山下大悟

山下大悟
2002年1月12日、早稲田大学ラグビー部は全国大学選手権決勝戦で 関東学院大学に敗れた。
清宮克幸早稲田大学ラグビー部監督は、次シーズンのキャプテンに、山下大悟を指名した。
山下大悟は、去年の春、雨でグラウンドコンディションが悪いなか、踏ん張ろうとして左脚の靭帯を伸ばしてしまった。
勝ち気の強い山下はそれでも練習の最後のグラウンド3週走を本気で走った。
彼のその性格のおかげで怪我は悪化し、翌日の病院で受けた診断は全治2ヶ月。
病院は手術をすすめたが、山下は手術せずトレーニングで治していくことにした。
そして患部を治すトレーニング+アジリティ(敏捷性)を向上させるトレーニングをすることを決めた。
具体的にはラダー(ハシゴ型のマス)のマス目をステップして駆け抜けたり、ボールの周りを8の字やXの字に回った。
山下は元来、体格に恵まれていたが、敏捷性獲得に取り組んだことで、復帰したときは細かい動きができ、立ち上がりのスピードやバランス感覚などを向上させた。
この怪我の功名ぶりが並みの選手ではないところである。
試合前のロッカールームで、選手に気合を入れる清宮克幸監督と山下大悟主将
また山下は、熱い人間で、試合前日に感情が抑えきれず部員の前でも泣いてしまうような男だった。
ラグビーは試合中に監督が指示を出すことができないので、常にグランドに立てて戦術眼に優れ、リーダーシップを発揮する人間でなければならない。
清宮は、山下に
「練習メニューやスキルの関しては、監督の仕事。
キャプテンの仕事は、多くの部員に背中で進むべき道を示すことだ。」
といった。
そして2002年の目標は「大学日本一(全国大学選手権優勝)だった。
奥克彦

奥克彦(右)
2002年2月、早稲田大学ラグビー部は英国に遠征した。
目標はズバリ、
「オックスフォード大とケンブリッジ大を倒すこと。」
また
「試合だけでなく芸でも勝つ」
とアフターファンクションでの演芸係として、演芸隊長と隊員2名が選出された。
出発日はひたすら移動。
まずは成田からロンドンまで12時間。
ヒースロー空港からダブリンまで1時間半。
そこからコークまでバスで5時間。
ホテルに着いたのは夜中の0時過ぎ。
要した時間は22時間だった。
翌日は朝7時前に起床し、練習だった。
しかしホテルが停電し、6時50分のモーニングコールがかかってこず遅れる選手が続出した。
この遠征では、ギャンブル好きの清宮の発案で、罰金刑があり、遅刻や与えられた役割でミスを犯すと有無をいわさず5ユーロの罰金が集められる。
罰金で積み立てられ、遠征でMVPを獲得した選手へのプレゼントに使われた。
初日の朝から多くのお金が貯まった。
清宮は、オックスフォードのホテルで、早稲田大学ラグビー部の先輩で、ロンドンの日本大使館に赴任したばかりの奥克彦に会った。
清宮は事前に奥にメールである依頼をしていた。
「今年は絶対に大学日本一になるので、全員が一丸となれるスローガンをつくってください。」
2人は5時間くらい、夜中の12時過ぎまでスローガンづくりをした。
奥が次々、スローガンを出す。
清宮は
「難しい。」
「いいにくい。」
「長すぎる。」
などと却下していった
奥は30個くらい出したが、結局このときのスローガンづくりは失敗に終わった。
後日、ケンブリッジのホテルで奥と清宮は2回目に臨んだ。
開始から1時間くらい、
奥が
「UltimateCrash(アルティメットクラッシュ、完膚なき圧勝)。」
といった
「それだ!」
瞬間、清宮が叫んだ。
2人に笑顔が広がった。
これで決まった
部屋を出てホテルのバーで飲んでいたキャプテンの山下大吾にスローガンを伝えた。
「それ、いいっすね!」
山下もすぐに乗った。
遠征後、日本に帰ってから全員にスローガンが伝えられた。
この後、シーズン中、山下はことあるごとに
「アルティメットクラッシュだ。」
と叫んだ。
そしていつの間にか「アルティメットクラッシュ」と聞くだけでチーム全員の気持ちが1つにまとまるようになった。
2002年3月16日、東伏見で、2002年度ファーストミーティングが行なわれた。
清宮は今シーズンのスローガン、チームコンセプト、課題等を選手に伝えた。
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理想と目標
ラグビーを通して世の中に希望と感動を与える
創造と鍛錬による常勝集団となる
全国大学選手権優勝
スローガン
ULTIMATE CRASH
アルティメットクラッシュ
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今シーズン新たに掲げられたスローガンは『ULTIMATE CRASH』
ULTIMATEとは、こだわり、徹底、究極
昨シーズンの5つのキーワード、『継続』『高速』『精確』『独自性』『激しさ』にこれらの要素を加え
相手を「完膚なきなでに叩きのめす」という意味がこめられている
2人に教わったのは、勝利を追及する気持ちの大切さ

グラハム・ヘンリー
2002年6月9日、ウェールズから2人の臨時コーチが指導のために来日した。
元ブリティッシュライオンズ(英国選抜)監督で、現オールブラックス(ニュージーランド代表)監督であるグラハム・ヘンリーとウェールズ代表キャップ51を誇るデビッド・ヤングである。
グラハム・ヘンリーは、清宮が主将だったとき(1989年)にも早稲田大学ラグビー部をコーチをしたことがあった。
彼らは広島でチームと合流し、全広島(マツダと中国電力の合同チーム)に101対5で早稲田大学が圧勝する試合をみた。
「13年前に来たときよりいいチームだよ。
私には教えることなど何もない。
もうウェールズに帰るよ。」
東京に帰ってから、ヘンリーはバックスのサインプレー、ヤングはフォワードの強いスクラムの組み方を指導した。
彼らは数多くの技術的サポートを行ったが、何よりも早稲田の選手に明確に戦う目的、戦う意識を与えた。

ヤングは、「フロントローの選手が肉体的にも精神的にもチームで1番強くなくてはならない」という持論の持ち主で、それを徹底的に教えた。
スクラムはフォワード8人で押して押しまくるもので、技術は2の次だった。
8人がまず「スクラムでは押してやる」という気持ちを明確に意識しなければならない。
小型のフォワードは、スクラムで押される前に素早くボールをバックスに回して展開しようとする。
早稲田のフォワードも「絶対押す、負けない」という根本的な負けじ根性がなかった。
「俺たちは強い」「絶対に押されない」という確固たるイメージを抱いてスクラムを組むのと、相手の力をうまく受け流して上手に勝負しようと考えながら組むのでは、練習の成果に大きな差がある。
ヤングはその負けじ根性を植えつけた。
「カモン!」
そういって円陣を組んで
「俺たちは負けないんだ。」
と常に言い続けた。
そして技術的には、足のポジション、手の位置、コーリング(声出し)を教えた。
試合後のビデオチェックでヤングが1番はじめに指摘したのは、ファーストスクラムに駆け寄るフロントローの選手たちの姿勢だった。
彼は
「さあ俺たちの出番だ。
ファーストスクラムだ。」
と満を持して身体全体からオーラが出るくらい強い気持ちで挑まないといけないという。
黙ってうつむいて集まったところでよいスクラムが組めるわけがない。
「さあ組むぞ。
やってやるぞ。」
という気持ちがすべて。
足の位置がどうのこうのというのはずっと後の問題だというのだ。
練習から常に俺たちが1番だという気持ちでやらないと強くならないのである。
2002年6月の最終日曜日。
調布の味の素スタジアムの併設施設:アミノバイタルフィールドで、早稲田Aチームは関東学院と練習試合を行い、35対34で勝利した。
しかしノーサイドの瞬間、笑顔をみせるものは一人もいなかった。
トライ数は5本対6本。
アタックは少なく、多くの時間をディフェンスに強いられた。
序盤こそ先行したが、前半34分に逆転されると、後半20分までの間に3つのトライをとられ20点も差をつけられた。
関東学院のフォワードが後半途中で退くと、早稲田は後半26分、30分、32分と意地の3連続トライ。
最終的には得点でも上回ったが内容的には負けたも同然だった。
1ヶ月ほど早稲田で指導したグラハム・ヘンリーとデビッド・ヤングは最後にこんな言葉を残していった。
「あのチームには勝てないという苦手意識を持つことが1番いけないことなんだ。
6月の勝利で早稲田には関東学院には勝てないという意識がなくなったはずだ。
これこそ何物にも代えられないものすごい財産になるんだ。」
さよなら東伏見グラウンド
2002年7月7日、東伏見グラウンドさよならイベントが開催された。
74年間、早稲田大学ラグビー部が親しんだ東伏見グラウンドが2002年限りで閉鎖され、上井草の新グラウンドに移ることになった。
第2次大戦中、早稲田のラグビー部員も招集されたが、そのとき彼らはジャージやボールなどを地中に埋めたという。
戦争が終わり、生きて帰って来れた者はそれを掘り起こしてラグビー道具を出し練習をはじめた。
仲間は減り、食料もなく、希望もない中でどんな気持ちで練習したのだろうか?
そういう人々の汗と気持ちが早稲田ラグビーの礎となった
もちろんそれ以前、それ以後、いくつもの世代のドラマが、このグラウンドでは埋まっている。
清宮は3月からイベントを企画しはじめた。
年末の1万人の第九をヒントにOBを1万人を呼んで北風を歌う「1万人の北風」
近くのサントリーアイスアリーナで早稲田大学ラグビー蹴球部85年展。
この地に早稲田ラグビーがあったことを示す記念碑設立。
大西鐡之祐展。
オークション。
ゲーム。
レクリエーション。
現役とOBの対抗戦。
記念限定版グッズの販売。
東伏見の限定した写真集。
サントリーモルツ早稲田ラグビーオリジナル缶。
東伏見グラウンドの土で焼いたマグカップ。
オリジナルTシャツ。
キャップ。
西武鉄道は
新上井草グランドのために土地を提供した経緯もあり、このイベントを車内吊ポスターで宣伝した。
当日9:30分、客が詰め掛け出し、10時に開場し、11時には1万人を突破。
司会はNHKの斉藤洋一郎アナとフジテレビの菊間千之アナ。
(斉藤も菊間も早稲田OB、OG)
参加したOBやファンは東伏見を満喫した。
スピーチが長過ぎるとひんしゅくを買った清宮は親子リレーで息子と走った。
記念試合に出るOBもいた。
イベントは大成功だった。
しかし1つだけ失敗した。
清宮の皮算用で収支が大赤字になった。
「記念品の販売でトントンになるはずだったのだが・・・・」
寺山夏の陣

2002年8月、菅平での夏合宿で、ヘンリーの予言どおり早稲田は関東学院に完勝した。
2ヶ月前は35-34の辛勝。
勝負としては負けに等しい試合だった。
「選手権決勝の前哨戦」といわれるだけあり、多くの観衆が詰めかけ、オープン戦とはいえ試合は序盤からヒートアップした。
前半5分、関東学院の選手が早稲田の選手を殴打し、殴られた側も一時退場、殴った側もシンビン
(Sin=罪、違反」 と「Bin=入れ物、置き場」を合わせた造語、危険なプレーをしたため一時的に試合から離れることを命じる制度)を受けた。
これが早稲田の魂に火がつけ王者相手に猛アタックをかけた。
前半10分、ゴール前ペナルティからすばやくリスタートをしトライ。
前半25分、殴られて一時負傷退場をした桑江が気迫のトライ。
前半35分には左右への展開・連続攻撃から最後は中央へトライ。
前半を19-0で終えた。
後半も早稲田の猛攻は止まらない。
後半5分、トライとゴールが決まり26-0。
しかしここから関東学院も意地をみせ、後半10分と31分に2トライを決める。
「あと2本(2トライ)だ!」
意気込む関東学院を早稲田ディフェンスは鋭いタックルで止め、終了のホイッスル。
26-14。

寺山卓志
この合宿中のある日、上空をヘリが飛んだ。
ヘリは怪我人を病院へ搬送していた。
怪我をしたのはCチームの2年生:寺山卓志の高校時代の親友だった。
寺山は清宮に願い出た。
「親友が下の病院に担ぎ込まれて今、意識不明です。
山を下りて立ち会っていいですか。」
「もちろんだ。」
寺山は2、3日看病したが親友の意識は戻らず、合宿に戻った。
「清宮さん。
もうあいつは無理かもしれない。
僕はあいつの分まで一生懸命ラグビーをやります。」
清宮は唇をかみ締めている寺山をみた。
翌日、清宮の指導担当はたまたま寺山のいるジュニアチームの練習だった。
そこにはものすごくだらけた練習をする寺山がいた。
清宮は練習を止めた。
「お前らそんな練習ではダメだ。
今から走ろう。」
そういって急遽、フィットネスのメニューに変更した。
キツい練習に、寺山は清宮に聞こえるように叫んだ。
「なんで俺らだけこんなことせなあかんねん。
Aチームも同じことやんねんやろなー」
通常なら笑い飛ばしたかもしれないが、前日「親友の分までがんばる」といった寺山を清宮は殴った。
監督になって選手を殴ったのはこれが初めてだった。
寺山は反抗した。
「やってられへん。
もうやめるわ。」
清宮は寺山にクビを言い渡した。
その後、荷物をまとめようとしている寺山をチームメイトが説得した。
清宮が練習が終わって部屋に戻ると正座して待っていた寺山が泣きながらいった。
「なんであんなこといったんやろ。」
「気にするな。
明日からまた元気でやれ。」
清宮は多く語らず寺山を部屋へ帰した。
まじめな寺山が清宮に反抗し、清宮がはじめて選手を殴った事件は、「寺山事件」、「寺山の乱」、「寺山一揆」、「寺山夏の陣」などと呼ばれ語り継がれた。
事件後、寺山はコツコツ努力し、体をつくり、4年生の早明戦ではリザーブに入った。
早稲田大学ラグビー部の126名の部員が最後まであきらめずモチベーションを維持できるのは、寺山のようにがんばれば報われるという実例があるからなのかもしれない。
オックスフォードとドロー
2002年9月15日、上井草の新グラウンドのこけら落しとして日英大学ラグビー対抗戦が開催され、早稲田大学はオックスフォード大学と対戦した。
清宮はこのイベントに関東学院のレギュラー選手と春口監督の16名もメインスタンドの一角に招待した。
「どうだ。
早稲田はこんな新グラウンドになった。
しかもアディダスと契約してジャージも新品になった。
今年は早稲田が必ず勝つんだ。
そういう意志表示をして関東学院の面々の深層心理に働きかける狙いもあった。
早稲田には勝てないという呪縛を与えたかった。」
早稲田とオックスフォードは、過去、50年間で9回対戦し、早稲田は1度も勝てていなかった。
まさに選手たちにとって自分の潜在能力を知るうってつけの相手だった。
そして10回目の対戦は同点引き分けに終わった。
13シーズンぶりの大学王座
2002年秋、早稲田大学ラグビー部は、評判通りの強さをみせた。
関東大学対抗グループは8チームによる総当りリーグ戦。
東大に156点差。
青学大に121点差。
日体大に156点差。
帝京大に156点差。
残るは慶大、明大との伝統の対決だった。
2002年11月23日の早慶戦は、前半17-0、後半57-0で完勝した。
2002年12月1日の早明戦は、平均体重では上回る明治に早稲田は当たり勝ちし24-0で完勝した
まさにアルティメイト・クラッシュ(完膚なき圧勝)だった。
そして2003年1月11日、2002年度全国大学選手権決勝戦、早稲田大学 vs 関東学院大学。
清宮の2つ上の先輩たち、通称「永田組」は、みんな紺ブレザーに赤黒ネクタイを着けて観客席に陣取っていた。
彼らは早稲田が勝ったらグラウンドに飛び出てみんなで荒ぶるを歌うという計画を立てていた。
グラウンドへ下りることは反則だが、ブレザーを着ていればいいだろうと、いいわけないことを考えていた。
関東学院大が勝てば大学選手権3連覇となる。
今年の関東学院は優秀な選手をそろえ、春口監督はあまたの才能を前にキャプテンを1人に絞りきれず、キャプテンを4人制にしたほど関東学院のスタメンはスターぞろいだった。
事実、彼らの多くは後に社会人トップリーグチームでレギュラーになった。
それに比べ早稲田は人材的に劣り、彼ら多くは後にフジテレビの営業や日本航空の技師や僧侶になったりラグビーと無縁の生活を送るものが多い。
試合開始早々、打倒関東学院大に燃える早稲田が牙を剥く。
前半7分、主将山下が相手のタックルを引きずりながらインゴールへ飛び込んだ。
前半14分、自陣から展開し50m独走トライ。
前半22分にもトライし19-0。
早稲田はタックルされた選手のボール処理、ダウンボールが正確だった。
ギリギリまでボールを抱え込むと、ボールを殺されてしまい、結局ターンオーバーされてしまう。
タックルポイントを外して確実にダウンボールをすれば素早いフォローが続く限りボールを連続支配できる。
早稲田ラグビーの理論的支柱である「接近、緊張、連続支配」
この基本をふまえワイドなゆさぶりを加えたところでトライが生まれる。
しかし1人1人の強さは関東学院大が上回った。
前半中盤以降、押され気味の早稲田は、素早く体をぶつけ激しくディフェンスしゴールライン手前で関東学院を何度も押し返した。
早稲田が犯した反則は24。
後半は押されっぱなしだった。
関東学院のフォワードの猛攻に苦しんだ。
関東学院大学のブルーのユニフォームが、タッチを切られたボールを追いかけた時、レフリーの右手が上がり、ノーサイドの笛がグラウンドにこだました。
27-22。
5点差で早稲田が勝った。
13シーズンぶりに大学王座に返り咲いた。
ビクトリーチェーンが結実した勝利だった。
そして13年ぶりの「荒ぶる」とともに早稲田復活フィーバーが始まった。
2003年2月9日、日本選手権1回戦、早稲田大学 vs リコー。
勢いのある大学王者が、社会人相手にどこまで戦えるか期待されたが、早稲田は31対68で敗れた。
しかし秩父宮のファンは、今年1年、楽しませてくれた早稲田の選手たちに暖かい拍手を贈った。
清宮克幸 早稲田大学ラグビー部監督3 「RAISE UP」