実録 スクール☆ウォーズ  この物語はある高校の荒廃に闘いを挑んだひとりの教師の記録である

実録 スクール☆ウォーズ この物語はある高校の荒廃に闘いを挑んだひとりの教師の記録である

この物語は、ある高校の荒廃に闘いを挑んだひとりの教師の記録である。高校ラグビー界において全く無名の弱体チームが、荒廃の中から健全な精神を培い、わずか7年で全国優勝を成し遂げた奇跡を通じて、その原動力となった信頼と愛を余す所なくドラマ化した物語である。


1978年11月19日秋、全国大会の京都府予選決勝。
伏見工 vs 花園高。
1年前は18対30で負けたが、3年生に山本清吾、2年生に大八木淳史、1年生に平尾誠二を擁する伏見工は、力でも機動でも、そして闘志でも上回っていた。
しかし花園高は巧く試合の流れを掌握し、4対3でリードして前半を折り返した。
それでも伏見工は勝てると思っていた。
「負けるわけがない。
それが間違っているとは今でも思えない。
敗因は痛恨のミスが出たからです」
後半、花園高がボールを落とし、ノックオンかと思われた。
が、笛は鳴らず、一瞬動きが止まった伏見工ディフェンスを花園高は容赦なく攻めてトライ。
結局、12対6で伏見工は負けた。
「判定は厳正です。
怒鳴りつけたいようなレフリーでも笛は厳正です。
そりゃ・・・・・
表彰式で準優勝の記念トロフィーが全員に贈られた。
試合会場から阪急西京極駅までの帰り道、天神川にかかる橋で平尾誠二は手に持っていたトロフィーを投げ捨てた。
以後、平尾誠二は、学校から帰宅して夕食をすませると、近所の公園でキック練習をこなし、夜道を走るのを日課にした。
山口良治が練習を終え、学校の業務を済ませて、帰路につくと阪急桂駅までの電車の中から走り込みをする平尾誠二の姿をみることがあった。
「平尾の家の近くになると、よう1人で走っているのをみた。
厳しい練習をさせていたが家に帰ってからもまだやっていた。
『おっ、また平尾がやっとる』
そう思いながら、彼を見つけるのが楽しみやった」
山本清吾は、3年生時にも高校日本代表に選ばれ、イングランド遠征に行ったが、最後の最後で花園高には勝てなかった。
伏見工でのラグビー生活が終わり、山口良治にいわれた。
「お前は悪いヤツの気持ちがわかる。
そういうヤツを救ってやれ。
教師を目指すんやぞ」
山本清吾は、山口良治の母校:日体大へ進んだ。

Enjoy Rugby!

1979年、山口良治はスティーブン・ジョンソンという神戸の商社に勤めるイギリス人から神戸の外国人クラブで一緒にプレーしないかと誘われた。
スティーブン・ジョンソンは元ウェールズで高校教師をしていたが、もっと自分の可能性にチャレンジするために来日していた。
(教師には可能性がないというのか)
山口良治は相手にしなかった。
しかしスティーブン・ジョンソンは熱心に誘った。
「良治、君のラグビーはバトル(戦争)だ。
我々のラグビーはエンジョイ(楽しみ)だ。
君のラグビーは30歳を過ぎたら続けられない。
我々は70歳でも80歳でもプレーを楽しみたい」
この一言に、久しぶりにラグビーをプレーしたいという気持ちがこみ上げ掻き立てた。
「よし、いっちょやってみるか」
翌週の日曜日、伏見工の練習を終えると急いで神戸に向かった。
そしてフランカーに入って、10分ハーフを4回戦った。
疲れて口もきけなかったが、それはこれまで経験したことのないラグビーだった。
「エンジィラグビーか。
これは大きな命題やな」
それから土日は、山口良治は神戸に、スティーブン・ジョンソンに通うようになった。
スティーブン・ジョンソンは伏見工の練習に入った。
そして選手の欠点や弱点は指摘せず、適正なパスの位置と走るコースを教えた。
またハードなだけでなく、もっと楽しい練習をやるようにいった。
「まずかったか・・・」
山口良治は不安になった。
1979年2月24日、近畿大会予選決勝で伏見工は西京商を80対0で一蹴した。
この日、スティーブン・ジョンソンは、1973年に山口良治がウェールズに遠征したとき、オールジャパンとの試合に出られなかったことを告白した。
「君のプレーはすばらしかった。
不調だと聞いていたが観戦している僕らに君のファイティングスピリッツは十分伝わった。
1度、日本にいって君に会いたい、君と戦いたい、そう思っていた。
それも果たせた」
伏見工の練習は、楽しむラグビーに変わっていった。
それまではいかにハードで苦しい練習をたくさん行うかだったが、17時半には練習を終わるようになった。
最初、不安だった山口良治も、その指導法が効果的だとわかると、その秘密を探り始めた。
そしてわかった。
例えば、弓は弦を張りっ放しにしているとイザというときに使えない。
普段、弦は外しておいて使う前にかける。
選手も長時間、緊張を強いられると、精神も肉体も弾力を失ってしまう。
うまく緊張と弛緩をうまく使うことで最大の力が発揮できる。
それまでの山口良治の指導や伏見工の練習は、どれだけハードな練習をどれだけこなせるかというもので、緊張が強すぎたのかも知れない。
しかし山口良治に優しく指導振するのは無理だった。
「その分はスティーブンに任せよう」
こうして不安は消えた。
スティーブン・ジョンソンの楽しいラグビーを教え、山口良治は、各部員の欠点を指摘し、そして部員同士の信頼を訴えた。
1979年6月9日、伏見工は高校総体予選の決勝で花園高と対戦し、60対4で圧勝した。
山口良治は4点の失点について
「精神的な甘さ」
と叱責した。

よお泣くオッサンやなって思っていたんですわ

日体大ラグビー部に入った山本清吾は、理不尽な上下関係や想像を超えたしごきを受けた。
そしてラグビーが楽しくなくなった。
腰痛が悪化し、満足に走れなくなり、精神的にも追いつめられ、過酷な練習に耐えられなくなった。
大学1年生の夏、意を決し長野県菅平高原での合宿を抜け出し京都の自宅に戻った。
「清悟が逃げた」
それは同じ菅平で合宿中だった伏見工にも伝わった。
京都の山本清吾の家の電話が鳴った。
「俺や。
今から帰るからそこにいろ。
ええな」
山口良治だった。
「絶対にボコボコに殴られると思っていた。
むしろ殴られてボコボコにされて全部ゼロにしたかった。
それで先生との縁を切る。
京都にはおられへんくなるから、どっかよそに行こうと思っていた」
久しぶりに山口良治と向かい合った。
殴られる覚悟で頬に力を入れて恩師の顔をみた。
「清悟、1年の愛知遠征を覚えてないんか。
あのとき、俺はお前にバスの中でにぎり飯を渡したよな。
あれをもう忘れたんか」
殴られることはなかった。
山本清吾は声を出して泣いた。
「先生、俺、もう1回、頑張ってくるわ」
家に放り投げたバッグを持ってすぐに駅へ向かった。
「あいつからラグビーを取ったらどうなってしまうんや?
またチンピラに戻るだけや。
荒んだ生活に戻るだけや。
そんなことは絶対にさせたくなかった」
後に山本清悟は、奈良朱雀高の教師となりラグビー部の監督となった。
「よお泣くオッサンやなって思っていたんですわ。
僕らは、男は人前で泣くもんやないって教わったときにね。
いつもまた泣いてる、なんで泣いてんねんって思っていたわけよ。
でも指導する立場になってわかりますわ。
涙ってええなって。
涙を流せる人間にならなあかんなって。
当時は思いませんでしたけどね。
涙を流さんやつはあかん。
感情のあらわれですもん。
今の子は感性が緩いっていうか、そういうところが時代なんですかね。
感じる心。
それって大事ですわ」

花園高を破り全国大会初出場

1979年10月22日、全国高校ラグビー大会京都予選が開始。
伏見工は、立命、絡東、西京、絡水、東山、大谷に勝ち、11月25日の決勝戦に進出。
相手は、花園高。
両校が花園ラグビー場への出場権を賭けて戦うのは5度目だが、すべての対決で花園高が勝ち、京都代表となり全国大会に出場していた。
山口良治は試合前、円陣の中でいった。
「目を閉じて聞いてくれ。
そして隣同士、手を握ってくれ。
今日まで本当にご苦労さんだった。
先生の小言をよく聞いて我慢してくれた。
今お前たちが握っている手は誰の手かわからんはずだ。
しかしそれは伏見工のフィフティーンの手だ。
まかり間違っても花園高校とは違う。
目を閉じても俺たちはつながっている。
そう思って横や後ろにいる味方を信じて欲しい。
今日1日のために1年があった。
悔いを残すな。
結果の責任は全部、俺にある。
いいか!
後ろに退くな。
一歩でも早くボールに追いつけ。
前へ出ろ。
それだけや」
花園高のキックオフで試合開始。
ファーストスクラムは伏見工が押し勝った。
1年前、天神川に準優勝のトロフィーを投げ捨てた平尾誠二はキックすると見せかけ、走った。
スクラムでも展開力でも伏見工が勝り、連続攻撃で押しまくり、花園高は自陣に釘づけになった。
前半が終わりハーフタイムで山口良治はいった。
「フォワードはおしてみてどうや。
軽く感じるならトコトン押して敵にラグビーをさせるな。
バックスは当たってみてどうや。
弱く感じるなら早めに勝負しろ。
「敵に1つもトライさせてはならん」
後半も伏見工は攻めまくった。
「山田、一歩早く!」
「平尾、迷うな!」
「点差を確かめるな。
奪るだけ奪れ」
「容赦するな。
叩きのめすのが礼儀や」
「突け」
「飛び込め」
「タックルで潰せ」
「キックで相手陣を突き刺せ」
「気を抜くな」
山口良治の口からは呪文のように独り言が漏れ出て、体は小刻みに震えていた。
目は真っ赤で、今にも血が滴り落ちそうだった。
点差が開き、伏見工の勝利は間違いなかった。
伏見工のロングキックがタッチを割らず、花園高がボールを確保しカウンター攻撃を開始した。
「せめて1トライ!」
凄まじい形相で意地とプライドを賭けた突進だった。
「潰せ!」
山口良治は叫んだ。
そしてボールを持った花園高の選手は崩れ落ち、ボールは中央ライン付近を転々と転がった。
長い笛が鳴り、試合が終わった。
55対0。
「勝った!!」
「やった!!」
伏見工は喜びを爆発させた。
女子マネージャは泣いていた。
山口良治の胸の中で熱いものが何度もこみ上げどうしようもなかった。
ここまで5年間かかった。

全国大会直前、4人の部員が路上で暴れ、交通標識を壊すなどして、近隣住民の通報で警察に補導された。
ようやくつかんだ初花園の舞台。
警察沙汰になったことが学校や大会主催者に知れ渡れば出場辞退になりかねない。
山口良治は、間違った判断とわかっていたが、あえて学校には報告しなかった。
警察署から引き取った後、部員を家に届けた。
そして親の目の前で何度も子供を殴った。
「軽はずみな行動が、どれほどチームに迷惑をかけるか。
強くなればなるほど、それをわからせないといけなかった」
1979年12月30日から始まった全国高校ラグビー大会に伏見工は京都代表として出場し、初めて花園ラグビー場の芝を踏んだ。
そして初戦は新潟工に40対0、2回戦は石巻高に42対3で勝ったが、1980年1月3日、3回戦で前回優勝した国学院久我山高に26対4で負けた。
敗戦後のロッカールームで、3年生の大八木淳史には満足感があったが、2年生の平尾誠二はくやしさに体を震わせた。
「念願の全国大会でした。
臆することなく戦う。
それだけでした。
初出場でベスト8は立派という人もいましたがも、敗戦の悔しさで私のはらわたは煮えくり返っていました」
山口良治の表情は硬く不機嫌だった。
こうして新しい、もっと大きな戦いが始まった。
目指すは全国制覇だった。

目指すは全国制覇

1980年3月20日、平尾誠二が新主将となった伏見工は、近畿大会の決勝で大阪工大高と対戦。
トライを2本奪ったが、1トライ、2ペナルティーゴールを奪われ10対8で敗れた。
試合後、山口良治は平尾誠二を殴った。
「カッとなったのか、平尾が相手フォワード陣の中に突っ込んでいった。
細身の彼には『相手に絶対捕まったらあかん』って教えていたのに。
いくらキックがうまい、パスがうまいといっても、相手に狙われて捕まって足でも踏まれてけがしたらプレーできなくなる。
鬼ごっこのように相手のいないスペースに走れといっていたのに」
小柄な選手が体の大きな相手選手に捨て身で突っ込んでいく行為は気迫のあるプレーかもしれないが、このとき山口良治は
「合理的ではない」
と叱った。
伏見工ラグビーの練習は、量から質へ、根性ラグビーからエンジョイラグビーになっていた。
しかし卒業したOBが練習に参加する合宿は別だった。
彼らは鉄拳制裁を含めて、徹底的に鍛えられた。
だから後輩が楽しげに練習していると不満だった。
「歯をみせるな!」
としぼられると現役部員の顔は苦悶に歪んだ。
こうしてスクラムで絶対に押されないフォワード、パワフルでスピーディーなバックス、そしてフォワードとバックスの中間にポジションをとって指揮する平尾誠二という強力なチームがつくられた。
平尾誠二は試合での状況判断だけでなく、部員をポジティブにコントロールする術にも長けていた。
戦況に応じて各自に責任分担を素早く指示。
そして
「ここはお前に任せる。
頼むぞ」
とすべてを預け
「失敗したら責任は俺がとる。
思い切っていけ」
という。
これで奮起しない部員はいない。
部員も平尾1人だけにやらせてはいけないと思い頑張った。
あるとき京都市東山区の浄土宗総本山知恩院で座禅を組んだ。
「目に見えない力とはなんぞや」
講堂で伏見工ラグビー部員全員が目をつぶり、座禅を組んで、目の前の木魚をたたいた。
「しっかり合わせなさい!」
当初は隣と話す部員もいて一向に終わる気配はなかった。
足がしびれ、苦しくなってきて無心でたたき続けると、気づけば
「ポン、ポン、ポン」
と一定のリズムが刻まれた。
「これや」
無の境地に達したとき、心は1つになることを知った。

山口良治は、強くなってくると必ず出てくる慢心や自惚れなど気の緩みを恐れた。
2学期の中間テストで、1年生部員にカンニング疑惑事件が起き、その部員は下敷きに数字を書き残したまま試験を受けてしまったと泣いて潔白を訴えた。
「この問題は彼1人のものと考えたくない。
みんなで話し合ってくれ」
翌日、グラウンドに行くと全部員が丸坊主になっていた。
「古いことしやがって」
そういいながら山口良治は自分自身にも気の緩みがあったと反省した。
翌日から誰よりも早く出勤し、誰よりも遅く帰った。
一方で部員には
「いかに伏見のラグビーをするかだ」
と自チームのストロングポイントであるフォワードで勝負できるかどうかがテーマであることを伝えた。
そして練習試合で大阪の大工大高、東京の目黒高、久我山高、東北の秋田工、黒沢尻工を破った。
1980年10月17日、栃木国体の決勝で大工大高と対戦。
「大工大高フィフティーン1人1人の能力と我々を比較すると数段彼らのほうが優れています。
体力、パワー、テクニック、スピード、どれをとっても上です。
こんな相手に個々の力で向かっていっても勝てるわけがない。
ではどうするか?
1対1で負けている部分を手の空いている味方が助けにいく。
そうすれば力は対等になり数で勝てます」
平尾誠二は、ミーティングで各自、何をなすべきかを徹底させた。
前半は両チームとも硬く、0対0で折り返した。
後半、伏見工は2トライ、1ゴールで10対0。
大工大高も1トライを返したが、残り時間はわずかだった。
パスを受けた平尾誠二がボールを蹴り出せばノーサイド、かと思われたが、なぜかボールはラインの外に出ず大工大高の中央へ。
攻撃を展開してくる大工大高に焦った伏見工はオフサイドの反則。
そしてゴール真下にトライされた。
こうして主将:平尾誠二の痛恨のミスで同点で両校優勝となった。
単独優勝を逃した伏見工はまるで敗北者のようだった。
「貴重な教訓?
とんでもない!
目の玉の水分が枯れて目が潰れるほど泣きました」
(平尾誠二)
京都に帰ると部室の壁に紙に書いて張ってあった目標は
「全国大会へ」
から
「1月7日決着!」
と変えられた。
山口良治は伏見工ラグビー部OBたちと食事を行った。
そして
「先生、来年の5月、東京に行くんですが一緒に行きませんか?」
と誘われたが笑顔で断った。
「ありがとう。
でも5月はオーストラリアに行っとる」
1月7日の全国大会に優勝すれば、優勝監督は高校日本代表チームのオーストラリア遠征の監督に任命されることになっていた。

第60回全国高校ラグビー選手権大会決勝戦、伏見工業高 vs 大阪工業大学高校


1980年11月、第60回全国高校ラグビー大会の予選が始まった。
伏見工は、立命館高を120対0、絡東高を128対0、絡南高を68対0、そして決勝で花園高を44対4で破り全国大会進出を決めた。
大阪工大高も、1、2回戦不戦勝、豊島高に162対0、守口北高に112対0、布施工に98対0、牧野高に53対3で同じく全国大会へ進んだ。
1980年12月27日、第60回全国高校ラグビー大会が開始。
伏見工は、
長崎南 62対0(12月30日)
西稜商 51対0(1月1日)
秋田工 16対10(1月3日、準々決勝)
黒沢尻工 28対10(1月5日、準決勝)
と勝ち進んだ。
秋田工では自慢のフォワード戦で負け、スクラムトライを奪われた。
フォワード1列目の3名はショックで部屋に引きこもり泣いた。
「ええやないか。
その悔しさを次にぶつけたら」
平尾誠二にいわれ、やっと食事に箸をつけた。
大工大高も
佐賀工 39対14(12月30日)
熊谷工 60対0(1月1日)
関商工 36対0(1月3日、準々決勝)
大分舞鶴 37対0(1月5日、準決勝)
と勝ち上がった。
初戦の佐賀工戦当日、大工大高が泊まっていたホテルのエレベーターが止まった。
定員オーバーのベルが鳴り、係員が走った。
すると今度は警報ベルが鳴った。
エレベーターのドアを内側から押し開けたというアラームだった。
係員が到着し客を誘導すると、エレベーターの中から出てきたのは全員、大工大高ラグビー部員だった。
彼らは定員オーバーで乗った挙句、警報が鳴ったのでドアを強引に開けた。
荒川博司監督の鉄拳が、レギュラーのみならず全部員にも等しく飛んだ。
「思い上がるな。
ホテルはお前らだけのものではない」
荒川博司は天理大学出身で、無名だった大阪工業大学高等学校ラグビー部を全国強豪チームへと育て上げた。
この日、父親を亡くなったが、戦列を離れることはなかった。
大工大高ラグビー部主将:広瀬良治はいった。
「勝つしか監督は親孝行でけへん。
葬い合戦や」

1981年1月6日、19時半、伏見工ラグビー部は旅館でミーティングを行っていた。
「決着つけたる」
「明日はやったる」
昨年の同日、準々決勝で国学院久我山高に敗れた。
1年が過ぎ、伏見工は国体で優勝した。
しかしそれは大工大高との同点優勝だった。
かつて山口良治は大西鉄之助にいわれた。
「諸君こそ、歴史の創造者たれ」
そして今、平尾誠二はこうミーティングを締めくくった。
「さあ、新しい伏見工の歴史を創造するんや」
1981年1月7日、第60回全国高校ラグビー選手権大会決勝戦、伏見工業高 vs 大阪工業大学高校。
伏見工は、前年の59回大会で初出場し、2年連続全国大会出場。
大工大高は、3年連続、9回目の全国大会出場。
試合前、両チームの監督はコメントを求めれれた。
「やっと土俵に上った。
決着をつけるときがきました。
大工大高にはほんとうに貴重なものを教えてもらいました。
近畿大会で負け、国体では引き分け、それも最後の5分で追いつかれた。
勝負は最後の最後までわからんのだいうことを教えてもらった。
今日こそケリをつけます」
(山口良治監督)
「どちらのラグビーをするかで決まるでしょう。
負けないと思います」
(荒川博司監督)
実際、大工大は伏見工に公式戦で1度も負けたことがなかった。
平尾誠二は左大腿にテーピングを巻いていた。
平尾誠二を潰さなければ勝ち目がない敵チームはタックルの集中砲火を浴びせた。
鋭く叩き潰してくるようなタックルを受けて平尾誠二はグラウンドを転げ回った。
そして準々決勝の秋田工戦で左大腿の筋を断裂。
普通なら立つことすらままならない重傷だった。
宿舎に戻って筋肉が固まらないように風呂にぬるま湯を張り足を浸けマッサージし続けた。
2日後の準決勝、山口良治は平尾誠二を外さなかった。

「さあ、手をつなごう」
試合5分前、山口良治はいった。
「ええか、こんな1時間はまたとないぞ。
思い切りラグビーを楽しんでこい。
力いっぱい、お前らのラグビーをやってこい。
頼むぞ!」
「オオッ!」
16人の手が力強く握り合わされた。
笛が鳴り、30人の選手が各々のポジションに散った。
大阪工大高のキックオフは右45度、10m付近に飛んだ。
「とるな」
平尾誠二の指示で伏見工はボールを見送った。
ボールはタッチラインを割り、伏見工得意のスクラムになった。
鎖骨を痛めている高崎利明はボールを持つと中央線まで全力疾走した。
平尾誠二は、その後を走りながら腫れた左大腿をみた。
(最後まで持ってくれよ)
前夜、山口良治には
「痛いやろう。
これだけ腫れているんやからな。
でも俺はお前と心中するつもりや。
もう何もせんでもいい。
立っているだけでもいいから、このチームを勝たせてくれ」
といわれていた。
ファーストスクラムからボールが高崎利明に出た。
平尾誠二はトップスピードで走りながらパスを受け右サイドをついた。
迫ってくる大阪工大高ディフェンスをギリギリまで引きつけパス。
ボールは味方に渡り攻撃を続行したが、大阪工大高のタックルでタッチを押し出された。
ラインアウトのボールを大阪工大高がノックオン。
伏見工ボールのスクラムに変わった。
大阪工大高側のスクラムが潰れ折り重なって倒れた。
伏見工フランカーが飛び出し、ボールをかき出し、高崎利明にパス。
高崎利明は左へ走った。
そして平尾誠二にパスを出そうと思ったが、大阪工大高フォワードが潰れたスクラムが立ち直っていないのをみると、右へ転回。
170cm60kgの小さな体で豪快に突進し、防御をかいくぐり
「ポンッ」
とパントキックを上げた。
インゴールに入ったボールを大阪工大高がかろうじて処理した。
この試合、スクラムでは終始、伏見工が優位にたったため、続くオープン攻撃が次々に展開された。
前半3分、大阪工大高のキックしたボールを奪ろうとした2選手が空中で衝突。
伏見工選手の顔面に大工大高の選手の頭部が当たった。
伏見工の小島信二は倒れたまま、プレーは続行。
14人の伏見工は左に展開し積極的に攻めた。
大工大高のディフェンスをかわし、キックを上げ、ゴールライン手前2mにボールが落ちてバウンドしインゴールへ入った。
伏見工はトライのチャンスだったが大工大高に押さえられた。
瞼を腫らした小島信二が復帰。
レフリーはキャリーバックを命じ、大工大高陣ゴールライン5m手前でスクラムが組まれた。
伏見工フォワードが押し、ボールが出て、高崎利明が平尾誠二にパス。
平尾誠二は敵を引きつけながら、フォローに来た森脇嗣治にパス。
森脇嗣治は右をつくとみせかけ、中央に切り込み、2次攻撃の起点となるためセービング。
森脇嗣治を殺さないためにフォワードがフォロー。
「まわせ」
フランカー西口聡がボールをもぎ奪って突っ込んだ。
大工大高主将、そして高校日本代表の広瀬良治が、その突進を受け止めた。
攻撃権はまだ伏見工にあった。
ゴールラインはすぐそこだった。
「ピーッ」
笛が鳴り、大工大高がオフサイドの反則。
「狙え」
平尾誠二の指示で細田元一が16mのゴールキックを決め、伏見工は3対0とリードした。
(この3点は試合を左右する貴重なものだ。
これで波に乗るんだ。
この試合は両軍の合計点が20点以下で終わる。
どちらかが11点をとればそれで勝ちだ)
山口良治は指を噛んだ。

前半20分、伏見工陣内、伏見工ボールのスクラム。
高崎利明が入れたボールは、再び高崎利明に出て、そして平尾誠二へ。
平尾誠二は数歩前進した後、左へ大きくパス。
パスを受けた栗林彰は、スピーディーにライン際を走ったが、広瀬良治のタックルを受けて地面に落ちた。
そして癖になっている右肩が抜けた。
試合が止まりドクターが入った。
そして肩を入れてもらい立ち上がった。
栗林彰は、成績はトップで伏見工に入学し、
「山口良治はここにしかおれへん」
とラグビー部に入部。
「ラグビーやって成績下がったなんて許さん。
今の成績を3年間成績を通してくれ」
と山口良治と約束し、元陸上部の俊足で活躍した。
肩がこわくてラグビーをやめようと思ったこともあったが、チームメイトに
「アホか、お前は。
ラグビーやって首席で卒業するのがお前の務めやないか」
といわれホロッと涙が出た。
この3年間で一心に情熱を注げば必ず報いられるということを学んだ。
そして同時に二兎を追えないことも・・・
栗林彰は、この日、1月7日限りでラグビーを辞めることを決めていた。
次の人生の目標は、国立大学の工学部に進みエンジニアになることだった。
前半終了間際、
大阪工大高は、伏見工陣内22mでのスクラムから左にオープン。
伏見工ディフェンスがタックルで止めたが、まだ大阪工大ボール。
両フォワードが突っ込んだところで笛が鳴った。
「オーバー・ザ・トップ」
伏見工のフォワードが倒れこんだという反則だった。
十分、狙える距離だったが角度があったせいか大工大高のキックはゴールに届かず、伏見工は押さえ込んで、5mキャリーバックした位置でスクラムとなった。
「サイドを衝くか、インゴールにキックを上げるかでしょう」
テレビ解説者は予想したが、大阪工大高はスクラムから出たボールを直接蹴ってドロップゴールを狙った。
「あっ」
伏見工の意表をついたボールは、しかし右に外れた。
大工大高の攻撃が続き、スクラムから左へボールを展開させたが、パスを受けた選手がボールを前に落としてしまい、伏見工ボールのスクラムになった。
伏見工はスクラムからボールが高崎利明に出て、平尾誠二へ。
平尾誠二は大きくキックしようとしたが、大工大高が、そのボールをチャージ。
ボールはゴールライン上に転がり、両チームがボールに走ったが、伏見工が奪取し蹴り出した。
そして前半が終了した。

山口良治はベンチに帰ってきた選手に指示を出そうとした。
「よし!フォワードは早い・・・」
「はい、わかってます」
平尾誠二が途中で答えた。
山口良治が「早い集散」と指示するのがわかった。
「バックスはここ一発のチャンスを・・・」
「わかってまーす」
全員が答えた。
山口良治はいうべきことを持たず、確かな手応えを感じた。
一方、大工高ベンチは、荒川博司が選手に活を入れた。
「お前たちが負けるわけないだろう。
練習を思い出せ。
やれる。
絶対勝てる」
選手は後半、何をするべきか確認し合った。
「よし、前に出るぞ」
後半が始まった。
風上に立った大工大高はハイパントを多用した。
対する伏見工は強気で攻めた。
「積極的に自分の強いところで勝負する」
どんな状況でも守備に重きを置くラグビーは目指すものではなかった。
大工大高の蹴ったボールをキャッチした伏見工選手が前進したところで笛が鳴った。
タックルに向かう大工大高選手を伏見工選手が邪魔をしたと判断され、オブストラクション(ボールを持っていない相手プレーヤーの動きを妨害する反則)となった。
そして大工大高のキッカーはPK(ペナルティーキック)を決め、3対3となった。
後半17分、左サイドに転がったボールを栗林彰が押さえた。
そしてボールを出そうとしたが、また肩が脱けて動けなくなった。
笛が鳴った。
ノットリリースザボールの反則をとられた。
(ボールを持った選手が倒れてしまったにもかかわらずボールを放さずに持ち続ける反則。
ラグビーは基本的に立っていない選手はプレーしてはいけない。
ボールを持った選手は、倒されたら速やかにボールを放さなくてはいけない)
栗林彰は足を広げて座っていたが、チームメイトが駆け寄ってくると大の字に寝て右腕を預けた。
そして肩が入ると立ち上がった。
この中断の間、山口良治はチームに気合を入れた。
「おい、ここだぞ。
強気で攻めろよ。
勝負は振り出しに戻ったんや。
今、強気で攻めるしかない。
負けてはならん」
「大工大高はお前らには負けないという過信が出てきてる。
その証拠に個々が当たりに出てきただろう。
意地が空回りすると攻撃の歯車が狂う。
強気で攻めろ。
強気で守れ。
各員の意思を統一しろ。
何をするべきかハッキリ自覚しろ」
試合が再開され、大工大高はPK(ペナルティキック)を伏見工陣内に深く蹴りこんだ。
ボールはタッチラインを割らず、再びラインアウト。
投げ込まれたボールは大工大高側に落ち、ノックオン。
大工大高ボールのスクラムになったが、伏見工の強気の守りの前にパスが流れ、ボールはタッチラインを割った。
平尾誠二が自陣30mからキック。
大工大高はこれをチャージし、フォワードが突っ込んでラックを形成した。
「強く当たれ!」
荒川博司が叫んだ。
そして笛が鳴った。
「8番、オフサイド」
伏見工の反則。
残り時間は、ロスタイムを入れて数分だった。
(よし、勝った!)
荒川博司は思ったが、大工大高のPK(ペナルティキック)は飛距離が足りなかった。

終了1分前の劇的トライ

3対3のまま試合は進み、残り時間1分、両校優勝かと思われた。
伏見工のラインアウトでジャンプして捕られたボールは高崎利明へ。
高崎利明は腰を捻って平尾誠二へパス。
平尾誠二は右斜め前にへ走り、自分の右斜め後方を走ってきた味方へパス。
こうして追走してくる味方へボールがが継がれ、走行スピードは増していく。
大工大高ディフェンスは相手の動きとボールの流れを読んでタックル。
伏見工選手は倒されたがまだボールは死んでおらず、後方から味方がバックアップに走りこんできた。
笛が鳴った。
「よし!」
平尾誠二の好判断が生んだチャンスだった。
2分前は同じような状況からパントキックを蹴り、この攻撃ではパスで味方を走らせた。
しかしこのとき左大腿が激しく痛んだ。
(痛い!
でも表情に出したらアカン。
なんでもない、なんでもない)
自分に言い聞かせた。
「その頃には僕がここにボールを出したいと思ったところには必ず平尾がいた。
阿吽の呼吸で、たとえみていなくても、僕が動けば平尾はそこにいる。
不思議とどんなに歓声が大きくても平尾の声と山口先生の声だけはハッキリと聞こえた」
そういっていた高崎利明は平尾誠二の呼吸音で異変に気づいた。
そして味方に目で合図を送った。
(わかってる)
味方も目で応じた。
大工大高のラインアウトは真っ直ぐ投げ入れられず「ノットストレート」の反則になり、伏見工ボールのスクラムになった。
「押せ!」
「キープ!」
バックスに絶好球を出すためにスクラムを組むフォワードは我慢した。
スクラムが崩れボールが外に出た。
「どけっ」
スクラムからのこぼれ球を拾ったフランカーの西口聡が縦に突進。
2人の大工大高選手からタックルを受けながらも、ボールをコントロールし味方のフォローを待った。
バックスは好位置でラインを形成し攻撃態勢を整えた。
高崎利明にパスが送られた。
左に平尾誠二がいた。
2人の目線が交錯した。
(お前を飛ばすぞ)
高崎利明は、平尾誠二を飛ばし、センター細田元一へとパスを放った。
フォローに走れない平尾誠二を味方が抜かしていった。
「頼む!」
平尾誠二がキックするか、パスするか。
それに注意してた大工大高ディフェンスは狂わされ乱れた。
このままタックルにいくか、下がるのか、一瞬の迷いでディフェンスラインは崩壊した。
「倒せ!」
荒川博司が叫んだ。
大工大高ディフェンスはボールを追った。
しかし最後は直前のプレーで左肩を脱臼した栗林彰がパスを受け、大工大高ディフェンスを迫られながら左タッチライン際を駆け抜け、コーナーフラッグの真下に決勝トライを決め、7対3とした。
「やった」
山口良治は体が硬直し歯がガチガチと鳴った。
その後、少しの間の記憶がなくゴールキックを失敗したのを覚えていない。
ロスタイムは続き、大工大高が左サイドへボールを蹴りこみ試合再開。
残り時間は30秒。
ラックからボールがライン外へ出て、大工大高ボールのラインアウト。
正確なスローイングから右へオープン攻撃でゴールに迫った。
そしてゴール前20mでスクラムとなった。
大工大高は素早くボールを出し、上げたキックはタッチラインを切った。
しかし焦った大工大高ボールのラインアウトは「ノットストレート」
伏見工ボールのスクラムとなり、高崎利明は迷わず平尾誠二にパス。
ボールを受けた平尾誠二は、国体決勝の反省を生かし、痛む脚でほぼ真横に蹴り出しキッチリ試合を終わらせた。
ノーサイドの笛が鳴った。
「もう平尾は走れない状態だった。
最後の飛ばしパスも、平尾は足が痛くて遅れていたから、飛ばすしかなかった。
最後に真横に蹴り出して終わったのも、痛くて蹴れなかったから」
(高崎利明)
意識を取り戻した山口良治の体は再び震え、低いうめき声が出た。
赤いジャージが芝生の上で抱き合い、跳び跳ね、叫んでいた。
「戻れ。
挨拶がすんでない」
平尾誠二の指示でバックススタンドへ走った。
山口良治は報道陣に囲まれた。
「この6年間でこんな嬉しいことはありません。
素晴らしいゲームをやってくれて・・・
信は力なり。
そう思っても不安が押し寄せてきて。
それを吹き飛ばしてくれました」
そういった後、両拳を突き上げた。
「勝ったぞぉ」

スクール☆ウォーズ 不良少年を立ち直らせて高校日本一にたどり着いたストーリー

1981年の伏見工の優勝劇は、1984年に「スクール☆ウォーズ」としてドラマ化された。
だが、その裏で山口良治は常に悩みを抱えながら闘っていた。
1979~1983年まで5年連続で全国大会に出場し、1983年は3位となった。
しかしその後は1987年にベスト8になったのを最後に、4年間、全国大会に出ることができなかった。
そして1991年4月、山口良治が倒れた。
突然、目の前が真っ暗になり、気がつくとベッドの上だった。
診断は脳膿瘍。
死ぬ恐れもある手術を受けて、100日間、朦朧とする意識で闘病生活が続いた。
山口良治は、隙をみては病院を抜け出し、伏見工のグラウンドにいった。
そこは何物にも代えがたい場所だった。
病床では山本清吾の時代から15年間続く生徒との日記を書いた。
「初優勝の時に記者に囲まれて『信は力なり』といった。
やるのは生徒。
監督が代わって、パスも、キックもしてやれん。
どんだけ悪いことをしている生徒でもみんな赤ちゃんのときはいい顔をして生まれてくる。
周りにいる大人がその生徒のために尽くせなかったらどうしようもない」
1991年の夏、現場に復帰。
部員と正面から向き合ったが、熱血指導を理不尽とみなし生徒がついてこなかった。
1992年、思い詰めた主将の坪井一剛は体育教官室を訪れた。
「3年生全員で辞めます」
山口良治は、授業中だったが3年生全員を呼び出した。
「ホンマに辞めるんか?」
1人1人の目を真剣にみた。
すると全員が返答した
「続けます」
その冬、伏見工ラグビー部は、5年ぶりの全国大会行きの切符を手に入れた。
1993年1月7日、伏見工は、決勝戦で啓光学園(大阪)と対戦。
病床の山口良治と交換日記を続けた坪井一剛らは躍動した。
8対10でリードされた伏見工は、後半13分、ウイングの安達信貴が逆転トライ。
そして15対10でノーサイドを迎えた。
平尾誠二らが初優勝した日から12年、2度目の優勝だった。
1998年、高崎利明が監督となった。
「僕たちはよく「山口先生と山の天気」なんていっていたんです。
当時はいろんなことがあって機嫌がコロコロ変わるからね。
でもね、間違いなく先生はただ単に生徒を殴りつけていた暴力教師ではなかった。
僕たちに注いでくれた愛情をね。
その本気度を僕たち生徒は感じていた」
2000年、山口良治は総監督として2005年の全国優勝を見届けた。
30人以上のOBが教職に就いていた。
「僕たちが中学生のころから山口先生の教えを受けた先輩が教員としてやって来た。
後輩たちもどんどん教育現場に戻ってきている。
山口先生というダムが水を流し、それをたくさんのOBが川となってその教えをまたつないでいく。
いつの日か先生が亡くなっても築き上げられた人の流れは途絶えることはありません」
(坪井一剛)
2013年、IRB(インターナショナルラグビーボード、国際的な競技の統括団体、現:ワールド・ラグビー)がラグビーを通じて社会貢献した人に贈る「ラグビースピリット賞」を山口良治は日本人で初めて受賞。
授賞理由に
「多くの生徒の人生をより良いものへ変え、当初弱小で荒れていたチームを数年のうちに全国優勝に導いた」
とあった。
不良少年を立ち直らせて高校日本一にたどり着いたストーリーはIRBの機関紙にも掲載され、日本でのラグビーの教育効果が注目された。

もっとやらせたかった。

2016年4月、伏見工は洛陽工と統合され、京都工学院(京都市立京都工学院高等学校)となった。
1、2年生は新校籍だが、3年生は伏見工籍のため、ラグビー部は「伏見工・京都工学院」の名で活動した。
この3年生が引退した時点で、チーム名から「伏見工」の名前が消えることになった。
そして2017年11月12日、最後の3年生が京都大会決勝戦を迎えた。
相手は春の選抜と夏の7人制大会で全国準優勝の京都成章。
山口良治もスタンドから観戦していた。
大方の予想を覆し前半は伏見工が7対0でリード。
しかし後半は地力に勝る相手にひっくり返され、7対22でロスタイムを迎え、伏見工は残りワンプレーで意地のトライを返した。
試合は14対22で負けたが、最後に4度の全国制覇を誇る伏見工の不屈の魂を最後に見せた。
同年10月20日、胆管細胞癌で平尾誠二が53歳で亡くなった。
山口良治は、病気になったことは知っていたが病名は知らされていなかった。
その前年に行われたラグビーW杯イングランド大会で開催地で再会する約束をしていた。
「日本―スコットランド戦の翌日にロンドンにおいしいレストランがあるから食事しましょうということで。
楽しみにしていたら『すみません、ちょっと病気になって入院しないといけなくなって』と連絡があった。
そのときは彼が死ぬなんて思ってなかったから『大事にしろよ』と。
まさか、あんな病気とは」
亡くなった朝、伏見工OBで、同志社大や神戸製鋼でも活躍した細川隆弘から電話がかかってきた。
「細川に『元気にしてるか』って聞いたら、『平尾さんが亡くなられたんですよ』って。
信じられなかった。
親が子を亡くして嘆き悲しむのを見聞きするけど、そんな気持ちだった。
教え子はたくさんいるけど、あれほど関わった子はいなかったから」
約4ヵ月後、神戸市で「感謝の集い」が開かれた。
「0対112で負けてから1年後に花園高を破ったこと。
そして平尾があの決勝に勝って日本一になってくれた。
逆立ちをしても平尾がいなければ優勝することはなかった」
「あんな子と一緒にラグビーがしたくて無理を承知で自宅まで訪ねて行った。
そうして私の夢を選んでくれた。
いろんな経験を伝えてやろうとしたが、たった1つだけ心残りがある。
親よりも先に逝ったらアカン!
そんな大事なことを教えてやることができなかった。
どれだけ悔やんでも、悔やみきれない」
と言葉を詰まらせた。
「平尾のスペースを突く力は、本当に卓越していた。
それを突き詰めようとしたから、進化したラグビーを創造できたんだと思う。
でも(指導者としての)平尾のラグビーは、まだ進行形だった。
もっとやらせたかった。
彼に代わるリーダーが出てくるといいなと思う。
目先のことじゃなくて、未来を考えて創造するリーダーが」

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