まずは、西部劇をご存知ない方々の為におさらいをしましょう!!
映画『駅馬車』の一場面
アメリカの南北戦争後、19世紀後半のアメリカ西部を舞台に、開拓者魂を持つ白人を主人公に無法者や先住民と対決するという物語が、白人がフロンティアを開拓したという開拓者精神と合致し、大きな人気を得て、20世紀前半のアメリカ映画やTVの興隆とともに1つのジャンルとして形成された。つまりアメリカの西部開拓期における人々の苦闘や,そこで起きた事件などを題材とした映画、テレビドラマなどを"西部劇”、又は、"ウェスタン”という。
西部劇は映画やTVとともに歴史を歩んできた。そして西部劇はハリウッドが築き上げた独自のジャンルであり、西部開拓の歴史を持つアメリカだからこそ生まれたとも言える。
厳しい自然の中で多くの困難と闘いながら逞しく生きてきた開拓者の物語は、アメリカ人の誇りであり、フロンティア精神と夢を含み、アメリカンドリームそのものであった。アメリカ西部の大自然を背景に開拓者魂(フロティア精神)を詩情豊かに描く西部劇は多くの人々を魅了し、西部開拓時代へのノスタルジーを掻き立てられるものだった。それは19世紀後半の西部開拓時代での開拓者精神を称え、アメリカを発展させたものとして賛美するものであった。
こうした西部劇の基本は強く勇敢なヒーローの存在であり、そのヒーローを演じる俳優は西部劇スターとなった。
当然のことではあるが、私などの世代は当時の映画やテレビの西部劇に夢中だったし、憧れの存在であった。
最新の映画版は大コケだった『ローン・レンジャー』!!
『ローン・レンジャー』の一場面
1933年にラジオドラマが放送されて以来、アメリカン・コミックス化、テレビドラマ化(1949年-1958年、全221話)、映画化(1956年・1958年・1981年・2013年)もされた。米国においてはラジオのオリジナル版が抜群の知名度を誇っており、テレビ化された後も並行してラジオ版が製作され続けた。ラジオ版の終了は1954年で総エピソードは全2,956話におよび、その後も1960年頃まで再放送されていた。後述の名台詞も起源は全てラジオ版である。なお、ラジオ版はほぼ全てのエピソードが良い状態で保存されている。
日本ではテレビドラマ版が1958年からテレビ放映され、黒い仮面をつけた主人公が白馬にまたがった姿が、アメリカ版『鞍馬天狗』として親しまれた。ネット系列はKRT系列(1958年)→フジテレビ系列(1959年~1963年)。
後に”マカロニ・ウェスタン”で爆発的に人気者になったクリント・イーストウッドの出世作『ローハイド』!!
『ローハイド』の共演者たち
南北戦争後の1870年代のアメリカ西部を舞台に、テキサス州のサンアントニオからミズーリ州のセデリア(セダリア)まで約3000頭の牛を運ぶカウボーイ達の長い道中ロングドライブで起こる様々な出来事や事件を描いていて、普通の西部劇とはちょっと趣きが違っていた。主演は隊長ギル・フェイバー (エリック・フレミング)、副隊長(劇中では「補佐役」と表現されていた)のロディ・イェーツ(クリント・イーストウッド) で、これに斥候ピート・ノーラン(シェブ・ウーリー) 、料理人ウィッシュボン(ポール・ブラインガー)らが絡んで一話完結方式で毎回展開された。
英語の"Rawhide" は、「ロウ(raw、生の)」+「ハイド(hide、皮)」、つまり「生皮(きかわ)」「生皮の鞭」「生皮の鞭で打つ」などを意味するが、そこから派生してカウボーイ達のズボンの上から着用する革製のズボンカバーのことを指す言葉でもあった。
マックィーンは、実はこの『拳銃無宿』という西部劇が出世作だった!!
『拳銃無宿』(けんじゅうむしゅく、英語: Wanted Dead or Alive)は、1958年9月6日から1961年3月29日までアメリカのCBSで放送されていたテレビドラマである。“賞金稼ぎ”の主人公ジョッシュ・ランダルが、賞金首を追うさなかにさまざまな事件に遭遇する模様を描いた西部劇である。原題の "Wanted Dead or Alive" とは「お尋ね者、生死を問わず」の意味で、懸賞金を掛けられた賞金首の手配書の見出しに使われていた言葉である。
アメリカでは西部劇ドラマ最長ロングランを記録した『ガンスモーク』
『ガンスモーク』の出演者たち
『ガンスモーク』(原題:Gunsmoke)は、1955年のアメリカ・CBS制作のテレビドラマ。
1955年から1975年まで実に20年間にわたって放送され、西部劇ドラマ最長ロングランを記録した。全20シーズン、635回。当初は30分の放送だったが、1961年から60分の放送となった。プライムタイム・エミー賞に7回ノミネートされ、3回受賞するなど、高い評価を受けた。
日本では、フジテレビで1959年3月から1963年11月までモノクロで放送、当初は30分番組だったが1962年4月からは1時間番組に拡大されるも、1963年4月から再び30分番組に戻された。また1969年10月から1970年6月まで同局の日曜昼にカラー版が放送された。