再び廣重師範の指導のもと稽古に精進しているなか、正道会館の佐竹雅昭選手との対戦のオファーが関係者を通じて入ってきた。
廣重師範は稽古の後に道場生に注意した。
「八巻と戦わせようとする動きがあるようだが、そういう話がみんなのところにきたら断ってください。
私がそういっていたと伝えればいいから・・・」
日ごろ、無口な八巻建志は一気にまくし立てた。
「師範、自分はもし挑戦されたら絶対にやります」
「八巻、お前の気持ちはわかるが、向こうはグローブをつけたら強いぞ」
「自分は極真が1番強いと信じてやってきました。
極真が背中を見せるなんて耐えられません。
どうしても避けれらない話ならやらせてください。
いつでも出て行きます。
自分がこの手でぶちのめしてやります」
後で廣重師範はこういった。
「八巻、お前がそこまでいうなら俺もやってやる。
オランダでもタイでも一緒に行ってグローブの技術をマスターしようじゃないか。
お前の特訓は俺が責任を持って付き合うからな」
転機
1993年12月、八巻建志が知人を訪ねに恵比寿に出かけ昼飯を食べようと歩いていた。
「八巻さん」
振り返ると極真空手第10回ウエイト制大会で
「2日間を戦わずに終えるのってどんな気持ちですか?」
と失礼な質問をしてきた女性だった。
2人は偶然の再会を祝して喫茶店に入った。
女性は名を裕美といった。
裕美は占いを中心としたライターとして独立し構えた仕事場が近くにあるという。
このときは雑談で終わったが、数日後、また会った。
裕美は気さくにどんな些細な話も真剣に耳を傾ける女性だった。
聞き上手の彼女に自然と事故で別れた彼女の話をした。
裕美は一部始終聞き終え一言ポツリといった。
「大変だったね」
その後も2人はデートを重ね、12月24日のクリスマスに結婚の約束をした。
1994年1月4日には入籍し都内のマンションで2人で暮らし始めた。
披露宴は全日本で優勝してからと決めた。
八巻建志がこれまでやってきたウエイトトレーニングは、基本的にボディビルトレーニングで筋肉を大きくすることが目的だった。
その筋肉を有効に活用する、空手家用のパワートレーニングを何とか習得できないか?
そう考えていたとき、幸運な出会いがあった。
ジムのトレーニング仲間のお兄さんで、1つ年上のスポーツトレーナー、足立光だった。
足立光は自らも打撃系格闘技の経験者で、独学で欧米のトレーニング理論を修めた極めて有能なスポーツトレーナーだった。
足立光は身長は170cm程だが胸囲は110cmもあった。
初めて八巻のトレーニングをみてこういった。
「八巻さん、そんなに練習して辛くないですか?」
「辛いですよ。
本当に辛いです」
本心だった。
「あの足立さんの言葉にはドキッとした。
なかなか復活の糸口が見つからず、試行錯誤を繰り返し、内なる不安を打ち消すように猛練習に明け暮れていた。
休むことが怖くて仕方なかった。
世界大会に向けまったく休日を設けず連日バーベルを挙げ道場での指導と稽古に当たる毎日だった」
足立は蓄積した疲労が精神にも及んでいることを見抜き、それを説明した。
「休息も重要なトレーニングの1つですよ」
まず足立は日曜日を完全休養日に当てることから指導し始めた。
布団に入っているもよし、映画をみるのもよし、なにか好きなことに没頭するのもよし、とにかく肉体を動かすトレーニング以外のことをするよう指示した。
「本当に休んでいいんですか?
弱くなることはありませんか?」
「バーベルを挙げる行為は筋肉を破壊しているだけなんです。
休息しているときに破壊された部分が修復されて、より太く強くなると思ってください。
つまりトレーニングの効果を最大限に引き出すか否かは休息次第なんです」
そして肉体の疲労は条件次第で簡単に回復するが精神の疲労を取り除くことは非常に難しいことも説明した。
過去のトレーニングと試合の結果を分析すると、適度な休息を挟まずにやっていたためピークパフォーマンスが試合の大分前に来ていることもわかった。
しかし非効率なトレーニングも悪い面ばかりではなかった。
「下半身がどっしりしていて、膝関節が太く、それでいて速く動ける。
理想的な筋肉のつきかたをしています。
この下半身なら間違いなく世界一になれる。
体調をベストに持っていけば負ける要素はありません」
そして逆に強化点も示した。
「下半身に比べて背筋のバランスが悪い。
突進力は背筋に比例するのでパワーのある外国人に対抗するには背筋強化は不可欠です」
足立のサポートは栄養面にも及び、食事の仕方を妻の裕美にレクチャーした。
火・木・土は空手の稽古が中心。
月水金はウエイトトレーニングとランニング。
以前のウエイトトレーニングは重い負荷に挑戦し筋肉を太くすることにみに専念したが、足立は空手家に求められる筋肉、極真空手の試合を分析し、その上で相手を一撃で確実に倒す爆発力、3分間の試合時間で俊敏に動けるスタミナ、相手の攻撃をガードする肉体を作り上げることをプランした。
「運動競技に要求されるパワーは、ローパワー、ミドルパワー、ハイパワーの3つに大別でき、ローパワーはマラソンなどの主に持久力を要求するもの、ミドルパワーはレスリング、柔道、ボートなどの持久力と同時に瞬発力も要求するもの、ハイパワーは重量挙げやスプリントなど無酸素運動域値、息を止めて運動する瞬発力を要求するもの。
極真空手はミドルパワー寄りのハイパワー。
全力で技を繰り出し相手を倒す時間はせいぜい10秒。
この部分はハイパワー。
試合時間は3分間、延長戦もあり得るのでかなり持久力も要求される。
これはミドルパワー。
つまり持久力の中に瞬発力を生み出す筋肉が必要になるわけです。
重い負荷のみを重視するウエイトトレーニングは重量挙げと同じでハイパワーのみで終わってしまう。
これでは空手に適した筋肉とはいえない。
筋力トレーニングで身体を大きくしてノッシノッシと相手を追い詰め叩き潰す空手は、パワーとパワーが真っ向からぶつかり合う組み手。
しかし新たに目指す空手はヒョウのように敏捷に動き、チャンスとみたら一瞬で獲物を仕留めるような爆発的な攻撃力、これらを併せ持つ緩急自在の組み手です」
当初のメニューは、
月
広背筋、背筋(ラットプル、デッドリフト)
上腕三頭筋(ライイングフレンチプレス)
水
大胸筋(ベンチプレス、インクラインベンチプレス、ダンベルフライ)
三角筋(サイドレイズ、バックプレス)
上腕二頭筋(アームカール、ダンベルカール、リバースカール)
前腕筋(リストカール)
金
大腿四頭筋(レッグエクステンション)
大腿二頭筋(レッグカール)
大腿筋(スクワット)
下腿三頭筋(カーフレイズ)
ウエイトトレーニングのメニューは1~2週間サイクルで見直された。
種目、負荷、レップ数、セット数、インターバルなどは毎回変化した。
足立はトレーニングしている傍らに立ちチェックしながら叱咤激励した。
足立がこれないときは後輩がトレーナーを務めた。
そういうときは足立がFAXでメニューを送った。
後輩は足立と連絡を取り合いトレーニング状況、疲労具合などを報告しアドバイスを受けた。
八巻、足立、後輩、裕美の「チーム八巻」は世界大会優勝をターゲットにして動きはじめた。
空手の稽古は火・木・土。
これはマウンテンバイクを使うようにした。
道場まで約7km、20分程度のサイクリングは気分転換にもなった。
また、スカッシュ、バスケットボール、エアロビクス、水泳など、一見空手とまったく関係なさそうなものもトレーニングメニューに取り込まれた。
これは空手で使う筋肉以外の様々な部位の筋肉を使って刺激を与えることが目的だった。
このとき八巻建志は楽しく笑顔で練習する素晴らしさを知った。
足立はバラエティーに富んだトレーニングメニューをプログラムし、事前にミーティングの時間を設けコミュニケーションを図りながらトレーニングの説明を行った。
ハイパワーの養成は極めてハードなトレーニングを強いた。
無酸素運動が持続するのは最大で40秒程度。
この時間の運動能力を最大限にアップさせるためにサイクルトレーニングを取り入れた。
エアロバイクで40秒間ペダルをこぐ。
30秒にインターバルをはさむ。
これが1セット。
40秒間で全力を出し切るようにこぐ。
最後は身体のパワー全てを出し切るように努力する。
このトレーニングを終えると意識が朦朧として息絶え絶えになった。
「後のセットを考えてスタミナを温存させることのないよう、とにかく40秒間で全力を出し切ってください。
それで目標とするセットがこなせないなら、むしろそちらのほうがベターですから」
月曜から土曜日まで稽古とトレーニングに打ち込み、日曜日は完全休養日とした。
この日はのんびりと過ごした。
巨星堕つ
1994年4月、映画「飢狼伝」への主演演出依頼があった。
「飢狼伝」は夢枕獏のベストセラー小説で空手家:丹波文七が最強の男を目指し他流試合を繰り広げるストーリーだった。
夢枕獏が八巻を強烈にプッシュしたという。
撮影開始は8月で約1ヶ月で終わるという話だった。
しかし半年後には目標の世界大会につながる全日本大会があるため即答は出来なかった。
1994年4月26日、大山倍達が死去。
4月27日、極真会館本部で密葬が執り行われた。
出棺の前に発表があった。
「大山総裁の遺志により次期後継者は松井章圭が指名されました」
一瞬どよめきが起こった。
このときから極真空手は分裂騒動へ発展していく。
飢狼伝
1994年5月、映画出演について迷い廣重師範に相談したところ
「映画の主演なんてそうそうある話ではない。
せっかくのチャンスだ。
受けてみてはどうだ」
といわれ八巻建志は映画出演を決めた。
映画なんか出たから負けたと言われないようにとプラスののプレッシャーに変えて、それまで以上にトレーニングに専念した。
6月、ジムワークを終えシャワーを浴び着替えているとき
「グキッ」
と腰が鳴った。
(なんだ!?)
腰から背中にかけて痛みが走り脂汗が出てきた。
腰を押さえながら歩こうとすると脳天まで突き上げるような激痛が走った。
すぐに病院に担ぎ込まれた。
診断は椎間板ヘルニア。
軟骨が飛び出し腰の神経を圧迫していた。
トレーニングの疲労が腰に蓄積し爆発したのだ。
それからほぼ寝たきりの生活が続いた。
痛みで眠れず寝返りも打てない。
寝ていても痛むときは壁に寄りかかって寝ていた。
なんとか動けるようになったは1ヵ月後だった。
8月、ろくな練習ができないまま映画撮影に入った。
分刻みで撮影スケジュールに追われ、7時から26時まで拘束される日もあった。
出番待ちの合間にプッシュアップしたりシャドーをした。
撮影の終盤、2mの高さから飛び降りるシーンで両足首を捻挫した。
映画撮影は終了したとき、全日本大会まで2ヶ月。
ケガの完治を待たず最終調整に入った。
蹴りはほとんど使えないので突きを重点的に稽古した。
しかし今度は突きを練習しすぎて両手首を痛めてしまった。
蹴りに続き突きまで使えなくなった。
2度目の日本一、100人組手、そして世界一 まとめて実現してやる
12月に予定している披露宴の案内状に「全日本チャンピオン」と刷り込み自らを追い込んだ。
決勝で勝ち胴上げされる姿だけをイメージして練習した。
裕美は笑顔で接した。
「大丈夫、なんとかなるって」
足立も太鼓判を押した
「大会に体調のピークを持って来れば少々の故障は関係ない。
八巻さんの潜在能力はあなたが思うよりずっと高いところにあります。
誰が来ようと負けるはずがない」
ケガをしていても気持ちはますますポジティブな方向に向いていった。
大会1週間前、足立はウエイトトレーニングの終了を告げた。
「故障続きで空手の練習量が足りません。
その分、ウエイトトレーニングだけでももう少しやってみませんか」
「八巻さんの悪いところは練習に入れ込むあまりオーバーワークになるところです。
休息もトレーニングの一環だということを忘れないでください。
これから大会までの1週間ゆっくり映画でも観て過ごしてください」
その日を境にキッパリとウエイトトレーニングを止めた。
ある日、マンションの駐車場に停めてあったパジェロが消えた。
「嘘だろ」
400万円ローンを組んで買ったばかりの新車だった。
しかもパジェロには道場生と作ったオリジナルTシャツ、トレーナーが200枚積んであった。
これは50万円した。
(後にこのパジェロは京都の自動車解体屋で見つかり、傷だらけで手元に戻った。
Tシャツとトレーナーはなかった)
パジェロが盗まれた当日の午後、松井章圭館長から電話が入った。
「今晩、食事でもしませんか?」
夜、レストランで松井館長はいった
「大会終了後、100人組手をやりませんか?」
「それだけは勘弁してください」
「何故できないんですか?」
「世界大会で勝ちたいのです。
100人組手で身体を壊したら元も子もありません」
「そうかな。
勝つためにやるんじゃないの?
君は1度限界を見ておくべきですよ」
「でも100人組手だけは・・・」
「限界のわかった人間は強いよ。
これは私が保証します」
極真空手が始まって100人組手を達成できたものは数人。
達成した者は皆大きなダメージを負い、中には数ヶ月入院した者もいる。
松井館長はその100人組手をやり抜いた後に世界大会に優勝した人物。
「しばらく考えさせてください」
自宅に帰り裕美夫人に相談した。
「100人組手に挑戦する資格のある人間と認めてもらえたんだから、これはチャンスだと思います。
私はあなたなら達成できると信じています」
(そうか。
100人組手に挑戦する資格のある人間か・・・
確かに挑戦できた人間は十数人だろう)
廣重師範も肯定的だった。
「あまり難しく考えず、とりあえず100人と戦って立っていられたらいいんじゃないか」
「腹は決まった。
2度目の日本一、100人組手、そして世界一。
まとめて実現してやる」
5年ぶり2度目の日本一
1994年10月29日に行われた極真空手第25回全日本大会は、大山倍達の没後、初めて開催されるため「大山倍達追悼大会」と銘打たれた。
八巻建志の体重は103kg。
手首足首の怪我以外は疲労も回復し体調は万全だった。
控え室に入り、初戦の1時間前に肺の中の空気を吐き出す激しいミット打ち。
これで横隔膜を広げ深呼吸しやすくする。
そして酸素を全身に行き渡らせ運動機能を目覚めさせる。
その後軽いストレッチで身体をほぐす。
他の選手は激しいアップをしている。
「みんなアップをやってますよ。
自分もやらないと・・・」
「疲れるだけですよ。
ほら彼なんか無駄なグリコーゲンを一生懸命消費していますよ
もったいない」
足立光は涼しい顔でいった。
試合直前に単糖類を含むタブレットを口に入れ、血糖値を上げて筋肉を速く滑らかに動くようにする。
これで戦う態勢は万全。
ゼッケン33を背負って勢いよく試合場に駆け上がった。
1回戦、3-0の判定勝ち。
2回戦、技ありを奪って判定勝ち。
ここで大会初日を終えた
夜、ホテルに兄から電話があった。
「今晩、巨人が5年ぶりに優勝した。
胴上げで宙に舞った長島の背番号は33だ。
お前と同じじゃないか」
10月30日、3回戦、右膝蹴りを顎に決め技ありを奪って判定勝ち。
4回戦、富平辰文に重い突きと下段蹴りを連続で叩き込み、最後は胴回し回転蹴りを肩口に入れ、5-0の判定勝ち。
準々決勝の相手は、城南支部の後輩である塚本徳臣。
183cm、92kg
サウスポーに構え、ヘビー級には少ないステップを刻み、柔軟な身体体ら伸びのある蹴りを飛ばす。
捻りを加えた膝蹴りは特徴的である。
八巻建志が突きのラッシュをボディに入れると塚本徳臣は膝蹴りを急角度で突き上げ顔面を狙った。
勢い込んで前進する塚本徳臣のボディに八巻建志はカウンターで右フックを決める。
塚本徳臣はガクッとなって動きが止まった。
そこへ右下段を連続で蹴りこんだ。
塚本徳臣は必死に食い下がったが3-0で八巻建志の判定勝ち。
準決勝。
市村直樹はサウスポーから重い突きと蹴りを速射砲のように繰り出した。
八巻建志は延長で左右の下段蹴りを効かせ動きが止めて突きの連打から膝蹴り、胴回し回転蹴りを放つ。
5-0の判定勝ち。
決勝戦。
相手は城南支部の後輩で前年チャンピオンの数見肇。
180cm95kg。
腰を低く保ったまま流水のように滑らかに動く運足。
円を意識した捌き技。
重い蹴り。
そして何よりも強靭な精神力。
数見は、まるで水面のアメンボのようにスイスイと動き。
チャンスとみると下段蹴りを飛ばした。
八巻はその下段に合わせて突きを入れた。
すると数見はスッとステップバックで身体の軸をズラしてダメージを殺す。
そして後ろ回し蹴り、突きの連打で懐に飛び込んで下段を蹴ってきた。
八巻はそこに前蹴りをボディに刺し突き放し、中断、下段へ回し蹴り、そして接近して膝蹴り。
数見は火の出るような突きの連打で応戦した。
本戦はまったくの互角だった。
延長に入って数見の組手が変わった。
これまでの冷静な試合運びから先輩への気負いが出たのか、脚を止めて真っ向からの打ち合い出した。
突きのラッシュから左上段回し蹴り。
八巻はその蹴りを1歩踏み込み右肘でブロックし、そのまま左の突きをぶち込む。
数見は唸るように下段回し蹴りで逆襲。
この下段がヒットする直前に突きを入れ、バランスを崩したところへ右フックを脇腹に決め、左右の下段回し蹴りの連打。
5-0の延長判定勝ち。
5年ぶりの返り咲きだった。
胴上げしている生徒や仲間が泣いていた。
しかし自分は泣かなかった。
喜びに浸る暇はなかった。
100人組手と世界大会が待っているのだ。
100人組手
1994年12月、松井館長が100人組手挑戦を発表。
決行は1995年3月18日。
挑戦者は八巻健志とフランシスコ・フィリョだった。
1995年の八巻健志の目標は、3月の100人組手、11月の世界大会となった。
3月18日、100人組手当日。
西池袋の極真会館総本部の2階道場には全日本ベスト8を含む対戦相手が勢ぞろいした。
過去の100人組手達成者は
ハワード・コリンズ、
三浦美幸、
松井章圭、
アデミール・ダ・コスタ、
三瓶啓二、
増田章。
100人組手のルールは、1回の組手時間は1分30秒。
基本的に手による顔面攻撃を禁止する極真ルールだが、通常の試合ではとられることがない足払いから下段突きが決まると技ありとなる
この日は土曜日で病院は閉まっているため、廣重師範は知り合いの病院に頼んで待機してもらった。
これは増田章のアドバイスによるもので、増田は日曜日に挑戦し病院が休みだったために翌日に入院し、このために腎不全が悪化し入院は2ヶ月にも及ぶことになった。
松井館長によれば100人組手は
「70人目になると相手を殺したくなる。
80人目になるとそんなことも忘れ、90人目以降は立っているのだやっと」
だという
実際に松井館長は67人目で頭突きと道着をつかんでの膝蹴りを入れ、増田は76人目で相手に噛みついた。
八巻建志のセコンドには先輩の緑健児や足立光がついた。
廣重師範、裕美夫人、城南支部の仲間、自分の道場の生徒たちも見守っている。
次の世界大会の優勝候補であるブラジル支部の磯辺師範、アデミール・ダ・コスタも鋭い視線でみていた。
八巻建志の挑戦の後、彼らの弟子であるフランシスコ・フィリョが挑戦することになっていた。
10時21分、太鼓が鳴らされ100人組手が始まった。
1人目は後輩の塚本徳臣。
塚本はやりにくいのか攻撃に出ない。
「チンタラやっていたらダメだよ!」
松井館長の檄が飛ぶ。
3人目の時、再度、松井館長が注意した。
「力を抜いてやったら中止にしますよ。
意味のない100人組手にしないでください」
この言葉で場内の空気が変わった。
それまで遠慮気味だった対戦相手の攻撃が一気にヒートアップした。
4人目。
ギャリー・オニールに左上段蹴りを決めて1本勝ち。
10人目を超えると汗で重くなった両腕のサポーターを外した。
20人目まで1本勝ち5、優勢勝ち14、引き分け1。
時々、足の裏を濡れた雑巾で湿らして滑り止めをする。
21~30人、1本勝ち5、優勢勝ち5。
上段、中段の蹴りがよく出て、膝蹴り、踵落とし、後ろ回し蹴りなどの大技も出ている。
31~40人、1本勝ち3、優勢勝ち7。
相手の軸足を刈って下段突きを決めるケースが増えてきた。
動きが遅くなり相手の攻撃を受け止めることが多い。
40人目が終わったところで右膝のテーピングとサポーターを手早く外しコールドスプレーで冷やした。
41~50人、1本勝ち2、優勢勝ち8。
折り返し地点に来て、負けなしで引き分け1つ。
相手の攻撃をブロックしてもブロックした箇所にダメージがたまっているので激痛が走る。
脚が重く相手の蹴りも突きも身体で受け止めることが多くなってきた。
51~60人、1本勝ち4、優勢勝ち5、引き分け1。
60人目を終えたところで15分のインターバルがとられた。
汗を含んで重くなった道着を着替え、大の字に転がりマッサージを受ける。
「大丈夫いける。
絶対いける」
緑健児が励ました。
61~70人、優勢勝ち9、引き分け1。
身体が鉄板のように重く、ガードが甘くなりなんでもない攻撃をもらう。
両脚、両腕は腫れ上がり相手の攻撃をブロックするたびに激痛が走る。
相手の攻撃に後退するシーンが目立つ。
71~80人、1本勝ち2、優勢勝ち7、引き分け1。
廣重師範が檄を飛ばした。
「八巻、100人組手はここからだ!」
(そうだ!これからだ)
「やめ」
「はじめ」
主審の声が遠くに聞こえる。
意識が薄い。
81~90人、1本勝ち1、優勢勝ち5、引き分け5、負け1。
初めて負けを喫する。
苦痛に顔が歪み、相手の攻撃を身をよじって避けようとする。
「あと10人」
「アーアー」
攻撃をもらうと泣き声とも呻き声ともつかない声が口から漏れる
100人目は数見肇。
数見は容赦ない突きと蹴りを叩き込んだ。
しかしその1発1発で先輩がんばれと励ましているでもあった。
2人は脚を止めて打ち合った。
終了の太鼓が鳴った。
91~100人、優勢勝ち1、引き分け5、負け4。
天を仰ぐと天井がグラリとゆれ身体がよろけた。
所要時間3時間27分。
1本勝ち22
優勢勝ち61(技あり23)
引き分け12
負け5。
八巻建志はすぐに車で病院に直行し治療が始まった。
「どうしてこんなひどいことになったの?
交通事故?」
医者が驚くほどの惨状だった。
極度の全身打撲で筋肉の組織が破壊され急性腎不全を併発していた。
尿道に管を差し小便を出すと色がドス黒くポツポツと肉の塊のようなものが浮いていた。
破壊された細胞の破片だった。
点滴がうたれ酸素マスクを口に当てられた。
八巻建志の後に行われたフランシスコ・フィリョの100人組手は
1本勝ち26
優勢勝ち50(技あり38)
引き分け24
負け0
という史上初の無敗で達成された。
フィリョは軽やかなフットワークと華麗な足技を駆使し戦い、大したダメージもなく翌日には全関東選手権大会を観戦しブラジルに帰った。
その頃、八巻建志は病院でウンウン唸っていた。
医者は
「人工透析しなきゃダメだな」
といったが自然治癒を希望したため
「10日して尿の潜血などの数値が下がらないようだと透析に踏み切らざる得ない」
ということになった。
食事は最初は液状の栄養食。
その後、流動食にかわっていった。
塩分、油、タンパク質は一切禁じられた。
身体全体がむくんで顔は黒くパンパンに腫れた。
幸い数値は日ごと下がった。
それは超人的な回復力だった。
しかし100人組手に挑戦したとき107kgあった体は90kg台まで落ちた。
組織が分裂しようと関係ない。選手はひたすら最強を目指す。
4月11日、八巻建志が入院3週間後、病院の外では、大山倍達の死後、一枚岩だった極真空手の分裂が激化していた。
見舞いに訪れた関係者がいった。
「分裂は悪化する一方だ。
君にはいろいろ吹き込みにくる人間も多くなるはずだ。
一刻も早く退院したほうがいい」
医者はもう1ヶ月の入院を進言したが八巻建志は強引に退院した。
極真空手の分裂は、大山倍達が遺言で示した松井館長を長とする派とその遺言が疑わしいとする遺族派に分かれ、この後、さらに分裂を繰り返すことになる。
廣重師範が率いる城南支部は遺族派に属した。
4月12日、退院翌日、早朝に自宅の電話が鳴った。
「記者会見を開くから2時間以内に来て下さい」
緊迫した声だった。
歩くことさえ困難だったが這うようにタクシーに乗って都内のホテルへ向かった。
マスコミの前で延々と説明がなされる中で意見を求められた。
「自分は選手なので、今まで以上にしっかり練習して頑張ってまとまっていきたいと思います」
このコメントに後から嫌味をいわれた。
「なんだ、お前のあの話は。
いうべきときにいわないのは武道家ではない。
もっといろんなことを言えばよかったんだよ」
(一体何を言えというのか?
松井館長への誹謗中傷か?
松井館長にも大変お世話になっているし、一方の言い分を聞いただけで判断するような軽率な真似はしたくない。
それに選手は世界の強豪と覇を競うため血のにじむような苦しくて辛い稽古に耐えているのに、極真が大山倍達総裁の遺志を受け継いで一致団結していくこと以外、何を望むというのだ。
それに私の師は廣重師範1人だ。
弟子として師範の選択に従うのは当然だろう)
廣重師範は八巻に尋ねた。
「お前はどうしたいんだ」
「強い人間のいるところで戦いたい。
それだけです」
「そうだな。
そうしたほうがいいな」
廣重師範は静かに頷いた。
世界大会には世界中の強豪らが極真世界一をかけて集ってくる。
中でも、フランシスコ・フィリョ、グラウベ・フェイトーザを中心にしたブラジル選手の強さは恐ろしいほど強いといわれている。
極真の門下生は皆、最強という共通の志で入門したはずだった。
それが分裂し、世界大会が2つになり選手も2つに分かれてしまった。
中でも廣重師範が率いた城南支部は支部内で2つに分裂するという最悪のケースだった。
廣重師範は松井館長の下へ戻り、緑健児をはじめとする残りの者は出て行くことになった。