ナディア・コマネチ Nadia Comaneci ルーマニアの白い妖精 完璧な演技で史上初の10点満点を連発 体操に革命を起こしたヒロイン

ナディア・コマネチ Nadia Comaneci ルーマニアの白い妖精 完璧な演技で史上初の10点満点を連発 体操に革命を起こしたヒロイン

1976年のモントリオールオリンピックの女子体操で、14歳の少女が世界をアッといわせた。 団体戦規定の段違い平行棒でオリンピック史上初の10点満点。 さらに団体戦自由、個人総合、種目別でも完璧な演技をみせ、計7回の10点満点記録。 奪ったメダルは金3個、銀1個、銅1個。 153㎝、39㎏、白い肌、白いレオタード。 「白い妖精」といわれた。 1984年、22歳で現役引退。 1989年、チャウシェスク独裁政権が崩壊する直前、自由を求めてアメリカに亡命。 オクラホマ州で体操教室を開いた。 モントリオールオリンピックで初めて10点満点を出したとき、演技終了後、審判団は10点という点数を想定していなかったため「1.00」というスコアボードを掲げた。 現在はルールが変更されたので、10点満点は存在しない。


ビートたけしのコマネチ(V)!

ビートたけしは、自身のギャグ、「コマネチ(V)!」について、
「あれはコマネチっていう選手の名前を思い出せなくて、レオタードのジェスチャーをしたら、それがコマネチになっちゃった」
という。

体操競技

「コマネチ・サルト」は、高棒から飛び出して前方開脚宙返り、そして再び高棒をつかむスーパーE難度技

体操競技は、徒手または器械を用いた体操の演技について、技の難易度・美しさ・安定性などを基準に採点を行い、その得点を競う。
男子は、床運動、鞍馬、吊り輪、跳馬、平行棒、鉄棒の6種目。
女子は、跳馬、段違い平行棒、平均台、床運動の4種目。
小柄な方が有利で、男子は160cm台、女子は140cm台の選手が多い。
技は難度が決められ、難度が高い技ほど得点が高い。
だから選手は高難度の技を狙う。
当初、難度はA~Cの3段階だった。
1985年にD難度、1993年にE難度、1998年に一時的にスーパーEが導入され、2006年にF難度、G難度、2013年から女子にI難度が創設された。
ナディア・コマネチの時代は、1番かんたんなA難度から、B、C、D、E、スーパーE難度までだった。
スーパーE難度は、世界でもごくわずかの人間しかできなかった。
段違い平行棒で、コマネチの名前がついたスーパーE難度技が2つあった。
「コマネチ・サルト」は、高棒から飛び出して前方開脚宙返り、そして再び高棒をつかむ。
「コマネチ下り」は、高棒での倒立から足裏支持で1回転し、足、手の順で高棒から離し、1/2捻り後方宙返りで下りる。

ルーマニアという国

ナディア・コマネチが生まれたルーマニアは、東ヨーロッパ、バルカン半島の西部、北にウクライナ、西にハンガリーとセルビア、南にドナウ川をはさんでブルガリア、東にモルドバおよび黒海に面している東ヨーロッパの大国。
面積は約24万平方kmで日本の本州とほぼ同じ。
古代にはローマの属州となり、13世紀にはモンゴルに支配され、14世紀にはモルダヴィア公国・ワラキア公国という2つの公国を創った。

Vlad III

ワラキア公国のヴラド・ツェペシュ公は、オスマン軍の侵入と戦った英雄だったが、捕虜や裏切り者を串刺しの刑にしたため、後に「吸血鬼ドラキュラ」の元ネタとなった
モルダヴィア公国、ワラキア公国は、いずれもオスマン帝国のバルカン進出を受け、その支配を受けるようになる

チャウシェスク大統領

19世紀にはロシアの支配を受けた。
しかしやがて民族独立の気運が高まり、1856年、パリ条約でモルダヴィアとワラキアの自治が認められ、両国は1859年に統一され、1866年には統一国家名としてルーマニア公国を掲げた。
第1次世界大戦のルーマニアは戦勝国となり、領土と人口が一挙に倍増し、東欧の大国となった。
しかし1941年、第2次世界大戦下、王政が安定せず政変が起こり軍部独裁政権が成立。
軍部独裁政権は、ドイツのヒトラーと結んで参戦。
ドイツの対ソ戦に協力させられ、ルーマニア軍は最前線に立たされ大きな損害を被った。
1944年、ソ連軍がドイツ軍を破ってルーマニアに入り。
国王は軍事政権のトップ:アントネスク将軍を逮捕しソ連と休戦協定を結び、対独宣戦を布告。
1947年、第2次世界大戦後、ソ連に対して賠償金を支払い、ソ連の強い指導に服して社会主義化を進められた。
1947年、王政は廃止され、ルーマニア人民共和国となり、ソ連の衛星国として東欧の社会主義圏を形成。
しかし1956年にスターリンを批判し独自路線に転換。
石油資源を積極的に生かした独自の工業化政策を打ち出し、西側とも接近した。
1965年、チャウシェスク政権が誕生。
チャウシェスクは民族主義を掲げる一方、独自外交をさらに拡大しながら独裁権力を握った。
1967年に西ドイツと国交を樹立して世界を驚かせ、1968年のチェコ事件でソ連の要請を拒否して軍を派遣しなかった。
1974年、チャウシェスク独裁体制が強化され、個人崇拝の強要、同族支配、国民の自由が抑圧されるようになった。
経済は停滞した。

国家プロジェクト

チャウシェスクはスポーツで国力をアピールしようと考え英才教育政策を行った。
夫:ベラ・カロリーと妻:マルタは、ナディア・コマネチの故郷:オネスティに体操スクールをつくる準備をしていた。
その学校もルーマニア政府の教育省が出資している学校だった。
テストした子供は4000人以上。
小学校をまわり、子供たちにマット運動を教えて、そのスピード、柔軟性、筋力、バランスなどをみた。
どの子が柔軟で筋肉の協調性がいいかはすぐにわかった。
テストを始めて4週間、スカウトした子供の数はスクールを立ち上げにはまだ十分ではなかったので、再度選び出すことにした。
ある日、校庭の隅で小さな女の子が2人、側転をしていた。
「この子たちは素質がある!」
そう直感した。
そのときチャイムが鳴って2人は校舎内へ走っていってしまった。
ベラ・カロリーは教室をまわって聞いた。
「体操の好きな子は?」
「側転のできる子は?」
しかし2人は見つからなかった。
最後の教室となり、疲れた声で聞いた。
「側転のできる子は?」
誰も答えなかったので、あきらめて出ていきかけたとき、教室の後ろにブロンドの少女が2人目に入った。
「側転はできる?」
少女はヒソヒソ話をしていたがこっくりとうなずいた。
「やってみせて」
2人は完璧な側転をした。
「校庭の隅で側転をしていたのは君たちだね」
2人はまたうなずいた。
「名前は?」
「ビオリカ・ドミトル」
「ナディア・コナネチ」
ベラ・カロリーは2人にいった。
「お母さんにこう伝えなさい。
もし希望すればオネスティの体操スクールに入学できるとベラ・カロリーがいっていました、と」
体操スクールは寮と体育館がひとつにつながった総合的な施設だった。
自宅から800mくらいだったのでナディア・コマネチは数年間は歩いて通学した。
授業料は無料。
レオタードやリストガードやシューズ、医療費もタダだった。
遠征で旅行はできた。
エリート選手には月々、給付金も出た。
初めてレオタードをもらったときナディア・コマネチは枕に乗せて一緒に寝た。

体操スクールは週6日制で、毎日授業が4時間、体育館で練習が4時間。
授業が終わって体育館に駆け込むと、ウエイトやロープでトレーニングし、ジャンプ、ランニングなどたくさんのメニューをこなしていった。
かんたんな技でも覚えるのに数か月かかった。
平均台の上での側転は、まずマットの上で練習し、次に床の上に引いたライン上で、さらにクッションで囲まれた低い平均台を使い、最後に平均台の上で仕上げた。
各技をマスターするまで全部最初から繰り返された。
1つ1つ段階を踏んで、反復し、失敗したり成功したりすることで力をつけていった。
ナディア・コマネチが出た初めての大きな競技会は1970年の全国体操選手権だった。
9歳のときだった。
平均台で最初の高い跳躍でいきなり左側に落下。
カッとなって平均台によじ登ると今度は右側に落下。
2度と落ちるものかと再び平均台の上に立った。
みんなが笑っているような気がして両耳まで真っ赤になった。
もう絶対に落ちるものかと誓ったが、また落下した。
平均台が終わって帰るとマルタはカンカンに怒っていた。
ベラ・カロリーとマルタは、基本こそ体操のキャリアを築くうえで最も重要であり、またそのためには体の強さとコンディショニング、そしてかんたんな技を完璧に行うことが必要と考えていた。
平均台の上で宙返りをするには、その前に跳躍とステップがスムーズにできて、完璧な位置でバランスをとり、次の難しい技に備えることが必要である。
体操では基本ができていないと、筋断裂、骨折、脊椎障害など危険な事故が起こってしまう。
だから細部まで大切にしなければいけなかった。
マルタは、子供には自分を律することができないからコーチが厳しく管理すべきと、練習時間も勉強時間も2人が指示した。
7時、朝食。
8~12時までトレーニング。
11~14時まで授業。
2、3時間休憩してから体育館に戻り19時半まで練習。
その後、夕食と宿題をして22時消灯し心身の疲れがとれるように睡眠は毎晩8~10時間。
食事も体を強くするためにグリルした肉や魚、サラダ、フルーツが中心で、パスタやパン、ライスはなし。
ベラは体格がよく最高のスポッター(体操選手がケガをしないようにサポートする人)だった。
スポッターがよいと選手は難しい技も怖がらずに挑戦できた。
またベラは指導法について以下のような考えを持っていた。
他のトップ選手のスタイルとトレーニングを真似したところで、その選手はお手本ほどうまくならない。
近いところまで行ってもそのレベルには届かない。
後から追いかけるだけでは決して追いつけない。
しかし独自のスタイルで育成すれば他の誰をもしのぐ選手になる可能性がある。
この選手権でナディア・コマネチは13位。
チームは優勝した。

ナディア・コマネチは1972年のフレンドシップ杯に出場した。
チェコやドイツやソ連の選手は10代後半から20代だったが、ナディア・コマネチを含むオネスティの体操スクールのチームは、みんな10歳。
みんな自分より脚が長く優雅だった。
しかし小さい女の子は大きな女の子を破った。
ナディア・コマネチは全種目で金メダル。
団体でも銀メダルを獲得した。
以後、ナディア・コマネチは日を追うごとに強さを増し集中力を高め、パワーをつけた。
コマネチサルトはベラ・カロリーが考え出した。
いったん手を放して高棒から飛び出して、前方開脚宙返りし、そして再び高棒をつかむ技である。
ナディア・コマネチは何時間も何日も何週間も何か月も練習し
誰も試みたことのない技を完成させた。
ナディア・コマネチは1975年にノルウェーで開催されたヨーロッパ選手権で、世界チャンピオン、またオリンピックチャンピオンのリュドミラ・トゥリスチュワを破り、全種目優勝を含め4個の金メダルを獲った。
リュドミラはコマネチに歩み寄り頬にキスをした。
もしリュドミラが優勝していれば2年に1度しか開催されないヨーロッパ選手権で前人未到の3連覇を成し遂げていた。
しかしこの栄誉は、1975、77、79年と優勝したナディア・コマネチが得た。

She's Perfect! 10点連発

1976年のモントリオールオリンピックでは、ギラギラしたスポットライトとカメラのフラッシュが一斉に注がれ、14歳のナディア・コマネチは茫然としてしまった。
まだアメリカやカナダなどでは無名だったナディア・コマネチは主役に祭り上げられた。
当時のナディア・コマネチはオリンピックなど知らなかった。
テレビの放送内容は政府が厳しく管理していた。
コーチと政府から教えられることしか知らなかった。
世界中で行われていた体操競技会をみたこともなかった。
モントリオールに着いたとき度肝を抜かれた。
オリンピック選手村は規模や選手やスタッフ、何より聞いたこともない競技の選手の数の多さに驚いた。
バッジをもらい、それをつけていれば、選手村の映画もソフトドリンクも、服やバッグ、帽子などすべて無料だった。
宿舎は男女別だったのでマルタが仕切った。
単独ではどこへも行かせてもらえず、7時に朝食、トレーニング、休憩、昼食とスケジュールはキッチリ決められていた。
同行していたドクターが余計なものを食べないか監視していたが、ピザやカッテージチーズやシリアルなどを初めてみて、カフェの匂いには抵抗できそうになかった。
翌日の試合に備えてルーマニア体操代表は開会式をキャンセルした。
そして規定演技の日、ルーマニアチームは髪をポニーテールにまとめ、ストライプの縁取りのついた真っ白なレオタード姿でアリーナに入場した。
審判の多くはソ連出身でソ連チームに肩入れしていたが、規定ではルーマニアが上位を占めた。
ナディア・コマネチが平行棒を始める時点でルーマニアは2位。
ソ連とは1/100ポイントの差だった。
ナディア・コマネチが段違い平行棒の演技を終え、すぐに次の種目の平均台に備えウォーミングアップを始めた。
そのとき段違い平行棒の得点がスコアボードに表示された。
観客は静まり返っていた。
「1.00?」
誰もがその意味がわからなかった。
ベラが審判にジェスチャーで尋ねるとスウェーデンの審判は10本指を示した。
1.00と表示されたのはスコアボードに10.00を表示するプログラムがなかったからだった。
10点の表示は不必要だと考えられていたのである。
ナディア・コマネチは観客の声援に応えると、すぐに10点満点のことは忘れ平均台の演技に移った。
この後もさらに6つの10点満点をとった。
「コマネチサルト」や「コマネチおり」を披露し、オールオリンピック全体では7回満点を出した。
そして段違い平行棒と平均台で金メダル。
床で銅メダル。
個人総合で金メダルをとった。

ナディア・コマネチ以前にルーマニアでスポーツ選手の凱旋帰国など前例がなかった。
空港には何千人もの人々が出迎えにきていてなんとかナディア・コマネチをみよう、触ろうと押したり引いたりしていた。
ナディア・コマネチはビックリして泣いてしまった。
抱えていた人形の足も引っ張られてなくなってしまった。
チャウシェスクは祝賀会の開催を命じ、自らカロリー夫妻と選手たちに金一封を授与した。
しかしルーマニアに帰国後、彼女がトークショーに出たり、写真が雑誌の表紙を飾ったり、自宅にスポーツエージェントが押しかけるようなことはなかった。
オネスティの体操スクールで授業に出て練習も再開した。
経済的に裕福になることはなかった。
あいかわらず自宅に近い粗末な寮で20人の女の子と暮らし、週末は家に勝ってお皿洗いをさせられた。

国家と自分の考えの違い

1977年、体操ヨーロッパ選手権プラハ大会は、初めてルーマニアでテレビ放映された。
オリンピック以降、ルーマニアでは体操ブームだった。
初日、ナディア・コマネチは個人総合で優勝した。
しかし種目別決勝では一変した。
跳馬でナディア・コマネチとソ連のネリー・キムは完璧な演技をし高得点をあげた。
この点に予選での得点を加算し、その結果が電光掲示板に表示される。
2人は同点優勝のはずだった。
しかし表彰台に向かうときはコマネチは銀メダル、ネリーが金メダルと発表された。
なぜかナディア・コマネチの得点が下げられた。
ナディア・コマネチは段違い平行棒に集中しようとした。
さっき跳馬であんなことがあったのに10点満点を出した。
次の平均台も完璧にこなし着地した。
するとベラがチームに指示した。
「荷物をまとめろ!
引き上げる」
ルーマニア大使館が即時帰国せよという政府命令を伝えてきたためだった。
ナディア・コマネチはアリーナを出ていきながらスコアボードを振り返ると平均台の得点は10点満点だった。
ルーマニアチームは途中退場した原因は、ルーマニアで初めてテレビ中継された大会をみていた人々が不公平なジャッジに激高し「不正から救え」と要求したことだった。
しかしナディア・コマネチは帰りたくなかった。
不公平の中でも最後までメダルを競いたかった。
飛行機でルーマニアに戻ったとき多くの人が迎えに来てくれた。
チームを守ろうと集団ヒステリー状態になっていた
ナディア・コマネチは自分の考えと国の考えの違いに自分が2つに引き裂かれる思いがした。

他人と同じであることに幸せを感じない

ナディア・コマネチは自分の体操選手としてのキャリアはそろそろ終わりだと考えていた。
ブカレストに行き大学に入ろうかなどと思っていた。
競技会やマスコミの注目に疲れ、ベラ・カロリーの要求に応えられず、演技も必要なことができなくなっていた。
ルーマニア体操連盟は、試験的にナディア・コマネチをベラ・カロリーコーチから離すのがよいと判断した。
ベラ・カロリーとマルタ夫妻はデバに新しいトレーニングセンターを設立するからという名目で、ナディア・コマネチをブカレストの「8月23日スポーツコンプレックス」に移した。
そこでは2、3年選手として競技に参加しながら学校へも通えるという話だった。
ベラは実際にデパで新しいトレーニングセンターを立ち上げたが、ナディア・コマネチがブカレストに移されるということは聞いておらず、ある日、ナディア・コマネチがいないのを知って茫然とした。
ブカレストの新しいコーチは甘く、スケジュールもタイトではなかった。
ナディア・コマネチは遊び回った。
映画やディスコなど行ったことのなかったところに行き、アイスクリームなどこれまで禁じられていた食べ物を片っ端から食べ、グウグウ寝てテレビをみて、また寝た。
6ヵ月間、そんな生活を続けた。
最初は楽しかったが、だんだん不安になってきた。
体重が増え体型が変わるのをみるのが嫌だったし、何の技術もない自分が将来、なんの仕事に就けるのか将来に不安を感じた。
また両親が結婚生活がうまくいかず離婚してしまい、母は弟と住んでいたが、アパートで1人暮らしをする父が心配だった。
やがてナディア・コマネチはまったく落ち着かなくなってきた。
そんなある日、部屋を出たところを女性役員に呼び止められた。
「どちらに?」
ナディア・コマネチの頭に血が上った。
「ここで何をしているの?
拷問を受けないと洗濯もできないわけ?
ちょっとしたことでいちいち尋問されるというのにリラックスなんてできないじゃない!
いいわ、漂白剤を飲んで死んでやる。
放っておいてよ!」
部屋に戻りバタンとドアを閉めた。
当時のルーマニアでは人々は何を話すべきかは決められていて、話してはいけないことを話していないか、秘密警察や諜報員に監視された。
社会主義国であるルーマニアは、海外に扉を閉ざしあらかじめ政府が選んだ情報だけを伝えた。
ナディア・コマネチはルーマニアがどれだけよい国であるかを世界にアピールするのに格好の道具だった。
しかし監視され詮索され24時間見張られるのはたまらなかった。
こうした出来事でナディア・コマネチは別人のようになり、心身ともとても試合に出られる状態ではなくなり、シニアナショナル選手権の出場をキャンセルし観客席からみていた。
するとベラ・カロリーとマルタがデパの選手を連れてきていた。
彼女たちは規定演技で上位6位まで独占し、自由演技では全種目で優勝した。
翌日、ベラ・カロリーはナディア・コマネチを訪ねた。
体重が増えたナディア・コマネチをみて驚いた。
昨日も観客席にいるのがナディア・コマネチだとは信じられなかった。
2人は話し合い、ナディア・コマネチは、目標を達成し競技会で優勝したいという欲求が薄れたことを自分らしくなかったと反省した。
またブカレストで普通の人生を目指したが、自分は他人と同じであることに幸せを感じないことを自覚したと語った。
話し合いの結果、ナディア・コマネチはベラ・カロリーのもとに戻ることにした。
国はその案を受け容れ、デパのトレーニング場の近くにナディア・コマネチと母と弟が住む家を用意した。
それは2部屋しかない家で弟とナディア・コマネチは相部屋だった。

Only1 and No1

しかしナディア・コマネチがその家に入れたのはデパについて数週間後のことだった。
それまではベラとマルタの家に泊まり、激しいトレーニングと食事制限を行った。
ベラは元の体、パワー、技術を取り戻すのはものすごく難しいと考え、過酷なトレーニングを課した。
毎日、夜明け前に2人でランニング。
ナディア・コマネチは何枚も重ね着をし、エクササイズをしながら走った。
その後、3時間、ジムでトレーニング。
そして2本目のランニング。
マッサージを受け、ウエイトトレーニング、サウナと続き、さらにダッシュ。
食事はサラダと果物だけ。
アイスクリームを知ってしまったナディア・コマネチに対する厳しい愛のムチだった。
そして厳しいトレーニングや食事制限が軌道に乗ると自宅に戻り、オネスティに体操スクールのような元のバランスのよい食事を再開した。
デパでトレーニングを再開し、ナディア・コマネチは自分がトップクラスの選手でなくなったことを悟った。
しかし数週間後にはもう1度ナンバーワンに戻りたいと思うようになった。
目標は、ヨーロッパ選手権でも世界選手権でもオリンピックでもなかった。
マスコミや世間が不可能だということを、ナディア・コマネチならできるといことを証明することだった。

1978年の世界選手権に出場したのはデパに戻って5週間後にことだった。
増えた体重で難しい技を行うのは無理だった。
しかし平均台では金メダルを獲った。
平均台は腕より脚の力がものをいう種目。
下半身の強さが証明されたのは明るい材料だった。
しかしマスコミは、「ナディア・コマネチは終わった」と書き立てた。
デパに戻りナディア・コマネチはトレーニングを続けた。
しかしこの頃のトレーニングは様変わりした。
子供の頃は、技を覚えるために何度も反復した。
そしてたくさんの技を引き出しに蓄えることを行った。
しかし今ではどんな技でも自動的に行えるので、ただコンディションを向上・維持させていればよかった。
トレーニングは3時間だけ。
これにはランニング、ダンス、段違い平行棒、平均台、床の連続練習、ストレッチが含まれている。
実際に危惧を使った練習は1日18分程度。
段違い平行棒のルーティンは35秒。
それに10分の回復時間をとる。
どの種目もそのように行った。
筋力トレーニングなどパワーをつける練習は回数がずっと少なくなった。
以前なら段違い平行棒の練習は、毎日、蹴上がり上棒持ちから倒立を5回×3セット。
高棒で懸垂し足をV字に上げて顔を近づけるVアップを10回×3セット。
こうしたエクササイズに加えてさまざまな連続技をいくつも練習したり、ルーティンの終末部あたりから始めたり、最終要素や下り技を練習し、段違い平行棒を練習する時間は1日で1時間15分だった。
ベラ・カロリーはナディア・コマネチの意見や要求を聞き採用するようになった。
またナディア・コマネチは若い選手の指導も始めた。
選手はアドバイスを求め、ナディア・コマネチはあれこれ面倒をみて彼女たちの役に立つことが本当に嬉しかった。
屈辱の世界選手権から7か月後のヨーロッパ選手権で、18歳のナディア・コマネチは総合で金メダルを獲った。
スラリとやせてパワフルになっていた。
それは周囲に不可能だといわれても自分の能力と可能性を信じた努力した結果だった。
ベラはかつて体操選手についていった。
「この子たちは小さいサソリのようなものだ。
全部瓶に入れても1匹は生きたまま逃げ出す。
このサソリがチャンピオンになるのだ」

世界選手権とヨーロッパ選手権を終えてから2、3ヵ月、ナディア・コマネチはトレーニングを積み
次々と競技会で最高の成績を収めた。
これまでにないほど調子がよく、これならと世界選手権フォートワース(テキサス)大会も期待された。
そして大会1ヵ月前に、調整のためにテキサスの気候に似たメキシコに入り試合で使用されるアメリカ製の器具を使ってトレーニングをした。
しかしトレーニングどころかインフルエンザウイルスに感染し4㎏近く体重が減り体力を落とした。
テキサスに着いたときチーム全員がやつれ青ざめていた。
チームリーダーのナディア・コマネチは必死で規定演技をやり通した。
自由演技に進んだときルーマニアはソ連より0.5ポイント下だった。
しかしメキシコでの最終日に練習中に左手首にできた傷に黴菌が入り赤く腫れ出し、自由演技でアリーナに登場したときは左手首は真っ赤で痛みもひどかった。
ウオーミングアップをしてみると、左手首の腫れで動きが悪く力も出なかった。
ベラは各種目で名前を呼ばれたら出場資格を確保するためにとにかく器具に触れておけという。
(審判の前に出ず器具に触らなければ失格となる。)
ナディア・コマネチは種目が始まるごとに審判の前に出ていき器具に触れただけで下がった。
前日の規定種目で高得点を出していたので、もし演技を行ってもかなりのミスをしても勝てた。
(規定演技の得点と自由演技の得点は加算される)
はじめのうちはナディア・コマネチが演技する必要はなかった。
しかし平均台でルーマニアチームの1人が落下し、団体優勝のためにはナディア・コマネチの得点が必要になった。
ナディア・コマネチは平均台の演技を、主に右手を使い、後方倒立回転のような技も右手に体重をかけて左手の痛みを抑えた。
そして落下もせず着地も決めノーミスで演技を終えた。
得点は9.95.
ルーマニアチームは団体総合優勝を果たした。

モスクワオリンピック

19歳のナディア・コマネチは、もう1年体操選手として頑張って、その後はブカレストの大学に行こうと思った。
1980年のオリンピックには出たかった。
ベラ・カロリーとマルタの同意を得てブカレストに戻りトレーニングを始めた。
トレーニングをしていくうちに坐骨神経痛が出始めた。
脚にも痛みがあり、神経を切れたように足の指の感覚がないこともあった。
物理療法を受け、硬いところで寝たりして回復に努め、練習やトレーニングは無理をせずなんとかいい成績が出せるように最低限の練習をこなした。
ブカレストで亡命した一家の家を買い、母と弟と住んだ。
体操選手として毎月100ドルをもらっていたが、足りない分は母が地元の店で働いた。
冬は光熱費を熱約するために3人一緒に寝起きした。
当時、共産主義国のアスリートはCM出演や講演で収入を得ることができなかった。
だからナディア・コマネチの収入はルーマニア政府が握っていた。
1980年のモスクワオリンピック直前に、ソ連がアフガニスタンに侵攻。
アメリカのカーター大統領が抗議の声明を発表し、オリンピック不参加を各国に呼びかけた。
このため日本を含む多くの民主主義国家がオリンピックをボイコットした。
しかしナディア・コマネチにとって大した問題ではなかった。
最強のソ連やドイツとメダルを争うことが重要だった。
アメリカは当時まだそのレベルに達していなかったのでオリンピックに出場しなくても残念とは感じなかった。
モスクワオリンピックはソ連の土俵での戦いだった。
ルーマニアチームは団体総合でソ連に次いで2位。

しかし個人ではナディア・コマネチが段違い平行棒で落下したので、ソ連のエレナ・ダビドワは大きなミスをしなければ優勝することができる。
そして残るは最終種目のみ。
ナディア・コマネチは平均台の2人目、エレナ・ダビドワは段違い平行棒の6人目、最後の選手だった。
平均台の1人目の選手が演技を終え、ナディア・コマネチは審判の演技開始の合図を待った。
しかし審判が集まって何か話し合い合図は出ない。
その間に段違い平行棒は進んでいき、ついに6人目のエレナ・ダビドワの演技が終わった。
得点は9.95だった。
そこでようやくナディア・コマネチに演技開始の合図が出て、手堅くまとめた演技は9.85。
こうして個人総合の金メダルはエレナ・ダビドワ、ナディア・コマネチは銀メダルとなった。
これについてソ連が勝つためにナディア・コマネチの演技時間を遅らせたという人もいたが、ナディア・コマネチ本人は自分のミスとエレナのよい演技を認め結果を妥当と受け入れた。
しかしベラ・カロリーは
「採点はフェアにやれ」
と抗議した。
帰国したベラ・カロリーはブカレストの中央員会に呼び出された。
ハンガリーの血を引くという理由で、チャウシェスクはベラ・カロリーを嫌っていた。
チャウシェスクは、「2世代前から続くルーマニア人で、かつ国内で生まれた者だけが国家防衛に関わる党と政府の役職に就くことができる」とし、1977年末にコマネチのコーチを交替させようと決めた理由も「あのゲスなハンガリー夫婦とナディア・コマネチの名声をわけるのはいやだ。彼女にはルーマニア人の血を引くコーチを探さなくては・・・」という理由からだった。
ベラはチャウシェスクの信任厚い委員たちが居並ぶ机の前に立たされ説明を求められた。。
なぜオリンピックを混乱させたのか?
なぜ西側マスコミに話したのか?
(ベラは「大会は腐敗している」とアメリカの記者に語った)
なぜ(我が国の友人である)ソ連を侮辱したのか?
ベラは軽くても投獄、もしかしたら命を奪われるかもしれなかった。

運命のアメリカツアー

チャウシェスクファミリー

オリンピック以降、20歳のナディア・コマネチは体操をやめて、大学に通い、弟の面倒をみて、毎月半ばになると食べていくのに悪戦苦闘した。
当時誰もが食べ物を手に入れることが困難だった。
朝4時に食料品店の行列に並んで順番が来てみると、棚にはマヨネーズとマスタードと豆しかなく、近所同士で食料を交換したり分け合って暮らした。
みんな暮らしは悲惨で苦しかった。
ルーマニアの食料はすべて輸出されていた。
チャウシェスクが懐を肥やし、国名義で負った債務を完済するためだった。
ナディア・コマネチは体操をやめてはじめて自分がそれまでどれだけ幸運だったか知った。
トレーニングしている間はちゃんと食事ができた。
しかし体操選手としての生活が終わると周囲の人と同じ辛い生活が待っていた。
ナディア・コマネチは大学でフォークダンスチームの振付師をした。
これが初めて仕事だった。

1981年、ルーマニア体操連盟から電話があり、アメリカでエキシビジョンツアーを行うという。
政府としては11都市でショーを開催し25万ドルを集めたかった。
そこで1000ドルのギャラを出すからナディア・コマネチに参加してほしいという。
振付師の給料は日給3ドルだった。
ナディア・コマネチは承諾した。
チームはベラ・カロリーとマルタが引率していた。
オリンピック以後、ナショナルチームのコーチから外され、デパのトレーニングセンターは政府の支援を失った。
そしてこの遠征に同行することを強制された。
また外国マスコミと話すことを禁じられた。
ベラは政府の冷遇にすっかり愛想をつかしていた。
ルーマニア体操連盟理事が代表団長として同行し、また私服警官数名も身分を隠して派遣された。
スケジュール、ホテル、交通機関、パスポート、すべてを理事が管理した。

バート・コナー

アメリカではアメリカの体操選手チームと一緒にバスに乗り言葉が通じない中で楽しい時間を過ごした。
ナディア・コマネチは彼らの音楽を聴きコミュニケーションを試みた。
ここに後に夫となるバート・コナーがいた。

ベラとマルタは亡命後、アメリカで体操の指導者となりゴールドメダリストも輩出

ある夜、理事とベラが大喧嘩をした。
そしてベラとマルタは自分と家族の命が危ないと判断し亡命することを決意した。
家族や友人、家や持ち物をルーマニアに残し、エキシビジョンツアー用のスーツケースだけを持って国を出た。
アメリカには友人はいない。
受け容れられず強制送還になり亡命未遂の罪で投獄されてしまうかもしれなかった。
アメリカでの最終日、選手は朝のミーティングの後、ニューヨークでショッピングを楽しんだ。
買い物から帰ると昼ミーティングが行われたが、そこにベラとマルタはいなかった。

胎児政策

恩師の亡命後、ナディア・コマネチの周囲は変わった。
ルーマニア政府は国外旅行を許さず、エキシビジョンツアーのリストにも入らなかった。
亡命を恐れての措置だった。
数年後、スポーツディブロマを取得し大学を卒業し、体操連盟の仕事に就いた。
さまざまなクラブに行き体操選手の様子を視察しコーチングとトレーニング施設について報告する仕事だった。
仕事は楽しかった。
しかし特別なことはなくごく普通の人生だった。
給料は大学在学中とほとんど変わらなかったが、25歳になると政府は給料からかなりの額を差し引くようになった。
理由はナディア・コマネチに子供がいなかったからである。
この措置は25歳で子供がいないすべての女性に対して実施されていた。
1970年代半ば、チャウシェスクは2000年までにルーマニアの人口を2300万から3000万人に増やすという方針を決定。
自分の信奉者を増やし税収を増やし国力を増大させるためだった。
そのため「胎児は社会全体の財産であり、子供を産まない者は国家存続に反する者である」とし、中絶は禁じられ、25歳になっても子供がいない女性は愛国の義務を怠った罪で罰金が科せられた。
チャウシェスクの胎児政策でルーマニアの出生率は2倍になった。
しかし妊婦の健康を維持し、新生児を育てるために必要な食物や栄養は国民の手に入らなかった。
チャウシェスクは性教育や生殖に関する書物を禁じ「国家機密」とした。
45歳未満の女性は3か月おきに診察を受け妊娠の有無をチェックすることが義務付けられた。

1981年、ルーマニアの国家事情は悪化。
チャウシェスクは農業や酪農によって本来足り得る国内の食料のほとんどを輸出した。
西側に100億ドルの債務があったため、国外に売れそうなものはすべて輸出し一気に完済しようと考えた。
その結果、国民は1ヶ月当たり450~900gの肉しか配給されなくなった。
これでは家族はおろか1人でも1週間も持たない。
できるなら子供は欲しくない。
でも罰金を払うこともできない。
チャウシェスクは浪費を続け、使いもしない運河を掘り、豪邸を40軒も所有した。
その妻も宝飾品、ヨット、旅行など湯水のように使った。
一方で多くの町では電力不足が起こり1日1度しか湯を沸かすことができなかった。
チャウシェスクは工場に週7日労働を強制し賃金をカットした。
土地の再開発が決まると住人を追い出した。
多くの国民の唯一の慰めだった宗教を禁止し教会を破壊した。
政府は暴力と秘密警察を使ってマスコミを操作したため、ナディア・コマネチはこういったことを知らなかった。

1984年、ロスアンゼルスオリンピックを、1980年のモスクワオリンピックをアメリカがボイコットした報復としてソ連、キューバ、東ドイツなど多くの共産主義国が不参加を決定した。
しかしチャウシェスクはルーマニアを参加させた。
ナディア・コマネチもルーマニア代表チームのメンバーとして参加を求められた。
アメリカでは食事や買い物を楽しみ、できるだけ多くの友人に会った。
ベラ・カロリーがアメリカで教えた選手:メアリー・ルー・レットンをみた。
ベラに挨拶することは許されたが話しかけることはできなかった。
でもアメリカで生活できていることを確認できてうれしかった。
電話もレンタカーもホテルの部屋も全部盗聴されていた。
付き添いの女性は政府の役人でナディア・コマネチの一挙手一投足を記録した。
2、3週間後、帰国し、体操連盟の仕事に戻った。

危険なチャレンジ 亡命

自由に国外旅行を許され、そこそこの給料をもらっていたら考えなかったかもしれない。
しかしある日、ナディア・コマネチは気づいた。
今いる場所にいたらその先は死しかないと。
ルーマニアで出世するには汚い政治屋になるしかなかったが、そんなことはできない。
もっといい仕事に就きもっと稼ぐ希望もない。
体操の代表メンバーとして世界をみるチャンスもない。
家にも店にも食料がない。
もう行き止まりだと思った。
今のまま声もなく叫び続けるか、自ら決意して自分の人生を切り開くか、どちらしかないことに気づいた。
ナディア・コマネチは自分自身の夢をみたいと思った。

亡命の第1段階は、友人宅で行われたバースディパーティーの席から始まった。
そのパーティーには亡命しアメリカに市民権を持つルーマニア人が数名参加していた。
その中の1人:コンスタンチン・パニートはフロリダに住み、亡命をサポートしているという。
2度目にコンスタンチン・パニートに会ったのもパーティーだった。
秘密警察の目をごまかすためにこうした形をとるのである。
コンスタンチン・パニートは亡命の方法を示した。
コンスタンチン・パニートの友人がハンガリー国境近くに住んでいるので、一家を訪ね国境近くに暮らす人と付き合いがあることを政府に納得させるのがいいという。
急に1度だけ訪ねたら怪しまれるが数度繰り返せば警察の脇も甘くなるだろうと。
そして警戒される前にうまく国境を越えることができるかもしれないという。
ナディア・コマネチはコンスタンチン・パニートの案に従い国境近くの家を訪れた。
そのとき他の亡命希望者6名とも顔を合わせた。
女性2人と男性4人だった。
そのうち1人は3度亡命を試みて失敗していた。
ハンガリーまでは行けたがハンガリー当局に強制送還されたという。
そして投獄された。
でもなお4度目の亡命を試みようとしていた。
亡命の計画は、父にも母にも話せなかった。
もし話せば2人にも危険が及ぶ。
また密かに家を弟名義に改めた。

そしてコンスタンチン・パニートの友人宅で開かれるパーティーに参加し続けた。
その家は近隣を含め警察に監視されていた。
出入りの際にセキュリティーゲートに署名しなければならなかった。
ある夜、国境そばの家を訪れた後、ナディア・コマネチはセキュリティーゲートに戻らず、反対に闇に向かって走った。
3度亡命を試みた男性について森を6時間走り抜けハンガリー国境を越える計画だった。
コンスタンチン・パニートは国境の向こうの車の中で待っていた。
11月で気温は零下。
地面は凍っていて何度も滑った。
見つからないように灯りはつけられない。
またしゃべることもできない。
できるだけ音を立てず移動し、できるときは走った。
背後から撃たれるかもしれない恐怖と戦いながら凍った湖に行き着いた。
他に渡れる場所はなかった。
全員が氷に乗ったとたん氷は割れて水中に落ちた。
長い時間をかけなんとか湖を渡ったときには痛いほどの冷たさで感覚がマヒしていた。
6時間後、ようやくzやsの入った名前が書かれたプレートがあった。
ルーマニアの名前でなかった。
汚れた格好でコンスタンチン・パニートの車を探しているとハンガリーの警官に遭遇した。
午前2時に人気のない通りを歩いている7人のグループに警官は尋問を始めたが、答えられないのをみると車に乗せて署に連行し個別に事情聴取した。
ナディア・コマネチはすぐに亡命を認められた。
そして他の2人も。
しかし残りの4人は翌日ルーマニアに送還するという。
ナディア・コマネチはいった。
「全員がここにいていいと認められないなら私も残りません」
警察はそれを認め、全員をホテルに宿泊させ食料の引換券を渡した。
警察を出ると失敗に気づいたコンスタンチン・パニートがきていて
「私がホテルに連れていきます」
といってみんなを車に乗せたが、向かったのは違うホテルだった。
ハンガリーは目的地ではない。
オーストリアの保護を求める計画だった。
翌朝の新聞には、ナディア・コマネチの写真が載っていたが何と書いてあるかはわからなかった。
次の日、グループは車でオーストリアの国境に向かった。
6時間後、国境前の検問所に到着。
その手前でグループは車を降り、コンスタンチン・パニートだけ車で検問所を通過し検問されるかどうか試してみた。
車は止められ、車で国境を越えるのは危険と判断し、夜を待ち他のところから国境を越えることにし、コンスタンチン・パニートは再び国境の向こうの車の中で待つことになった。
闇の中でコマネチたちは2時間かけ血だらけになりながら7つの有刺鉄線の柵をクリアし、コンスタンチン・パニートと合流し車に乗り込み、ホテルの部屋でみんなで雑魚寝した。
そして翌日、他のメンバーは難民シェルターに入り、アメリカ行きを希望するコマネチはアメリカ大使館に行った。
オーストリアのアメリカ大使館は、保護を求めるナディア・コマネチに笑顔で対応し、大急ぎで必要書類をそろえ、護衛つきの車で空港に送り、数時間後にはパンアメリカンのファーストクラスに搭乗させた。
10時間のフライトでJ・F・ケネディ空港に到着し、ナディア・コマネチは記者会見にのぞんだ。
テレビ番組にも出た。
バート・コナーはナディア・コマネチの亡命を知り、彼女に会うためにオクラホマからLAに飛んだ。
そしてトーク番組に出演中のナディア・コマネチにサプライズゲストとして登場し花束を差し出した。

チャウシェスク政権崩壊

1989年年に東欧革命
(東ヨーロッパ社会主義諸国で連続して起こった民主化、議会制への転換、市場経済の導入などの諸改革。
同年末、米ソ首脳がマルタ会談で冷戦の終結を宣言。
1991年にはソ連が消滅した。)
が起きると、同年12月、ティミショアラで起こった民衆暴動をきっかけに首都ブカレストでも暴動が起こり、大統領夫妻はヘリコプターで官邸を脱出したが着陸したところを捕らえられ、形式的な裁判で死刑が宣告され、夫妻とも銃殺された。
こうして1965年から23年に及んだチャウシェスク政権は崩壊し、複数政党制・自由選挙・経済改革などルーマニア革命が推進した。

ナディア・コマネチの生きるための10ヶ条

1990年、友人を頼ってカナダに住んでいたナディア・コマネチを、番組作成のインタビューをするためにバート・コナーが訪ねた。
バート・コナーはナディア・コマネチを尊敬していたし女性としても惹かれていた。
自分自身、体操選手でいくつもメダルを獲ったが、彼女のように体操界に革命を起こすような選手ではなかったし、女性としても彼女は神秘的で非常に面白かった。
バート・コナーは一緒にトレーニングしないかと誘った。
ナディア・コマネチは28歳で、トレーニングやスポーツをやめて6年が経っていた。
以前のような強さやコンディショニングを取り戻すことはできなかったが、体を動かすことは気持ちがよく、また生まれて初めて勝つためではなく、楽しい体操を体験した。
1年後、2人はネバダ州で体操エキシビジョンを行い、音楽に乗せて一緒に演技を行った。
その後も一緒に仕事を続け、2人は結婚した。

亡命してから5年後、ナディア・コマネチは親族に会うため、非公式にルーマニアに帰国した。
戻る前、コマネチは不安だった。
新政府ができ、チャウシェスクと秘密警察はなくなり盗聴されたり、尾行されたり、捕まったり、殺されたりする心配はなかったが、人々から「裏切者」といわれたり、敵意を持たれたり、軽蔑されないか心配だった。
またもう誰もが自分のことなど忘れてしまっているかもしれない。
しかしバート・コナーと飛行機から降りると数千人が空港にいてたくさんのメッセージボードをかかげられ、花束を投げ入れ、ヒーローの帰国を歓迎した。
ナディア・コマネチは自分がこれほど多くの人に愛されていたことが信じられなかった。
まずバート・コナーと母親と弟を訪ね、翌日は父に会いにオネスティへ向かい結婚の許可を得た。
2人はアメリカで体操アカデミーを運営し、数々の慈善活動やスポーツ活動を行っている。

コマネチ 若きアスリートへの手紙 | ナディア コマネチ, Nadia Comaneci, 鈴木 淑美 |本 | 通販 | Amazon

Amazonでナディア コマネチ, Nadia Comaneci, 鈴木 淑美のコマネチ 若きアスリートへの手紙。アマゾンならポイント還元本が多数。ナディア コマネチ, Nadia Comaneci, 鈴木 淑美作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。またコマネチ 若きアスリートへの手紙もアマゾン配送商品なら通常配送無料。

関連する投稿


吉田沙保里  強すぎてモテない霊長類最強の肉食系女子の霊長類最強のタックル その奥義は「勇気」

吉田沙保里 強すぎてモテない霊長類最強の肉食系女子の霊長類最強のタックル その奥義は「勇気」

公式戦333勝15敗。その中には206連勝を含み、勝率95%。 世界選手権13回優勝、オリンピック金メダル3コ(3連覇)+銀メダル1コ、ギネス世界記録認定、国民栄誉賞、強すぎてモテない霊長類最強の肉食系女子。


室伏広治の学生時代「アジアの鉄人」と呼ばれた父親とやり投げの「幻の世界記録保持者」によって覚醒。

室伏広治の学生時代「アジアの鉄人」と呼ばれた父親とやり投げの「幻の世界記録保持者」によって覚醒。

ハンマー投げは、パワー×技×精神力、そして人間の本能を呼び覚ませ!!!


「キン肉マン」超人オリンピックに出場したスイス出身の『ウォッチマン』のフィギュアが登場!!

「キン肉マン」超人オリンピックに出場したスイス出身の『ウォッチマン』のフィギュアが登場!!

ハイクオリティフィギュアの製造・販売で好評を博しているSpiceSeed フィギュア事業部より、キン肉マンシリーズのフィギュア『ウォッチマン』が発売されます。


イベンダー・ホリフィールド  圧倒的!!  無敵のクルーザー級時代。

イベンダー・ホリフィールド 圧倒的!! 無敵のクルーザー級時代。

悲劇のロスアンゼルスオリンピックの後、プロに転向。超タフなドワイト・ムハマド・カウィとの死闘を制しWBA世界クルーザー級チャンピオンとなり、WBA、WBC、IBF、3団体のタイトルの統一にも成功。すぐに「最強」の称号を得るため、マイク・タイソンが君臨するヘビー級への殴りこみを宣言した。


石井慧  運動オンチ少年がオーバーワークという暴挙で起こした奇跡。

石井慧 運動オンチ少年がオーバーワークという暴挙で起こした奇跡。

石井慧の幼少児から国士舘大学に入るまで。地球上で60億分の1の存在になる、人類で1番強い男になるための序章。


最新の投稿


世界が熱狂!葛飾商店街×『キャプテン翼』コラボ「シーズン2」開催!新エリア&限定メニューで街を駆け抜けろ!

世界が熱狂!葛飾商店街×『キャプテン翼』コラボ「シーズン2」開催!新エリア&限定メニューで街を駆け抜けろ!

葛飾区商店街連合会は、2025年10月10日より『キャプテン翼』とのコラボイベント「シーズン2」を亀有・金町・柴又エリアで開催。キャラクターをイメージした限定メニューやスタンプラリーを展開し、聖地巡礼と地域活性化を促進します。


キン肉マン愛が英語力に!超人たちの名言・名場面で学ぶ『キン肉マン超人英会話』発売

キン肉マン愛が英語力に!超人たちの名言・名場面で学ぶ『キン肉マン超人英会話』発売

人気アニメ『キン肉マン』の「完璧超人始祖編」の名言・名場面を題材にした英会話学習書『キン肉マン超人英会話』が、2025年11月29日(土)にKADOKAWAより発売されます。超人たちの熱い言葉を通じて、楽しみながら実用的な英語表現をインプットできます。TOEIC満点保持者やプロレスキャスターなど、豪華プロ集団が監修・翻訳を担当した、ファン必携の英語学習本です。


【カウントダウン】あと2日!古舘伊知郎&友近「昭和100年スーパーソングブックショウ」いよいよ開催迫る!豪華ゲスト集結の東京国際フォーラムは「昭和愛」で熱狂へ!

【カウントダウン】あと2日!古舘伊知郎&友近「昭和100年スーパーソングブックショウ」いよいよ開催迫る!豪華ゲスト集結の東京国際フォーラムは「昭和愛」で熱狂へ!

開催直前!TOKYO MX開局30周年記念「昭和100年スーパーソングブックショウ」が10月16日に迫る。古舘伊知郎と友近がMC、豪華ゲストと共に贈る一夜限りの昭和ベストヒットに期待高まる!


ギタリスト 鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブを東阪ビルボードで開催!

ギタリスト 鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブを東阪ビルボードで開催!

ギタリスト 鈴木茂が、『鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブ~Autumn Season~』を11月13日にビルボードライブ大阪、16日にビルボードライブ東京にて開催する。今回は、1975年にリリースされた1stソロアルバム「BAND WAGON」の発売50周年を記念したプレミアム公演となる。


【1965年生まれ】2025年還暦を迎える意外な海外アーティストたち!

【1965年生まれ】2025年還暦を迎える意外な海外アーティストたち!

2025年(令和7年)は、1965年(昭和40年)生まれの人が還暦を迎える年です。ついに、昭和40年代生まれが還暦を迎える時代になりました。今の60歳は若いとはと言っても、数字だけ見るともうすぐ高齢者。今回は、2025年に還暦を迎える7名の人気海外アーティストをご紹介します。