ビートたけしのコマネチ(V)!
ビートたけしは、自身のギャグ、「コマネチ(V)!」について、
「あれはコマネチっていう選手の名前を思い出せなくて、レオタードのジェスチャーをしたら、それがコマネチになっちゃった」
という。
体操競技
「コマネチ・サルト」は、高棒から飛び出して前方開脚宙返り、そして再び高棒をつかむスーパーE難度技
体操競技は、徒手または器械を用いた体操の演技について、技の難易度・美しさ・安定性などを基準に採点を行い、その得点を競う。
男子は、床運動、鞍馬、吊り輪、跳馬、平行棒、鉄棒の6種目。
女子は、跳馬、段違い平行棒、平均台、床運動の4種目。
小柄な方が有利で、男子は160cm台、女子は140cm台の選手が多い。
技は難度が決められ、難度が高い技ほど得点が高い。
だから選手は高難度の技を狙う。
当初、難度はA~Cの3段階だった。
1985年にD難度、1993年にE難度、1998年に一時的にスーパーEが導入され、2006年にF難度、G難度、2013年から女子にI難度が創設された。
ナディア・コマネチの時代は、1番かんたんなA難度から、B、C、D、E、スーパーE難度までだった。
スーパーE難度は、世界でもごくわずかの人間しかできなかった。
段違い平行棒で、コマネチの名前がついたスーパーE難度技が2つあった。
「コマネチ・サルト」は、高棒から飛び出して前方開脚宙返り、そして再び高棒をつかむ。
「コマネチ下り」は、高棒での倒立から足裏支持で1回転し、足、手の順で高棒から離し、1/2捻り後方宙返りで下りる。
ルーマニアという国
ナディア・コマネチが生まれたルーマニアは、東ヨーロッパ、バルカン半島の西部、北にウクライナ、西にハンガリーとセルビア、南にドナウ川をはさんでブルガリア、東にモルドバおよび黒海に面している東ヨーロッパの大国。
面積は約24万平方kmで日本の本州とほぼ同じ。
古代にはローマの属州となり、13世紀にはモンゴルに支配され、14世紀にはモルダヴィア公国・ワラキア公国という2つの公国を創った。
Vlad III
ワラキア公国のヴラド・ツェペシュ公は、オスマン軍の侵入と戦った英雄だったが、捕虜や裏切り者を串刺しの刑にしたため、後に「吸血鬼ドラキュラ」の元ネタとなった
モルダヴィア公国、ワラキア公国は、いずれもオスマン帝国のバルカン進出を受け、その支配を受けるようになる
チャウシェスク大統領
19世紀にはロシアの支配を受けた。
しかしやがて民族独立の気運が高まり、1856年、パリ条約でモルダヴィアとワラキアの自治が認められ、両国は1859年に統一され、1866年には統一国家名としてルーマニア公国を掲げた。
第1次世界大戦のルーマニアは戦勝国となり、領土と人口が一挙に倍増し、東欧の大国となった。
しかし1941年、第2次世界大戦下、王政が安定せず政変が起こり軍部独裁政権が成立。
軍部独裁政権は、ドイツのヒトラーと結んで参戦。
ドイツの対ソ戦に協力させられ、ルーマニア軍は最前線に立たされ大きな損害を被った。
1944年、ソ連軍がドイツ軍を破ってルーマニアに入り。
国王は軍事政権のトップ:アントネスク将軍を逮捕しソ連と休戦協定を結び、対独宣戦を布告。
1947年、第2次世界大戦後、ソ連に対して賠償金を支払い、ソ連の強い指導に服して社会主義化を進められた。
1947年、王政は廃止され、ルーマニア人民共和国となり、ソ連の衛星国として東欧の社会主義圏を形成。
しかし1956年にスターリンを批判し独自路線に転換。
石油資源を積極的に生かした独自の工業化政策を打ち出し、西側とも接近した。
1965年、チャウシェスク政権が誕生。
チャウシェスクは民族主義を掲げる一方、独自外交をさらに拡大しながら独裁権力を握った。
1967年に西ドイツと国交を樹立して世界を驚かせ、1968年のチェコ事件でソ連の要請を拒否して軍を派遣しなかった。
1974年、チャウシェスク独裁体制が強化され、個人崇拝の強要、同族支配、国民の自由が抑圧されるようになった。
経済は停滞した。
国家プロジェクト
チャウシェスクはスポーツで国力をアピールしようと考え英才教育政策を行った。
夫:ベラ・カロリーと妻:マルタは、ナディア・コマネチの故郷:オネスティに体操スクールをつくる準備をしていた。
その学校もルーマニア政府の教育省が出資している学校だった。
テストした子供は4000人以上。
小学校をまわり、子供たちにマット運動を教えて、そのスピード、柔軟性、筋力、バランスなどをみた。
どの子が柔軟で筋肉の協調性がいいかはすぐにわかった。
テストを始めて4週間、スカウトした子供の数はスクールを立ち上げにはまだ十分ではなかったので、再度選び出すことにした。
ある日、校庭の隅で小さな女の子が2人、側転をしていた。
「この子たちは素質がある!」
そう直感した。
そのときチャイムが鳴って2人は校舎内へ走っていってしまった。
ベラ・カロリーは教室をまわって聞いた。
「体操の好きな子は?」
「側転のできる子は?」
しかし2人は見つからなかった。
最後の教室となり、疲れた声で聞いた。
「側転のできる子は?」
誰も答えなかったので、あきらめて出ていきかけたとき、教室の後ろにブロンドの少女が2人目に入った。
「側転はできる?」
少女はヒソヒソ話をしていたがこっくりとうなずいた。
「やってみせて」
2人は完璧な側転をした。
「校庭の隅で側転をしていたのは君たちだね」
2人はまたうなずいた。
「名前は?」
「ビオリカ・ドミトル」
「ナディア・コナネチ」
ベラ・カロリーは2人にいった。
「お母さんにこう伝えなさい。
もし希望すればオネスティの体操スクールに入学できるとベラ・カロリーがいっていました、と」
体操スクールは寮と体育館がひとつにつながった総合的な施設だった。
自宅から800mくらいだったのでナディア・コマネチは数年間は歩いて通学した。
授業料は無料。
レオタードやリストガードやシューズ、医療費もタダだった。
遠征で旅行はできた。
エリート選手には月々、給付金も出た。
初めてレオタードをもらったときナディア・コマネチは枕に乗せて一緒に寝た。
体操スクールは週6日制で、毎日授業が4時間、体育館で練習が4時間。
授業が終わって体育館に駆け込むと、ウエイトやロープでトレーニングし、ジャンプ、ランニングなどたくさんのメニューをこなしていった。
かんたんな技でも覚えるのに数か月かかった。
平均台の上での側転は、まずマットの上で練習し、次に床の上に引いたライン上で、さらにクッションで囲まれた低い平均台を使い、最後に平均台の上で仕上げた。
各技をマスターするまで全部最初から繰り返された。
1つ1つ段階を踏んで、反復し、失敗したり成功したりすることで力をつけていった。
ナディア・コマネチが出た初めての大きな競技会は1970年の全国体操選手権だった。
9歳のときだった。
平均台で最初の高い跳躍でいきなり左側に落下。
カッとなって平均台によじ登ると今度は右側に落下。
2度と落ちるものかと再び平均台の上に立った。
みんなが笑っているような気がして両耳まで真っ赤になった。
もう絶対に落ちるものかと誓ったが、また落下した。
平均台が終わって帰るとマルタはカンカンに怒っていた。
ベラ・カロリーとマルタは、基本こそ体操のキャリアを築くうえで最も重要であり、またそのためには体の強さとコンディショニング、そしてかんたんな技を完璧に行うことが必要と考えていた。
平均台の上で宙返りをするには、その前に跳躍とステップがスムーズにできて、完璧な位置でバランスをとり、次の難しい技に備えることが必要である。
体操では基本ができていないと、筋断裂、骨折、脊椎障害など危険な事故が起こってしまう。
だから細部まで大切にしなければいけなかった。
マルタは、子供には自分を律することができないからコーチが厳しく管理すべきと、練習時間も勉強時間も2人が指示した。
7時、朝食。
8~12時までトレーニング。
11~14時まで授業。
2、3時間休憩してから体育館に戻り19時半まで練習。
その後、夕食と宿題をして22時消灯し心身の疲れがとれるように睡眠は毎晩8~10時間。
食事も体を強くするためにグリルした肉や魚、サラダ、フルーツが中心で、パスタやパン、ライスはなし。
ベラは体格がよく最高のスポッター(体操選手がケガをしないようにサポートする人)だった。
スポッターがよいと選手は難しい技も怖がらずに挑戦できた。
またベラは指導法について以下のような考えを持っていた。
他のトップ選手のスタイルとトレーニングを真似したところで、その選手はお手本ほどうまくならない。
近いところまで行ってもそのレベルには届かない。
後から追いかけるだけでは決して追いつけない。
しかし独自のスタイルで育成すれば他の誰をもしのぐ選手になる可能性がある。
この選手権でナディア・コマネチは13位。
チームは優勝した。
ナディア・コマネチは1972年のフレンドシップ杯に出場した。
チェコやドイツやソ連の選手は10代後半から20代だったが、ナディア・コマネチを含むオネスティの体操スクールのチームは、みんな10歳。
みんな自分より脚が長く優雅だった。
しかし小さい女の子は大きな女の子を破った。
ナディア・コマネチは全種目で金メダル。
団体でも銀メダルを獲得した。
以後、ナディア・コマネチは日を追うごとに強さを増し集中力を高め、パワーをつけた。
コマネチサルトはベラ・カロリーが考え出した。
いったん手を放して高棒から飛び出して、前方開脚宙返りし、そして再び高棒をつかむ技である。
ナディア・コマネチは何時間も何日も何週間も何か月も練習し
誰も試みたことのない技を完成させた。
ナディア・コマネチは1975年にノルウェーで開催されたヨーロッパ選手権で、世界チャンピオン、またオリンピックチャンピオンのリュドミラ・トゥリスチュワを破り、全種目優勝を含め4個の金メダルを獲った。
リュドミラはコマネチに歩み寄り頬にキスをした。
もしリュドミラが優勝していれば2年に1度しか開催されないヨーロッパ選手権で前人未到の3連覇を成し遂げていた。
しかしこの栄誉は、1975、77、79年と優勝したナディア・コマネチが得た。
She's Perfect! 10点連発
1976年のモントリオールオリンピックでは、ギラギラしたスポットライトとカメラのフラッシュが一斉に注がれ、14歳のナディア・コマネチは茫然としてしまった。
まだアメリカやカナダなどでは無名だったナディア・コマネチは主役に祭り上げられた。
当時のナディア・コマネチはオリンピックなど知らなかった。
テレビの放送内容は政府が厳しく管理していた。
コーチと政府から教えられることしか知らなかった。
世界中で行われていた体操競技会をみたこともなかった。
モントリオールに着いたとき度肝を抜かれた。
オリンピック選手村は規模や選手やスタッフ、何より聞いたこともない競技の選手の数の多さに驚いた。
バッジをもらい、それをつけていれば、選手村の映画もソフトドリンクも、服やバッグ、帽子などすべて無料だった。
宿舎は男女別だったのでマルタが仕切った。
単独ではどこへも行かせてもらえず、7時に朝食、トレーニング、休憩、昼食とスケジュールはキッチリ決められていた。
同行していたドクターが余計なものを食べないか監視していたが、ピザやカッテージチーズやシリアルなどを初めてみて、カフェの匂いには抵抗できそうになかった。
翌日の試合に備えてルーマニア体操代表は開会式をキャンセルした。
そして規定演技の日、ルーマニアチームは髪をポニーテールにまとめ、ストライプの縁取りのついた真っ白なレオタード姿でアリーナに入場した。
審判の多くはソ連出身でソ連チームに肩入れしていたが、規定ではルーマニアが上位を占めた。
ナディア・コマネチが平行棒を始める時点でルーマニアは2位。
ソ連とは1/100ポイントの差だった。
ナディア・コマネチが段違い平行棒の演技を終え、すぐに次の種目の平均台に備えウォーミングアップを始めた。
そのとき段違い平行棒の得点がスコアボードに表示された。
観客は静まり返っていた。
「1.00?」
誰もがその意味がわからなかった。
ベラが審判にジェスチャーで尋ねるとスウェーデンの審判は10本指を示した。
1.00と表示されたのはスコアボードに10.00を表示するプログラムがなかったからだった。
10点の表示は不必要だと考えられていたのである。
ナディア・コマネチは観客の声援に応えると、すぐに10点満点のことは忘れ平均台の演技に移った。
この後もさらに6つの10点満点をとった。
「コマネチサルト」や「コマネチおり」を披露し、オールオリンピック全体では7回満点を出した。
そして段違い平行棒と平均台で金メダル。
床で銅メダル。
個人総合で金メダルをとった。
ナディア・コマネチ以前にルーマニアでスポーツ選手の凱旋帰国など前例がなかった。
空港には何千人もの人々が出迎えにきていてなんとかナディア・コマネチをみよう、触ろうと押したり引いたりしていた。
ナディア・コマネチはビックリして泣いてしまった。
抱えていた人形の足も引っ張られてなくなってしまった。
チャウシェスクは祝賀会の開催を命じ、自らカロリー夫妻と選手たちに金一封を授与した。
しかしルーマニアに帰国後、彼女がトークショーに出たり、写真が雑誌の表紙を飾ったり、自宅にスポーツエージェントが押しかけるようなことはなかった。
オネスティの体操スクールで授業に出て練習も再開した。
経済的に裕福になることはなかった。
あいかわらず自宅に近い粗末な寮で20人の女の子と暮らし、週末は家に勝ってお皿洗いをさせられた。
国家と自分の考えの違い
1977年、体操ヨーロッパ選手権プラハ大会は、初めてルーマニアでテレビ放映された。
オリンピック以降、ルーマニアでは体操ブームだった。
初日、ナディア・コマネチは個人総合で優勝した。
しかし種目別決勝では一変した。
跳馬でナディア・コマネチとソ連のネリー・キムは完璧な演技をし高得点をあげた。
この点に予選での得点を加算し、その結果が電光掲示板に表示される。
2人は同点優勝のはずだった。
しかし表彰台に向かうときはコマネチは銀メダル、ネリーが金メダルと発表された。
なぜかナディア・コマネチの得点が下げられた。
ナディア・コマネチは段違い平行棒に集中しようとした。
さっき跳馬であんなことがあったのに10点満点を出した。
次の平均台も完璧にこなし着地した。
するとベラがチームに指示した。
「荷物をまとめろ!
引き上げる」
ルーマニア大使館が即時帰国せよという政府命令を伝えてきたためだった。
ナディア・コマネチはアリーナを出ていきながらスコアボードを振り返ると平均台の得点は10点満点だった。
ルーマニアチームは途中退場した原因は、ルーマニアで初めてテレビ中継された大会をみていた人々が不公平なジャッジに激高し「不正から救え」と要求したことだった。
しかしナディア・コマネチは帰りたくなかった。
不公平の中でも最後までメダルを競いたかった。
飛行機でルーマニアに戻ったとき多くの人が迎えに来てくれた。
チームを守ろうと集団ヒステリー状態になっていた
ナディア・コマネチは自分の考えと国の考えの違いに自分が2つに引き裂かれる思いがした。
他人と同じであることに幸せを感じない
ナディア・コマネチは自分の体操選手としてのキャリアはそろそろ終わりだと考えていた。
ブカレストに行き大学に入ろうかなどと思っていた。
競技会やマスコミの注目に疲れ、ベラ・カロリーの要求に応えられず、演技も必要なことができなくなっていた。
ルーマニア体操連盟は、試験的にナディア・コマネチをベラ・カロリーコーチから離すのがよいと判断した。
ベラ・カロリーとマルタ夫妻はデバに新しいトレーニングセンターを設立するからという名目で、ナディア・コマネチをブカレストの「8月23日スポーツコンプレックス」に移した。
そこでは2、3年選手として競技に参加しながら学校へも通えるという話だった。
ベラは実際にデパで新しいトレーニングセンターを立ち上げたが、ナディア・コマネチがブカレストに移されるということは聞いておらず、ある日、ナディア・コマネチがいないのを知って茫然とした。
ブカレストの新しいコーチは甘く、スケジュールもタイトではなかった。
ナディア・コマネチは遊び回った。
映画やディスコなど行ったことのなかったところに行き、アイスクリームなどこれまで禁じられていた食べ物を片っ端から食べ、グウグウ寝てテレビをみて、また寝た。
6ヵ月間、そんな生活を続けた。
最初は楽しかったが、だんだん不安になってきた。
体重が増え体型が変わるのをみるのが嫌だったし、何の技術もない自分が将来、なんの仕事に就けるのか将来に不安を感じた。
また両親が結婚生活がうまくいかず離婚してしまい、母は弟と住んでいたが、アパートで1人暮らしをする父が心配だった。
やがてナディア・コマネチはまったく落ち着かなくなってきた。
そんなある日、部屋を出たところを女性役員に呼び止められた。
「どちらに?」
ナディア・コマネチの頭に血が上った。
「ここで何をしているの?
拷問を受けないと洗濯もできないわけ?
ちょっとしたことでいちいち尋問されるというのにリラックスなんてできないじゃない!
いいわ、漂白剤を飲んで死んでやる。
放っておいてよ!」
部屋に戻りバタンとドアを閉めた。
当時のルーマニアでは人々は何を話すべきかは決められていて、話してはいけないことを話していないか、秘密警察や諜報員に監視された。
社会主義国であるルーマニアは、海外に扉を閉ざしあらかじめ政府が選んだ情報だけを伝えた。
ナディア・コマネチはルーマニアがどれだけよい国であるかを世界にアピールするのに格好の道具だった。
しかし監視され詮索され24時間見張られるのはたまらなかった。
こうした出来事でナディア・コマネチは別人のようになり、心身ともとても試合に出られる状態ではなくなり、シニアナショナル選手権の出場をキャンセルし観客席からみていた。
するとベラ・カロリーとマルタがデパの選手を連れてきていた。
彼女たちは規定演技で上位6位まで独占し、自由演技では全種目で優勝した。
翌日、ベラ・カロリーはナディア・コマネチを訪ねた。
体重が増えたナディア・コマネチをみて驚いた。
昨日も観客席にいるのがナディア・コマネチだとは信じられなかった。
2人は話し合い、ナディア・コマネチは、目標を達成し競技会で優勝したいという欲求が薄れたことを自分らしくなかったと反省した。
またブカレストで普通の人生を目指したが、自分は他人と同じであることに幸せを感じないことを自覚したと語った。
話し合いの結果、ナディア・コマネチはベラ・カロリーのもとに戻ることにした。
国はその案を受け容れ、デパのトレーニング場の近くにナディア・コマネチと母と弟が住む家を用意した。
それは2部屋しかない家で弟とナディア・コマネチは相部屋だった。
Only1 and No1
しかしナディア・コマネチがその家に入れたのはデパについて数週間後のことだった。
それまではベラとマルタの家に泊まり、激しいトレーニングと食事制限を行った。
ベラは元の体、パワー、技術を取り戻すのはものすごく難しいと考え、過酷なトレーニングを課した。
毎日、夜明け前に2人でランニング。
ナディア・コマネチは何枚も重ね着をし、エクササイズをしながら走った。
その後、3時間、ジムでトレーニング。
そして2本目のランニング。
マッサージを受け、ウエイトトレーニング、サウナと続き、さらにダッシュ。
食事はサラダと果物だけ。
アイスクリームを知ってしまったナディア・コマネチに対する厳しい愛のムチだった。
そして厳しいトレーニングや食事制限が軌道に乗ると自宅に戻り、オネスティに体操スクールのような元のバランスのよい食事を再開した。
デパでトレーニングを再開し、ナディア・コマネチは自分がトップクラスの選手でなくなったことを悟った。
しかし数週間後にはもう1度ナンバーワンに戻りたいと思うようになった。
目標は、ヨーロッパ選手権でも世界選手権でもオリンピックでもなかった。
マスコミや世間が不可能だということを、ナディア・コマネチならできるといことを証明することだった。
1978年の世界選手権に出場したのはデパに戻って5週間後にことだった。
増えた体重で難しい技を行うのは無理だった。
しかし平均台では金メダルを獲った。
平均台は腕より脚の力がものをいう種目。
下半身の強さが証明されたのは明るい材料だった。
しかしマスコミは、「ナディア・コマネチは終わった」と書き立てた。
デパに戻りナディア・コマネチはトレーニングを続けた。
しかしこの頃のトレーニングは様変わりした。
子供の頃は、技を覚えるために何度も反復した。
そしてたくさんの技を引き出しに蓄えることを行った。
しかし今ではどんな技でも自動的に行えるので、ただコンディションを向上・維持させていればよかった。
トレーニングは3時間だけ。
これにはランニング、ダンス、段違い平行棒、平均台、床の連続練習、ストレッチが含まれている。
実際に危惧を使った練習は1日18分程度。
段違い平行棒のルーティンは35秒。
それに10分の回復時間をとる。
どの種目もそのように行った。
筋力トレーニングなどパワーをつける練習は回数がずっと少なくなった。
以前なら段違い平行棒の練習は、毎日、蹴上がり上棒持ちから倒立を5回×3セット。
高棒で懸垂し足をV字に上げて顔を近づけるVアップを10回×3セット。
こうしたエクササイズに加えてさまざまな連続技をいくつも練習したり、ルーティンの終末部あたりから始めたり、最終要素や下り技を練習し、段違い平行棒を練習する時間は1日で1時間15分だった。
ベラ・カロリーはナディア・コマネチの意見や要求を聞き採用するようになった。
またナディア・コマネチは若い選手の指導も始めた。
選手はアドバイスを求め、ナディア・コマネチはあれこれ面倒をみて彼女たちの役に立つことが本当に嬉しかった。
屈辱の世界選手権から7か月後のヨーロッパ選手権で、18歳のナディア・コマネチは総合で金メダルを獲った。
スラリとやせてパワフルになっていた。
それは周囲に不可能だといわれても自分の能力と可能性を信じた努力した結果だった。
ベラはかつて体操選手についていった。
「この子たちは小さいサソリのようなものだ。
全部瓶に入れても1匹は生きたまま逃げ出す。
このサソリがチャンピオンになるのだ」
世界選手権とヨーロッパ選手権を終えてから2、3ヵ月、ナディア・コマネチはトレーニングを積み
次々と競技会で最高の成績を収めた。
これまでにないほど調子がよく、これならと世界選手権フォートワース(テキサス)大会も期待された。
そして大会1ヵ月前に、調整のためにテキサスの気候に似たメキシコに入り試合で使用されるアメリカ製の器具を使ってトレーニングをした。
しかしトレーニングどころかインフルエンザウイルスに感染し4㎏近く体重が減り体力を落とした。
テキサスに着いたときチーム全員がやつれ青ざめていた。
チームリーダーのナディア・コマネチは必死で規定演技をやり通した。
自由演技に進んだときルーマニアはソ連より0.5ポイント下だった。
しかしメキシコでの最終日に練習中に左手首にできた傷に黴菌が入り赤く腫れ出し、自由演技でアリーナに登場したときは左手首は真っ赤で痛みもひどかった。
ウオーミングアップをしてみると、左手首の腫れで動きが悪く力も出なかった。
ベラは各種目で名前を呼ばれたら出場資格を確保するためにとにかく器具に触れておけという。
(審判の前に出ず器具に触らなければ失格となる。)
ナディア・コマネチは種目が始まるごとに審判の前に出ていき器具に触れただけで下がった。
前日の規定種目で高得点を出していたので、もし演技を行ってもかなりのミスをしても勝てた。
(規定演技の得点と自由演技の得点は加算される)
はじめのうちはナディア・コマネチが演技する必要はなかった。
しかし平均台でルーマニアチームの1人が落下し、団体優勝のためにはナディア・コマネチの得点が必要になった。
ナディア・コマネチは平均台の演技を、主に右手を使い、後方倒立回転のような技も右手に体重をかけて左手の痛みを抑えた。
そして落下もせず着地も決めノーミスで演技を終えた。
得点は9.95.
ルーマニアチームは団体総合優勝を果たした。
モスクワオリンピック