実録 スクール☆ウォーズ  この物語はある高校の荒廃に闘いを挑んだひとりの教師の記録である

実録 スクール☆ウォーズ この物語はある高校の荒廃に闘いを挑んだひとりの教師の記録である

この物語は、ある高校の荒廃に闘いを挑んだひとりの教師の記録である。高校ラグビー界において全く無名の弱体チームが、荒廃の中から健全な精神を培い、わずか7年で全国優勝を成し遂げた奇跡を通じて、その原動力となった信頼と愛を余す所なくドラマ化した物語である。


伝説のイングランド戦

1943年2月15日、山口良治は福井県の南西部、若狭湾に接する三方郡美浜町の農家に生まれた。
山口良治が小学1年生のとき、実母:梅子が37歳で亡くなった。
「母ちゃんはね、リンゴをたくさん買いに行ったんやで。
もうすぐ帰ってくるよ。
母ちゃんがそういっていたもん。
なあ母ちゃん、帰ってくるやろ?」
3つ下の妹:登志枝は母親の死が理解できず、帰ってくるものだと信じて待った。
1年後、父:定一は再婚し、先夫との間の子を抱えた継母が家にやって来た。
少しは寂しさが癒えるかと思ったが、一緒に暮らしてみると逆に悲しみは増していった
継母は、山口良治の弁当をつくらず、靴下や下着も洗濯してくれなかった。
冬、氷が張るような水で靴下を洗っているとあかぎれで血がにじんだ。
まだ小学校低学年。
友人が母親と歩いていると胸が締めつけられた。
継母からほんとうの愛情を感じたことは、1度もなかった。
小学4年生のとき、外れたボタンを自分ではつけ直すことができず、悩んだ末、継母に頼んだ。
次の日の朝、ボタンは頼んだ位置とは違うところに乱雑につけてあった。
「もう1回、やってちょうだい」
腕にしがみついて頼んでもしてくれなかった。
継母の目の前でボタンを引きちぎり家を飛び出し、近所の女性に
「ボタンをつけて」
と頼みわんわん泣いた。
それ以降、継母と心が通じ合うことはなくなった。
「母ちゃんが死んで愛情に飢えていた。
2人目の母親とは折り合いが合わんかったからね。
寂しくて寂しくて、どうしようもなかった。
あれは4年生の遠足やったかな。
バスガイドさんの手を握ったまま離さんかった。
母ちゃんが生きていたら、こんなに温かい手をしていたんかな。
そう思いながらずっと握ってた。
それほど人の温もりが欲しかった」
小、中学校時代の教師は、よく山口良治を自宅に呼び、ご飯を食べさせた。
家に帰りたくない日は、山口良治は先生の子供と一緒の布団で寝た。
中学時代は野球部に入り、キャッチャーで4番だった。
「もしあのまま野球を続けていれば長島さんと王さんに負けんだけのプレーをしていたと思います。
これはもう絶対です」
しかし進学した福井県立若狭東高等学校には野球部がなくラグビー部に入部。
たちまちのめり込み、大学は第1回日本選手権で八幡製鉄と日本一を争った日大を選んだ。
しかしその練習は過酷で、また封建的な雰囲気が支配していて、自主性に乏しかった。
そんな日大のやり方に疑問を感じ、また中学時代の体験から体育教師になりたかった1年生の山口良治は
「難しいやろうな」
と思いながらも日体大への編入を希望した。
しばらくすると日体大学長から1通のハガキが届いた。
「あと3年間、日体大で学業を頑張りたまえ」
こうして特例で日体大へ編入が認められた。
日体大ラグビー部の綿井永寿監督は山口良治の素質を見抜き、マンツーマンで指導した。
また早稲田大学ラグビー部の大西鉄之祐も山口良治を高く評価した。
大西鉄之祐は、日本が世界で勝つためには
「接近、連続、展開の3つが必要」
と説いた。
体力、体格で勝るチームと対戦するときは、いかにスピードで相手を抜くかという展開ラグビーになりやすい。
しかし大西鉄之祐は、展開に加え
「手足の長い外国人が槍ならこちらは刀、相手が刀ならこちらはドス(短刀)」
と接近戦の必要性を訴え、
「勇気なき者は去れ」
とタフな肉体と戦闘意欲が不可欠だとした。
山口良治は、オール関東に選抜され、日本代表入りも期待された。
卒業時、トヨタ自動車、近鉄、三洋電機など強豪から熱心に誘われた。
「自分の実体験を教師になって伝えたかった。
だからたくさんの企業から話をもらったが教員になりたい思いがブレることはなかった。
お父さん、お母さんがいない子や、荒れる子の寂しさは痛いほどわかる。
その気持ちを抱きながら生きてきたからね。
もし母親が生きていたらラグビーはしていなかったやろうし教師にもなっていなかった。
おそらく田舎で農民にでもなっていたやろうな」

1966年、岐阜県内の高校で教員をしていた山口良治は、大西鉄之祐が率いる日本代表(オールジャパン)に選ばれた。
ポジションはフランカー。
ラグビーは15人のメンバーから成り立ち、大きく8人のFW(フォワード)と7人のBK(バックス)に大きく分けられる。
フォワードは、スクラムを組み、ボールがタッチラインの外に出ればラインアウトで敵とボールを奪い合い、 BK(バックス)が捕まれば、すぐに駆けつけてボール確保に身を削る。
力強く突進してボールを奪い、敵ディフェンスを蹴散らすのが仕事。
ぶつかり、倒し倒され、下敷きになり、踏まれ、そしてすぐに起きて走るタフな大型選手が並ぶ。
FWが確保したボールは、HB(ハーフバック)に渡る。
HBとは、SO(スタンドオフ)とSH(スクラムハーフ)の2人で、彼らがボールを持って走るか、蹴るか、パスするかでチームの攻撃が決定する。
戦術、判断、俊敏性、堅実なラン、パス、キックのスキルが要求される。
BK(バックス)は、FWに比べスリムな選手が多い。
HBが選択した攻撃を実行するためのスピードと突破力が求められる。
攻撃では、俊足を飛ばしてトライをあげフィニッシャーとなるが、ディフェンスでもその役割と責任は大きい。
フランカーは、フォワードに属し、軍事用語で「側兵、側面部隊」を指し、スクラムでは側面について攻めたり守ったりする。
守ればスクラムサイドを衝いてくる相手にはタックルをかます。
現役時代、山口良治は、自分の守るサイドは誰にも抜かせなかった。
ボールを持てば突進し、味方がタックルされて倒れたらすぐにサポートに入り、ボールを拾ったり、接点に入ってくる相手を弾き飛ばしたりして2次攻撃のポイントとなる。
こうした接点でのボールの奪い合いこそフランカーの腕の見せ所で、いいフランカーはどこでポイントができるかをいち早く読んで、その地点にトップスピードで入る。
ボールに頻繁に触り、かつ相手選手とのコンタクトも多く、体の強さとスピード、キツくなっても働き続けられる気持ちの強さが要求されるポジションである。
また山口良治は、キックも得意で、そのゴールキックは圧倒的な成功率を誇った。
1971年9月28日、東京の秩父宮ラグビー場で行われた全日本 vs イングランドでは、日本はスクラムで勝り、タックルを次々突き刺し、前半を2PG(ペナルティゴール)に抑え、0対6で折り返した。
後半は何度も相手ゴール前に迫った。
33分、イングランドの反則からPGを得て、山口良治は40mのロングキックを成功させた。
結局、3対6で敗れたが、最後まで
「もしかして・・」
と思わせる試合だった。

京都市立伏見工業高校

山口良治は桜のジャージを脱いでオールジャパンを去った。
右膝はグラグラだった。
仕事も京都市役所に変わった。
1973年3月25日、春休みに入って最初の日曜日、吉祥院グラウンドでラグビー教室があり、山口良治は、ラグビー教室に通う幼稚園児から小学6年生までの200名に教えた。
その様子をみていた京都市立伏見工業高校校長の山本普は、練習後に面会を求めた。
山口良治が教員免許を持っていることを知るとすぐに欲しいと思った。
(明日から日参したろ)
次の日から毎日、教育委員会詣を始めた。
「おくんなはれ!」
「そら山口さんは京都市役所の職員です。
けど犬をもらうようにくれくれいわれたかてそう簡単にいきまっかいな。
なんちゅうたかてまだ現役でっさかい市役所としても放すかどうかわかりまへんで」
「さあ、そこや」
「どこや?」
「ここで彼をもらえんかったら京都の教育界は逸材を失う。
この損失は大きいで」
30歳を過ぎた山口良治は、現役引退後の人生の準備を始めていた。
社会人ラグビーチームから監督のオファーが2件もあり、給料はいずれも市役所よりはるかに多かった。
そこへ伏見工業高校の話が来た。
「わしのところへ来い」
「そんなら期限を切ろ。
2年でエエよ。
その後、社会人の監督に鳴ればエエ。
わしも定年まで2年や。
その間、一緒にやってくれ」
山本普に口説かれても正直、冗談ではなかった。
しかし教育委員会はついに折れた。
「行ってくれんか?」
山口良治は、全日本代表の遠征や合宿、社会人大会などで教育委員会に迷惑をかけていた。
頭を下げられると弱かった。

1974年3月18日、京都市立伏見工業高校に体育教師として赴任するよう教育委員会から内示があった。
「偏差値25。
劣悪やな」
10日後、山口良治は京阪電車の伏見稲荷駅を降りて学校へ向かった。
伏見工の近くには稲荷山があり、全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社が建っていた。
稲荷山全体が神域とされ、信者から奉納された約1万基の鳥居があり、特に「千本鳥居」と呼ばれる所は狭い間隔で多数建てられ名所となっている。
駅から西に徒歩5分、京都市立伏見工業高校はあったが、すでにタバコをふかす生徒、雀荘の中にいる生徒を見かけた。
バイク事故の件数が京都ワースト。
教師への暴力など日常茶飯事。
シンナーを吸う生徒や学校の廊下をバイク走る生徒もいて、ある教師は怯え、ある教師は教師はみてみぬふりをした。
校門を入りグラウンドをみるとラグビーポールは4本とも折れていた。
次にラグビー部の部室にいってみると、床にタバコの吸殻が散らばっていた。
「誰や」
背後から声をかけられた。
振り返ってみるとサングラスをさしたアロハシャツに白いエナメル靴、チンピラのような格好をした男がいて、マッチを擦ってタバコに火をつけた。
「おい、やめとけ。
ここは部室やぞ」
かまわずタバコをふかす男に山口良治は自己紹介した。
「新任の山口や」
「教師か。
勝手に部室に入ってもろたらかなんな」
「君はコーチか?」
「いいや、オレはラグビー部主将の中村昭憲や」
「そうか。
他の部員は?」
「さあ知らん。
用がないんやったら出て行ってくれ」
山口良治は、校長室で山本普と会った。
「どや、エエ学校やろ?
そろそろラグビー部が練習しよる。
みてやってくれんか」
「部室みたらわかります。
あれはラグビーではありません」
「ワシもそう思う」
その後、山口良治はラグビー部の練習を校舎の窓から見学した。
20人足らずの部員の体が全然鍛えられていなかった。
指導者はいなかった。
準備体操もパス練習もせず、彼らはいきなり試合形式の練習を始めた。
キックされたボールをひ弱なフォワードがキャッチ。
そのフォワードに大柄な部員がタックルし転倒させた。
(危ない!)
その後、部員たちはルール無用で走り、ボールを奪い合った。
怒号と悲鳴、パンチと蹴りが飛び交った。
キックし終えた部員に他の部員がタックルした。
タックルされた部員は後頭部から地面に落ち、タックルした生徒はVサイン。
「やめろ!」
山口良治は走った。
倒れている生徒は脳振盪を起こしていた。
部員が集まってきた。
「誰か水をくんで来い。
それと折れたポールを持って来い」
やがて持ってこられた水が倒れた部員にかけられた。
「お前らジャージを脱げ」
拒否反応を示す部員。
「こうするんじゃ」
山口良治は自ら背広を脱いだ。
「ポールを両脇につけろ。
そっとやれ」
2本のポールが置かれると背広をポールの下に入れた。
「担架や」
3人の部員がジャージを脱いで担架をつくった。
「そっと持ち上げろ。
落とすなよ」
体育教師になる夢と社会人チームで腕を振るいたいという思い。
山口良治は悩んでいた。
学校はまだ春休み中で断るなら今しかなかった。
しかし生徒をみてしまった以上、もうダメだった。
もう退くことはできなかった。
ラグビー部にはすでに監督がいたため、当面はコーチとして協力していくことになった。
春休み中の練習は2時間だった。
山口良治は、なにもいわずに黙って部員の動きを目で追った。
そして心の中で問うた。
(お前らはなぜラグビーをやるんだ)
(なぜラグビーなんだ)
(ラグビーに何を求めているんだ)
そして練習が終わるとなにもいわずに去った。
(彼らのはラグビーじゃない。
何かが違う。
もっと強いハッキリした意識を持った部員が現るまで指導はできない)

コイツらは本当は寂しかったんや

ある日、山口良治は体育の授業のためにグラウンドに出ると、授業は始まっているのに20名ほどの3年生がソフトボールをして遊んでいた。
受け持ちの1年生はグラウンドの隅で並んでいた。
「おーい、どこに並んどる。
こっちへ来んか」
しかし3年生を恐れて誰も来なかった。
山口良治は3年生に向かって歩き出した。
「おいお前ら、なんの授業だ。
先生は誰や?
授業は何や?」
「ソフトボールやんけ」
「ソフトの授業は聞いていない。
運動場はオレの教室だ。
オレの教室で勝手なことはさせん」
「グダグダうるさいやつやの。
いてもうたる」
バットが振り上げられた。
「やるんやったらやったらどや。
しかしオレの教室で暴れたら生きたままで校門は出さん。
覚悟ができとったらそのバット振り下ろせ」
3年生グループは散っていった。
不良たちはやり場のない不満や憎悪を募らせ、ただ荒れていく一方だった。
生徒を探しに伏見稲荷大社に行くと他校の生徒とケンカをしていたこともあった
廊下を歩いていると教室から声がした。
「ポンッ」
そして笑い声が起きた。
みると社会の授業中、生徒はマージャンをしていた。
山口良治はガラスが割れそうなくらいの勢いでドアを開けた。
「お前らなにをやっとるんじゃ。
立て」
4人の生徒が不貞腐れながら立った。
「サングラスもとらんかい」
伸びてきた山口良治の手を生徒は払った。
平手打ちが飛び、サングラスをかけた生徒は倒れた。
逃げる3人をまとめて窓際に押しつぶし1人1人平手を食らわせた。
マージャンをみていた6人も
「お前らも同罪じゃ」
と蹴り飛ばした。
タバコを吸っていた生徒をみつけ
「お前、何をくわえているんや?」
と聞くと、下にタバコを捨て
「俺か? 
指くわえてたんや」
と答えたため
「お前が吐く息は、そんなに煙みたいに白いのか?」
といって殴った。
廊下をで前からバイクが廊下を走ってきたときは正直、怖かったが
( 生徒を信じよう、信じよう)
と念じていた。
するとバイクは横を通り過ぎた。
数日後、バイクを走らせた生徒が訪ねてきた。
「ゴメンな先生。
先生だけや、俺に注意してくれたのは。
誰も俺に注意なんてしてくれへんで」
その言葉でわかった気がした。
(コイツらは本当は寂しかったんや)

ラグビー部の練習に集まる部員は数人だけだった。
練習試合で全員の切符を買って駅で待っていても1人も来ないこともあったし、試合をしても勝てるはずはなかった。
「ちょっと部室へ来てくんなはれ」
ある日、山口良治は3年生部員に呼ばれた。
行ってみると主将の中村昭憲を含む3年生部員が7人いた。
「先生、今後、わいらに口出しせんとってほしいねん。
監督でも部長でもないあんたにああせいこうせいいわれたくないねん」
「あんた?」
「伏見工には伏見工の伝統がおまんねん。
それを赴任早々、偉そうに口出しされたらかなん」
「もう何もいわん。
お手並み拝見といこう」
そういいながらも、それまで経験したことのないほどの屈辱と不快感を感じていた。
(オレは全日本代表だぞ)
(教師なんてなるんやなかった)
しばらく後悔と自己嫌悪がこみ上げてきたが、最後には負けじ根性が出てきた。
(問題のない学校に教師などいらない。
教え屋がいればいいのだ。
こういう学校こそ教師が必要だ。
オレは体育教師だ。
体育教師が生徒にぶつけられるのは情熱だ。
闘志だ。
力だ。
そして信頼だ。
たとえラグビーと切り離されても・・)
苦境になればなるほど、悪い状況になればなるほどより燃えてくる男だった。
ラグビー部から絶縁された山口良治は教師として全力を尽くすことを決めた。
まず生徒の服装問題に取り組んだ。
毎朝、校門に立って検査を行った。
「アロハはダメ?
なんで?」
「制服を着て来い」
「持ってない」
「どうした?」
「親父が質屋に流して飲んでもた」
「わかった。
親父と一緒に来い」
服装違反の生徒には名前を書かせた。
「3回違反したら処分するぞ」
「処分って?」
「退学じゃ」
3週間後、服装違反は激減した。
卒業式前になって、ラグビー部の2年生の1人の落第が決まった。
その部員は
「もうやめると決めた」
という。
「落第が恥ずかしいのか?」
「そらカッコ悪いですよ」
「それでやめたらカッコウ悪くないのか?
違うと思うな。
本当に恥ずかしいのは今までの生活態度と違うか。
落第はその結果や。
やめてしまえば取り戻すことができなくなる。
そんなことは承知せん。
1年留年するからって挫折してしまったらなにもできんぞ。
先生はお前らを鍛えるためにやってきた。
が、1年を棒に振った。
お前と同じや」
「ボクと同じ?」
「そうや。
監督落第や。
けどこの4月から監督をやるぞ。
それでもやめるんか?」
「え、ホンマですか?」
「ホンマや」
ウソだった。
ほんとうはまだ社会人ラグビーチームの監督の要請が来ていて、決めかねていた。
しかし勢いだったとはいえ生徒に嘘はつけない。
その後、校長に監督就任の決意を伝えた。

屈辱の大敗

1975年4月、山口良治の新しいラグビー部づくりが始まった。
まずは京都府の高校ラグビーの情報収集を行った。
(絶望的やな)
府内にはラグビー部が約30校あり、花園高校、同志社高、洛北高、塔南高、京都商業、西京商業、嵯峨野高校などが強かった。
特に花園高校は1958年に創部以来、全国大会に9度出場し、準優勝1回、国体では優勝していた。
伏見工ラグビー部は、1960年に創部されて以来、公式戦に出れば負け続け、練習試合は記録すらなくCクラスだった。
(Dクラスがあったらそこに落ちるな)
伏見工ラグビー部員は31人。
保護者が父親でない部員が11人。
安定性のある職業の保護者は少なく、職業欄が空白のものもあった。
「さてわかりやすいところから始めよう。
ラグビーはボールの奪い合いだ。
ボールが奪れなければ、どんなに速く走れてもどんな技術を持っていても意味がない。
攻撃権はいつもボールを持ったほうにあるんだから」
山口良治はそういってボールを持って円陣の中に入った。
「誰でもいい。
先生の手からこれを奪ってみろ。
さあ来い」
1人が前に進み出ていきなり飛びかかったが、すぐに地面に叩きつけられた。
「次っ!」
5人が挑んだが、全員が地面を這わされた。
「ゴロパンや。
奪りに走れ」
次に山口良治はゆるいゴロパント(ボールを地面に転がすキック)を蹴った。
みんなボールを追ったが、勢いをつけすぎてボールを後方へ逸らしたり、拾おうとしてもボールが左右へ跳ねて落とした。
楕円型のボールは生き物のように変化した。
3本のゴロパントで部員はフラフラになった。
「次はセービングだ」
セービングとは、ルーズボールに対して体ごと飛び込んでいくプレー。
転がっているボールを手だけで押さるのは難しい。
だから飛び込んで体で押さえ込み、確実にマイボールにする。
セービングには、フロントセービングとバックセービングがある。
フロントセービングは、競りあって相手より少しでも速くボールを確保したいときにヘッドスライディングでセービングする。
ボールを確保した後、立ち上がれればよいが、頭から飛び込んでいるため、相手が覆いかぶさってきたとき味方にボールを送るのが難しい。
バックセービングは、相手側に背中を向けるように飛びこむセービング。
自陣内にボールを蹴りこまれ相手選手に雪崩れこまれたときなど、体を横向きにしながらボールに飛び込み、敵に背中をみせて、そのスパイクに蹂躙される危険を冒しながらセービングする。
すると敵からボールがみえず、かつ味方はサポートしやすい体勢となる。
セービングは、飛び込む角度やスピードなど様々な要素もあるが、なによりも大事なのは地面や相手を恐れず飛び込む勇気で、相手や地面とぶつかる恐怖でためらいや躊躇が生まれるとダメになる。
またセービングをした後は、すぐに次のプレーに移らなければいけない。
敵が来ていなければすぐに立ち上がって前を向き、敵が覆いかぶさってきたら、腹でボールを抱え味方側にボールを置く。
タックルが派手でかっこいいのに対しセービングは地味で犠牲的精神を伴うプレーである。
山口良治は、自分でボールを蹴って、走って、倒れて、ボールを腹でコントロールし、すばやく立ち上がるという一連のプレーをやってみせた。
1人目の部員はボールに覆いかぶさろうとして腹をボールで強打した。
山口良治は、ボールを置いて静止した状態で飛び込む位置とタイミング、腹でボールを抱えてコントロールし立ち上がる方法を教えた。
やがて17時を過ぎた。
「よし、今日はカエル跳びで終わりだ。
行け!」
こちらのゴールから向こうのゴールまでの蛙跳びだったが、何人かはハーフラインまでで倒れ、スムーズにグラウンドを縦断できる生徒は少なかった。
整理体操をしながら山口良治は部員1人1人の顔をみた。
(これでやっていけるのだろうか)
自分の高校生の頃と比べて、部員たちのレベルはあまりに低かった。
高校総体が迫っていた。
(辞退したほうがいいかもしれない)
そうも思ったが最後には開き直った。
(逃げるわけにはいかない)

1975年5月10日、連休明けの土曜日、京都府高校総合体育大会が始まった。
伏見工の相手は、洛東高校だった。
1965年の近畿大会の京都予選で花園高校と引き分けたこともある。
しかしハードな練習をこなしてきた伏見工の部員は負ける気がしなかった。
実際、52対0で完勝した。
「イケるやないか」
5月17日、次の対戦相手は優勝候補の花園高校だった。
「忠実なタックル!
それだけを考えろ」
試合前、山口良治はいった。
(力量の差はいかんともしがたい。
しかし一寸の虫にも五分の魂だ。
タックルさえ決まれば点差はそう開くまい)
キックオフで花園高が蹴り上げたボールを伏見工の2人は譲り合ってポトリと落とした。
走りこんできた花園高は、それを拾ってさらに伏見工のバックスの裏へ蹴った。
「いかん」
山口良治が漏らした直後、そのままトライを奪われた。
試合開始早々のノーホイッスルトライだった。
直後、中央付近からのスクラムで押し勝った花園高校はサイドに展開し、無人の野を行くが如くノーマークトライ。
さらにその直後、タックルに入ろうとした伏見工の2人が味方同士で衝突しダウン。
観客席から笑いが起こった。
「全日本のコーチが泣くぞ」
「コラッ!お前らに山口良治はもったいない」
「知恩院さんでケンカする気でかからんかい」
野次にスタンドはドッと沸いた。
かつて伏見工の生徒が知恩院の裏で乱闘寸前になった事件があった。
前半が終わってスコアは、52対0だった。
(この差はなんだ?)
ハーフタイムに円陣を組む部員たちの前に行く山口良治の足は重かった。
「お前たち・・・」
後の言葉が続かなかった。
後半も前半と同様だった。
花園高校はスクラムからボールを出して、バックスに回して伏見工のディフェンスをスルスルと抜けてそのままトライ。
これを繰り返した。
伏見工はタックルもセービングもできなかった。
なにより相手の強さにあきらめてしまっていた。
そして完膚なきまでに叩き潰された。
最終スコアは112対0となった。
山口良治はくやしさで寒気がして鳥肌が立った。
メインスタンドにいるはずの花園高校ラグビー部監督:川勝主一郎を探した。
よくみえなかったが挨拶をした。
(川勝さん。
今日という日をよく与えてくれました。
肝に銘じます)

お前ら、くやしくないんか?勝ちたくないのか?

試合を終えた部員たちが山口良治の前に集まり整列した。
「オースッ」
(何がオースッじゃアホンダラ!)
山口良治は必死に怒りを抑えた。
「お前ら、ケガはどうや?
大丈夫か?」
誰も答えなかった。
誰もこちらをみなかった。
「お前らどんな気持ちや」
重ねて聞いた。
だが誰も答えなかった。
「なんかいうてみい。
くやしいのか、うれしいのか。
率直な気持ちをいわんかい。
ここ数ヶ月の結果が112対0や。
なんでこんな開きが出るんや。
相手は同じ高校生やぞ。
年も同じ、背丈も同じ、頭かてそんな変わるかい
それでなんでや」
山口良治は不貞腐れてごまかしている部員をにらみつけた。
「くやしくないんか?
お前ら男と違うんか」
このとき1人がグラウンドに膝をついた。
「くやしいです」
グランドの土を血がにじんだ指でつかんで泣き崩れた。
すると共に戦った14人の胸の中にも熱い感情が堰を切って流れ出し、それぞれがうめき声や嗚咽を漏らし始めた。
「お前ら、勝ちたくないのか」
「ウアー」
言葉にならない声が上がった。
全員が勝ちたいと叫んでいた。
「ホンマか。
ホンマに花園に勝ちたいのか?」
「勝ちたいです」
「勝つためにはどないしたらええんや」
「練習です」
「練習です?
よういうた。
花園に勝つにはせなあかんことが山ほどあるぞ。
1つ1つ自分のものにしていかなあかん」
「はいっ」
「今日という日を忘れるな。
いいか、敗戦の痛みは一生だが、拳骨の痛みは3日で消える。
歯を食いしばれ」
山口良治は全部員を殴り倒した。
「今やったら、問題になってしまうやろうな。
ひどい負け方をしたのに、どいつもこいつも平気な顔をしていた。
本当は負けるに決まっているしやりたくなかったかも知れん。
でも悔しさを知らない生徒に、自分がやってきたことを伝えてやりたい。
そういう使命感に燃えていた。
平気な顔をしていた生徒が『勝ちたい!』というてきた。
『じゃあ、勝つためにどうするんや』と聞いたら『先生の言うことを聞きます』と。
その時に覚悟を決めさせたんです」
この試合を、入学したばかりの蔦川譲(六甲アイランド高ラグビー部顧問)はベンチでみつめていた。
キックオフしてはトライを奪われる繰り返し。
伏見工のメンバーは、ただ立ち尽くしているだけで、汗もかいていなかった。
蔦川も目標を持てない生徒の1人だった。
だが試合後に「勝ちたいです!」と叫んだ先輩たちが次々と殴られるのをみて心の奥に何か小さな火がともった。
「先生が『殴られた痛みは3日で消える。
だがこの悔しさは一生忘れるな』
そういいながら殴っていたのは忘れられないです。僕自身、中学の頃から目的がなかった。
高校に行って何をすればいいのかわからなかった。
目標なく高校に入って、花園高校に勝ちたいという目標ができた。
目標を持つ人生を教えてくれた人、それが山口先生でした」

お前らは、やればできるんや

それから授業には出なくても、多くの部員が練習には顔を出すようになった。
練習時間になると1年生がマージャン荘まで先輩を呼びに行った。
ひたすら基本練習を繰り返す猛練習が始まった。
山口良治の持つミットに並んだ部員がタックルする練習が延々と続いた。
数が多くなればなるほど、その力は弱くなっていく。
「あと何本やろ」
長岡龍聡悟はつぶやいた。
「お前ら黙って練習できんのか」
「なんもいうてません。
先生の空耳や」
荒井重雄がいうと山口良治はその首根っこをつかんで地面に投げた。
「ネチネチ言いわけするな」
「それはペナルティです。
故意に投げたりタックル以外の・・・」
「うるさいぞ!
練習中に無駄口を叩くな!」
その剣幕に全員が黙り顔をそむけた。
「お前ら勝手に練習しろ」
山口良治はそういい捨てて走り出した。
「監督、謝ります。
僕らが悪かったです。
戻ってください」
「戻らん。
勝手にしろ」
「ようわかった。
監督は嘘つきや。
信は力なりやなんて大嘘じゃ。
オレもラグビーやめたらぁ」
部員の声を背に刺さったが、そのまま校門を出て稲荷山を駆け上がった。
そして山の中腹でうずくまった。
「私が鉄人とあだ名されるのはもっと後のことです。
未熟な生な人間。
そんな部分があまりに多く残っていて教師としては欠点だらけでした」
山口良治は不良たちと真剣に向き合った。
練習が終わっても、どこでまたケンカやバイクで暴走行為をするかわからないので、生徒の家を回った。
そして悪行を発見したら丸刈り頭にさせた。
「せっかくパンチパーマをあてても、次の日に坊主にさせられた先輩もおった。
まっすぐ家に帰らないと、いつ先生が来るかわからんから、寄り道もできんかった」
そうやって横道にそれないよう、目標を達成できるよう、導いていった。
部員たちは目の色を変えて練習をするようになった。
自分がそうしてもらったように、山口良治はよく自宅に生徒を招いた。
いつも朝早く家を出て帰りは遅い。
2人の娘がいたが
「寝顔しかみたことがなかった」
家にたくさんの部員を連れてこられる妻:憲子は困った。
「食べ盛りですからね。
やっぱりお肉がいるし、お米はいくらあっても足りなかった。
大勢でザワザワしていると寝ていた娘2人が起きてしまってね。
よくふすまの間からこちらをのぞいていました」
現在、六甲アイランド高(兵庫)でラグビー部顧問を務める蔦川譲も、練習試合で兵庫を訪れたとき、西宮北口駅前にあったトンカツ屋で腹いっぱい食べさせてもらった。
20人近いメンバーで決して安くはない代金を山口良治は自分の小遣いで払った。
蔦川譲は中京大に進み、2年生のとき大病を患った。
するとどこから聞いたのか、山口良治は病室に飛んできて
「大変やったな」
と涙を流した。
「高校の頃は怒られては走らされ、しばかれてはまた走らされた。
でも大学に行き4年になってようやくメンバーに入ると自分のことのように褒めてくれた。
今でも生徒と接していると、山口先生ならどうするやろうなと考えることがあります。
あの情熱と愛情を今の子供たちに伝えてやりたい」

稲荷駅の通りをはさんで真向かいに大鳥居があり、それをくぐり進んでいくと楼門があり、さらに進むと伏見稲荷の本殿があり、その右奥に千本鳥居があった。
千本鳥居は平坦な道だが、それを過ぎると階段が姿を現し、稲荷山の頂上まで120段、急勾配で部員を苦しめた。
しかし山登りによって部員の足腰は鍛えられた。
「技術は体で覚えるもの」
「口で教えてしまうと器用だがひ弱な選手になってしまう」
と考える山口良治は技術を口では教えなかった。
肉体をいじめ、酷使することで身につけさせた。
田井照二は、山口良治にロックとしてダッシュ力のなさと状況判断のまずさを連日指摘され怒られ、悩んだ。
「オレはいつも怒られている。
なんでやろ。
タックルにいっても内へ入るな、キックするな、ゲームを組み立てろと。
しまいにはお前はアホかやて。
返事をする気になれんでせんかったら、もっと素直になれといわれるし・・・
どうしたらいいのか」
山口良治は田井照二が悩んでいるのを知っていたが、とことん突き放した。
「悩めば悩むほど将来の成長に加速度がつく」
スポーツを志せば必ずぶつかる壁。
成長が止まってしまったような感じ。
何をやってもうまくいかない感じ。
常に心の中に焦りがあり、自信もロスしてしまう。
田井照二はついに教官室を訪ねた。
「食欲もなくなり夜も眠れません」
山口良治はいった。
「君が来るのを待っていた」
そして紅茶を出した。
「君はうまくなりたい、強くなりたい、そればっかり考えているんと違うか。
スポーツで上達したいものの基本はそれだ。
最初はそれでいい。
しかしいずれそれでは不足してくる
何が足りないかわかるか」
「わかりません」
「第1にスタミナ不足。、筋力不足、スピード不足を解消し、第2にラグビーをよく知ることだ。
第1の課題は、嫌かもしれんがランニングとタイヤ引き、ウエイトトレーニングを人一倍やることだ。
第2の課題は、経験を積むしかない。
これは絶えず試合を頭に描いて練習することだ。
君の努力は認める。
それが報いられることを祈ってる」
田井照二は何度もうなずいた。
目は濡れて輝いていた。
1975年5月17日に花園高に112対0で惨敗した伏見工は、同年、秋に全国大会京都府予選に出場した。
そして勝ち進み、11月22日、決勝戦で花園高とぶつかり、前半25対3、後半28対0で敗れた。
「なんでや」
部員達は悔しがり、また殴られることを覚悟した。
しかし山口良治はいった。
「春は112対0。
今日は53対3。
半年で失点半分。
わずか半年でここまできたんや。
お前ら立派や」
「負けてもですか」
「勝ち負けは結果や。
ここまでくる過程が大事なんや。
さあ胸を張れ。
頭を上げろ。
お前らは、やればできるんや」
その瞬間、部員の目の色は変わった。
「あの言葉で、みんなのやる気がでたんです」
山口良治が伏見工という荒野にまいた種は芽を出そうとしていた。
「京都一のワル」が、入学してきたのはそんなときだった。

京都一のワル 山本清吾

1976年の入学試験で、山口良治は初めて、中学時代、京都一のワルといわれた山本清吾をみた。
山本清吾は教室で周囲の受験生を睨みつけていた。
京都随一の繁華街「祇園」にあった弥栄中学では、178cmセンチ、90kgの体格でバイクを乗り回し、タバコと酒もしていた。
昼はマージャン、花札、パチンコに熱中し、勝ったら夜はスナックに繰り出し、15歳で両隣に大人の女性を座らせた。
「ちょうどその頃にカラオケが流行りだした。
大人顔負けの遊びをしとった。
老け顔やからいけたんですわ」
野球部ではファーストを守り、ホームランをカッ飛ばす不良少年だったが、野球推薦で受験した私学高校は不合格になった。
「落とされたっていうのは僕の中で負け。
負けることは嫌いやった」
担任に公立の進学校である堀川高を受ける意思を伝えると、翌日に学年主任、生徒指導部長ら4人が自宅に来て、
「性格検査したら君は工業に向いている」
と諭された。
「要するに『お前は受からへんから伏見工業受けえ』っていう話ですわ。
性格検査なんか受けた覚えないですから。
僕は高校に落ちた屈辱を晴らすだけやったから学校はどこでも良かった」
山口良治は思った。
「これはおもろいな」
入学式直後、仲間と歩いていた山本清吾は、体育教官室前で腕組みをした山口良治に止められた。
「清悟、ラグビー部に入れ!」
「ラグビー?
何やそれ。
入るわけないやろが!
ワシは野球をやるんや」
山本清吾は吐き捨てるように去った。
呼び捨てられたことに腹が立ったが、185㎝で筋肉質の山口良治の体から異様な空気を感じた。
「こいつは素手では勝てん」
中1のとき、タバコを教師に見つかったことがあった。
12歳の山本清吾は、こんな数学教師を1発で突き飛ばせると思った。
しかしその教師は自宅を訪問し父親の前で山本清吾を殴った。
「この先生、結構本物やな」
中学の教室のガラスを全部割ったときも、その教師姿をみると投げようと持ち上げていた机を置いた。
 「やめろ、やめろっていいながら腰が引けてる教師っていますやんか。
その先生だけやったんですよ。
真剣にぶつかってきてくれる先生はね」
山口良治は、その唯一感謝していた教師と似ていた。
山本清吾は、入部届に「野球部」と書き入れ体育教官室に向かった。
一言、伝えておかねば・・・
「よお、先生。
声かけてくれたけれど、やっぱりワシ野球やるわ」
「いいに来てくれたんか。
まあ、ええから、ちょっと入れ」
教官室に入ると、山口良治はこびりついた泥を落としながらスパイクを差し出した。
「これをやる」
日本代表の頃から履いているスパイクだった。
「ラグビーはルールのあるケンカや。
ボール持ったら何をしてもええ。
蹴る、殴る以外は何したってええんや。
お前やったら1番になれるんちゃうんか」
翌日、山本清吾の姿はラグビー部にあった。
ニコチンやアルコールまみれの体で、ボールを回しながら100m走るランパスで、隣に20~30mも離された。
夜になれば仲間から誘いがあった。
「やっぱり遊びたかったし楽をしたかったんですわ」
そして問題を起こし警察に連れて行かれることもあった。
「先生、何しに来たんや」
警察署まで迎えに来た山口良治に悪態をついた。
何度も
「ワシ、(ラグビー部を)辞める」
といった。
すると翌朝、山口良治は6時に起きると7時には山本清吾の家を訪ねた。
「寝てますわ」
と父親がいうと上がって
「清悟!起きんかい」
と蹴り飛ばした。
そして支度をして2人で駅近くの喫茶店に入った。
いつも山口良治は2枚ずつ出されたトーストの1枚を山本清吾の皿へ移した。
こうして山本清吾はギリギリのところで辞めるのを踏みとどまった。
中学時代にワルで有名だった先輩たちが必死に楕円球を追いかける姿が不思議だった。

1976年6月5日、京都府高校総体の決勝で、花園高と対戦。
屈辱の112対0は1年前のことだった。
前夜から雨でグラウンドはドロドロだった。
通常の状態なら技術に勝るチームのほうが有利だが、泥濘(でいねい)戦では普段の走りこみと全員の前に出るんだという意識で勝負は決まる。
「いいか。
雨の日の試合は足を生かせない。
ボールを奪ったら手渡しの要領で全員が前へ出ろ」
「タックルは痛くないから思い切り入れ」
山口良治はアドバイスを与えてバックスタンドへ向かった。
試合が始まると泥しぶきを上げて激しい肉弾戦を展開された。
伏見工は空中戦でもタックルでもセービングでも負けず、前半を8対4でリードして終えた。
「ボールをしっかりコントロールして前へ出ろ」
後半も伏見工は互角以上に戦い、残り1分の時点で10対8。
しかし最後の最後で花園高のスタンドオフがボールを持って突進。
「倒せ!」
伏見工の1人がタックルに入り突進を止めた。
振り切ろうとする仲村に2人目のタックルが刺さった。
ここで笛が鳴りノーサイド。
トータル18対12で伏見工は花園高に勝った。
部員は泥んこのまま山口良治に飛びついた。
屈辱からわずか1年で112点差を埋め強豪校に肩を並べた。
山本清吾は、必死に戦う先輩たちの姿を雨でびしょびしょのスタンドからみて心を打たれた。
衝撃的だった。
赤のジャージーが茶色になっていた。
不良から改心した先輩たちが1年前に完敗した相手に何度もタックルを繰り返し、ノーサイドの笛が鳴ると泣きじゃくって勝利を喜んでいた。
山本清吾の目も自然と涙があふれた。
 「そのとき、正直に『美しいな』って思ったんですわ。
ひたむきで格好良かったんです。
苦しくて泣いたことはあってもうれしくて泣いたことはなかった」

「打倒!花園高」を果たした伏見工だったが、21日後、1976年6月6月26日、第31回国体予選で、同志社高に64対4で大敗した。
山口良治は何が足りないのか反省した。
伏見工は自分のペースで戦えているうちは圧倒的な強さを発揮したが、タックルやミスで流れを敵にとられるとズタズタになった。
強いチームはミスも少なく、かつミスをして崩されてもすぐに修正し復元することができる。
伏見工は部員のやる気と練習量は格段に増えたが、集中力が切れたことによるミスも多かった。
(自分を尺度にして、部員に技術を身につけさせようと基本の走りこみや当たりをおろそかにしなかったか?)
何より部員同士が
「もっとええパス投げろ」
「お前がしっかりとれ」
とお互いに不平や文句をいい合っていた。
(プレーに信頼がない)
こういう問題は理論で説明したり殴ってわからせる類のものではなかった。
また一部の部員は、オートバイ、喫煙、ケンカなどを行っていた。
「技術より精神面の強化やな」
山口良治は、部員にラグビー日記をつけさせた。
そして毎日、30冊の日記をチェックした。
1行だけのもの、誤字脱字だらけで意味不明のものなどもあった。
飲酒やギャンブルをしたことを書いたものもあったが、山口良治は自分を信頼して書いてくれている部員を叱らなかった。
また
「走り負け、当たり負けせんことは当然やが、もう1つ意味のある練習をやる」
と早朝練習も始めた。
部員は夜遊びをやめ早く寝るようになった。
夏休みは9~12時、14~17時の2回練習が行われた。

夏は過酷だった。
山本清吾は、毎日、水を飲むことも許されず走らされ、ゼェゼェと肩を揺らした。
走り込みはケンカよりも辛かった。
ランパスのゴールで最後にボールを受け取り
「もう辞めたる」
と地面にボールをたたきつけたこともあった。
しかし
「清悟、ええぞ」
「清悟、頑張れ!」
周囲の言葉で厳しい練習を耐えた。
しかし次第に脚は速くなった。
「人間ってしんどくなると決意したことを忘れがちになる。
そんなときに仲間や先生が支えてくれたんですわ」
不良仲間の誘いはに断ることが多くなった。
「よし、昼飯にしよう」
愛知遠征のとき、マイクロバスで相手校に到着すると部員は一斉に弁当箱を開けたが、山本清吾は窓の外をみた。
昼飯はいつも100円で買う菓子パンだけだった。
「おい、清悟!
これを食え!」」
振り返ると山口良治がいた。
「ええから食え」
そういって遠ざかっていく大きな背中に渡された風呂敷包をほどくと大きなおにぎりが2つ入っていた。
まだ薄暗い早朝に山口良治の妻:憲子が
「食べ盛りだから主人よりも、とにかく大きいものを」
と握ったものだった。
山本清吾は父子家庭で育ち、父親は朝早くから仕事に出た。
おにぎりを口に押し込みながら周囲に悟られないように泣いた。
「この先生のためにラグビーを続けよう」
腹をくくった。
夏をを乗り越えると秋の全国大会予選が始まった。
山本清吾は、プロップでレギュラーになった。
1976年11月13日、京都予選の準決勝で伏見工は昨年、敗れた同志社高と対戦。
前半は肉弾戦となり伏見工優勢だったが、後半、同志社高は戦法を変更しハイパントを多用した。
伏見工は防御網を破られ39対15で負けた。
同志社高は花園高に負け、花園高は全国大会の決勝に進出し、東京代表の目黒高校に29対9で敗れた。
こうして山口良治が監督1年目が終わった。
「ラグビーをやる目的は勝つだけではありません。
負けたけど貴重なものを手に入れる、そんなことも大事です。
1年目の部員たちはそれらを体得してくれたと思います。
勝ちたい、勝とう、そこから努力が生まれます。
そんな集積が大事なんですね」

フーロー

1977年3月21日、近畿大会で前半終了間際、山本清吾が和歌山工の選手に突っかかった。
ハーフタイムに山口良治は厳しく注意した。
「向こうが仕かけてきよったんや。
黙ってられるかい」
後半、山本清吾は怒りをエネルギーにして大活躍し、チームは試合に勝った。
しかし後味の悪さが残った。
「こんな子がいてんのやけど面倒みてくれませんか?」
山口良治は同僚教師から1人の生徒を紹介された。
奥井浩は、小人症(ホルモンのバランスが崩れ成長が止まる病気)で、135cm、29kgと体が小さかった。
「ちょっと無理ですね」
「昼休みに呼び出してあります。
話だけでも・・・」
そして3者面談が行われた。
「なんでラグビーがやりたいの?」
「そら山口良治がいてるからや。
オールジャパンのフランカーやで。
それに比べたら同級の大八木淳史なんてまだヒヨコや。
格が違うわ」
「ラグビーくわしいねんな」
「そらそやん。
男らしいスポーツいうたらラグビーしかあらへん」
「じゃあ紹介するわ。
ここにいてはるのがその山口良治や」
「アッ!」
奥井浩は現役時代の写真しか本人と気がついていなかった。
そして
「しっ失礼します」
と廊下に逃げ出した。
この日の練習の初めに山口良治は奥井浩を紹介し部員の輪の中にいれた。
そしてイギリスのラグビー雑誌を取り出した。
「この表紙にフランス代表の名ハーフ:ジャック・フーロー(ジャック・フールー、フランス代表主将&代表監督)が載っている。
この人も小さかった。
よってその人にあやかって奥井君を「フーロー」と名づける」
フーローは稲荷山のランニングで泣きながらドン尻を走った。
するとノルマを終えた部員が引き返してきて、一緒に走ったり、場合によっては背負ってくれた。
そして部活の帰り道、彼らはいろいろなことを語り合った。
ある部員が生き別れた父親のことを話した。
「きっと会えるよ。
花園高を僕らの手でやっつけるとき、きっと君のお父さんは観にきてくれるよ」
フーローは小さな手でその部員の背中を叩いた。
1977年6月11日、高校総体の決勝戦で、伏見工は花園高と対戦。
前半、14対8。
後半、18対0。
完敗した。

初夏、山本清吾は次の日は練習が休みだったので、夜、久しぶりに遊びへ出かけた。
朝、家、電話が鳴った。
「お前、どこにおったんや」
山口良治が電話口で怒鳴った。
呼び出され、待ち合わせ場所に向かうと興奮した様子で告げられた。
「おい、高校日本代表の合宿に呼ばれたぞ」
高校日本代表には、1学年上に、後に日本代表で屋台骨となる林敏之、河瀬泰治らがいた。
そこに1年前まで「京都一のワル」と呼ばれケンカばかりしていた男が選ばれたのである。
「清悟、良かったな。
本当に良かったな。
でもな、お前はこれからジャパンという看板を背負っていくんやぞ。
看板を背負うとはどういうことかわかるか。
お前がジャパンの看板をはがそうとしてもはがされへんのやぞ」
不良の集まりと呼ばれた伏見工から、ラグビー高校日本代表が選ばれ、オーストラリア遠征に行くということは地元の新聞に取り上げられた。
小学校の担任は涙を流した。
「あの清悟ちゃんが記事になっとる。
しかも悪いことやない。
ええことで。
悪さしかしなかった、清悟ちゃんが」
1977年8月、夏休みに入ると伏見工はラグビーの聖地:菅平(長野県菅平高原)で合宿を行った。
5時半から練習は始まった。
この夏合宿の直後、京都大学病院で脳下垂体に腫瘍を取り除く手術を受けたフーローが亡くなった。
「たった5ヶ月の付き合いでした。
が彼は貴重なものを残していってくれました。
それは生きるという勇気です。
難病と闘う勇気を見せてくれたのです。
それと伏見工ラグビー部のジャージです。
彼がウェールズのマスコットジャージから、病床でデザインしてくれたものなんです」
1977年9月、秋の京都府大会が始まり、伏見工は敵をことごとく蹴散らした。
そして10月10日、決勝戦で花園高と対戦。
(知らなんだ!知らなんだ!)
オーストラリアでフーローの死を知らされなかった山本清吾は、猛然と攻めた。
そして伏見工は28対16で勝った。
しかし約1ヵ月後の1977年11月27日、全国大会の京都府予選の決勝戦で両校は再戦。
この大会を最後に勇退する花園高の川勝主一郎監督は、徹底的なディフェンスで伏見工の攻撃を止めて回り込んで攻める作戦を立てた。
伏見工フォワードはボールを奪取するべく全力で当たった。
高校ラグビー史上に残る好勝負は、30対18で伏見工が負けた。
「3年間の集大成。
そう思って全力でアタックしました。
しかし結果は負けです。
戦った実感として負けたという感じはしません。
泣く気も起きん敗戦でした」

平尾誠二

1977年10月10日、京都ラグビー祭で、陶化(現:凌風)中 vs 修学院中の試合が行われた。
そこで山口良治は衝撃を受けた。
「あのスペースを突いたらチャンスになるやろうな」
そう思いながらみていると、華奢な体つきの陶化中のSO(スタンドオフ)が、その通りにボールを動かした。
試合後、名前を聞くとバンビのような純粋な目で
「平尾誠二です」
と答えた。
試合後、山口良治は、数名の中学生を、学校名とポジションで呼んで起立させ、アドバイスを与えた。
ラグビー祭の後、山口良治にアドバイスを受けた中学生たちが自発的に伏見工の練習を見学に訪れた。
「君ら黙ってみとらんと一緒に走れよ。
ただし走るだけやぞ。
当たったり、タックルいったりはアカン」
そういわれ中学生たちは練習に入った。
しかし時間が経つと
「コラッしっかりタックルせんか」
「そこで当たるんだ」
と山口良治は熱くなってしまっていた。
平尾誠二は、花園高へ特待生で進学することが決まりかけていた。
山口良治は自宅を訪ねた。
「もし平尾が花園高に行ってしまえば、3年は勝てないやろうと思った。
チームはようやく力をつけてきていたが、まだ学校はワルの集まり。
親御さんは『あんな学校には行かせられない』と考えていたやろう。
親を説得するのは難しかった。
少しでも望みがあるのならと必死で本人を口説いた。
俺と一緒に花園を倒そう、日本一になろう。
必ず日本代表に育ててやると」
帰り際、両親に深々と頭を下げた。
「無理やろうな」
1978年4月、平尾誠二は伏見工に入学した。
平尾誠二はラグビー祭で山口良治に、試合状況を的確に判断すること、もっと走力をつけるようにいわれた。
「ズバッと急所でした。
人にいわれたくない僕の弱点で、僕自身よく知っているところなんです。
最初、クソッと思いました。
ところが聞いていくうちにもっと早く指摘してほしかったなあって思い始めたんです」
また修学院中の高崎利明も伏見工に入学した。
高崎利明は、オール京都(京都選抜)で平尾誠二とSH(スクラムハーフ)とSO(スタンドオフ)でコンビを組んでいた。
SH(スクラムハーフ)は、スクラムの近くにいてボールをさばく戦略家で、SO(スタンドオフ)は、スクラムから離れて立ちボールを受け取り、どこへ走るか、どこへパスするか、どこへ蹴るか、攻撃を選択する司令塔である。
「母親の実家が学校から近い伏見稲荷にあったので荒れているのは知っていた。
親には大学に行かせたいから普通科に行けといわれていたけど建築の勉強がしたいと説得しました。
僕らが入ったときには土台ができつつあった。
1年ごとに確実に成長していていい時期だった」

大八木淳史

6月、高校総体の京都予選で伏見工は準決勝で負け3位になった。
山口良治の怒号が飛び、練習は地獄と化した。
ハードな練習にケガ人が続出したが、山口良治は
「ケガに強くなれ!」
とハッパをかけた。
「人間ラグビー」を目指す山口良治は、スタンドプレーが目立つ選手は容赦なく外した。
あるフォワードは、柔軟な肉体と根性があり、我武者羅に縦横無尽にボール奪取に走り、好感が持てた。
しかし強引さが目立つようになると2軍に落とされた。
「要はそのときのベストを組むこと
ベストとはその陣容が部員間で信頼されるかどうかや」
そのフォワードは悩み続けた。
数ヶ月後、練習で1軍の選手が倒れたため、水がかけられ、日陰に寝かされた。
そのフォワードは水を持っていった。
「お前は我武者羅にボールを奪るだけではアカン。
奪ったらその後が大事や。
生卵を渡すように俺にくれ。
これは俺の勝手な願いかな」
そのフォワードは顔色を変えた。
そして翌日の2軍の紅白戦で荒々しいボール奪取ときれいな球出し、そして確実なフォローで他のフォワードを圧倒した。
「明日、1本目(1軍)でいってもらうで」
数日後、山口良治にいわれたときは涙を流した。
1年生の平尾誠二は、初めて殴られた後、1週間ほど練習を休んだ。
山口良治先生は、ここぞというタイミングで、あえて厳しく指導する。
それを乗り越えたとき、ある程度、生徒が成長するのを知っているからである。
すでに中学時代に指摘された弱点をクリアし、その走りは強くしなやかで走路も理にかなっていた。
2年生の大八木淳史は、大工の父親に憧れ建築科に入ったが、入学した日に山口良治にスカウトされラグビー部入り。
中学ですでに180cmを超えていた巨体と身体能力、そしてメンタルタフネスで、スクラムでは「壁」と呼ばれ、ボールを持てば、キックやパスはほとんどせず、基本的に突進し、ハンドオフ(相手選手を突き飛ばす)で敵をなぎ倒していった。
ある練習試合で、伏見工のスクラムが急に押せなくなった。
犯人は大八木だった。
山本清吾ら3年生に理由を聞かれ答えた。
「休んでまんねん。
僕が休むことでほかの奴らを鍛えてますねん」

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