大鵬 幸喜(たいほう こうき)とは??

大鵬の土俵入り写真
大鵬 幸喜【たいほう こうき、1940年(昭和15年)5月29日 - 2013年(平成25年)1月19日】は、北海道川上郡弟子屈町川湯温泉(出生地は樺太敷香郡敷香町)出身の元大相撲力士。第48代横綱。本名は納谷 幸喜(なや こうき)であるが、一時期は母親の再婚によって住吉 幸喜(すみよし こうき)と名乗っていたこともあった。
彼の生立ち
大鵬はウクライナ系ロシア人の父と日本人の母との間に生まれた。
大鵬の父マルキャン・ボリシコは、現在のウクライナ、当時のロシア帝国で生まれた。多くのウクライナ系住民は19世紀末、極東地域やサハリンに移住し、人口希少地域を開拓していた。
ちなみに、この地域の住人の多くが、未だにウクライナ語なまりのロシア語を話すそうです。1900年にこのようなサハリンへの移住者のひとりが、マルキャンであった。サハリンの生活条件が厳しかったにもかかわらず、マルキャンは商業的な成功を収め、1917年のロシア革命まで、何不自由なく暮 らしていた。
マルキャンは革命の際、ロシア革命多数派と戦っていた白軍に従事したことから、日本軍がサハリン北部から撤退した1925年以降、日本治政下となった南樺太にしか暮らすことができなかったという。新たな生活の場となったのは、敷香町(現在のポロナイスク市)。
マルキャンは1928年、若き日本人女性の納谷キヨと結婚。その後子どもも生まれ、サハリンがソ連に完全に統治される1945年まで、幸せに暮らしていた。
大鵬はマルキャンの3男として1940年(昭和15年)5月29日に生まれた。出生の直後に激化した太平洋戦争によってソ連軍が南樺太へ侵攻してきたのに伴い、キヨは4人の子どもを連れて日本の北海道に引き揚げた。しかし、マルキャンはサハリンに残らざるを得なくなり、他の白軍関係者と同様、自由を剥奪された。解放された後は、死去する1960年までサハリン州立郷土博物館で守衛として働いていたが、存在感のある個性的な人物で、地元のジャーナリストによって2つの特集記事が組まれるほどだった。
引き上げ後から二所の関部屋入門まで
引き上げ後の北海道での生活は、母子家庭だったことから大変貧しく、母親の再婚によって住吉姓に改姓した。その再婚相手の職業が教師だったことから学校を毎年異動していたこともあり、しばらくは北海道各地を転々としていた。あまりの貧しさから大鵬自身が家計を助けるために納豆を売り歩いていた話は有名である。
再婚相手とは大鵬が10歳の時に離婚したため、大鵬は納谷姓に戻った。 中学校卒業後は一般の同世代の若者と同じ、中卒金の卵として北海道弟子屈高等学校の定時制に通いながら林野庁関係の仕事をしていたが、1956年(昭和31年)に二所ノ関部屋一行が訓子府町へ巡業に来た時に紹介され、高校を中途退学して入門した。入門時に母親から反対されたが、親子で相撲部屋を見学した時に所属力士の礼儀正しさを見た叔父が母親を説得した。後年、巡業で振る舞われたちゃんこに感銘を受けていたことも入門の動機として明らかになっている。

入門当時の大鵬
初土俵から
初土俵は1956年9月場所に踏んだ。同期には後の大関・清國や小結・沢光、前頭の大心、玉嵐らがいる。入門当初から柏戸と共に横綱確実の大器と評されており「ニ所ノ関部屋のプリンス」「ゴールデンボーイ」などの愛称を与えられた。序ノ口時代から大幅な勝ち越しで順調に番付を上げていき1958年3月場所では三段目で優勝、十両目前の西幕下2枚目まで番付を上げていた同年9月場所では3勝5敗で負け越したものの、取的時代の負け越しはこの1場所のみでそれ以外は全て6勝以上挙げている。東幕下筆頭となった1959年3月場所で6勝2敗と勝ち越して十両昇進を決めた。初土俵から幕下時代までは本名の納谷で土俵に上がっていた。三段目時代、飲みに出かけた時に(当時角界では未成年飲酒が珍しくなかった)両国界隈のバーで「伊勢ノ海部屋の富樫(のちの柏戸)はいい力士だ、あれは絶対横綱になる」と耳にし、それから柏戸を越すことを目指して稽古に打ち込んだそうである。

十両当時の大鵬
四股名:大鵬の由来
1959年(昭和34年)に新十両昇進が決まると、四股名を付けてもらえることが決まった。その四股名は故郷・北海道に因んだ物を付けるのかと思っていたところ、二所ノ関親方から「もっといい名前がある。『タイホウ』だ」と言われた。「どんな字を書くんですか?撃つ大砲ですか?」と質問すると、「それは『オオヅツ』と読むんだ」と言われ、同時に大砲万右エ門の話をされたという。そしてこの時に「大鵬」の字とその意味も教わっている。
大鵬の意味は、中国の古典「荘子 逍遥遊」にある「鯤之大不知其千里也、化而為鳥、其名為大鵬(鯤(コン、伝説上の巨大な魚)は大いに之(ゆ)き、その千里を知らずや、而して鳥に化けすと、その名は大鵬となり」とあり「翼を広げると三千里、ひと飛びで九万里の天空へ飛翔する)」と言われる伝説上の巨大な鳥に由来する。漢書好きな二所ノ関にとって最も有望な弟子に付けるべく温存していたものであった。親方のなみなみなる期待が伺える逸話である。
新入幕からとんとん拍子で横綱に駆け上る!!
1960年(昭和35年)1月に新入幕、初日から11連勝しました。注目度アップです。
12日目に対戦したのが、後にライバルとなる小結の柏戸で、この一番に敗れ、大鵬の連勝は「11」でストップしました。
この場所は結局12勝3敗、新入幕ながら優勝した栃錦(14勝1敗)に次ぐ成績で敢闘賞を受賞します。
翌場所の同年3月は、さすがに上位の「壁」で7勝8敗と負け越しましたが、続く同年5月は11勝4敗で敢闘賞の受賞と金星(朝汐)を獲得、同年7月は小結に昇進し11勝4敗、同年9月は関脇に昇進し12勝3敗で技能賞を獲得しました。
そして同年11月に関脇2場所目で13勝2敗で初優勝を果たし、翌場所の大関昇進を決めています。
入幕から6場所目、入幕した年の初優勝でした。しかもこの年は栃錦の引退、若乃花(初代)の晩年で、若乃花は年間の優勝が3回ながら2場所の休場があったこともあり、大鵬が66勝24敗で年間最多勝の成績を挙げています。
1961年(昭和36年)1月に大関昇進、同年7月から翌年1月にかけて4連覇をし、その間の1961年(昭和36年)年9月に2連覇を優勝決定戦でライバル・柏戸を下して飾り、柏戸とともに翌場所の同年11月に横綱に昇進しています。
入幕した年に年間最多勝の獲得、大関昇進を決めたのも、入幕の翌年に横綱に昇進したのも大鵬が初であり、その後も出現していません。

宿命のライバルとなる大鵬と柏戸
『柏鵬(はくほう)時代』の到来
新入幕で初めて敗れた柏戸と競い合い、終戦直後の復興から高度経済成長期の相撲黄金時代を支え、1961年(昭和36年)に揃って横綱に推挙、「柏鵬(はくほう)時代」と言われる黄金時代を築いた。後に第69代横綱となった白鵬翔の四股名は、この両横綱に由来する。新横綱の場所である1961年(昭和36年)11月場所、1962年(昭和37年)1月場所と連続優勝を果たすと、同年7月場所から1963年(昭和38年)5月場所まで最初の6連覇を達成した。ところが、人気の一翼を担っている柏戸が休場を繰り返していたことで、大鵬の全盛期は相撲の人気低迷期の一つの理由となった。
その柏戸が再起をかけた同年9月場所では千秋楽で14勝同士の相星決戦が組まれたが、柏戸に敗れた。この取組が八百長ではないかと疑念を抱く輩がいたが、大鵬本人は否定した。また、1964年3月場所でも同じ14勝同士による相星決戦が組まれたが、こちらは大鵬が勝利している。

大鵬×柏戸
(大鵬の相撲には)型がないとは?!
相撲には人により個々にとりやすい相撲の型ができて来るそうである。例を言うと、ぶつかって素早く前褌を取り、一気に前に押し込むのも一つの型、相手の胸に素早く入り込み、両よつを掴み投げ技を繰り出すのも一つの型である。大鵬が1963年(昭和38年)5月場所に最初の6連覇を達成した頃、「型のある相撲」と評されていた柏戸が休場を繰り返していたことで、「型のない相撲」の大鵬が一人勝ちしている状況から、当時の相撲解説者であった神風正一などから「(大鵬の相撲には)型がない」と盛んに批判され始めた。しかし、二所ノ関親方は「型がないのが大鵬の型」と反論していた。大鵬自身は当時の時津風理事長が言った「『これは大鵬しかできるものがいなかった』という相撲の内容を示せばいい。後世に至ってもどの力士も真似のできないもの、それが大鵬の型である」という言葉で自分の相撲に確信を持てるようになったという。
裏を返せば、大鵬はどんな相手の型であれ、応戦することができ、相手の弱点を見つけ出すことができるオールマイティーな力士だったのではないでしょうか!!。
病との戦いの始まり!!
1964年(昭和39年)は13度目の優勝を果たし、人気も実力も絶頂の時期だった。欧州招待旅行に出かけた後の名古屋場所、2日目から3連敗という成績で、5日目から休場。体が思うように動かない。初土俵以来、初めての休場となった。最低血圧が124もあり、「本態性高血圧」と診断された。大鵬にとって、病との戦いの始まりとなる。慢心を正すため、禅寺で5日間ほど坐禅を組み、心身共に復調し始めた頃、巡業先で左膝を強くひねり、「全治1週間」の診断。翌日の新聞では、「秋場所休場は決定的、もはや再起不可能か」と報道。これを見た大鵬は、これまでにない異常なほどの闘志を燃え上がらせた。お灸をはじめ、体に良いと思われるあらゆることを実行し、秋場所出場に備えた。結果は、秋場所とそれに続く九州場所の連続優勝。完全復活を果し、再起不能説を完全に払拭した。
その3年後、26回目の優勝を全勝優勝で飾った翌場所(九州)、ヒジを骨折してしまう。この時、大鵬はまだ27歳、再起をかけた療養生活が始まったのである。退院後、基礎体力を取り戻すため、砂浜で走るトレーニングを開始。それに付き合ってくれたのが、芳子夫人であった。夫人が先に走り、それを大鵬が追いかける。次第に距離を伸ばしていき、やがて全力疾走できるまでになった。
こうして8ヶ月のブランクの後に迎えたのが、1968年(昭和43年)秋場所。
引退を噂する声が高まる中での出場であった。しかし、結果は予想に反し14勝1敗、27回目の優勝となった。この日ばかりは、涙が溢れ出るのを止めることができなかったと大鵬は述べている。
1971年(昭和46年)1月場所には32回目の優勝を果たし、同年3月場所でも12勝と健在ぶりを示したが、同年5月場所で栃富士勝健に敗れた際に尻から落ちたことで体力の限界を感じ、さらに5日目には新鋭だった貴ノ花利彰に同じく尻から落ちる敗戦を喫した。その後大鵬自身、翌6日目の福の花孝一戦を「これで自身最後の相撲としたい」と申し出たが、日本相撲協会から「死に体で土俵に上がる事は出来ない」と却下。結局福の花戦は不戦敗となり、貴ノ花との取組が現役最後の一番となった。
引退後
引退後、36歳の若さで脳梗塞で倒れた大鵬は左半身不随となった。入院生活は1ヶ月半に及んだ。退院後の2年間は、持ち前の闘志で激しいリハビリ生活を続けた。施設では、誰が見ていようと気にせず、必死に四つん這いになって懸命に前に進もうとする。弟子たちは、それを隠そうとするが、「邪魔だ。自分の体のことだから、周りにどう思われようが関係ない」と言って取り合わなかった。元大横綱のプライドを捨ててリハビリに真剣に打ち込む大鵬や、それを助ける夫人の姿は、周りの人々の感涙を誘った。
2013年1月19日、慶応病院に入院していた大鵬の容態が急変した。意識のない大鵬を抱きかかえながら、夫人は必死に叫んだ。「お父さん、何やってるの。いつまでも寝てるの?」「横綱として頑張ってきたんでしょ。まだ横綱でしょ!」。夫人がふと大鵬の顔を見ると、その目から涙が流れていたという。大鵬は、常日頃「相撲は自分との戦いだ」と言っていた。その戦いを終え、大鵬は夫人の腕の中で静かに息を引き取ったという。享年72歳だった。

晩年の大鵬
大鵬の武勇伝!!武勇伝!!武勇でんでんででんでん!!!
若い頃は大変な酒豪で、一日の酒量が一斗(18リットル)に達し、ビールを一升瓶で20本(36リットル)飲んだこともあったという。塩辛い物も好きであり、酒のつまみに大ぶりの明太子を2腹も3腹も食べながら飲んだと伝わる。現役時代には同い年の親友(誕生日が9日違い)である王貞治と夜通し飲み明かしたこともあり、酔い潰れた王が一眠りして起きると大鵬が変わらないペースで飲んでいたという。しかしその飲酒量の多さが後に健康を害した大きな原因と言われている。
大鵬の輝かしい通算戦績
最高位 横綱(昭和36年9月)
生涯戦歴 872勝182敗136休/1045出(87場所)
幕内戦歴 746勝144敗136休/881出(69場所)、32優勝、12準優勝、1技能賞、2敢闘賞、
1金星 幕内在位:69場所
横綱戦歴 622勝103敗136休/716出(58場所)、29優勝、8準優勝
大関戦歴 58勝17敗/75出(5場所)、2優勝、2準優勝
関脇戦歴 25勝5敗/30出(2場所)、1優勝、1準優勝、1技能賞
小結戦歴 11勝4敗/15出(1場所)
前頭戦歴 30勝15敗/45出(3場所)、1準優勝、2敢闘賞、1金星
十両戦歴 44勝16敗/60出(4場所)、1優勝
幕下戦歴 35勝13敗/48出(6場所)
三段目戦歴 27勝5敗/32出(4場所)、1優勝
序二段戦歴 13勝3敗/16出(2場所)
序ノ口戦歴 7勝1敗/8出(1場所)
前相撲戦歴 1場所
対横綱戦勝利:43勝(若乃花幹士 (初代)と並び歴代1位タイ、勝率も6割を超えている)
年間最多勝:6回(当時最多受賞回数・現在、白鵬翔の9回、北の湖敏満の7回に次いで歴代3位。1960年 - 1964年の5年連続最多勝も当時最多、現在白鵬翔の9年連続に次いで歴代2位タイ)
1960年(66勝24敗)、1961年(71勝19敗)、1962年(77勝13敗)、1963年(81勝9敗)、1964年(69勝11敗10休)、1967年(70勝6敗14休・柏戸と同数)
連続6場所勝利:84勝(1966年3月場所-1967年1月場所、1966年5月場所-1967年3月場所、1966年7月場所-1967年5月場所)
通算(幕内)連続勝ち越し記録:25場所(玉錦三右エ門に次いで当時歴代2位、現在歴代10位タイ・1960年5月場所-1964年5月場所)
幕内連続2桁勝利記録:25場所(当時歴代1位、現在白鵬51場所・北の湖37場所に次いで歴代3位・1960年5月場所-1964年5月場所)
幕内連続12勝以上勝利:11場所(当時歴代1位、現在歴代5位・1962年7月場所-1964年3月場所)
幕内最高優勝32回は2016年(平成28年)現在、白鵬に次ぐ2位の記録だが、引退当時は最多優勝記録であった。様々な金字塔を打ち立てたが、特に入幕(1960年)から引退(1971年)までの12年間、毎年必ず最低1回は優勝した記録は「一番破られにくい記録」と言われる。
流行語「巨人・大鵬・卵焼き」は大鵬本人はきらいだった!!
当時の子供たちの好きな物を並べた「巨人・大鵬・卵焼き」という流行語は、当時の大鵬の人気と知名度を象徴する有名な言葉であるが、大鵬本人は「巨人と一緒にされては困る」と語ったこともある。その理由は、大鵬自身がアンチ巨人(巨人が嫌い)だったことと、団体競技の野球と個人競技の相撲を一緒にされたくない気持ちがあったこと、そして何よりも、「大鵬の相撲には型がない」と批判されていた時期に「大人のファンは柏戸と大洋ホエールズ」などと評論家から揶揄されたことがあったためであるという。ただし、後年に出版した自伝には『巨人 大鵬 卵焼き ― 私の履歴書』という題名を付けた。また、巨人の選手の中でも、自身と同じ1940年(昭和15年)5月生まれであり、なにより自分と同じ努力家として知られた王貞治とは大変親しく、若い頃にはよく一緒に酒を飲んでいたという。この「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉は、1960年代前半の高度経済成長期に、通産官僚であった堺屋太一が、当時若手官僚の間で時代の象徴として冗談で言い合っていたこのフレーズを、記者会見の中で「日本の高度成長が国民に支持されるのは、子供が巨人、大鵬、卵焼きを好きなのと一緒だ」と答えて紹介したことがきっかけで広まったとされている。