1980年代で最も売れたシングル『ダンシング・オールナイト』

『ダンシング・オールナイト』もんた&ブラザーズ
発売当初は話題にならなかったが、同年5月最終週付のオリコンシングルチャートで19位に登場し、その後翌週には一気に4位まで浮上。
その翌週には同チャートで1位を獲得し、そこから10週連続で1位を独占した。
TBS系音楽番組『ザ・ベストテン』でも通算7週1位を獲得。
年末には第11回日本歌謡大賞で放送音楽特別賞、次いで第13回全日本有線放送大賞で大賞を獲得。
第22回日本レコード大賞でも金賞を受賞するなどの賞レースで数々の賞を獲得した。
1980年代(集計期間:1979年12月~1989年11月)
オリコンシングル売り上げランキング1位。
累計売上は200万枚。
【動画】もんた&ブラザーズ『ダンシング・オールナイト』
もんたよしのり 本名:門田 頼命(かどた よしのり)
1951年1月8日生まれ
兵庫県神戸市東灘区出身
1968年 高校を中退し、本格的に音楽活動を開始。
1970年 全日本フォークジャンボリーに中川イサトらと共に「インスタンツ」として出演。
1971年 上京し、シングル「この足の鎖ひきちぎりたい」でソロ歌手としてデビュー。
1979年 東京での活動に限界を感じ実家の神戸へ戻るも、音楽活動をあきらめきれず作曲活動を続ける。
1980年 自身最後のチャンスとの決意で「もんた&ブラザーズ」として再デビューし、「ダンシング・オールナイト」をリリース。
もんたの個性的なハスキーボイスは危険な賭けの産物だった
もんたよしのりは、元々は綺麗で女性のような声だったという。
しかし、ヒットが出ず悩んで悩んで危険であることを承知で賭けに出る。
特徴的な声で目立つことを意図して声を潰そうと、布団に口を押し当てて3日間叫び続けた。
そして、喉を潰し独特のしわがれたハスキーボイスが生まれたのだった。
苦労に苦労を重ねて生み出した『ダンシング・オールナイト』
もんたよしのりは、この時、歌手活動9年目。
スタートはR&Bグループで“神戸のジェームス・ブラウン”と呼ばれていたが、歌手として今後生きていくためにどうしてもメジャーシーンでのヒットが欲しかった。
そこで作曲に専念するため2年間充電。
100曲を超す作品の中から選んでシングルカットした曲がこの『ダンシング・オールナイト』だった。
レコーディング当日の朝には、ヒットを祈念し水浴びをして臨んだという。
「もんたよしのりは一発屋だ」と言われるが…。
『ダンシング・オールナイト』の大ヒットが強烈すぎるため、一発屋の代表とも言われることがある。
しかし、次作「赤いアンブレラ」や後の「デザイアー」もオリコンチャートでTOP10入り、累計売上も20万枚以上のヒットを記録している。
1983年、もんたが西城秀樹に提供した『ギャラドゥ』が大ヒット
1983年 作詞・作曲を手がけた「ギャランドゥ」が西城秀樹のシングルとしてリリースされ、西城は6年連続となる第25回日本レコード大賞金賞を受賞、さらに第34回NHK紅白歌合戦でも歌唱した。
タイトルは、「gal un do」や「gal and do」という意味であると所属事務所側がコメントしていたが、この曲を作詞したもんたよしのりによると、デタラメ英語であると語っている。
もんたは、役者としても活動。映画主演もしていた。
1984年 「もんた&ブラザーズ」を解散。
音楽活動を一時休止。映画「愛しき日々よ」に本名の門田頼命名義で主演、本格的に俳優活動を行う。
(もんたの映画初出演は1981年の「燃える勇者」。)
映画『愛しき日々よ』
作家の井上は「映画は途中でいやになるので、めったに見ないことにしていた。
しかし、この映画は最初から最後まで引きこまれた」と絶賛。
「こんな映画があったのか」と思わずうなること間違いなしの知られざる傑作である。
1995年、マラリアで死に掛けた、もんたよしのり。
1995年には世界を放浪中に熱帯マラリアにかかり死にかけたこともあったが、なんとか回復することができた。
1996年8月『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』で娘のこむぎが前年もんたが熱帯マラリアにかかって死にかけていたことについての手紙を涙ながらに読んだ。
「もんたよしのり」の娘、こむぎはアイドル→ダンサーとして活躍
2009年、もんたよしのりが窪塚洋介とコラボ!
ベテラン・ロック・シンガーのもんたよしのり、若きレゲエ・ディージェイのBIG BEAR、卍LINEこと窪塚洋介による異色のコラボ。
2010年、ダンシング・オールナイトの替え歌をアンタッチャブル山崎が歌う。
フルバージョンもありました。
もんたよしのり公式ブログ
最近の活動はここからチェック
もんたよしのりオフィシャルブログ 僕らはみんな地球人