つげ義春
「無能の人」とはまた何とも強烈なタイトルですよね。これは、つげ義春が1985年から「COMICばく」に連載した連作シリーズをまとめた短編漫画集のタイトルです。
単行本「「無能の人」は、「石を売る」、「無能の人」、「鳥師」、「探石行」、「カメラを売る」、「蒸発」という6つの短編から成っており、1991年には竹中直人監督・主演で映画化もされています。

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つげ義春といえば、作品がメジャー誌に掲載されたことがほとんどなく、しかも極端に作品数が少ないことなどから一般的には余り知られてはいませんが、カリスマ的な人気を誇る漫画家です。
デビュー作の「犯人は誰だ!!」「きそうてんがい」は1954年10月の発売ですので、キャリアはとても長いですね。代表作としては1965年から雑誌「ガロ」に掲載された一連の作品です。中でも、「紅い花」、「ねじ式」、「ゲンセンカン主人」などが有名です。

つげ義春
70年代、80年代と年に読み切りの短編を2~3作程度発表するだけですが、コンスタントに活動しています。その間の作品は、「夢の散歩」、「リアリズムの宿」、「必殺するめ固め」、「隣りの女」といった単行本にまとめられています。
そして、80年代後半の作品をまとめたものが「無能の人」です。
「無能の人」は、つげ義春としては異例ともいえる連続シリーズになっています。もっとも当初は連作にする意志はなかったようですが、掲載誌との関係から描かなくてはならない状態に追い込まれ、やむを得ず連続シリーズとなったようです。
そもそも掲載誌「COMICばく」は、つげ義春に新作発表の場を提供するために作られた雑誌なのです。
しっかりとした構想がないままに描き始められたため、前半では顔を描かれることになかった主人公の妻が、後半には描かれるようになるなどチグハグなところがあるのはそのためです。
収められている6作品以降、「COMICばく」に短編「海へ」と「別離」が掲載されましたが、以降、今日まで新作は発表されていません。
「COMICばく」は、売り上げ不振および、つげ義春の体調不良による休筆によって1987年に休刊となっています。
石を売る
つげ義春自身がモデルとも言われている助川助三を主人公とした「無能の人」は、第一話「石を売る」から始まります。
主人公の助川助三は、妻と一人息子との3人暮らしをしている元漫画家で、今では定職に就かずつつましい生活をしています。
つつましいというよりも、貧しいといったほうがピッタリです。「石を売る」では、漫画以外で収入を得ようとする主人公の姿が描かれます。

石を売る
あらすじ
無能の人 - Wikipedia
つげ義春自身、石に興味を持っており、「魚石」という作品が以前にもあります。しかし、そもそも河原で拾った石を売るという商売を考え付くということ自体ヘンですよね。当然石は売れません。
ラストで息子が「虫けらってどんな虫?」と聞き、不審に思って「誰がそんな話した?」と聞き返す主人公に、「母ちゃんがね、父ちゃんは虫けらだって」と息子が言うシーンは言葉になりません。
無能の人
2話目はタイトルにもなっている「無能の人」です。つげ義春本人によると、「石を売る」よりも作品としての完成度は高いということです。
あらすじ
出品料を払って石のオークションに参加する助川一家。貧窮しているため当然妻は反対したのですが、その妻の言うとおり助川助三が出品した石はまったく落札されません。
そして、妻の慟哭が聞こえてきそうな、胸を締め付けられるラストシーンにつながります。

無能の人
泣きながら「漫画を描いてよ」と哀願する妻に、何も答えない助川助三。
鳥師
3話目の「鳥師」、これは「無能の人」を代表する最高傑作ではないかと思います。感動します。いえ、感動しかありません。
河原の石を売るというのは何とも奇妙な職業ですが、鳥師というのもあまり馴染みのない職業ではないでしょうか?ここでは魂を揺さぶるほど素晴らしい声で鳴くメジロなどを捕獲し、売りに来る奇妙な男として登場します。
あらすじ

鳥師
構想は作品が描かれる7~8年前には既にあったそうで、そのきっかけとなったのが、登場人物と同じような奇妙な男をつげ義春自身が目撃したことだそうです。
ゴミ箱の上で弁当を食べている出会いの場面から、まるで鳥が飛び立つように水門の上から飛び降りる最後の場面まで一言も発することもなく、また鳥師の顔が描かれることもありません。
そして、鳥師が何を考え、何が目的なのかなどの説明は一切ありません。何も分からない。なのに深い感動を覚えるのがこの「鳥師」という作品です。これはつげ義春らしい作品といえるのでしょう。
探石行
4作目にしてようやく妻の顔が描かれます。当初はそんなに長く連作を続けるつもりがなかったため面倒くさいということで描くつもりがなかったのだそうです。その妻がここで「無能の人」という言葉を発するのです。
あらすじ

探石行
貧しいながらも採石を兼ねて家族旅行を決行する助川一家。その旅費は貸本時代の処女作「赤面夜叉」との原画の交換によるものだったのですが、つげ義春の実際の作品は「白面夜叉」で1955年5月に単行本として若木書房から出ています。
カメラを売る
これは助川が石を売り始める前の物語です。そうです。助川は石を売る前に中古の壊れたカメラを修理して売っていたのです。しかもピンチ商会という屋号までつけて!
あらすじ

カメラを売る
つげ義春は1981年に古物商の免許を取得し「ピント商会」を設立しています。そして実際に「カメラを売る」と同様に中古カメラを安く仕入れて自分で修理し転売していたといいます。
しかし、翌1982年にはカメラが入手できなくなったことでこの商売は断念してしまいました。
蒸発
最終話です。漂泊の俳人と言われる井月の半生が描かれています。それまで毎回登場していた奥さんも息子も登場しません。最終話だからと言って特別盛り上がるわけでもなく、淡々と描かれる井月の半生。なんとも不思議な余韻を残す作品によって「無能の人」は締めくくられます。

蒸発
あらすじ
「蒸発」という仰々しいタイトルは、いずれ続編を描くためのものだそうです。続編では蒸発論の核となる部分を描くという構想のようですが、いまだに実現できていません。
1987年以降漫画は一切描いていないので、今後新作が発表される可能性は低いと思いますが、つげ作品を是非とも読んでみたいものです。