映画「西部開拓史(How the West Was Won)」とは??
 
  	アルフレッド・ニューマン
 
  	西部開拓史
シネラマ方式を解りやすく説明すると・・・
 
  	シネラマ方式
 
  	トリミング版TVサイズ
 
  	日本にはテアトル東京、中日シネラマ(名古屋)、シネラマ名古屋、OS劇場(大阪)という4カ所のシネラマ専用の映画館が存在していた。
日本で初めてシネラマで映画を上映したのは、皇居前の帝国劇場だそうです。初めはスタンダードサイズの画面を3台の映写機で同時に映写して大画面にしていた様ですが、後にスーパーパナビジョン70というフィルムに圧縮させ上映時に1台の映写機で左右を伸長させる方式に変更された様です。
東京では他に、松竹セントラル(築地=1999年閉館)、渋谷パンテオン(2003年閉館、現在シネコンに建替え中)、新宿ミラノ座(現新宿ミラノ1)が暫定的にシネラマ上映を行っていた時期があるそうです。また新宿プラザ劇場(2008年閉館)がD-150方式という、やはり湾曲した巨大スクリーンを装備していた映画館でした。
「西部開拓史(How the West Was Won)」は1962年11月29日に初公開されましたが、あいにく私は小学校低学年程度で、まだ映画はテレビで見る程度だったため、映画館には行けなかった。しかし、私が中学2,3年の時に、もう一度上映された際に、初めて新宿まで友達と見に行ったことを鮮明に覚えている。(後で解ったのですが、その時見た物は、スクリーンはかなり大きかったが、正確にはシネラマ方式ではなかったそうです。泣!!)
そろそろ映画の解説をしますか!!(ネタバレを含むのでご容赦下さい)
この映画の脚本が第36回アカデミー賞で脚本賞を受賞!!
この映画の脚本は、ライフ誌に連載された絵物語にヒントを得たジェームズ・R・ウェッブが195冊の歴史書をもとに脚本を書いた。彼が書き下ろした映画作品の脚本を見ると、戦記物、西部劇などが多く存在し、また好評を得ていたようだ。
ちなみに、この「西部開拓史(How the West Was Won)」で1963年の第36回アカデミー賞で脚本賞を受賞している。
監督が3人もいる??
製作者であるバーナード・スミスは、この映画の製作に2年近くかかると考え、効率よく撮影を進めるため当時、ハリウッドの第一線で活躍する3人の監督を起用。 第1話「The Rivers (川)」、第2話「The Plains (平原)」、第5話「The Outlaws (無法者たち)」の3エピソードを『アラスカ魂』(60)のヘンリー・ハサウェイが担当。西部劇の神様ジョン・フォードが第3話「The Civil War (南北戦争)」のエピソードを担当し、第4話 「The Railroad (鉄道)」のエピソードは『砂塵』(39)のジョージ・マーシャルが担当した。
小ストーリー第1話 The Rivers(河、1830年代末)
1830年代の終わり頃、アメリカ東部の人々は、オハイオ川流域の肥沃な土地の開拓に乗り出そうとしていた。ニューイングランドの農民ゼブロン・プレスコット(カール・マルデン)も妻レベッカ(アグネス・ムーアヘッド)、長女イーブ(キャロル・ベイカー)、次女リリス(デビー・レイノルズ)、それに2人の息子の一家を連れてイリー運河を通過し、オハイオ川にいかだを組んで未開の荒野に踏みこんだ。一家が川岸にキャンプを張ったある夜、鹿皮服を着た毛皮売りのライナス(ジェームズ・スチュアート)がカヌーで近づき、プレスコット一家と夕食を供にして西部の事情を話した。野性的で親しみやすい彼をイーブは一目で恋した。翌朝ライナスが既に立ち去ったのを知っても彼女の心は変わらなかった。一家が下流に向かう間、ライナスは上流に行き、川岸の天幕の店を見つけたが、ホーキンズ大佐と名のる主人は実は河賊で、ライナスも欺されて荷物をとられ、ナイフで刺された。しかし丸太にまたがって川を下ったライナスは、プレスコット家を襲おうとしていた河賊たちを、開拓民と力を合わせてやっつけた。一家がいかだで急流を下る時、激流は両親を呑んだ。両親の亡くなった土地に農園を建てようというイーブに、ライナスは開拓生活を誓った。しかし、蒸気船の汽笛は、リリスを新しい町セントルイスに誘った。
 
  	激流がいかだを呑み込もうとする場面
 
  	1965年時のカール・マルデン
 
     
    




