、悪い人ですよね(笑
でもいまとなってはそれって間違いなく広告商品です。当時から色々考える人がいて、多少なりともその影響をうけていたんですよね。
「プロモーション」という言葉を使えばなんとかなる!
そんな感じで「プロモーション」という言葉を使えばお金が動いたりモノが安くなる、もしくはモノがタダになる仕組みが何となく分かってたというか(笑。
だからジュリアナに芸能人呼んでイベントにしてしまって「プロモーションやるので協力いただけませんか?」って持ち掛ける形にすればいけるんじゃないかなって。
どういうネタにしようか?って考えた時に、たまたま仕出しの仕事で飯島愛ちゃんの事務所の社長と仲良くなっていたんです。まだギルガメとかよりも前の頃ですね。
そこでTバックアイドル「飯島愛」!
この頃の彼女は「お尻Tバックにしてる子だよね」みたいな感じで、すでにかなりの人気がありました。だからイベントにこういう子が一人居るだけで随分と違うだろうなと。
で、社長さんとギャラ交渉をしまして。もちろんお金ないのでこちらも企画で交渉です(笑。
「社長!僕、愛ちゃんをイメージモデルにしたミスコンをやりますから」「それをジュリアナ東京でやります!」って。
当時は「ディスコでイケイケギャル」みたいな流れがあって、そこで「キングオブイケイケ選手権」「キングオブイケイケコンテスト」みたいなミスコンがよくあったのでミスコンを提案したんです。要はディスコとかクラブとかに遊びにくるような女の子を集めて第二の飯島愛を発掘!みたいなのをやりませんか?って言ったら社長がノッてきて。
愛ちゃんのイメージ戦略にも合致していたので「じゃあ愛ちゃんのギャラは安くするから」ってなって、最初50万だったギャラ提示が10万か20万くらいになったのを覚えています(笑。
ヤングマガジン、東京Walkerもノッテキタ!!
飯島愛ちゃんを起用出来たことで媒体も動いてくれまして、ヤングマガジンと東京Walkerがこのミスコン企画を特集してくれることになりました。
で、そのネタを持ってジュリアナに交渉行ったんです。これだけの露出がありますよ!と。
加えて「やはり僕はディスコ文化が好きなんで~」とか適当なことを話しつつ(笑、ディスコ文化でスポットを浴びた女の子たちを対象にしたミスコンをジュリアナでやりますのでジュリアナ東京という名前が話題になります、だからハコ代を安くしてください、と。
で、結局ジュリアナは100万で借りれました。多分当時のジュリアナのハコ貸しでは最安値だったと思います。
イベントとしては事実上、あれが一発目でしたね。今でも本当に僕の中で原点だったイベントです。やはり飯島愛ちゃんという人気急上昇中だったタレントを起用して、媒体ともハコとも連携交渉して。
キングオブイケイケコンテスト「愛は芝浦を救う」
-どこかで聞いたことのあるフレーズです(笑
ええ、もう完全にパロディー!
僕のDDTのパロディーネタとかも、全部こういうところからひっぱってきてるというか、全部ここに原点がある(笑。
芝浦GOLDのリベンジを果たせたというか、やっぱり会場に芸能人が来るってだけで違うんですよね。「得した感」があって。この企画を通じてイベントと芸能人の相性を感覚で知ることが出来ました。
パーティーからイベントへ
ジュリアナの大成功でクリエイティブ21という名は「イベント屋」っぽい印象で広まっていきました。
僕たちとしても、従来のパーティーサークルと一緒にしないで欲しいという気持ちがあったんですよ。人を集めてパーティーやるだけの存在から芸能人やタレントの招致と媒体連携まで仕込めるイベント屋に向かっていく。そこには拘りを持ってやっていましたね。
イベント自体も、3時間なら3時間できっちり構成を組んでイベントとして成立させる。
芝浦GOLDでの失敗がイベンターとしての拘りに
この辺りの考えは、芝浦GOLDでの手痛い失敗なくしては芽生えなかった意識かもしれません。
一発目から成功していたら多分やめたと思うんですよ。一発目で「あー。よかったねー」で終わっていたと思うんです。ところが大失敗して、僕らメインのスタッフが会場に入って呆然と立ち尽くす、みたいな原風景(笑。
外を見れば目が血走った連中が「主催どこだ!」で、逃げながら中に入ってみたらもうフロアの統制がとれていない。ただ音楽が流れててダラダラ踊ってるだけみたいな。
ほんとはもっといろんなイベントを考えてやろうとしていたのに何も出来なかったデビュー戦。
何のためにやったのかもわからないし、お客さんにただひたすら、お金払って来てくれたお客さんや友達に申し訳ないっていう気持ちがやはりあって。やっぱりその雪辱がジュリアナだったんですよ。
ジュリアナの成功で一躍「時の人」へ
当時の僕らは別にイケイケな雰囲気ではなかったですし、どちらかというと企画プロデュース研究会や広告研究会みたいな雰囲気だったと思うんです。
ただジュリアナの一件で一気に注目度が上がりまして。
「飯島愛」「ジュリアナ」「イベント」やっぱり派手じゃないですか。
自分で「時の人」っていうのも気持ち悪いけど、一躍そんな評価になりまして、方々のパーティーやイベントに呼ばれるようになったんですね。「こっち来てください」みたいな。で、人脈も出来たりして。行くたびに新しい人脈が出来始めた頃でしたね。

-まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだったんですね。クラブのVIP交流で更に輪が広がって。
そうですね。
イベントに呼ばれていってVIPに座っていろんな人と人脈も出来て、の繰り返し。
その傍らでクリエイティブ21としての主催も打って、ただこの後にクリエイティブ21が…。
-え??
いや、それはまた後のお話で。
とにかく、この頃は飯島愛ちゃんの事務所からとても可愛がられまして。
「彼女の更なるイメージアップのために何かいい方法はないかな、高木君?」みたいな感じで、夜な夜な六本木のキャバクラ三昧だったわけです(笑。
事実関係だけいいますと、93年に「愛は芝浦を救うパート2」を実施します。
ただその前に世間に物議を醸した(?)「バレンタイン企画」を企画したんです(笑。

渋谷騒然!「バレンタイン企画」
タレント募集 飯島愛も当社出身!
渋谷騒然!?
93年、バレンタインデーの渋谷に飯島愛がロールスロイスのオープンカーで登場!!
男性諸氏がヤラレタあの「Tバック」ポーズを白昼堂々と!!!
次回、あの伝説の「バレンタイン企画」に迫ります。
【次回】渋谷騒然!?愛ちゃんのバレンタイン企画
コラム第4回「リベンジの舞台はジュリアナ!」いかがでしたか。
見事リベンジを果たし、再び飛ぶ鳥を落とす勢いとなった高木社長。その立役者でもあった飯島愛さんが更なるブレイクを遂げるために「イベント屋」高木社長が次に企てたのは…!?
次回コラムもお楽しみに!
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