伝説のイングランド戦

1943年2月15日、山口良治は福井県の南西部、若狭湾に接する三方郡美浜町の農家に生まれた。
山口良治が小学1年生のとき、実母:梅子が37歳で亡くなった。
「母ちゃんはね、リンゴをたくさん買いに行ったんやで。
もうすぐ帰ってくるよ。
母ちゃんがそういっていたもん。
なあ母ちゃん、帰ってくるやろ?」
3つ下の妹:登志枝は母親の死が理解できず、帰ってくるものだと信じて待った。
1年後、父:定一は再婚し、先夫との間の子を抱えた継母が家にやって来た。
少しは寂しさが癒えるかと思ったが、一緒に暮らしてみると逆に悲しみは増していった
継母は、山口良治の弁当をつくらず、靴下や下着も洗濯してくれなかった。
冬、氷が張るような水で靴下を洗っているとあかぎれで血がにじんだ。
まだ小学校低学年。
友人が母親と歩いていると胸が締めつけられた。
継母からほんとうの愛情を感じたことは、1度もなかった。
小学4年生のとき、外れたボタンを自分ではつけ直すことができず、悩んだ末、継母に頼んだ。
次の日の朝、ボタンは頼んだ位置とは違うところに乱雑につけてあった。
「もう1回、やってちょうだい」
腕にしがみついて頼んでもしてくれなかった。
継母の目の前でボタンを引きちぎり家を飛び出し、近所の女性に
「ボタンをつけて」
と頼みわんわん泣いた。
それ以降、継母と心が通じ合うことはなくなった。
「母ちゃんが死んで愛情に飢えていた。
2人目の母親とは折り合いが合わんかったからね。
寂しくて寂しくて、どうしようもなかった。
あれは4年生の遠足やったかな。
バスガイドさんの手を握ったまま離さんかった。
母ちゃんが生きていたら、こんなに温かい手をしていたんかな。
そう思いながらずっと握ってた。
それほど人の温もりが欲しかった」
小、中学校時代の教師は、よく山口良治を自宅に呼び、ご飯を食べさせた。
家に帰りたくない日は、山口良治は先生の子供と一緒の布団で寝た。
中学時代は野球部に入り、キャッチャーで4番だった。
「もしあのまま野球を続けていれば長島さんと王さんに負けんだけのプレーをしていたと思います。
これはもう絶対です」
しかし進学した福井県立若狭東高等学校には野球部がなくラグビー部に入部。
たちまちのめり込み、大学は第1回日本選手権で八幡製鉄と日本一を争った日大を選んだ。
しかしその練習は過酷で、また封建的な雰囲気が支配していて、自主性に乏しかった。
そんな日大のやり方に疑問を感じ、また中学時代の体験から体育教師になりたかった1年生の山口良治は
「難しいやろうな」
と思いながらも日体大への編入を希望した。
しばらくすると日体大学長から1通のハガキが届いた。
「あと3年間、日体大で学業を頑張りたまえ」
こうして特例で日体大へ編入が認められた。
日体大ラグビー部の綿井永寿監督は山口良治の素質を見抜き、マンツーマンで指導した。
また早稲田大学ラグビー部の大西鉄之祐も山口良治を高く評価した。
大西鉄之祐は、日本が世界で勝つためには
「接近、連続、展開の3つが必要」
と説いた。
体力、体格で勝るチームと対戦するときは、いかにスピードで相手を抜くかという展開ラグビーになりやすい。
しかし大西鉄之祐は、展開に加え
「手足の長い外国人が槍ならこちらは刀、相手が刀ならこちらはドス(短刀)」
と接近戦の必要性を訴え、
「勇気なき者は去れ」
とタフな肉体と戦闘意欲が不可欠だとした。
山口良治は、オール関東に選抜され、日本代表入りも期待された。
卒業時、トヨタ自動車、近鉄、三洋電機など強豪から熱心に誘われた。
「自分の実体験を教師になって伝えたかった。
だからたくさんの企業から話をもらったが教員になりたい思いがブレることはなかった。
お父さん、お母さんがいない子や、荒れる子の寂しさは痛いほどわかる。
その気持ちを抱きながら生きてきたからね。
もし母親が生きていたらラグビーはしていなかったやろうし教師にもなっていなかった。
おそらく田舎で農民にでもなっていたやろうな」
1966年、岐阜県内の高校で教員をしていた山口良治は、大西鉄之祐が率いる日本代表(オールジャパン)に選ばれた。
ポジションはフランカー。
ラグビーは15人のメンバーから成り立ち、大きく8人のFW(フォワード)と7人のBK(バックス)に大きく分けられる。
フォワードは、スクラムを組み、ボールがタッチラインの外に出ればラインアウトで敵とボールを奪い合い、 BK(バックス)が捕まれば、すぐに駆けつけてボール確保に身を削る。
力強く突進してボールを奪い、敵ディフェンスを蹴散らすのが仕事。
ぶつかり、倒し倒され、下敷きになり、踏まれ、そしてすぐに起きて走るタフな大型選手が並ぶ。
FWが確保したボールは、HB(ハーフバック)に渡る。
HBとは、SO(スタンドオフ)とSH(スクラムハーフ)の2人で、彼らがボールを持って走るか、蹴るか、パスするかでチームの攻撃が決定する。
戦術、判断、俊敏性、堅実なラン、パス、キックのスキルが要求される。
BK(バックス)は、FWに比べスリムな選手が多い。
HBが選択した攻撃を実行するためのスピードと突破力が求められる。
攻撃では、俊足を飛ばしてトライをあげフィニッシャーとなるが、ディフェンスでもその役割と責任は大きい。
フランカーは、フォワードに属し、軍事用語で「側兵、側面部隊」を指し、スクラムでは側面について攻めたり守ったりする。
守ればスクラムサイドを衝いてくる相手にはタックルをかます。
現役時代、山口良治は、自分の守るサイドは誰にも抜かせなかった。
ボールを持てば突進し、味方がタックルされて倒れたらすぐにサポートに入り、ボールを拾ったり、接点に入ってくる相手を弾き飛ばしたりして2次攻撃のポイントとなる。
こうした接点でのボールの奪い合いこそフランカーの腕の見せ所で、いいフランカーはどこでポイントができるかをいち早く読んで、その地点にトップスピードで入る。
ボールに頻繁に触り、かつ相手選手とのコンタクトも多く、体の強さとスピード、キツくなっても働き続けられる気持ちの強さが要求されるポジションである。
また山口良治は、キックも得意で、そのゴールキックは圧倒的な成功率を誇った。
1971年9月28日、東京の秩父宮ラグビー場で行われた全日本 vs イングランドでは、日本はスクラムで勝り、タックルを次々突き刺し、前半を2PG(ペナルティゴール)に抑え、0対6で折り返した。
後半は何度も相手ゴール前に迫った。
33分、イングランドの反則からPGを得て、山口良治は40mのロングキックを成功させた。
結局、3対6で敗れたが、最後まで
「もしかして・・」
と思わせる試合だった。
京都市立伏見工業高校

山口良治は桜のジャージを脱いでオールジャパンを去った。
右膝はグラグラだった。
仕事も京都市役所に変わった。
1973年3月25日、春休みに入って最初の日曜日、吉祥院グラウンドでラグビー教室があり、山口良治は、ラグビー教室に通う幼稚園児から小学6年生までの200名に教えた。
その様子をみていた京都市立伏見工業高校校長の山本普は、練習後に面会を求めた。
山口良治が教員免許を持っていることを知るとすぐに欲しいと思った。
(明日から日参したろ)
次の日から毎日、教育委員会詣を始めた。
「おくんなはれ!」
「そら山口さんは京都市役所の職員です。
けど犬をもらうようにくれくれいわれたかてそう簡単にいきまっかいな。
なんちゅうたかてまだ現役でっさかい市役所としても放すかどうかわかりまへんで」
「さあ、そこや」
「どこや?」
「ここで彼をもらえんかったら京都の教育界は逸材を失う。
この損失は大きいで」
30歳を過ぎた山口良治は、現役引退後の人生の準備を始めていた。
社会人ラグビーチームから監督のオファーが2件もあり、給料はいずれも市役所よりはるかに多かった。
そこへ伏見工業高校の話が来た。
「わしのところへ来い」
「そんなら期限を切ろ。
2年でエエよ。
その後、社会人の監督に鳴ればエエ。
わしも定年まで2年や。
その間、一緒にやってくれ」
山本普に口説かれても正直、冗談ではなかった。
しかし教育委員会はついに折れた。
「行ってくれんか?」
山口良治は、全日本代表の遠征や合宿、社会人大会などで教育委員会に迷惑をかけていた。
頭を下げられると弱かった。
1974年3月18日、京都市立伏見工業高校に体育教師として赴任するよう教育委員会から内示があった。
「偏差値25。
劣悪やな」
10日後、山口良治は京阪電車の伏見稲荷駅を降りて学校へ向かった。
伏見工の近くには稲荷山があり、全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社が建っていた。
稲荷山全体が神域とされ、信者から奉納された約1万基の鳥居があり、特に「千本鳥居」と呼ばれる所は狭い間隔で多数建てられ名所となっている。
駅から西に徒歩5分、京都市立伏見工業高校はあったが、すでにタバコをふかす生徒、雀荘の中にいる生徒を見かけた。
バイク事故の件数が京都ワースト。
教師への暴力など日常茶飯事。
シンナーを吸う生徒や学校の廊下をバイク走る生徒もいて、ある教師は怯え、ある教師は教師はみてみぬふりをした。
校門を入りグラウンドをみるとラグビーポールは4本とも折れていた。
次にラグビー部の部室にいってみると、床にタバコの吸殻が散らばっていた。
「誰や」
背後から声をかけられた。
振り返ってみるとサングラスをさしたアロハシャツに白いエナメル靴、チンピラのような格好をした男がいて、マッチを擦ってタバコに火をつけた。
「おい、やめとけ。
ここは部室やぞ」
かまわずタバコをふかす男に山口良治は自己紹介した。
「新任の山口や」
「教師か。
勝手に部室に入ってもろたらかなんな」
「君はコーチか?」
「いいや、オレはラグビー部主将の中村昭憲や」
「そうか。
他の部員は?」
「さあ知らん。
用がないんやったら出て行ってくれ」
山口良治は、校長室で山本普と会った。
「どや、エエ学校やろ?
そろそろラグビー部が練習しよる。
みてやってくれんか」
「部室みたらわかります。
あれはラグビーではありません」
「ワシもそう思う」
その後、山口良治はラグビー部の練習を校舎の窓から見学した。
20人足らずの部員の体が全然鍛えられていなかった。
指導者はいなかった。
準備体操もパス練習もせず、彼らはいきなり試合形式の練習を始めた。
キックされたボールをひ弱なフォワードがキャッチ。
そのフォワードに大柄な部員がタックルし転倒させた。
(危ない!)
その後、部員たちはルール無用で走り、ボールを奪い合った。
怒号と悲鳴、パンチと蹴りが飛び交った。
キックし終えた部員に他の部員がタックルした。
タックルされた部員は後頭部から地面に落ち、タックルした生徒はVサイン。
「やめろ!」
山口良治は走った。
倒れている生徒は脳振盪を起こしていた。
部員が集まってきた。
「誰か水をくんで来い。
それと折れたポールを持って来い」
やがて持ってこられた水が倒れた部員にかけられた。
「お前らジャージを脱げ」
拒否反応を示す部員。
「こうするんじゃ」
山口良治は自ら背広を脱いだ。
「ポールを両脇につけろ。
そっとやれ」
2本のポールが置かれると背広をポールの下に入れた。
「担架や」
3人の部員がジャージを脱いで担架をつくった。
「そっと持ち上げろ。
落とすなよ」
体育教師になる夢と社会人チームで腕を振るいたいという思い。
山口良治は悩んでいた。
学校はまだ春休み中で断るなら今しかなかった。
しかし生徒をみてしまった以上、もうダメだった。
もう退くことはできなかった。
ラグビー部にはすでに監督がいたため、当面はコーチとして協力していくことになった。
春休み中の練習は2時間だった。
山口良治は、なにもいわずに黙って部員の動きを目で追った。
そして心の中で問うた。
(お前らはなぜラグビーをやるんだ)
(なぜラグビーなんだ)
(ラグビーに何を求めているんだ)
そして練習が終わるとなにもいわずに去った。
(彼らのはラグビーじゃない。
何かが違う。
もっと強いハッキリした意識を持った部員が現るまで指導はできない)
コイツらは本当は寂しかったんや

ある日、山口良治は体育の授業のためにグラウンドに出ると、授業は始まっているのに20名ほどの3年生がソフトボールをして遊んでいた。
受け持ちの1年生はグラウンドの隅で並んでいた。
「おーい、どこに並んどる。
こっちへ来んか」
しかし3年生を恐れて誰も来なかった。
山口良治は3年生に向かって歩き出した。
「おいお前ら、なんの授業だ。
先生は誰や?
授業は何や?」
「ソフトボールやんけ」
「ソフトの授業は聞いていない。
運動場はオレの教室だ。
オレの教室で勝手なことはさせん」
「グダグダうるさいやつやの。
いてもうたる」
バットが振り上げられた。
「やるんやったらやったらどや。
しかしオレの教室で暴れたら生きたままで校門は出さん。
覚悟ができとったらそのバット振り下ろせ」
3年生グループは散っていった。
不良たちはやり場のない不満や憎悪を募らせ、ただ荒れていく一方だった。
生徒を探しに伏見稲荷大社に行くと他校の生徒とケンカをしていたこともあった
廊下を歩いていると教室から声がした。
「ポンッ」
そして笑い声が起きた。
みると社会の授業中、生徒はマージャンをしていた。
山口良治はガラスが割れそうなくらいの勢いでドアを開けた。
「お前らなにをやっとるんじゃ。
立て」
4人の生徒が不貞腐れながら立った。
「サングラスもとらんかい」
伸びてきた山口良治の手を生徒は払った。
平手打ちが飛び、サングラスをかけた生徒は倒れた。
逃げる3人をまとめて窓際に押しつぶし1人1人平手を食らわせた。
マージャンをみていた6人も
「お前らも同罪じゃ」
と蹴り飛ばした。
タバコを吸っていた生徒をみつけ
「お前、何をくわえているんや?」
と聞くと、下にタバコを捨て
「俺か?
指くわえてたんや」
と答えたため
「お前が吐く息は、そんなに煙みたいに白いのか?」
といって殴った。
廊下をで前からバイクが廊下を走ってきたときは正直、怖かったが
( 生徒を信じよう、信じよう)
と念じていた。
するとバイクは横を通り過ぎた。
数日後、バイクを走らせた生徒が訪ねてきた。
「ゴメンな先生。
先生だけや、俺に注意してくれたのは。
誰も俺に注意なんてしてくれへんで」
その言葉でわかった気がした。
(コイツらは本当は寂しかったんや)

ラグビー部の練習に集まる部員は数人だけだった。
練習試合で全員の切符を買って駅で待っていても1人も来ないこともあったし、試合をしても勝てるはずはなかった。
「ちょっと部室へ来てくんなはれ」
ある日、山口良治は3年生部員に呼ばれた。
行ってみると主将の中村昭憲を含む3年生部員が7人いた。
「先生、今後、わいらに口出しせんとってほしいねん。
監督でも部長でもないあんたにああせいこうせいいわれたくないねん」
「あんた?」
「伏見工には伏見工の伝統がおまんねん。
それを赴任早々、偉そうに口出しされたらかなん」
「もう何もいわん。
お手並み拝見といこう」
そういいながらも、それまで経験したことのないほどの屈辱と不快感を感じていた。
(オレは全日本代表だぞ)
(教師なんてなるんやなかった)
しばらく後悔と自己嫌悪がこみ上げてきたが、最後には負けじ根性が出てきた。
(問題のない学校に教師などいらない。
教え屋がいればいいのだ。
こういう学校こそ教師が必要だ。
オレは体育教師だ。
体育教師が生徒にぶつけられるのは情熱だ。
闘志だ。
力だ。
そして信頼だ。
たとえラグビーと切り離されても・・)
苦境になればなるほど、悪い状況になればなるほどより燃えてくる男だった。
ラグビー部から絶縁された山口良治は教師として全力を尽くすことを決めた。
まず生徒の服装問題に取り組んだ。
毎朝、校門に立って検査を行った。
「アロハはダメ?
なんで?」
「制服を着て来い」
「持ってない」
「どうした?」
「親父が質屋に流して飲んでもた」
「わかった。
親父と一緒に来い」
服装違反の生徒には名前を書かせた。
「3回違反したら処分するぞ」
「処分って?」
「退学じゃ」
3週間後、服装違反は激減した。
卒業式前になって、ラグビー部の2年生の1人の落第が決まった。
その部員は
「もうやめると決めた」
という。
「落第が恥ずかしいのか?」
「そらカッコ悪いですよ」
「それでやめたらカッコウ悪くないのか?
違うと思うな。
本当に恥ずかしいのは今までの生活態度と違うか。
落第はその結果や。
やめてしまえば取り戻すことができなくなる。
そんなことは承知せん。
1年留年するからって挫折してしまったらなにもできんぞ。
先生はお前らを鍛えるためにやってきた。
が、1年を棒に振った。
お前と同じや」
「ボクと同じ?」
「そうや。
監督落第や。
けどこの4月から監督をやるぞ。
それでもやめるんか?」
「え、ホンマですか?」
「ホンマや」
ウソだった。
ほんとうはまだ社会人ラグビーチームの監督の要請が来ていて、決めかねていた。
しかし勢いだったとはいえ生徒に嘘はつけない。
その後、校長に監督就任の決意を伝えた。
屈辱の大敗

1975年4月、山口良治の新しいラグビー部づくりが始まった。
まずは京都府の高校ラグビーの情報収集を行った。
(絶望的やな)
府内にはラグビー部が約30校あり、花園高校、同志社高、洛北高、塔南高、京都商業、西京商業、嵯峨野高校などが強かった。
特に花園高校は1958年に創部以来、全国大会に9度出場し、準優勝1回、国体では優勝していた。
伏見工ラグビー部は、1960年に創部されて以来、公式戦に出れば負け続け、練習試合は記録すらなくCクラスだった。
(Dクラスがあったらそこに落ちるな)
伏見工ラグビー部員は31人。
保護者が父親でない部員が11人。
安定性のある職業の保護者は少なく、職業欄が空白のものもあった。
「さてわかりやすいところから始めよう。
ラグビーはボールの奪い合いだ。
ボールが奪れなければ、どんなに速く走れてもどんな技術を持っていても意味がない。
攻撃権はいつもボールを持ったほうにあるんだから」
山口良治はそういってボールを持って円陣の中に入った。
「誰でもいい。
先生の手からこれを奪ってみろ。
さあ来い」
1人が前に進み出ていきなり飛びかかったが、すぐに地面に叩きつけられた。
「次っ!」
5人が挑んだが、全員が地面を這わされた。
「ゴロパンや。
奪りに走れ」
次に山口良治はゆるいゴロパント(ボールを地面に転がすキック)を蹴った。
みんなボールを追ったが、勢いをつけすぎてボールを後方へ逸らしたり、拾おうとしてもボールが左右へ跳ねて落とした。
楕円型のボールは生き物のように変化した。
3本のゴロパントで部員はフラフラになった。
「次はセービングだ」
セービングとは、ルーズボールに対して体ごと飛び込んでいくプレー。
転がっているボールを手だけで押さるのは難しい。
だから飛び込んで体で押さえ込み、確実にマイボールにする。
セービングには、フロントセービングとバックセービングがある。
フロントセービングは、競りあって相手より少しでも速くボールを確保したいときにヘッドスライディングでセービングする。
ボールを確保した後、立ち上がれればよいが、頭から飛び込んでいるため、相手が覆いかぶさってきたとき味方にボールを送るのが難しい。
バックセービングは、相手側に背中を向けるように飛びこむセービング。
自陣内にボールを蹴りこまれ相手選手に雪崩れこまれたときなど、体を横向きにしながらボールに飛び込み、敵に背中をみせて、そのスパイクに蹂躙される危険を冒しながらセービングする。
すると敵からボールがみえず、かつ味方はサポートしやすい体勢となる。
セービングは、飛び込む角度やスピードなど様々な要素もあるが、なによりも大事なのは地面や相手を恐れず飛び込む勇気で、相手や地面とぶつかる恐怖でためらいや躊躇が生まれるとダメになる。
またセービングをした後は、すぐに次のプレーに移らなければいけない。
敵が来ていなければすぐに立ち上がって前を向き、敵が覆いかぶさってきたら、腹でボールを抱え味方側にボールを置く。
タックルが派手でかっこいいのに対しセービングは地味で犠牲的精神を伴うプレーである。
山口良治は、自分でボールを蹴って、走って、倒れて、ボールを腹でコントロールし、すばやく立ち上がるという一連のプレーをやってみせた。
1人目の部員はボールに覆いかぶさろうとして腹をボールで強打した。
山口良治は、ボールを置いて静止した状態で飛び込む位置とタイミング、腹でボールを抱えてコントロールし立ち上がる方法を教えた。
やがて17時を過ぎた。
「よし、今日はカエル跳びで終わりだ。
行け!」
こちらのゴールから向こうのゴールまでの蛙跳びだったが、何人かはハーフラインまでで倒れ、スムーズにグラウンドを縦断できる生徒は少なかった。
整理体操をしながら山口良治は部員1人1人の顔をみた。
(これでやっていけるのだろうか)
自分の高校生の頃と比べて、部員たちのレベルはあまりに低かった。
高校総体が迫っていた。
(辞退したほうがいいかもしれない)
そうも思ったが最後には開き直った。
(逃げるわけにはいかない)

1975年5月10日、連休明けの土曜日、京都府高校総合体育大会が始まった。
伏見工の相手は、洛東高校だった。
1965年の近畿大会の京都予選で花園高校と引き分けたこともある。
しかしハードな練習をこなしてきた伏見工の部員は負ける気がしなかった。
実際、52対0で完勝した。
「イケるやないか」
5月17日、次の対戦相手は優勝候補の花園高校だった。
「忠実なタックル!
それだけを考えろ」
試合前、山口良治はいった。
(力量の差はいかんともしがたい。
しかし一寸の虫にも五分の魂だ。
タックルさえ決まれば点差はそう開くまい)
キックオフで花園高が蹴り上げたボールを伏見工の2人は譲り合ってポトリと落とした。
走りこんできた花園高は、それを拾ってさらに伏見工のバックスの裏へ蹴った。
「いかん」
山口良治が漏らした直後、そのままトライを奪われた。
試合開始早々のノーホイッスルトライだった。
直後、中央付近からのスクラムで押し勝った花園高校はサイドに展開し、無人の野を行くが如くノーマークトライ。
さらにその直後、タックルに入ろうとした伏見工の2人が味方同士で衝突しダウン。
観客席から笑いが起こった。
「全日本のコーチが泣くぞ」
「コラッ!お前らに山口良治はもったいない」
「知恩院さんでケンカする気でかからんかい」
野次にスタンドはドッと沸いた。
かつて伏見工の生徒が知恩院の裏で乱闘寸前になった事件があった。
前半が終わってスコアは、52対0だった。
(この差はなんだ?)
ハーフタイムに円陣を組む部員たちの前に行く山口良治の足は重かった。
「お前たち・・・」
後の言葉が続かなかった。
後半も前半と同様だった。
花園高校はスクラムからボールを出して、バックスに回して伏見工のディフェンスをスルスルと抜けてそのままトライ。
これを繰り返した。
伏見工はタックルもセービングもできなかった。
なにより相手の強さにあきらめてしまっていた。
そして完膚なきまでに叩き潰された。
最終スコアは112対0となった。
山口良治はくやしさで寒気がして鳥肌が立った。
メインスタンドにいるはずの花園高校ラグビー部監督:川勝主一郎を探した。
よくみえなかったが挨拶をした。
(川勝さん。
今日という日をよく与えてくれました。
肝に銘じます)
お前ら、くやしくないんか?勝ちたくないのか?

試合を終えた部員たちが山口良治の前に集まり整列した。
「オースッ」
(何がオースッじゃアホンダラ!)
山口良治は必死に怒りを抑えた。
「お前ら、ケガはどうや?
大丈夫か?」
誰も答えなかった。
誰もこちらをみなかった。
「お前らどんな気持ちや」
重ねて聞いた。
だが誰も答えなかった。
「なんかいうてみい。
くやしいのか、うれしいのか。
率直な気持ちをいわんかい。
ここ数ヶ月の結果が112対0や。
なんでこんな開きが出るんや。
相手は同じ高校生やぞ。
年も同じ、背丈も同じ、頭かてそんな変わるかい
それでなんでや」
山口良治は不貞腐れてごまかしている部員をにらみつけた。
「くやしくないんか?
お前ら男と違うんか」
このとき1人がグラウンドに膝をついた。
「くやしいです」
グランドの土を血がにじんだ指でつかんで泣き崩れた。
すると共に戦った14人の胸の中にも熱い感情が堰を切って流れ出し、それぞれがうめき声や嗚咽を漏らし始めた。
「お前ら、勝ちたくないのか」
「ウアー」
言葉にならない声が上がった。
全員が勝ちたいと叫んでいた。
「ホンマか。
ホンマに花園に勝ちたいのか?」
「勝ちたいです」
「勝つためにはどないしたらええんや」
「練習です」
「練習です?
よういうた。
花園に勝つにはせなあかんことが山ほどあるぞ。
1つ1つ自分のものにしていかなあかん」
「はいっ」
「今日という日を忘れるな。
いいか、敗戦の痛みは一生だが、拳骨の痛みは3日で消える。
歯を食いしばれ」
山口良治は全部員を殴り倒した。
「今やったら、問題になってしまうやろうな。
ひどい負け方をしたのに、どいつもこいつも平気な顔をしていた。
本当は負けるに決まっているしやりたくなかったかも知れん。
でも悔しさを知らない生徒に、自分がやってきたことを伝えてやりたい。
そういう使命感に燃えていた。
平気な顔をしていた生徒が『勝ちたい!』というてきた。
『じゃあ、勝つためにどうするんや』と聞いたら『先生の言うことを聞きます』と。
その時に覚悟を決めさせたんです」
この試合を、入学したばかりの蔦川譲(六甲アイランド高ラグビー部顧問)はベンチでみつめていた。
キックオフしてはトライを奪われる繰り返し。
伏見工のメンバーは、ただ立ち尽くしているだけで、汗もかいていなかった。
蔦川も目標を持てない生徒の1人だった。
だが試合後に「勝ちたいです!」と叫んだ先輩たちが次々と殴られるのをみて心の奥に何か小さな火がともった。
「先生が『殴られた痛みは3日で消える。
だがこの悔しさは一生忘れるな』
そういいながら殴っていたのは忘れられないです。僕自身、中学の頃から目的がなかった。
高校に行って何をすればいいのかわからなかった。
目標なく高校に入って、花園高校に勝ちたいという目標ができた。
目標を持つ人生を教えてくれた人、それが山口先生でした」
お前らは、やればできるんや

それから授業には出なくても、多くの部員が練習には顔を出すようになった。
練習時間になると1年生がマージャン荘まで先輩を呼びに行った。
ひたすら基本練習を繰り返す猛練習が始まった。
山口良治の持つミットに並んだ部員がタックルする練習が延々と続いた。
数が多くなればなるほど、その力は弱くなっていく。
「あと何本やろ」
長岡龍聡悟はつぶやいた。
「お前ら黙って練習できんのか」
「なんもいうてません。
先生の空耳や」
荒井重雄がいうと山口良治はその首根っこをつかんで地面に投げた。
「ネチネチ言いわけするな」
「それはペナルティです。
故意に投げたりタックル以外の・・・」
「うるさいぞ!
練習中に無駄口を叩くな!」
その剣幕に全員が黙り顔をそむけた。
「お前ら勝手に練習しろ」
山口良治はそういい捨てて走り出した。
「監督、謝ります。
僕らが悪かったです。
戻ってください」
「戻らん。
勝手にしろ」
「ようわかった。
監督は嘘つきや。
信は力なりやなんて大嘘じゃ。
オレもラグビーやめたらぁ」
部員の声を背に刺さったが、そのまま校門を出て稲荷山を駆け上がった。
そして山の中腹でうずくまった。
「私が鉄人とあだ名されるのはもっと後のことです。
未熟な生な人間。
そんな部分があまりに多く残っていて教師としては欠点だらけでした」
山口良治は不良たちと真剣に向き合った。
練習が終わっても、どこでまたケンカやバイクで暴走行為をするかわからないので、生徒の家を回った。
そして悪行を発見したら丸刈り頭にさせた。
「せっかくパンチパーマをあてても、次の日に坊主にさせられた先輩もおった。
まっすぐ家に帰らないと、いつ先生が来るかわからんから、寄り道もできんかった」
そうやって横道にそれないよう、目標を達成できるよう、導いていった。
部員たちは目の色を変えて練習をするようになった。
自分がそうしてもらったように、山口良治はよく自宅に生徒を招いた。
いつも朝早く家を出て帰りは遅い。
2人の娘がいたが
「寝顔しかみたことがなかった」
家にたくさんの部員を連れてこられる妻:憲子は困った。
「食べ盛りですからね。
やっぱりお肉がいるし、お米はいくらあっても足りなかった。
大勢でザワザワしていると寝ていた娘2人が起きてしまってね。
よくふすまの間からこちらをのぞいていました」
現在、六甲アイランド高(兵庫)でラグビー部顧問を務める蔦川譲も、練習試合で兵庫を訪れたとき、西宮北口駅前にあったトンカツ屋で腹いっぱい食べさせてもらった。
20人近いメンバーで決して安くはない代金を山口良治は自分の小遣いで払った。
蔦川譲は中京大に進み、2年生のとき大病を患った。
するとどこから聞いたのか、山口良治は病室に飛んできて
「大変やったな」
と涙を流した。
「高校の頃は怒られては走らされ、しばかれてはまた走らされた。
でも大学に行き4年になってようやくメンバーに入ると自分のことのように褒めてくれた。
今でも生徒と接していると、山口先生ならどうするやろうなと考えることがあります。
あの情熱と愛情を今の子供たちに伝えてやりたい」

稲荷駅の通りをはさんで真向かいに大鳥居があり、それをくぐり進んでいくと楼門があり、さらに進むと伏見稲荷の本殿があり、その右奥に千本鳥居があった。
千本鳥居は平坦な道だが、それを過ぎると階段が姿を現し、稲荷山の頂上まで120段、急勾配で部員を苦しめた。
しかし山登りによって部員の足腰は鍛えられた。
「技術は体で覚えるもの」
「口で教えてしまうと器用だがひ弱な選手になってしまう」
と考える山口良治は技術を口では教えなかった。
肉体をいじめ、酷使することで身につけさせた。
田井照二は、山口良治にロックとしてダッシュ力のなさと状況判断のまずさを連日指摘され怒られ、悩んだ。
「オレはいつも怒られている。
なんでやろ。
タックルにいっても内へ入るな、キックするな、ゲームを組み立てろと。
しまいにはお前はアホかやて。
返事をする気になれんでせんかったら、もっと素直になれといわれるし・・・
どうしたらいいのか」
山口良治は田井照二が悩んでいるのを知っていたが、とことん突き放した。
「悩めば悩むほど将来の成長に加速度がつく」
スポーツを志せば必ずぶつかる壁。
成長が止まってしまったような感じ。
何をやってもうまくいかない感じ。
常に心の中に焦りがあり、自信もロスしてしまう。
田井照二はついに教官室を訪ねた。
「食欲もなくなり夜も眠れません」
山口良治はいった。
「君が来るのを待っていた」
そして紅茶を出した。
「君はうまくなりたい、強くなりたい、そればっかり考えているんと違うか。
スポーツで上達したいものの基本はそれだ。
最初はそれでいい。
しかしいずれそれでは不足してくる
何が足りないかわかるか」
「わかりません」
「第1にスタミナ不足。、筋力不足、スピード不足を解消し、第2にラグビーをよく知ることだ。
第1の課題は、嫌かもしれんがランニングとタイヤ引き、ウエイトトレーニングを人一倍やることだ。
第2の課題は、経験を積むしかない。
これは絶えず試合を頭に描いて練習することだ。
君の努力は認める。
それが報いられることを祈ってる」
田井照二は何度もうなずいた。
目は濡れて輝いていた。
1975年5月17日に花園高に112対0で惨敗した伏見工は、同年、秋に全国大会京都府予選に出場した。
そして勝ち進み、11月22日、決勝戦で花園高とぶつかり、前半25対3、後半28対0で敗れた。
「なんでや」
部員達は悔しがり、また殴られることを覚悟した。
しかし山口良治はいった。
「春は112対0。
今日は53対3。
半年で失点半分。
わずか半年でここまできたんや。
お前ら立派や」
「負けてもですか」
「勝ち負けは結果や。
ここまでくる過程が大事なんや。
さあ胸を張れ。
頭を上げろ。
お前らは、やればできるんや」
その瞬間、部員の目の色は変わった。
「あの言葉で、みんなのやる気がでたんです」
山口良治が伏見工という荒野にまいた種は芽を出そうとしていた。
「京都一のワル」が、入学してきたのはそんなときだった。
京都一のワル 山本清吾

1976年の入学試験で、山口良治は初めて、中学時代、京都一のワルといわれた山本清吾をみた。
山本清吾は教室で周囲の受験生を睨みつけていた。
京都随一の繁華街「祇園」にあった弥栄中学では、178cmセンチ、90kgの体格でバイクを乗り回し、タバコと酒もしていた。
昼はマージャン、花札、パチンコに熱中し、勝ったら夜はスナックに繰り出し、15歳で両隣に大人の女性を座らせた。
「ちょうどその頃にカラオケが流行りだした。
大人顔負けの遊びをしとった。
老け顔やからいけたんですわ」
野球部ではファーストを守り、ホームランをカッ飛ばす不良少年だったが、野球推薦で受験した私学高校は不合格になった。
「落とされたっていうのは僕の中で負け。
負けることは嫌いやった」
担任に公立の進学校である堀川高を受ける意思を伝えると、翌日に学年主任、生徒指導部長ら4人が自宅に来て、
「性格検査したら君は工業に向いている」
と諭された。
「要するに『お前は受からへんから伏見工業受けえ』っていう話ですわ。
性格検査なんか受けた覚えないですから。
僕は高校に落ちた屈辱を晴らすだけやったから学校はどこでも良かった」
山口良治は思った。
「これはおもろいな」
入学式直後、仲間と歩いていた山本清吾は、体育教官室前で腕組みをした山口良治に止められた。
「清悟、ラグビー部に入れ!」
「ラグビー?
何やそれ。
入るわけないやろが!
ワシは野球をやるんや」
山本清吾は吐き捨てるように去った。
呼び捨てられたことに腹が立ったが、185㎝で筋肉質の山口良治の体から異様な空気を感じた。
「こいつは素手では勝てん」
中1のとき、タバコを教師に見つかったことがあった。
12歳の山本清吾は、こんな数学教師を1発で突き飛ばせると思った。
しかしその教師は自宅を訪問し父親の前で山本清吾を殴った。
「この先生、結構本物やな」
中学の教室のガラスを全部割ったときも、その教師姿をみると投げようと持ち上げていた机を置いた。
「やめろ、やめろっていいながら腰が引けてる教師っていますやんか。
その先生だけやったんですよ。
真剣にぶつかってきてくれる先生はね」
山口良治は、その唯一感謝していた教師と似ていた。
山本清吾は、入部届に「野球部」と書き入れ体育教官室に向かった。
一言、伝えておかねば・・・
「よお、先生。
声かけてくれたけれど、やっぱりワシ野球やるわ」
「いいに来てくれたんか。
まあ、ええから、ちょっと入れ」
教官室に入ると、山口良治はこびりついた泥を落としながらスパイクを差し出した。
「これをやる」
日本代表の頃から履いているスパイクだった。
「ラグビーはルールのあるケンカや。
ボール持ったら何をしてもええ。
蹴る、殴る以外は何したってええんや。
お前やったら1番になれるんちゃうんか」
翌日、山本清吾の姿はラグビー部にあった。
ニコチンやアルコールまみれの体で、ボールを回しながら100m走るランパスで、隣に20~30mも離された。
夜になれば仲間から誘いがあった。
「やっぱり遊びたかったし楽をしたかったんですわ」
そして問題を起こし警察に連れて行かれることもあった。
「先生、何しに来たんや」
警察署まで迎えに来た山口良治に悪態をついた。
何度も
「ワシ、(ラグビー部を)辞める」
といった。
すると翌朝、山口良治は6時に起きると7時には山本清吾の家を訪ねた。
「寝てますわ」
と父親がいうと上がって
「清悟!起きんかい」
と蹴り飛ばした。
そして支度をして2人で駅近くの喫茶店に入った。
いつも山口良治は2枚ずつ出されたトーストの1枚を山本清吾の皿へ移した。
こうして山本清吾はギリギリのところで辞めるのを踏みとどまった。
中学時代にワルで有名だった先輩たちが必死に楕円球を追いかける姿が不思議だった。

1976年6月5日、京都府高校総体の決勝で、花園高と対戦。
屈辱の112対0は1年前のことだった。
前夜から雨でグラウンドはドロドロだった。
通常の状態なら技術に勝るチームのほうが有利だが、泥濘(でいねい)戦では普段の走りこみと全員の前に出るんだという意識で勝負は決まる。
「いいか。
雨の日の試合は足を生かせない。
ボールを奪ったら手渡しの要領で全員が前へ出ろ」
「タックルは痛くないから思い切り入れ」
山口良治はアドバイスを与えてバックスタンドへ向かった。
試合が始まると泥しぶきを上げて激しい肉弾戦を展開された。
伏見工は空中戦でもタックルでもセービングでも負けず、前半を8対4でリードして終えた。
「ボールをしっかりコントロールして前へ出ろ」
後半も伏見工は互角以上に戦い、残り1分の時点で10対8。
しかし最後の最後で花園高のスタンドオフがボールを持って突進。
「倒せ!」
伏見工の1人がタックルに入り突進を止めた。
振り切ろうとする仲村に2人目のタックルが刺さった。
ここで笛が鳴りノーサイド。
トータル18対12で伏見工は花園高に勝った。
部員は泥んこのまま山口良治に飛びついた。
屈辱からわずか1年で112点差を埋め強豪校に肩を並べた。
山本清吾は、必死に戦う先輩たちの姿を雨でびしょびしょのスタンドからみて心を打たれた。
衝撃的だった。
赤のジャージーが茶色になっていた。
不良から改心した先輩たちが1年前に完敗した相手に何度もタックルを繰り返し、ノーサイドの笛が鳴ると泣きじゃくって勝利を喜んでいた。
山本清吾の目も自然と涙があふれた。
「そのとき、正直に『美しいな』って思ったんですわ。
ひたむきで格好良かったんです。
苦しくて泣いたことはあってもうれしくて泣いたことはなかった」

「打倒!花園高」を果たした伏見工だったが、21日後、1976年6月6月26日、第31回国体予選で、同志社高に64対4で大敗した。
山口良治は何が足りないのか反省した。
伏見工は自分のペースで戦えているうちは圧倒的な強さを発揮したが、タックルやミスで流れを敵にとられるとズタズタになった。
強いチームはミスも少なく、かつミスをして崩されてもすぐに修正し復元することができる。
伏見工は部員のやる気と練習量は格段に増えたが、集中力が切れたことによるミスも多かった。
(自分を尺度にして、部員に技術を身につけさせようと基本の走りこみや当たりをおろそかにしなかったか?)
何より部員同士が
「もっとええパス投げろ」
「お前がしっかりとれ」
とお互いに不平や文句をいい合っていた。
(プレーに信頼がない)
こういう問題は理論で説明したり殴ってわからせる類のものではなかった。
また一部の部員は、オートバイ、喫煙、ケンカなどを行っていた。
「技術より精神面の強化やな」
山口良治は、部員にラグビー日記をつけさせた。
そして毎日、30冊の日記をチェックした。
1行だけのもの、誤字脱字だらけで意味不明のものなどもあった。
飲酒やギャンブルをしたことを書いたものもあったが、山口良治は自分を信頼して書いてくれている部員を叱らなかった。
また
「走り負け、当たり負けせんことは当然やが、もう1つ意味のある練習をやる」
と早朝練習も始めた。
部員は夜遊びをやめ早く寝るようになった。
夏休みは9~12時、14~17時の2回練習が行われた。

夏は過酷だった。
山本清吾は、毎日、水を飲むことも許されず走らされ、ゼェゼェと肩を揺らした。
走り込みはケンカよりも辛かった。
ランパスのゴールで最後にボールを受け取り
「もう辞めたる」
と地面にボールをたたきつけたこともあった。
しかし
「清悟、ええぞ」
「清悟、頑張れ!」
周囲の言葉で厳しい練習を耐えた。
しかし次第に脚は速くなった。
「人間ってしんどくなると決意したことを忘れがちになる。
そんなときに仲間や先生が支えてくれたんですわ」
不良仲間の誘いはに断ることが多くなった。
「よし、昼飯にしよう」
愛知遠征のとき、マイクロバスで相手校に到着すると部員は一斉に弁当箱を開けたが、山本清吾は窓の外をみた。
昼飯はいつも100円で買う菓子パンだけだった。
「おい、清悟!
これを食え!」」
振り返ると山口良治がいた。
「ええから食え」
そういって遠ざかっていく大きな背中に渡された風呂敷包をほどくと大きなおにぎりが2つ入っていた。
まだ薄暗い早朝に山口良治の妻:憲子が
「食べ盛りだから主人よりも、とにかく大きいものを」
と握ったものだった。
山本清吾は父子家庭で育ち、父親は朝早くから仕事に出た。
おにぎりを口に押し込みながら周囲に悟られないように泣いた。
「この先生のためにラグビーを続けよう」
腹をくくった。
夏をを乗り越えると秋の全国大会予選が始まった。
山本清吾は、プロップでレギュラーになった。
1976年11月13日、京都予選の準決勝で伏見工は昨年、敗れた同志社高と対戦。
前半は肉弾戦となり伏見工優勢だったが、後半、同志社高は戦法を変更しハイパントを多用した。
伏見工は防御網を破られ39対15で負けた。
同志社高は花園高に負け、花園高は全国大会の決勝に進出し、東京代表の目黒高校に29対9で敗れた。
こうして山口良治が監督1年目が終わった。
「ラグビーをやる目的は勝つだけではありません。
負けたけど貴重なものを手に入れる、そんなことも大事です。
1年目の部員たちはそれらを体得してくれたと思います。
勝ちたい、勝とう、そこから努力が生まれます。
そんな集積が大事なんですね」
フーロー

1977年3月21日、近畿大会で前半終了間際、山本清吾が和歌山工の選手に突っかかった。
ハーフタイムに山口良治は厳しく注意した。
「向こうが仕かけてきよったんや。
黙ってられるかい」
後半、山本清吾は怒りをエネルギーにして大活躍し、チームは試合に勝った。
しかし後味の悪さが残った。
「こんな子がいてんのやけど面倒みてくれませんか?」
山口良治は同僚教師から1人の生徒を紹介された。
奥井浩は、小人症(ホルモンのバランスが崩れ成長が止まる病気)で、135cm、29kgと体が小さかった。
「ちょっと無理ですね」
「昼休みに呼び出してあります。
話だけでも・・・」
そして3者面談が行われた。
「なんでラグビーがやりたいの?」
「そら山口良治がいてるからや。
オールジャパンのフランカーやで。
それに比べたら同級の大八木淳史なんてまだヒヨコや。
格が違うわ」
「ラグビーくわしいねんな」
「そらそやん。
男らしいスポーツいうたらラグビーしかあらへん」
「じゃあ紹介するわ。
ここにいてはるのがその山口良治や」
「アッ!」
奥井浩は現役時代の写真しか本人と気がついていなかった。
そして
「しっ失礼します」
と廊下に逃げ出した。
この日の練習の初めに山口良治は奥井浩を紹介し部員の輪の中にいれた。
そしてイギリスのラグビー雑誌を取り出した。
「この表紙にフランス代表の名ハーフ:ジャック・フーロー(ジャック・フールー、フランス代表主将&代表監督)が載っている。
この人も小さかった。
よってその人にあやかって奥井君を「フーロー」と名づける」
フーローは稲荷山のランニングで泣きながらドン尻を走った。
するとノルマを終えた部員が引き返してきて、一緒に走ったり、場合によっては背負ってくれた。
そして部活の帰り道、彼らはいろいろなことを語り合った。
ある部員が生き別れた父親のことを話した。
「きっと会えるよ。
花園高を僕らの手でやっつけるとき、きっと君のお父さんは観にきてくれるよ」
フーローは小さな手でその部員の背中を叩いた。
1977年6月11日、高校総体の決勝戦で、伏見工は花園高と対戦。
前半、14対8。
後半、18対0。
完敗した。

初夏、山本清吾は次の日は練習が休みだったので、夜、久しぶりに遊びへ出かけた。
朝、家、電話が鳴った。
「お前、どこにおったんや」
山口良治が電話口で怒鳴った。
呼び出され、待ち合わせ場所に向かうと興奮した様子で告げられた。
「おい、高校日本代表の合宿に呼ばれたぞ」
高校日本代表には、1学年上に、後に日本代表で屋台骨となる林敏之、河瀬泰治らがいた。
そこに1年前まで「京都一のワル」と呼ばれケンカばかりしていた男が選ばれたのである。
「清悟、良かったな。
本当に良かったな。
でもな、お前はこれからジャパンという看板を背負っていくんやぞ。
看板を背負うとはどういうことかわかるか。
お前がジャパンの看板をはがそうとしてもはがされへんのやぞ」
不良の集まりと呼ばれた伏見工から、ラグビー高校日本代表が選ばれ、オーストラリア遠征に行くということは地元の新聞に取り上げられた。
小学校の担任は涙を流した。
「あの清悟ちゃんが記事になっとる。
しかも悪いことやない。
ええことで。
悪さしかしなかった、清悟ちゃんが」
1977年8月、夏休みに入ると伏見工はラグビーの聖地:菅平(長野県菅平高原)で合宿を行った。
5時半から練習は始まった。
この夏合宿の直後、京都大学病院で脳下垂体に腫瘍を取り除く手術を受けたフーローが亡くなった。
「たった5ヶ月の付き合いでした。
が彼は貴重なものを残していってくれました。
それは生きるという勇気です。
難病と闘う勇気を見せてくれたのです。
それと伏見工ラグビー部のジャージです。
彼がウェールズのマスコットジャージから、病床でデザインしてくれたものなんです」
1977年9月、秋の京都府大会が始まり、伏見工は敵をことごとく蹴散らした。
そして10月10日、決勝戦で花園高と対戦。
(知らなんだ!知らなんだ!)
オーストラリアでフーローの死を知らされなかった山本清吾は、猛然と攻めた。
そして伏見工は28対16で勝った。
しかし約1ヵ月後の1977年11月27日、全国大会の京都府予選の決勝戦で両校は再戦。
この大会を最後に勇退する花園高の川勝主一郎監督は、徹底的なディフェンスで伏見工の攻撃を止めて回り込んで攻める作戦を立てた。
伏見工フォワードはボールを奪取するべく全力で当たった。
高校ラグビー史上に残る好勝負は、30対18で伏見工が負けた。
「3年間の集大成。
そう思って全力でアタックしました。
しかし結果は負けです。
戦った実感として負けたという感じはしません。
泣く気も起きん敗戦でした」
平尾誠二

1977年10月10日、京都ラグビー祭で、陶化(現:凌風)中 vs 修学院中の試合が行われた。
そこで山口良治は衝撃を受けた。
「あのスペースを突いたらチャンスになるやろうな」
そう思いながらみていると、華奢な体つきの陶化中のSO(スタンドオフ)が、その通りにボールを動かした。
試合後、名前を聞くとバンビのような純粋な目で
「平尾誠二です」
と答えた。
試合後、山口良治は、数名の中学生を、学校名とポジションで呼んで起立させ、アドバイスを与えた。
ラグビー祭の後、山口良治にアドバイスを受けた中学生たちが自発的に伏見工の練習を見学に訪れた。
「君ら黙ってみとらんと一緒に走れよ。
ただし走るだけやぞ。
当たったり、タックルいったりはアカン」
そういわれ中学生たちは練習に入った。
しかし時間が経つと
「コラッしっかりタックルせんか」
「そこで当たるんだ」
と山口良治は熱くなってしまっていた。
平尾誠二は、花園高へ特待生で進学することが決まりかけていた。
山口良治は自宅を訪ねた。
「もし平尾が花園高に行ってしまえば、3年は勝てないやろうと思った。
チームはようやく力をつけてきていたが、まだ学校はワルの集まり。
親御さんは『あんな学校には行かせられない』と考えていたやろう。
親を説得するのは難しかった。
少しでも望みがあるのならと必死で本人を口説いた。
俺と一緒に花園を倒そう、日本一になろう。
必ず日本代表に育ててやると」
帰り際、両親に深々と頭を下げた。
「無理やろうな」
1978年4月、平尾誠二は伏見工に入学した。
平尾誠二はラグビー祭で山口良治に、試合状況を的確に判断すること、もっと走力をつけるようにいわれた。
「ズバッと急所でした。
人にいわれたくない僕の弱点で、僕自身よく知っているところなんです。
最初、クソッと思いました。
ところが聞いていくうちにもっと早く指摘してほしかったなあって思い始めたんです」
また修学院中の高崎利明も伏見工に入学した。
高崎利明は、オール京都(京都選抜)で平尾誠二とSH(スクラムハーフ)とSO(スタンドオフ)でコンビを組んでいた。
SH(スクラムハーフ)は、スクラムの近くにいてボールをさばく戦略家で、SO(スタンドオフ)は、スクラムから離れて立ちボールを受け取り、どこへ走るか、どこへパスするか、どこへ蹴るか、攻撃を選択する司令塔である。
「母親の実家が学校から近い伏見稲荷にあったので荒れているのは知っていた。
親には大学に行かせたいから普通科に行けといわれていたけど建築の勉強がしたいと説得しました。
僕らが入ったときには土台ができつつあった。
1年ごとに確実に成長していていい時期だった」
大八木淳史

6月、高校総体の京都予選で伏見工は準決勝で負け3位になった。
山口良治の怒号が飛び、練習は地獄と化した。
ハードな練習にケガ人が続出したが、山口良治は
「ケガに強くなれ!」
とハッパをかけた。
「人間ラグビー」を目指す山口良治は、スタンドプレーが目立つ選手は容赦なく外した。
あるフォワードは、柔軟な肉体と根性があり、我武者羅に縦横無尽にボール奪取に走り、好感が持てた。
しかし強引さが目立つようになると2軍に落とされた。
「要はそのときのベストを組むこと
ベストとはその陣容が部員間で信頼されるかどうかや」
そのフォワードは悩み続けた。
数ヶ月後、練習で1軍の選手が倒れたため、水がかけられ、日陰に寝かされた。
そのフォワードは水を持っていった。
「お前は我武者羅にボールを奪るだけではアカン。
奪ったらその後が大事や。
生卵を渡すように俺にくれ。
これは俺の勝手な願いかな」
そのフォワードは顔色を変えた。
そして翌日の2軍の紅白戦で荒々しいボール奪取ときれいな球出し、そして確実なフォローで他のフォワードを圧倒した。
「明日、1本目(1軍)でいってもらうで」
数日後、山口良治にいわれたときは涙を流した。
1年生の平尾誠二は、初めて殴られた後、1週間ほど練習を休んだ。
山口良治先生は、ここぞというタイミングで、あえて厳しく指導する。
それを乗り越えたとき、ある程度、生徒が成長するのを知っているからである。
すでに中学時代に指摘された弱点をクリアし、その走りは強くしなやかで走路も理にかなっていた。
2年生の大八木淳史は、大工の父親に憧れ建築科に入ったが、入学した日に山口良治にスカウトされラグビー部入り。
中学ですでに180cmを超えていた巨体と身体能力、そしてメンタルタフネスで、スクラムでは「壁」と呼ばれ、ボールを持てば、キックやパスはほとんどせず、基本的に突進し、ハンドオフ(相手選手を突き飛ばす)で敵をなぎ倒していった。
ある練習試合で、伏見工のスクラムが急に押せなくなった。
犯人は大八木だった。
山本清吾ら3年生に理由を聞かれ答えた。
「休んでまんねん。
僕が休むことでほかの奴らを鍛えてますねん」

1978年11月19日秋、全国大会の京都府予選決勝。
伏見工 vs 花園高。
1年前は18対30で負けたが、3年生に山本清吾、2年生に大八木淳史、1年生に平尾誠二を擁する伏見工は、力でも機動でも、そして闘志でも上回っていた。
しかし花園高は巧く試合の流れを掌握し、4対3でリードして前半を折り返した。
それでも伏見工は勝てると思っていた。
「負けるわけがない。
それが間違っているとは今でも思えない。
敗因は痛恨のミスが出たからです」
後半、花園高がボールを落とし、ノックオンかと思われた。
が、笛は鳴らず、一瞬動きが止まった伏見工ディフェンスを花園高は容赦なく攻めてトライ。
結局、12対6で伏見工は負けた。
「判定は厳正です。
怒鳴りつけたいようなレフリーでも笛は厳正です。
そりゃ・・・・・
表彰式で準優勝の記念トロフィーが全員に贈られた。
試合会場から阪急西京極駅までの帰り道、天神川にかかる橋で平尾誠二は手に持っていたトロフィーを投げ捨てた。
以後、平尾誠二は、学校から帰宅して夕食をすませると、近所の公園でキック練習をこなし、夜道を走るのを日課にした。
山口良治が練習を終え、学校の業務を済ませて、帰路につくと阪急桂駅までの電車の中から走り込みをする平尾誠二の姿をみることがあった。
「平尾の家の近くになると、よう1人で走っているのをみた。
厳しい練習をさせていたが家に帰ってからもまだやっていた。
『おっ、また平尾がやっとる』
そう思いながら、彼を見つけるのが楽しみやった」
山本清吾は、3年生時にも高校日本代表に選ばれ、イングランド遠征に行ったが、最後の最後で花園高には勝てなかった。
伏見工でのラグビー生活が終わり、山口良治にいわれた。
「お前は悪いヤツの気持ちがわかる。
そういうヤツを救ってやれ。
教師を目指すんやぞ」
山本清吾は、山口良治の母校:日体大へ進んだ。
Enjoy Rugby!

1979年、山口良治はスティーブン・ジョンソンという神戸の商社に勤めるイギリス人から神戸の外国人クラブで一緒にプレーしないかと誘われた。
スティーブン・ジョンソンは元ウェールズで高校教師をしていたが、もっと自分の可能性にチャレンジするために来日していた。
(教師には可能性がないというのか)
山口良治は相手にしなかった。
しかしスティーブン・ジョンソンは熱心に誘った。
「良治、君のラグビーはバトル(戦争)だ。
我々のラグビーはエンジョイ(楽しみ)だ。
君のラグビーは30歳を過ぎたら続けられない。
我々は70歳でも80歳でもプレーを楽しみたい」
この一言に、久しぶりにラグビーをプレーしたいという気持ちがこみ上げ掻き立てた。
「よし、いっちょやってみるか」
翌週の日曜日、伏見工の練習を終えると急いで神戸に向かった。
そしてフランカーに入って、10分ハーフを4回戦った。
疲れて口もきけなかったが、それはこれまで経験したことのないラグビーだった。
「エンジィラグビーか。
これは大きな命題やな」
それから土日は、山口良治は神戸に、スティーブン・ジョンソンに通うようになった。
スティーブン・ジョンソンは伏見工の練習に入った。
そして選手の欠点や弱点は指摘せず、適正なパスの位置と走るコースを教えた。
またハードなだけでなく、もっと楽しい練習をやるようにいった。
「まずかったか・・・」
山口良治は不安になった。
1979年2月24日、近畿大会予選決勝で伏見工は西京商を80対0で一蹴した。
この日、スティーブン・ジョンソンは、1973年に山口良治がウェールズに遠征したとき、オールジャパンとの試合に出られなかったことを告白した。
「君のプレーはすばらしかった。
不調だと聞いていたが観戦している僕らに君のファイティングスピリッツは十分伝わった。
1度、日本にいって君に会いたい、君と戦いたい、そう思っていた。
それも果たせた」
伏見工の練習は、楽しむラグビーに変わっていった。
それまではいかにハードで苦しい練習をたくさん行うかだったが、17時半には練習を終わるようになった。
最初、不安だった山口良治も、その指導法が効果的だとわかると、その秘密を探り始めた。
そしてわかった。
例えば、弓は弦を張りっ放しにしているとイザというときに使えない。
普段、弦は外しておいて使う前にかける。
選手も長時間、緊張を強いられると、精神も肉体も弾力を失ってしまう。
うまく緊張と弛緩をうまく使うことで最大の力が発揮できる。
それまでの山口良治の指導や伏見工の練習は、どれだけハードな練習をどれだけこなせるかというもので、緊張が強すぎたのかも知れない。
しかし山口良治に優しく指導振するのは無理だった。
「その分はスティーブンに任せよう」
こうして不安は消えた。
スティーブン・ジョンソンの楽しいラグビーを教え、山口良治は、各部員の欠点を指摘し、そして部員同士の信頼を訴えた。
1979年6月9日、伏見工は高校総体予選の決勝で花園高と対戦し、60対4で圧勝した。
山口良治は4点の失点について
「精神的な甘さ」
と叱責した。
よお泣くオッサンやなって思っていたんですわ

日体大ラグビー部に入った山本清吾は、理不尽な上下関係や想像を超えたしごきを受けた。
そしてラグビーが楽しくなくなった。
腰痛が悪化し、満足に走れなくなり、精神的にも追いつめられ、過酷な練習に耐えられなくなった。
大学1年生の夏、意を決し長野県菅平高原での合宿を抜け出し京都の自宅に戻った。
「清悟が逃げた」
それは同じ菅平で合宿中だった伏見工にも伝わった。
京都の山本清吾の家の電話が鳴った。
「俺や。
今から帰るからそこにいろ。
ええな」
山口良治だった。
「絶対にボコボコに殴られると思っていた。
むしろ殴られてボコボコにされて全部ゼロにしたかった。
それで先生との縁を切る。
京都にはおられへんくなるから、どっかよそに行こうと思っていた」
久しぶりに山口良治と向かい合った。
殴られる覚悟で頬に力を入れて恩師の顔をみた。
「清悟、1年の愛知遠征を覚えてないんか。
あのとき、俺はお前にバスの中でにぎり飯を渡したよな。
あれをもう忘れたんか」
殴られることはなかった。
山本清吾は声を出して泣いた。
「先生、俺、もう1回、頑張ってくるわ」
家に放り投げたバッグを持ってすぐに駅へ向かった。
「あいつからラグビーを取ったらどうなってしまうんや?
またチンピラに戻るだけや。
荒んだ生活に戻るだけや。
そんなことは絶対にさせたくなかった」
後に山本清悟は、奈良朱雀高の教師となりラグビー部の監督となった。
「よお泣くオッサンやなって思っていたんですわ。
僕らは、男は人前で泣くもんやないって教わったときにね。
いつもまた泣いてる、なんで泣いてんねんって思っていたわけよ。
でも指導する立場になってわかりますわ。
涙ってええなって。
涙を流せる人間にならなあかんなって。
当時は思いませんでしたけどね。
涙を流さんやつはあかん。
感情のあらわれですもん。
今の子は感性が緩いっていうか、そういうところが時代なんですかね。
感じる心。
それって大事ですわ」
花園高を破り全国大会初出場

1979年10月22日、全国高校ラグビー大会京都予選が開始。
伏見工は、立命、絡東、西京、絡水、東山、大谷に勝ち、11月25日の決勝戦に進出。
相手は、花園高。
両校が花園ラグビー場への出場権を賭けて戦うのは5度目だが、すべての対決で花園高が勝ち、京都代表となり全国大会に出場していた。
山口良治は試合前、円陣の中でいった。
「目を閉じて聞いてくれ。
そして隣同士、手を握ってくれ。
今日まで本当にご苦労さんだった。
先生の小言をよく聞いて我慢してくれた。
今お前たちが握っている手は誰の手かわからんはずだ。
しかしそれは伏見工のフィフティーンの手だ。
まかり間違っても花園高校とは違う。
目を閉じても俺たちはつながっている。
そう思って横や後ろにいる味方を信じて欲しい。
今日1日のために1年があった。
悔いを残すな。
結果の責任は全部、俺にある。
いいか!
後ろに退くな。
一歩でも早くボールに追いつけ。
前へ出ろ。
それだけや」
花園高のキックオフで試合開始。
ファーストスクラムは伏見工が押し勝った。
1年前、天神川に準優勝のトロフィーを投げ捨てた平尾誠二はキックすると見せかけ、走った。
スクラムでも展開力でも伏見工が勝り、連続攻撃で押しまくり、花園高は自陣に釘づけになった。
前半が終わりハーフタイムで山口良治はいった。
「フォワードはおしてみてどうや。
軽く感じるならトコトン押して敵にラグビーをさせるな。
バックスは当たってみてどうや。
弱く感じるなら早めに勝負しろ。
「敵に1つもトライさせてはならん」
後半も伏見工は攻めまくった。
「山田、一歩早く!」
「平尾、迷うな!」
「点差を確かめるな。
奪るだけ奪れ」
「容赦するな。
叩きのめすのが礼儀や」
「突け」
「飛び込め」
「タックルで潰せ」
「キックで相手陣を突き刺せ」
「気を抜くな」
山口良治の口からは呪文のように独り言が漏れ出て、体は小刻みに震えていた。
目は真っ赤で、今にも血が滴り落ちそうだった。
点差が開き、伏見工の勝利は間違いなかった。
伏見工のロングキックがタッチを割らず、花園高がボールを確保しカウンター攻撃を開始した。
「せめて1トライ!」
凄まじい形相で意地とプライドを賭けた突進だった。
「潰せ!」
山口良治は叫んだ。
そしてボールを持った花園高の選手は崩れ落ち、ボールは中央ライン付近を転々と転がった。
長い笛が鳴り、試合が終わった。
55対0。
「勝った!!」
「やった!!」
伏見工は喜びを爆発させた。
女子マネージャは泣いていた。
山口良治の胸の中で熱いものが何度もこみ上げどうしようもなかった。
ここまで5年間かかった。

全国大会直前、4人の部員が路上で暴れ、交通標識を壊すなどして、近隣住民の通報で警察に補導された。
ようやくつかんだ初花園の舞台。
警察沙汰になったことが学校や大会主催者に知れ渡れば出場辞退になりかねない。
山口良治は、間違った判断とわかっていたが、あえて学校には報告しなかった。
警察署から引き取った後、部員を家に届けた。
そして親の目の前で何度も子供を殴った。
「軽はずみな行動が、どれほどチームに迷惑をかけるか。
強くなればなるほど、それをわからせないといけなかった」
1979年12月30日から始まった全国高校ラグビー大会に伏見工は京都代表として出場し、初めて花園ラグビー場の芝を踏んだ。
そして初戦は新潟工に40対0、2回戦は石巻高に42対3で勝ったが、1980年1月3日、3回戦で前回優勝した国学院久我山高に26対4で負けた。
敗戦後のロッカールームで、3年生の大八木淳史には満足感があったが、2年生の平尾誠二はくやしさに体を震わせた。
「念願の全国大会でした。
臆することなく戦う。
それだけでした。
初出場でベスト8は立派という人もいましたがも、敗戦の悔しさで私のはらわたは煮えくり返っていました」
山口良治の表情は硬く不機嫌だった。
こうして新しい、もっと大きな戦いが始まった。
目指すは全国制覇だった。
目指すは全国制覇

1980年3月20日、平尾誠二が新主将となった伏見工は、近畿大会の決勝で大阪工大高と対戦。
トライを2本奪ったが、1トライ、2ペナルティーゴールを奪われ10対8で敗れた。
試合後、山口良治は平尾誠二を殴った。
「カッとなったのか、平尾が相手フォワード陣の中に突っ込んでいった。
細身の彼には『相手に絶対捕まったらあかん』って教えていたのに。
いくらキックがうまい、パスがうまいといっても、相手に狙われて捕まって足でも踏まれてけがしたらプレーできなくなる。
鬼ごっこのように相手のいないスペースに走れといっていたのに」
小柄な選手が体の大きな相手選手に捨て身で突っ込んでいく行為は気迫のあるプレーかもしれないが、このとき山口良治は
「合理的ではない」
と叱った。
伏見工ラグビーの練習は、量から質へ、根性ラグビーからエンジョイラグビーになっていた。
しかし卒業したOBが練習に参加する合宿は別だった。
彼らは鉄拳制裁を含めて、徹底的に鍛えられた。
だから後輩が楽しげに練習していると不満だった。
「歯をみせるな!」
としぼられると現役部員の顔は苦悶に歪んだ。
こうしてスクラムで絶対に押されないフォワード、パワフルでスピーディーなバックス、そしてフォワードとバックスの中間にポジションをとって指揮する平尾誠二という強力なチームがつくられた。
平尾誠二は試合での状況判断だけでなく、部員をポジティブにコントロールする術にも長けていた。
戦況に応じて各自に責任分担を素早く指示。
そして
「ここはお前に任せる。
頼むぞ」
とすべてを預け
「失敗したら責任は俺がとる。
思い切っていけ」
という。
これで奮起しない部員はいない。
部員も平尾1人だけにやらせてはいけないと思い頑張った。
あるとき京都市東山区の浄土宗総本山知恩院で座禅を組んだ。
「目に見えない力とはなんぞや」
講堂で伏見工ラグビー部員全員が目をつぶり、座禅を組んで、目の前の木魚をたたいた。
「しっかり合わせなさい!」
当初は隣と話す部員もいて一向に終わる気配はなかった。
足がしびれ、苦しくなってきて無心でたたき続けると、気づけば
「ポン、ポン、ポン」
と一定のリズムが刻まれた。
「これや」
無の境地に達したとき、心は1つになることを知った。

山口良治は、強くなってくると必ず出てくる慢心や自惚れなど気の緩みを恐れた。
2学期の中間テストで、1年生部員にカンニング疑惑事件が起き、その部員は下敷きに数字を書き残したまま試験を受けてしまったと泣いて潔白を訴えた。
「この問題は彼1人のものと考えたくない。
みんなで話し合ってくれ」
翌日、グラウンドに行くと全部員が丸坊主になっていた。
「古いことしやがって」
そういいながら山口良治は自分自身にも気の緩みがあったと反省した。
翌日から誰よりも早く出勤し、誰よりも遅く帰った。
一方で部員には
「いかに伏見のラグビーをするかだ」
と自チームのストロングポイントであるフォワードで勝負できるかどうかがテーマであることを伝えた。
そして練習試合で大阪の大工大高、東京の目黒高、久我山高、東北の秋田工、黒沢尻工を破った。
1980年10月17日、栃木国体の決勝で大工大高と対戦。
「大工大高フィフティーン1人1人の能力と我々を比較すると数段彼らのほうが優れています。
体力、パワー、テクニック、スピード、どれをとっても上です。
こんな相手に個々の力で向かっていっても勝てるわけがない。
ではどうするか?
1対1で負けている部分を手の空いている味方が助けにいく。
そうすれば力は対等になり数で勝てます」
平尾誠二は、ミーティングで各自、何をなすべきかを徹底させた。
前半は両チームとも硬く、0対0で折り返した。
後半、伏見工は2トライ、1ゴールで10対0。
大工大高も1トライを返したが、残り時間はわずかだった。
パスを受けた平尾誠二がボールを蹴り出せばノーサイド、かと思われたが、なぜかボールはラインの外に出ず大工大高の中央へ。
攻撃を展開してくる大工大高に焦った伏見工はオフサイドの反則。
そしてゴール真下にトライされた。
こうして主将:平尾誠二の痛恨のミスで同点で両校優勝となった。
単独優勝を逃した伏見工はまるで敗北者のようだった。
「貴重な教訓?
とんでもない!
目の玉の水分が枯れて目が潰れるほど泣きました」
(平尾誠二)
京都に帰ると部室の壁に紙に書いて張ってあった目標は
「全国大会へ」
から
「1月7日決着!」
と変えられた。
山口良治は伏見工ラグビー部OBたちと食事を行った。
そして
「先生、来年の5月、東京に行くんですが一緒に行きませんか?」
と誘われたが笑顔で断った。
「ありがとう。
でも5月はオーストラリアに行っとる」
1月7日の全国大会に優勝すれば、優勝監督は高校日本代表チームのオーストラリア遠征の監督に任命されることになっていた。
第60回全国高校ラグビー選手権大会決勝戦、伏見工業高 vs 大阪工業大学高校

1980年11月、第60回全国高校ラグビー大会の予選が始まった。
伏見工は、立命館高を120対0、絡東高を128対0、絡南高を68対0、そして決勝で花園高を44対4で破り全国大会進出を決めた。
大阪工大高も、1、2回戦不戦勝、豊島高に162対0、守口北高に112対0、布施工に98対0、牧野高に53対3で同じく全国大会へ進んだ。
1980年12月27日、第60回全国高校ラグビー大会が開始。
伏見工は、
長崎南 62対0(12月30日)
西稜商 51対0(1月1日)
秋田工 16対10(1月3日、準々決勝)
黒沢尻工 28対10(1月5日、準決勝)
と勝ち進んだ。
秋田工では自慢のフォワード戦で負け、スクラムトライを奪われた。
フォワード1列目の3名はショックで部屋に引きこもり泣いた。
「ええやないか。
その悔しさを次にぶつけたら」
平尾誠二にいわれ、やっと食事に箸をつけた。
大工大高も
佐賀工 39対14(12月30日)
熊谷工 60対0(1月1日)
関商工 36対0(1月3日、準々決勝)
大分舞鶴 37対0(1月5日、準決勝)
と勝ち上がった。
初戦の佐賀工戦当日、大工大高が泊まっていたホテルのエレベーターが止まった。
定員オーバーのベルが鳴り、係員が走った。
すると今度は警報ベルが鳴った。
エレベーターのドアを内側から押し開けたというアラームだった。
係員が到着し客を誘導すると、エレベーターの中から出てきたのは全員、大工大高ラグビー部員だった。
彼らは定員オーバーで乗った挙句、警報が鳴ったのでドアを強引に開けた。
荒川博司監督の鉄拳が、レギュラーのみならず全部員にも等しく飛んだ。
「思い上がるな。
ホテルはお前らだけのものではない」
荒川博司は天理大学出身で、無名だった大阪工業大学高等学校ラグビー部を全国強豪チームへと育て上げた。
この日、父親を亡くなったが、戦列を離れることはなかった。
大工大高ラグビー部主将:広瀬良治はいった。
「勝つしか監督は親孝行でけへん。
葬い合戦や」

1981年1月6日、19時半、伏見工ラグビー部は旅館でミーティングを行っていた。
「決着つけたる」
「明日はやったる」
昨年の同日、準々決勝で国学院久我山高に敗れた。
1年が過ぎ、伏見工は国体で優勝した。
しかしそれは大工大高との同点優勝だった。
かつて山口良治は大西鉄之助にいわれた。
「諸君こそ、歴史の創造者たれ」
そして今、平尾誠二はこうミーティングを締めくくった。
「さあ、新しい伏見工の歴史を創造するんや」
1981年1月7日、第60回全国高校ラグビー選手権大会決勝戦、伏見工業高 vs 大阪工業大学高校。
伏見工は、前年の59回大会で初出場し、2年連続全国大会出場。
大工大高は、3年連続、9回目の全国大会出場。
試合前、両チームの監督はコメントを求めれれた。
「やっと土俵に上った。
決着をつけるときがきました。
大工大高にはほんとうに貴重なものを教えてもらいました。
近畿大会で負け、国体では引き分け、それも最後の5分で追いつかれた。
勝負は最後の最後までわからんのだいうことを教えてもらった。
今日こそケリをつけます」
(山口良治監督)
「どちらのラグビーをするかで決まるでしょう。
負けないと思います」
(荒川博司監督)
実際、大工大は伏見工に公式戦で1度も負けたことがなかった。
平尾誠二は左大腿にテーピングを巻いていた。
平尾誠二を潰さなければ勝ち目がない敵チームはタックルの集中砲火を浴びせた。
鋭く叩き潰してくるようなタックルを受けて平尾誠二はグラウンドを転げ回った。
そして準々決勝の秋田工戦で左大腿の筋を断裂。
普通なら立つことすらままならない重傷だった。
宿舎に戻って筋肉が固まらないように風呂にぬるま湯を張り足を浸けマッサージし続けた。
2日後の準決勝、山口良治は平尾誠二を外さなかった。

「さあ、手をつなごう」
試合5分前、山口良治はいった。
「ええか、こんな1時間はまたとないぞ。
思い切りラグビーを楽しんでこい。
力いっぱい、お前らのラグビーをやってこい。
頼むぞ!」
「オオッ!」
16人の手が力強く握り合わされた。
笛が鳴り、30人の選手が各々のポジションに散った。
大阪工大高のキックオフは右45度、10m付近に飛んだ。
「とるな」
平尾誠二の指示で伏見工はボールを見送った。
ボールはタッチラインを割り、伏見工得意のスクラムになった。
鎖骨を痛めている高崎利明はボールを持つと中央線まで全力疾走した。
平尾誠二は、その後を走りながら腫れた左大腿をみた。
(最後まで持ってくれよ)
前夜、山口良治には
「痛いやろう。
これだけ腫れているんやからな。
でも俺はお前と心中するつもりや。
もう何もせんでもいい。
立っているだけでもいいから、このチームを勝たせてくれ」
といわれていた。
ファーストスクラムからボールが高崎利明に出た。
平尾誠二はトップスピードで走りながらパスを受け右サイドをついた。
迫ってくる大阪工大高ディフェンスをギリギリまで引きつけパス。
ボールは味方に渡り攻撃を続行したが、大阪工大高のタックルでタッチを押し出された。
ラインアウトのボールを大阪工大高がノックオン。
伏見工ボールのスクラムに変わった。
大阪工大高側のスクラムが潰れ折り重なって倒れた。
伏見工フランカーが飛び出し、ボールをかき出し、高崎利明にパス。
高崎利明は左へ走った。
そして平尾誠二にパスを出そうと思ったが、大阪工大高フォワードが潰れたスクラムが立ち直っていないのをみると、右へ転回。
170cm60kgの小さな体で豪快に突進し、防御をかいくぐり
「ポンッ」
とパントキックを上げた。
インゴールに入ったボールを大阪工大高がかろうじて処理した。
この試合、スクラムでは終始、伏見工が優位にたったため、続くオープン攻撃が次々に展開された。
前半3分、大阪工大高のキックしたボールを奪ろうとした2選手が空中で衝突。
伏見工選手の顔面に大工大高の選手の頭部が当たった。
伏見工の小島信二は倒れたまま、プレーは続行。
14人の伏見工は左に展開し積極的に攻めた。
大工大高のディフェンスをかわし、キックを上げ、ゴールライン手前2mにボールが落ちてバウンドしインゴールへ入った。
伏見工はトライのチャンスだったが大工大高に押さえられた。
瞼を腫らした小島信二が復帰。
レフリーはキャリーバックを命じ、大工大高陣ゴールライン5m手前でスクラムが組まれた。
伏見工フォワードが押し、ボールが出て、高崎利明が平尾誠二にパス。
平尾誠二は敵を引きつけながら、フォローに来た森脇嗣治にパス。
森脇嗣治は右をつくとみせかけ、中央に切り込み、2次攻撃の起点となるためセービング。
森脇嗣治を殺さないためにフォワードがフォロー。
「まわせ」
フランカー西口聡がボールをもぎ奪って突っ込んだ。
大工大高主将、そして高校日本代表の広瀬良治が、その突進を受け止めた。
攻撃権はまだ伏見工にあった。
ゴールラインはすぐそこだった。
「ピーッ」
笛が鳴り、大工大高がオフサイドの反則。
「狙え」
平尾誠二の指示で細田元一が16mのゴールキックを決め、伏見工は3対0とリードした。
(この3点は試合を左右する貴重なものだ。
これで波に乗るんだ。
この試合は両軍の合計点が20点以下で終わる。
どちらかが11点をとればそれで勝ちだ)
山口良治は指を噛んだ。
前半20分、伏見工陣内、伏見工ボールのスクラム。
高崎利明が入れたボールは、再び高崎利明に出て、そして平尾誠二へ。
平尾誠二は数歩前進した後、左へ大きくパス。
パスを受けた栗林彰は、スピーディーにライン際を走ったが、広瀬良治のタックルを受けて地面に落ちた。
そして癖になっている右肩が抜けた。
試合が止まりドクターが入った。
そして肩を入れてもらい立ち上がった。
栗林彰は、成績はトップで伏見工に入学し、
「山口良治はここにしかおれへん」
とラグビー部に入部。
「ラグビーやって成績下がったなんて許さん。
今の成績を3年間成績を通してくれ」
と山口良治と約束し、元陸上部の俊足で活躍した。
肩がこわくてラグビーをやめようと思ったこともあったが、チームメイトに
「アホか、お前は。
ラグビーやって首席で卒業するのがお前の務めやないか」
といわれホロッと涙が出た。
この3年間で一心に情熱を注げば必ず報いられるということを学んだ。
そして同時に二兎を追えないことも・・・
栗林彰は、この日、1月7日限りでラグビーを辞めることを決めていた。
次の人生の目標は、国立大学の工学部に進みエンジニアになることだった。
前半終了間際、
大阪工大高は、伏見工陣内22mでのスクラムから左にオープン。
伏見工ディフェンスがタックルで止めたが、まだ大阪工大ボール。
両フォワードが突っ込んだところで笛が鳴った。
「オーバー・ザ・トップ」
伏見工のフォワードが倒れこんだという反則だった。
十分、狙える距離だったが角度があったせいか大工大高のキックはゴールに届かず、伏見工は押さえ込んで、5mキャリーバックした位置でスクラムとなった。
「サイドを衝くか、インゴールにキックを上げるかでしょう」
テレビ解説者は予想したが、大阪工大高はスクラムから出たボールを直接蹴ってドロップゴールを狙った。
「あっ」
伏見工の意表をついたボールは、しかし右に外れた。
大工大高の攻撃が続き、スクラムから左へボールを展開させたが、パスを受けた選手がボールを前に落としてしまい、伏見工ボールのスクラムになった。
伏見工はスクラムからボールが高崎利明に出て、平尾誠二へ。
平尾誠二は大きくキックしようとしたが、大工大高が、そのボールをチャージ。
ボールはゴールライン上に転がり、両チームがボールに走ったが、伏見工が奪取し蹴り出した。
そして前半が終了した。
山口良治はベンチに帰ってきた選手に指示を出そうとした。
「よし!フォワードは早い・・・」
「はい、わかってます」
平尾誠二が途中で答えた。
山口良治が「早い集散」と指示するのがわかった。
「バックスはここ一発のチャンスを・・・」
「わかってまーす」
全員が答えた。
山口良治はいうべきことを持たず、確かな手応えを感じた。
一方、大工高ベンチは、荒川博司が選手に活を入れた。
「お前たちが負けるわけないだろう。
練習を思い出せ。
やれる。
絶対勝てる」
選手は後半、何をするべきか確認し合った。
「よし、前に出るぞ」
後半が始まった。
風上に立った大工大高はハイパントを多用した。
対する伏見工は強気で攻めた。
「積極的に自分の強いところで勝負する」
どんな状況でも守備に重きを置くラグビーは目指すものではなかった。
大工大高の蹴ったボールをキャッチした伏見工選手が前進したところで笛が鳴った。
タックルに向かう大工大高選手を伏見工選手が邪魔をしたと判断され、オブストラクション(ボールを持っていない相手プレーヤーの動きを妨害する反則)となった。
そして大工大高のキッカーはPK(ペナルティーキック)を決め、3対3となった。
後半17分、左サイドに転がったボールを栗林彰が押さえた。
そしてボールを出そうとしたが、また肩が脱けて動けなくなった。
笛が鳴った。
ノットリリースザボールの反則をとられた。
(ボールを持った選手が倒れてしまったにもかかわらずボールを放さずに持ち続ける反則。
ラグビーは基本的に立っていない選手はプレーしてはいけない。
ボールを持った選手は、倒されたら速やかにボールを放さなくてはいけない)
栗林彰は足を広げて座っていたが、チームメイトが駆け寄ってくると大の字に寝て右腕を預けた。
そして肩が入ると立ち上がった。
この中断の間、山口良治はチームに気合を入れた。
「おい、ここだぞ。
強気で攻めろよ。
勝負は振り出しに戻ったんや。
今、強気で攻めるしかない。
負けてはならん」
「大工大高はお前らには負けないという過信が出てきてる。
その証拠に個々が当たりに出てきただろう。
意地が空回りすると攻撃の歯車が狂う。
強気で攻めろ。
強気で守れ。
各員の意思を統一しろ。
何をするべきかハッキリ自覚しろ」
試合が再開され、大工大高はPK(ペナルティキック)を伏見工陣内に深く蹴りこんだ。
ボールはタッチラインを割らず、再びラインアウト。
投げ込まれたボールは大工大高側に落ち、ノックオン。
大工大高ボールのスクラムになったが、伏見工の強気の守りの前にパスが流れ、ボールはタッチラインを割った。
平尾誠二が自陣30mからキック。
大工大高はこれをチャージし、フォワードが突っ込んでラックを形成した。
「強く当たれ!」
荒川博司が叫んだ。
そして笛が鳴った。
「8番、オフサイド」
伏見工の反則。
残り時間は、ロスタイムを入れて数分だった。
(よし、勝った!)
荒川博司は思ったが、大工大高のPK(ペナルティキック)は飛距離が足りなかった。
終了1分前の劇的トライ
3対3のまま試合は進み、残り時間1分、両校優勝かと思われた。
伏見工のラインアウトでジャンプして捕られたボールは高崎利明へ。
高崎利明は腰を捻って平尾誠二へパス。
平尾誠二は右斜め前にへ走り、自分の右斜め後方を走ってきた味方へパス。
こうして追走してくる味方へボールがが継がれ、走行スピードは増していく。
大工大高ディフェンスは相手の動きとボールの流れを読んでタックル。
伏見工選手は倒されたがまだボールは死んでおらず、後方から味方がバックアップに走りこんできた。
笛が鳴った。
「よし!」
平尾誠二の好判断が生んだチャンスだった。
2分前は同じような状況からパントキックを蹴り、この攻撃ではパスで味方を走らせた。
しかしこのとき左大腿が激しく痛んだ。
(痛い!
でも表情に出したらアカン。
なんでもない、なんでもない)
自分に言い聞かせた。
「その頃には僕がここにボールを出したいと思ったところには必ず平尾がいた。
阿吽の呼吸で、たとえみていなくても、僕が動けば平尾はそこにいる。
不思議とどんなに歓声が大きくても平尾の声と山口先生の声だけはハッキリと聞こえた」
そういっていた高崎利明は平尾誠二の呼吸音で異変に気づいた。
そして味方に目で合図を送った。
(わかってる)
味方も目で応じた。
大工大高のラインアウトは真っ直ぐ投げ入れられず「ノットストレート」の反則になり、伏見工ボールのスクラムになった。
「押せ!」
「キープ!」
バックスに絶好球を出すためにスクラムを組むフォワードは我慢した。
スクラムが崩れボールが外に出た。
「どけっ」
スクラムからのこぼれ球を拾ったフランカーの西口聡が縦に突進。
2人の大工大高選手からタックルを受けながらも、ボールをコントロールし味方のフォローを待った。
バックスは好位置でラインを形成し攻撃態勢を整えた。
高崎利明にパスが送られた。
左に平尾誠二がいた。
2人の目線が交錯した。
(お前を飛ばすぞ)
高崎利明は、平尾誠二を飛ばし、センター細田元一へとパスを放った。
フォローに走れない平尾誠二を味方が抜かしていった。
「頼む!」
平尾誠二がキックするか、パスするか。
それに注意してた大工大高ディフェンスは狂わされ乱れた。
このままタックルにいくか、下がるのか、一瞬の迷いでディフェンスラインは崩壊した。
「倒せ!」
荒川博司が叫んだ。
大工大高ディフェンスはボールを追った。
しかし最後は直前のプレーで左肩を脱臼した栗林彰がパスを受け、大工大高ディフェンスを迫られながら左タッチライン際を駆け抜け、コーナーフラッグの真下に決勝トライを決め、7対3とした。
「やった」
山口良治は体が硬直し歯がガチガチと鳴った。
その後、少しの間の記憶がなくゴールキックを失敗したのを覚えていない。
ロスタイムは続き、大工大高が左サイドへボールを蹴りこみ試合再開。
残り時間は30秒。
ラックからボールがライン外へ出て、大工大高ボールのラインアウト。
正確なスローイングから右へオープン攻撃でゴールに迫った。
そしてゴール前20mでスクラムとなった。
大工大高は素早くボールを出し、上げたキックはタッチラインを切った。
しかし焦った大工大高ボールのラインアウトは「ノットストレート」
伏見工ボールのスクラムとなり、高崎利明は迷わず平尾誠二にパス。
ボールを受けた平尾誠二は、国体決勝の反省を生かし、痛む脚でほぼ真横に蹴り出しキッチリ試合を終わらせた。
ノーサイドの笛が鳴った。
「もう平尾は走れない状態だった。
最後の飛ばしパスも、平尾は足が痛くて遅れていたから、飛ばすしかなかった。
最後に真横に蹴り出して終わったのも、痛くて蹴れなかったから」
(高崎利明)
意識を取り戻した山口良治の体は再び震え、低いうめき声が出た。
赤いジャージが芝生の上で抱き合い、跳び跳ね、叫んでいた。
「戻れ。
挨拶がすんでない」
平尾誠二の指示でバックススタンドへ走った。
山口良治は報道陣に囲まれた。
「この6年間でこんな嬉しいことはありません。
素晴らしいゲームをやってくれて・・・
信は力なり。
そう思っても不安が押し寄せてきて。
それを吹き飛ばしてくれました」
そういった後、両拳を突き上げた。
「勝ったぞぉ」
スクール☆ウォーズ 不良少年を立ち直らせて高校日本一にたどり着いたストーリー

1981年の伏見工の優勝劇は、1984年に「スクール☆ウォーズ」としてドラマ化された。
だが、その裏で山口良治は常に悩みを抱えながら闘っていた。
1979~1983年まで5年連続で全国大会に出場し、1983年は3位となった。
しかしその後は1987年にベスト8になったのを最後に、4年間、全国大会に出ることができなかった。
そして1991年4月、山口良治が倒れた。
突然、目の前が真っ暗になり、気がつくとベッドの上だった。
診断は脳膿瘍。
死ぬ恐れもある手術を受けて、100日間、朦朧とする意識で闘病生活が続いた。
山口良治は、隙をみては病院を抜け出し、伏見工のグラウンドにいった。
そこは何物にも代えがたい場所だった。
病床では山本清吾の時代から15年間続く生徒との日記を書いた。
「初優勝の時に記者に囲まれて『信は力なり』といった。
やるのは生徒。
監督が代わって、パスも、キックもしてやれん。
どんだけ悪いことをしている生徒でもみんな赤ちゃんのときはいい顔をして生まれてくる。
周りにいる大人がその生徒のために尽くせなかったらどうしようもない」
1991年の夏、現場に復帰。
部員と正面から向き合ったが、熱血指導を理不尽とみなし生徒がついてこなかった。
1992年、思い詰めた主将の坪井一剛は体育教官室を訪れた。
「3年生全員で辞めます」
山口良治は、授業中だったが3年生全員を呼び出した。
「ホンマに辞めるんか?」
1人1人の目を真剣にみた。
すると全員が返答した
「続けます」
その冬、伏見工ラグビー部は、5年ぶりの全国大会行きの切符を手に入れた。
1993年1月7日、伏見工は、決勝戦で啓光学園(大阪)と対戦。
病床の山口良治と交換日記を続けた坪井一剛らは躍動した。
8対10でリードされた伏見工は、後半13分、ウイングの安達信貴が逆転トライ。
そして15対10でノーサイドを迎えた。
平尾誠二らが初優勝した日から12年、2度目の優勝だった。
1998年、高崎利明が監督となった。
「僕たちはよく「山口先生と山の天気」なんていっていたんです。
当時はいろんなことがあって機嫌がコロコロ変わるからね。
でもね、間違いなく先生はただ単に生徒を殴りつけていた暴力教師ではなかった。
僕たちに注いでくれた愛情をね。
その本気度を僕たち生徒は感じていた」
2000年、山口良治は総監督として2005年の全国優勝を見届けた。
30人以上のOBが教職に就いていた。
「僕たちが中学生のころから山口先生の教えを受けた先輩が教員としてやって来た。
後輩たちもどんどん教育現場に戻ってきている。
山口先生というダムが水を流し、それをたくさんのOBが川となってその教えをまたつないでいく。
いつの日か先生が亡くなっても築き上げられた人の流れは途絶えることはありません」
(坪井一剛)
2013年、IRB(インターナショナルラグビーボード、国際的な競技の統括団体、現:ワールド・ラグビー)がラグビーを通じて社会貢献した人に贈る「ラグビースピリット賞」を山口良治は日本人で初めて受賞。
授賞理由に
「多くの生徒の人生をより良いものへ変え、当初弱小で荒れていたチームを数年のうちに全国優勝に導いた」
とあった。
不良少年を立ち直らせて高校日本一にたどり着いたストーリーはIRBの機関紙にも掲載され、日本でのラグビーの教育効果が注目された。
もっとやらせたかった。

2016年4月、伏見工は洛陽工と統合され、京都工学院(京都市立京都工学院高等学校)となった。
1、2年生は新校籍だが、3年生は伏見工籍のため、ラグビー部は「伏見工・京都工学院」の名で活動した。
この3年生が引退した時点で、チーム名から「伏見工」の名前が消えることになった。
そして2017年11月12日、最後の3年生が京都大会決勝戦を迎えた。
相手は春の選抜と夏の7人制大会で全国準優勝の京都成章。
山口良治もスタンドから観戦していた。
大方の予想を覆し前半は伏見工が7対0でリード。
しかし後半は地力に勝る相手にひっくり返され、7対22でロスタイムを迎え、伏見工は残りワンプレーで意地のトライを返した。
試合は14対22で負けたが、最後に4度の全国制覇を誇る伏見工の不屈の魂を最後に見せた。
同年10月20日、胆管細胞癌で平尾誠二が53歳で亡くなった。
山口良治は、病気になったことは知っていたが病名は知らされていなかった。
その前年に行われたラグビーW杯イングランド大会で開催地で再会する約束をしていた。
「日本―スコットランド戦の翌日にロンドンにおいしいレストランがあるから食事しましょうということで。
楽しみにしていたら『すみません、ちょっと病気になって入院しないといけなくなって』と連絡があった。
そのときは彼が死ぬなんて思ってなかったから『大事にしろよ』と。
まさか、あんな病気とは」
亡くなった朝、伏見工OBで、同志社大や神戸製鋼でも活躍した細川隆弘から電話がかかってきた。
「細川に『元気にしてるか』って聞いたら、『平尾さんが亡くなられたんですよ』って。
信じられなかった。
親が子を亡くして嘆き悲しむのを見聞きするけど、そんな気持ちだった。
教え子はたくさんいるけど、あれほど関わった子はいなかったから」
約4ヵ月後、神戸市で「感謝の集い」が開かれた。
「0対112で負けてから1年後に花園高を破ったこと。
そして平尾があの決勝に勝って日本一になってくれた。
逆立ちをしても平尾がいなければ優勝することはなかった」
「あんな子と一緒にラグビーがしたくて無理を承知で自宅まで訪ねて行った。
そうして私の夢を選んでくれた。
いろんな経験を伝えてやろうとしたが、たった1つだけ心残りがある。
親よりも先に逝ったらアカン!
そんな大事なことを教えてやることができなかった。
どれだけ悔やんでも、悔やみきれない」
と言葉を詰まらせた。
「平尾のスペースを突く力は、本当に卓越していた。
それを突き詰めようとしたから、進化したラグビーを創造できたんだと思う。
でも(指導者としての)平尾のラグビーは、まだ進行形だった。
もっとやらせたかった。
彼に代わるリーダーが出てくるといいなと思う。
目先のことじゃなくて、未来を考えて創造するリーダーが」
