DDTプロレス高木三四郎「90sナイトライフ回想録」

このコラムは人気プロレス団体「DDTプロレス」社長兼レスラーとして君臨する高木三四郎がプロレス業界に足を踏み入れる以前、90年代東京のディスコやクラブ界隈で名うてのイベンターとしてキラキラ輝いていた若き日を回想するコラム。
その風景にはバブル期のTV局から90年代東京のナイトライフを彩ったディスコやクラブ、そして当時の煌びやかな人間模様までが赤裸々に描かれます。
ミドルエッジ読者のみなさんで90年代の若かりし頃を東京で過ごした方、もしかしたら当時の高木社長と意外な接点があったかもしれませんよ!?
本邦初公開のネタが次々に明かされる、コラム第1回は「イベンター高木社長の誕生秘話 part1」をお届けします。
(聞き手:ミドルエッジ編集部)
イベンター高木社長の誕生秘話 part1
-さて、このコラムでは高木社長が主に学生時代に身を置いた「キラキラした世界」の四方山話を回想していただくわけですが、記念すべき第1回はDDTプロレス社長兼レスラーとして知られる高木社長がそもそもなぜ「キラキラした世界」の住人であったのか?高木社長が「キラキラした世界」に足を踏み入れていくまでの過程を振り返っていただきます。

「キラキラした世界」
関西大倉高校 -梅田・クレイジーホースでディスコ初体験-
そうそう、その辺りからですよね…。
高校生の頃は大阪で男子校だったんですよ。関西大倉高校っていう男子校で今はもう共学になりましたけど、当時はわりと頭のあまりよくない(笑、お金持ちのボンボンがいく学校で。
僕は柔道部に所属していましたが、当時は学内に2つ派閥があって、体育会系の連中と、要はチャラい連中とに別れていたんです。で、たまたまどっちとも仲よかったので、チャラいのとも一緒にいたりして、それで確か高校1年の頃にディスコに行ったのが初めてだったんです。梅田のクレイジーホースっていう、大阪のこてこてのディスコがあったんですよ。
高1でディスコ初体験、そこから始まったディスコ通い
-ということは85年に高1でディスコデビューですね!
当時のヤンチャな高校生ってビー・バップ風の学ランや暴走族のイメージが頭に浮かぶのですが、当時大阪の高校生で「チャラいファッション」ってどのような恰好でしたか?
当時は「イタカジ」が流行っていました。TRUSSARDIとかC.P.COMPANYとか、高3くらいになるとDCブランド。
そう、DCブランドブームになって僕はCOMME CA DU MODEやCOMME des GARCONSとか黒っぽいのが好きだったんですけど、まあ高かったですよ。だから僕らはバーゲンでしか買えなかった。初物シーズンには一切買えなくてバーゲンで半額になると買う、そんな感じです(笑。
-お買い物はマルイで?
いや、梅田の阪急とか。マルイはもう少し後で、しかも東京ですよね。大阪にはナビオとか阪急ファイブとかがあったんですよ。ナビオ阪急とか、ようは全部阪急。
まあ、そういうところで服を買っては梅田のクレイジーホースに着て行って。行くのは月1~2回、週末の夜10時くらいに行って朝5時までコース(笑。夏休みなどは毎週通ってましたね。
-ディスコ通いに熱心だった高木社長の高校時代が見えてきました(笑
はい。そこから色んなディスコに行きましたが、高2の時にマハラジャがオープンしたんです。そして高3の時にチャラい友達連中がパーティーやりたいって言い出して、高校生パーティーをそのマハラジャでやりまして。そこが多分パーティーとの初めての出会い。ディスコを貸切るという発想がまず驚きで「あ、貸切が出来るんだ!」って。
僕自身は高3になると部活の最後の大会や受験などもあって忙しく、パーティーには「チケット買っていくよ」っていう感じ。チケットは3,000~4,000円くらいでしたね、当時。
大阪・梅田 「大人の」クラブディスコ | MAHARAJA OSAKA(マハラジャ 大阪)
駒澤大学へ -TV番組研究会との出会い-
大学が駒澤大学で上京してきました。駒大だったから飲むのも渋谷で遊ぶのも渋谷、ほとんど渋谷。大体パターンとしては居酒屋で飲んでナンパして女の子がゲット出来なかったらディスコ、みたいな。あのころの大学生の定番中の定番(笑
ディスコは東京に出てきて3年くらい、当時の渋谷で人気だった「ラスカラ(LA・SCALA)」に入り浸っていた気がします。他には新宿の「ゼノン」「ニューヨーク・ニューヨーク」だったかな?
安いんですよ、2,000円くらいで入場出来て朝まで遊べたので。ほぼフリードリンク・フリーフードみたいな感じでしたし。

飲むのも渋谷、遊ぶのも渋谷
高1からディスコ通いの高木社長、なぜかオタクなサークルへ
大学入学時、とくに部活に入ろうとは考えてなかったんです。ただ父親の仕事の関係で子どもの頃からテレビが身近な存在だったこともあり、漠然とですが将来はTV局に就職したいなって気持ちがあって。それで何かテレビと繋がって出演したり観覧に行けるような、そんなサークルがないかなと思って探しました。
そしたらナント「TV番組研究会」っていうサークルがあるじゃないですか、なかなかなネーミングだと思いません?で、ここに入ればテレビと繋がれそうな気がして入部しました。
でもいざ入ってみると、なんかオタクな人しか居なくて…。「あれ、やっちゃったかも?」なんて思いましたよ。全然オタク系でノリが違うしもう幽霊部員になろうかなって思ったんですけど、サークルに熱い先輩がいて「お前たちの代でこのサークル盛り上げろよ!」みたいな熱い先輩がいたんですよね。
フジの第2制作 -葉書から生まれたTV局との接点-
-「TV番組研究会」は主にどんな活動をされていたんですか?
僕らの時代はとにかくテレビ局に葉書を出しまくりました。「駒大のTV番組研究会です!」って伝えて、TV番組を観覧したり出演したいって売り込んでいくんです。
1年生の頃から5人くらいが中心になって、各TV局各番組に100枚くらい葉書送ってました。
文面には「僕らはTV番組研究会といってTV番組を観覧したり出演したりとか出来ます、何かあったら連絡下さい!」と連絡先を書いてね。
連絡先といっても当時は家電ですよね。で、たまたま僕の家だけ「留守電機能」がついていたので連絡先は僕の家電。
サークル部員の状況は独り暮らしでも風呂なしトイレなし、電話も共同の下宿とかが多かった。1年生はみんなお金なかったし。僕はたまたま風呂付トイレありのワンルームで家電もあって、しかも「留守電機能」がついてるってことで僕の家が連絡先に(笑。
そしたらね、不思議なことに電話がかかって来始めたんですよ。「実はこんな仕事があって」みたいなのが。まず最初にフジテレビの第2制作から電話が来ました。
-第2制作というと?
フジのバラエティ班「第2制作」
今でいうところのバラエティ班で、後にフジクリエイティブコーポレーションっていう会社になったのが第2制作です。ここが「夕やけニャンニャン」とか手掛けていて。僕ももちろん観てましたけど「夕やけニャンニャン」は高3で終わっちゃったんですよ。
葉書送りまくってたときは、とにかくフジテレビ行きたくて仕方なかった。で、一番先に来た話がフジテレビの深夜番組だったんですけど、もう嬉しくて。
僕の留守電に「フジテレビ第2制作の某ですけど、〇〇って番組があるのでもしよかったら5~10名で観覧に来て下さい」って。そこがスタートです。
で、観覧に行くとその時のディレクターさんと仲良くなって「君たち良いね~、また何かあったら仕事回すから」って。結局フジ、日テレ、TBS、テレ朝、テレ東・・・ほぼ全局から返事が返ってきて。当時学生でそういう活動している集団が珍しかったようで、2年くらいやっていましたね。観客やエキストラを現場に送り込む「仕出し」と呼ばれる領域の活動になっていきました。
-オタクの雰囲気漂うサークルが、急にキラキラした世界とリンクして来ました(笑
珍しかった学生の「仕出し」
当時は本当に珍しい存在だったようです。エキストラの専門会社はあったようですが、学生でそういうことをやる集団が少なくて。僕ら以外に明治大学のTV放送研究会というのがありましてそこも仕出しをしていましたが、彼らの場合は落研(落語研究会)所属の人が多いんです。
割と多くの現場で彼らの仕出しと被りましたが、僕らの場合はTV観覧や出演の声がかかると、候補者を街中で集めて送り込んでいました。
当時は曙橋にフジテレビがあって、麹町に日テレ。それで大体平日のお昼に新宿アルタ前で「笑っていいとも!」収録の観覧に来ている女性に片っ端から声掛けして、そのまま曙橋や麹町の現場に連れて行くみたいなこともやってました、まあナンパです(笑。

現在は湾岸に拠点を据える「フジ」「日テレ」
現場ではエキストラとか仕込みの出演者(サクラ)って、ちょっと面白みがあるほうがウケるんですよ。それで次第に「高木に連絡すると、いい感じに動員かけて観客や出演者を送り込んでくれる」みたいな評判が立ち始めまして。
例えばフジテレビで「いたずらウォッチング!!」なんて番組があって、女の子が1人いて、その子にいきなり5人くらいの男が告白する企画がありましたが、出演者は僕たちでした(笑。その頃の学生の仕込みは僕らが担当していたので、年に4~5回の放送で2回に1回は「あれ、この人こないだも出てたよね?」みたいになるんです。今では難しいかもしれませんね(笑。
-先輩に期待された通り、高木社長の代でTV番組研究会は盛り上がっていきましたね。
「TV番組研究会」勢力の拡大
そうですね。
といっても1、2年生の間はそれでもおとなしかった方で、3年生になると実権を握りますよね。そうすると駒大のサークルではあるのですが他大学、短大などにもメンバーを拡げたいってことになってきます。
まずは駒大の近くにあった東横短大に赴いて女子学生10人くらいに入部してもらって(笑、そんなことを繰り返してメンバーを拡充し、一時期は登録人数100人くらいにはなっていたと思います。そうなると街中で声かけずとも、メンバーだけで仕出しがこなせるようになってきます。学内でも駒大の落研と連携して仕事をまわし始めました。
-駒大の落研ですか?
そう、面白い人材がたくさんいましたよ。例えば番組名は忘れましたが、とある番組企画で「高須クリニックで包茎手術をやってくれる人いない?」と言われました。すると落研の某君、彼はたまたま童貞で包茎だったんで、話をしたら「やる!」って言うんで紹介したり。ちなみに彼は真性包茎だったんですけど。
-(笑。まさに「学生集めは高木に聞け」状態ですね。ちなみに当時の仕出しは番組側からお金が出ていたのですか?
はい。例えば日テレで11PMの後に放送されたEXテレビ。あの番組などは僕らがレギュラーで観覧していましたが、いいお金を頂けました。ちょっと遅い時間ではありましたけど、1時間番組の観覧で1人あたり5,000円でしたよ。それで大体いつも20人くらい集めて、実際メンバーには一人当たり2,000~3,000円を渡して…。
-えっ、凄い儲かるじゃないですか!?
はい、ちゃんとビジネスとしてやってました(笑。フジの第2制作からは色んな仕事をもらいましたよ。「週刊スタミナ天国」とか「パラダイスGoGo!!」でレギュラーもらったり。思えば大学1~3年生の間で一気に世界が広がったというか。
-ええ、もう十分にキラキラしております(笑
ですよね。当時は結構簡単だった。やはりTV番組の観覧や出演ってちょっと日常とは異なる世界で、声かけるとみんな「観たい!行きたい!!」となりましたから。
請け負った人数が自分たちで確保できなくても、先ほどお話しした通りお昼の新宿アルタ前で女の子に「テレビ出れるよ、出ない?」みたいに声かけて。ちょうどバラエティ番組の収録って4時や5時だったので、お昼過ぎのアルタ前で声かけても夕方の収録に間に合うんですよ。
で、番組側からはお金ももらいましたが非売品のグッズ等ももらえるので、女の子たちは大満足ですよね。
で、そうして街中で声かけた女の子にもメンバー登録してもらって「またあったら声かけるね~」なんてやってたので。一時期は500人くらい連絡先交換して連絡とりあってました(笑、ちょうどポケベルが流行り始めたころです。
【次回】学生仕出しから学生イベンターへ
コラム第1回「イベンター高木社長の誕生秘話 part1」いかがでしたか。
大阪での高校時代、ディスコとの出会いから大学時代、TV局との接点が生まれるまで。「キラキラした世界」がどんどん近づいてきました。
次回コラムでは「学生仕出し」として知名度を上げていった高木社長が「学生イベンター」に進んでいった過程を回想していただきます。
11月上旬の次回コラムをお楽しみに!