大山道場
大山倍達は目白の家から板橋区のアパートに転居し、大山道場を立ち上げた。
この道場は後に豊島区西池袋のバレエスタジオに移った。
道場といってもオンボロ木造アパートの1階にあった板張りのスペースだったが、野天道場に比べ、屋根があり、床があり、鏡もあった。
水道も電気もあったので、門下生300名は夜も練習できた。
彼ら自らを「極真会」「極真空手」と名乗った。
その由来は「千日をもって初心とし、万日をもって極とする」という格言に因む。
大山道場の稽古は地獄そのものだった。
近年、アルティメットやバーリトゥードなどなんでもありの格闘技がクローズアップされてきたが、大山道場は、突き蹴りだけではなく投げも絞めも許された。
また大山道場の組手は真剣勝負だった
強さを目指す者にとって、大山道場は憧れと同時に恐怖の対象だった。
大山倍達自身、まだ自分自身が強くなることに一生懸命で、去る者は去れ、ついて来れる者だけついて来いという感じで、ほとんどの者がその厳しさに耐えられずたった数日でやめていった。
それまでの空手は寸止めの空手や、実際に当てる組手を行っても防具をつけたりしていた。
大山道場の空手は、組手=倒すことであり、また当て合うことで当てられても倒れないからだをつくった。
力道山
力道山は朝鮮半島の北方で生まれ、大山倍達と同じ年に渡日。
翌年、二所ノ関部屋に入門。
10年間で大相撲で関脇まで昇進しながら、自らマゲを切って力士を廃業した力道山光浩は、プロレスラーになるためにアメリカに渡った。
そして帰国後、日本プロレスリング協会を立ち上げ、自らの道場で若手を育成し、日本でプロレスの生みの親となった。
日本プロレスの初興行は、シャープ兄弟を招聘し、テレビで全国中継された。
力道山は外国の大男を次々に倒していった。
日本はプロレスブームに沸き、力道山は英雄視された。
文藝春秋新社が発行する「オール読物」1952年7月特別号に、大山倍達と力道山の対談が掲載された。
対談は互いに相手を尊重し、和やかな雰囲気で進んだ。
そして最後に記者が2人に腕相撲をリクエストした。
力道山は120㎏。
大山倍達は82㎏だったが自信はあった。
しかしお互いの顔を立て引き分けにしようと申し合わせた。
記者が写真を撮るためシャターを切った瞬間、力道山は突然力を入れて勝ってしまった。
この行為を大山倍達は終生許さなかった。
木村政彦
大山倍達は「宮本武蔵」を尊敬していたが、「昭和の武蔵」は柔道の木村政彦だった。
全日本選手権10連覇、15年間不敗の柔道家:木村政彦は強さの象徴であり、憧れだった。
木村政彦の師匠:牛島辰熊が東亜連盟の支持者であったため、その関係で大山倍達は木村政彦と会うことができた。
そして2人は武の道の先輩後輩となった。
木村政彦、天覧試合で優勝したとき、賞品として短刀をもらった。
その後、もし試合に負けたら、これで切腹して死のうと決めた。
そしてイザというとき用に、実際に少し腹を割いて練習をした。
死ぬのはかんたんだが勝つことは難しいと悟り、「3倍努力」を掲げ、努力し続けた。
また空手部の稽古をみたとき、しっかり小指から親指まで5本の指で握っているのをみたのをきっかけに、木村政彦は、柔道の握りを強くするために、巻き藁を突き始めた。
肘打ちも柔道に非常によかったという。
木村政彦は、師である牛島辰熊の誘いに応じ、『プロ柔道』に参加し、総勢21名の選手で日本国内を回って試合を行った。
しかし半年足らずで興業は下火となり、試合をしても給料が出なくなった。
妻が病を患い、その治療費にに窮した木村政彦は、仕方なくプロ柔道を脱退し、ハワイに渡り、プロレスラーになった。
そしてハワイやブラジル、アメリカを転戦した。
このとき伝説の柔道家:前田光世の弟子でありブラジリアン柔術の始祖、そしてヒクソン・グレーシーの父親もであるエリオ・グレーシーと対戦し、大外刈で叩きつけ、その腕をへし折った。
このとき腕を折った技:腕絡み(うでがらみ)は、現地では今でも「キムラロック」といわれている。
日本へ帰った後、力道山とタッグを組んで話題を呼んだ。
その後、故郷である熊本県で「国際プロレス団」を旗揚げした。
力道山との遺恨
1954年12月22日、「昭和巌流島の血闘」「プロレス日本一決定戦」といわれた力道山vs木村政彦の試合が行われた。
この試合、実は事前に引き分けで終わることが決められていたが、力道山が掟を破り、一方的に木村政彦をメッタ打ちにしてドクターストップで勝ってしまった。
この八百長崩れの試合をリングサイドでみていた大山倍達は、激高し、叫びながらリングによじ上がろうとしたが、周囲に制止されてしまった。
自分に対して腕相撲でやった手を再度使った力道山が許せなかったのだ。
その後、何度も力道山に挑戦状を出し試合を迫った。
しかしそれはかなわないとわかると夜の酒場を力道山を探し求め歩いた。
力道山にも、木村政彦にも、また大山倍達にも、背後に危ない団体がいたため、お互いの利権と大きな抗争へ発展することを恐れ、結局、話し合いの後に和解した。
しかし3人共に、個人的なしこりは終生、消えなかった。
What is Karate
1958年、世界初、英語版の空手技術書「What is Karate」が出版された。
大山倍達の初の著書は世界に向けたものだった。
氏の著作は自己啓発書としてかなりのインパクトがあり、元気がなくなると大山倍達の本を読んだり、訓話の動画をみるという人は多い。
聖地:極真会館
1964年、国際空手道連盟極真会館ができた。
目白の野天道場で2年、オンボロバレエスタジオで8年、合計10年間の時を経て、大山道場は、極真会館となり、実戦空手、武道空手の聖地となった。
大山倍達はいった。
「寸止めではなく、実際に当ててみなければ、真の強さを極めることはできない」と。
そして「実戦空手」を提唱した。
そして世間からは「空手は悪い人間がやるもの」といわれ、空手界からは「ブチ壊しの空手」「ケンカ空手」と異端視され続けた。
同じ時期、力道山はナイトクラブでの口論が発端で、ヤクザに刺殺された。
空手バカ一代
1970年代、「空手バカ一代」が大ヒット。
「これは事実談であり、この男は実在する。」という冒頭のフレーズに多くの若者が惹きこまれた。
そして空前の空手ブームが起こった。
極真会館には連日、入門希望者の列ができて、道場に入りきれず廊下やロビー、路上でも稽古が行われた。
また全国各地に支部がつくられていった。
ネバーギブアップ
「極真」とは、「千日をもって初心とし、万日をもって極みとする」という格言に因んでいる。
これは初めて武道を志し、修行によってようやく初心に達するまでに千日(3年)が必要であり、その極意、境地に至るためには、万日(30年)はかかる-という意味である。
武道を志す者は、毎日稽古に没頭し、例えば拳の握り方ひとつについて常に悩み、工夫、研鑚を重ね、ただただ奥義を究めるべく不断の努力をしている1人の求道者に過ぎないということである。
要は、中途半端な強さではなく、真の勇者たれ-ということであり、また困難に決して「あきらめない」という精神的姿勢は、極真空手家に強くみられる特徴である。
大山倍達は、極真空手は、スポーツでも、格闘技でもなく、「武道」であるという。
そして
「武の道の探求は、断崖をよじ登るがごとし。
休むことなく精進すべし。」
という。
それは空手の修行は急ぐことはない。
階段を1段づつ上がるように、ゆっくりと歩めばよい。
しかしそれは稽古をやりたくなければ休めばいい-ということではなく、焦るな-ということ。
稽古は休まず地道に続ける。
毎日続ける。
しかし精神的に決して急がない。
自分にあったペースで、自分の稽古を積み上げていくこと。
それが武道の修行であるという。
そして彼が願っているのは、極真空手を志したすべての人が本当に強くなって胸をはって生きていけるようになってほしい-ということである。