清宮克幸 早稲田大学ラグビー部監督1 「OVER THE TOP」

清宮克幸 早稲田大学ラグビー部監督1 「OVER THE TOP」

清宮克幸は、大阪府立茨田高校でラグビーを始め、高校日本代表となった。 そして早稲田大学では、2年生で、伝説の雪の早明戦を勝ち、全国大学選手権を優勝。 そして日本選手権でも社会人チームを破って優勝。 4年生で、主将として全国大学選手権優勝し、日本選手権で神戸製鋼に敗れた。 1990年、サントリーに入社し、ラグビー部主将となり、チームを初の日本一に導き、2001年、早稲田大学ラグビー部監督に就任した。


教師の一言

清宮克幸は大阪府福島区に生まれた。
小学生では野球部、中学ではサッカー部に入り、番長だった。
体が大きくて、力も強く、エネルギーがありあまって、それがどうしても喧嘩に向いてしまった。
しかしそれは弱いものいじめや、多数で少数を痛めつけるようなことはせず、武器は持たず素手と素手の力比べだった。
中学3年生のときに他校の番長と喧嘩し、警察で事情聴取された。
学校に戻ったとき、清宮に担任の女性教師が言った。
「寒くなかった?」
女性教師の目の下にはクマができていた。
普通なら、「理由は何だ?」とか、「どうしてそんなことをしたんだ?」だろう。
もしかしたら「どアホ」だったかもしれない。
この女性教師の言葉と気持ちは、清宮の心にきた。
その後、自宅謹慎中にいろいろと考えていると、自分には親友と呼べる友が1人もいないことに気づいた。
清宮は改心することを決めた。
髪形や服装も改め、勉強をするようになった。
その直後、別の教師が、清宮にラグビーをすすめた。
「ラグビーするなら茨田(大阪府立茨田高等学校)へ行け。」
茨田高校は、比較的、新興の学校だったが、ラグビー部は有名だった。
清宮はここで素晴らしい先輩や同期に恵まれた。

茨田高校ラグビー部監督:吉岡隆は、自主性を重んじ、キャプテンに練習メニューを考えさせ、そのほか何から何まで選手が行うことを望んだ。
練習時間は60~90分。
決して長い時間ではなかったが、過去に何度か花園の全国大会に2回出場していた。
吉岡隆は、清宮の面、体格、センス、その他すべてを認め、1年からレギュラーとして起用した。
清宮は、2年生でオール大阪の代表メンバーにも選ばれ国体に出場し、3年生になると、茨田高校ラグビー部の主将となり、3度目の全国大会出場に大きく貢献した。
そして高校日本代表の主将もつとめた。
そして自分の人生を変えてくれた教師たちを尊敬していた清宮は、教員免許が取れてラグビーが強い早稲田大学の教育学部に進んだ。

雪の早明戦

大西鐵之祐(左)、木本建治(右)早稲田大学ラグビー部監督

1987年、ここ9年の優勝回数は、明治4回、同志社4回、早稲田0回。
完全に置いて行かれた感がある早稲田大学ラグビー部に、あの男が監督としてやってきた。
伝説の早稲田ラグビー部監督:大西鐵之祐の下、熱血主将として名をはせた木本建治である。
木本建治監督は、「先手、展開、連続支配、必殺タックル、荒ぶれワセダ」をテーマに掲げた。
このときの主将は永田隆憲。
また堀越正巳、藤掛三男、今泉清など、かつて高校No.1といわれた選手も戦力にいた。
そして1年生からレギュラーとなり、2年生になった清宮もいた。
「早稲田のラグビー部には、全国から集まった160人の部員がいました。
一番感じたのはその160人の人の熱です。
7軍まであって、下に行けば行くほどたくさん練習するんです。
関西では試合に出る選手が一番多く練習するという考え方が普通でしたから衝撃でした。
これが勝ち続ける理由だと思いました。
私は高校日本代表のキャプテンをやっていたのに最初はロック
(スクラムを組む際、最前列のフォワードを後ろから支えるポジション、チームで最も体の大きい人が任されることが多い)をやらされました。
181cmありましたから私が一番大きいという理由でしょう。
しかし不満に感じることもなく不思議なぐらい素直に受け入れていました。
先輩たちは私には無いものを持っていたからです。
試合当日、先輩たちはロッカールームで朝から一言も話さず、瞑想したり、壁を殴ったり頭付きをして集中します。
それをビッグゲームだけではなくて普通の練習試合でもやるんです。
新鮮な感覚でした。
1軍として出るからには常に1軍らしい試合をしなければいけない。
それぐらい1軍には責任がある。
先輩の姿を見ていれば自然にそういうことが伝わってきました。」

毎年12月の第1日曜日は、早稲田大学ラグビー部と明治大学ラグビー部が激突する早明戦が行われる。
1987年12月6日、早稲田は、ここまで全勝。
明治は、1敗しているものの、優勝への望みを捨てず伝統の一戦にのぞんだ。
未明からの降雪でぬかるんだグラウンドで、早稲田は先制トライをあげた。
しかしすぐに明治も反撃し、逆にリードを奪った。
前半38分、今泉のペナルティゴールで早稲田が追いつき7-7の同点で前半終了。
後半4分、再び今泉がペナルティゴールを決めついに逆転。
後半30分から明治は怒濤の攻撃を開始した。
しかし早稲田は激しいタックルで3点のリードを守り抜き、「雪の早明戦」として語り継がれる激戦を制し、関東大学対抗戦を優勝した。

10年ぶり4度目の大学日本一、そしてラグビー日本一に

1988年1月、早稲田大学ラグビー部は、同志社を破り、大学日本一になった。
それは大学王座から10シーズン見放されていたチームの4度目の日本一だった。
そして大学王者として、社会人王者:東芝府中と対戦。
22-16で勝ち、ラグビー日本一となった。

アクの強さ

清宮は4年生になって主将になった。
同期には森島弘光、前田夏洋といったキャプテンにふさわしい面々もいた。
とくに森島は、品行方正、頭脳明晰、正義感にあふれ、リーダーシップもあった。
2年生からレギュラーとなり、声を出し、最大限の力で練習した。
早稲田スポーツ(早稲田大学の学生新聞)に清宮と森島の比較記事が出たことがあった。
『森島は、全国の娘を持つパパがうちの娘をぜひ嫁にというような好青年。
清宮は、水道橋の場外馬券売り場で赤鉛筆を耳に挟んで歩く姿がよく似合う。』
清宮はこの記事に憤慨した。
しかし後に清宮は就職先にサントリーを選ぶが、その理由はサントリーのグラウンドが府中競馬場の近くだったからだった。
学生時代から麻雀やパチンコでは負けなかった。
ある日、新宿でパチンコをしているとき、いつもスロットマシンで大儲けしているプロ集団の存在に気づいた。
清宮は彼らを斜め横から観察し続け、ある法則に則ってコインを多く出していることを発見した。
それを何度も見て、その仕組みを理解した。
ある日、東伏見にパチンコ屋がオープンした。
そしてそこに同じ機種のスロットマシンがあった。
以来、清宮は勝ち続けた。

「私は高校でも、高校日本代表でも、早稲田大学でもサントリーでもキャプテンになった。
しかし私は初対面の相手にとって非常にとっつきづらい相手らしい。
また下の選手への気配りも足りなかった。
ただキャプテンに選ばれた理由はごくシンプルで、いい意味でも悪い意味でも、清宮を真ん中に置いていないとチームが前に進まない。
清宮をキャプテンにしてないとうるさくてしょうがねえというなアクの強い存在だったからだ。
要するに下級生のころから練習やゲームを仕切りたがったというわけだ。
私が森島に勝っていたのはアクの強さだけだろう。
実際私は練習メニューでも戦術でも自分の思い描く理想と少しでも違っていると納得しなかった。
高校、大学を通じて納得できない指導や練習には監督に対しても上級生に対しても徹底的に質問し反論した。
不合理と感じることに対してはそれを明確にするためにものすごいエネルギーを使った。
先輩や監督に反抗し、無視して自分の納得できるラグビーをやった。
上級生に「走れ」といわれても面と向かって「いやだ」と言っていたし、目的のわからないこと、納得できないことに従うつもりはなかった。
また徒党を組もうとする集団に入るのも拒んだ。
普通だったら口に出せないことでも平気で上級生や監督に意見した。
反骨ではなく反抗といわれるかも知れないが、そういう気持ちはキャプテンになってからも変えなかった。
何かの練習をするときでも、キチンとその目的を説明され理解した上でなければ簡単に人の指示に従おうとは思わなかった。
特に運動部は根性論というか意味なく理不尽なことが起こる。
しかし私は理不尽なことには我慢せずやりあった。
何事も無批判に受け入れない自信、反骨精神、いまやっていることが正しいかどうか自問する力、そんな自己主張があった。」
清宮を主将とした早稲田大学ラグビー部は、全国大学選手権を優勝した。

サントリーラグビー部 初の日本一

早稲田大学卒業後、清宮はサントリーに入社し、2年目に自ら志願してキャプテンになった。
17時30分に仕事を終え、18時くらいに会社を出て、府中のグランドに移動し、19時30分から21時くらいまでが練習だった。
冠婚葬祭以外で練習を休むのは許されなかったが仕事が忙しいときは練習を休んだ。
そのためグラウンドで練習する選手は25人くらいだった。
清宮は、グランドでは、スクラムやラインアウト、コンタクトプレーなどのラグビーの練習を行い、「フィットネスは個人の責任」と、トレーニングは各自に任せた。
そして自身は多摩川沿いの土手をしっかり走っていたが、多くのメンバーがまったくトレーニングをしなくなり、しばらくするとまったく走れないチームになってしまった。
そのためひどい成績でシーズンを終えた。

キャプテン2年目は、早稲田の先輩である宝田雄大をトレーナーとして迎え、フィットネスに着手した。
そして、それまでやったことなかったような科学的に考えられたトレーニングメニューをやり始めた。
例えば走るのでも、長い距離をダラダラ走ったり、ダッシュを繰り返すのではなく、50mを10mまではスロー(ゆっくり走る)、その後ファースト(速く走る)、その後、ミドル(中間スピード)で走ることをインターバルを挟みながら繰り返したり、コーンを置いてジグザグに走ったり、ラダー(ハシゴ状のマス)を置いてステップを踏みながら走るなど管理された計画的なメニューで走った。
筋力トレーニングも科学的、合理的に行われ、当時まだ珍しかった加圧トレーニングも導入され、酸欠で吐きそうになりながらも、体はゴツくなっていった。
そして東日本社会人リーグで2位となり、全国社会人大会はベスト8だった。
キャプテン3年目は、6連覇中の神戸製鋼に対し、トライ数では勝りながらも負け、全国2位となった。

翌年、システムが変わり、東日本社会人リーグ、東日本社会人リーグは、トーナメント戦ではなく総当たり戦で行われ、上位2チームが決勝トーナメント戦に進むことになった。
サントリーはトヨタに負けながらも東日本社会人リーグを優勝。
(従来のシステムなら負けていた。)
決勝トーナメント1回戦の相手は、連覇のかかった神戸製鋼だったが、同点で試合を終え、トライ数で上回ってサントリーが勝ち、次は東芝戦は大差で勝利。
その次は三洋電機戦も引き分けで、サントリーがトライ数で上回って勝ち、社会人日本一となった。
表彰式では、本来ならこの年からキャプテンとなった永友洋司が受け取るはずだったが、前の3年間の清宮が行った改革があってこそということで、みんなが「清宮、行け行け~」という感じで清宮が前に出て賞状をもらった。
表彰式終わると、超満員の花園ラグビー場の観客がグランドになだれ込んだ。
この後、学生王者の明治大学にも快勝し、サントリーラグビー部は初の日本一となった。

招かれざる監督

佐治信忠 サントリー代表取締役会長

2001年1月3日、早稲田大学ラグビー部OB会が、清宮克幸に電話をかけた。
目的は新年度の早稲田大学ラグビー部の監督要請だった。
清宮は、数ヶ月前までサントリーの選手として活躍し、早稲田大学在学中は、2年生時に日本選手権優勝を経験し、早稲田が最後に大学日本一になった1989年度の主将だった。
清宮は、2001年のシーズンで現役を引退することを決めていた。
実業団の選手が引退すると、ラグビーから遠ざかり仕事に集中するタイプと、ラグビーに関わり続けようとするタイプがあった。
清宮は後者で、熱い思いは消えていなかった。
清宮は「やれるかもしれない」と思った。
通常、早稲田の監督の任期は1年だったが、清宮は3年は欲しいと思った。
しかも週末だけのパートタイムの監督ではなくフルタイムでやりたかった。
まず妻に相談した。
今までも家族サービスなどしていなかったため、「これまでと同じ」と快諾された。
次に前監督:益子俊志に会った。
益子は大学の後輩だった。
そしてOB会に会った。
会社に籍を置いたまま、3年間もフルタイムで監督をすることを許してもらえるかわからなかったが、清宮は監督を引き受けることを決意した。
サントリーでは、直属の上司、部長、本部長、人事部と相談し、最終的に佐治副社長(現:代表取締役会長)に呼ばれた。
「どれくらいやりたいんだ?」
「4年あれば・・・」
「4年は長すぎるな。
3年でやってこい。」
こうして清宮は、毎日午前はサントリーで仕事をして、午後は早稲田大学ラグビー部の練習に参加するという生活を3年間送ることになった。

左京泰明

早稲田大学ラグビー部は、監督選定のための面接を行った。
早稲田大学ラグビー部の監督選定はユニークで、まずOB会が複数の候補を推薦し、その候補者の中から現役の選手たちが面接して最終的に1人を選ぶというシステム。
今回OB会が推してきた候補者は、清宮を含めて3人。
清宮も学生たちのヒアリングを受けた。
選手は聞いた。
「どんなラグビーを目指したいのですか?」
清宮は答えた。
「俺はお前たちのことを知らない。
わかるわけがないだろう。」
結果、清宮は落ちた。
選手は別の候補者を選んだ。
その候補者は、バックス出身者だった。
選手たちは、早稲田の伝統である展開ラグビーをしたくて、フォワード出身の清宮を外したのかもしれない。
しかしOB会は、清宮を強く推していたため、2日がかりで選手を説得し、清宮案を了解させた。

勝利の鎖

学生とのファーストミーティングは3月3日だった。
清宮は、自分を否定した後輩に強烈なインパクトを与えようと思い、3月3日まで40日間をその準備期間とした。
自宅の洋室に、ソファー、テレビ、ビデオをセットして『戦略ルーム』と名づけ、前年度の早稲田の試合すべてをチェックした。
そしてボールの動かし方、ミスの回数、連続攻撃の精度などを数値化し、分析した。
分析を終え、今年の早稲田はどんなラグビーをすべきか、そのために何をすべきかハッキリさせた。
ミーティングのテーマは「変化」とし、それまでの早稲田を徹底的に否定することを決め、選手を論破する準備を進めた。
2001年3月3日、清宮と選手たちの最初のミーティングが行われた。
「俺について来い。
お前らを優勝させてやる」
清宮は開口一番いった。
続いて分析シートをプロジェクターで映した。
勝てなかった理由を、数々のデータを分析、数値化して選手にみせ、短く編集したビデオと図で問題点を浮き彫りにした。
選手の表情が変わった。
ミスの回数を数字でみてショックを受けた。
これまでできていると思っていたものを否定された。
「じゃあ、何をどうすればいいのか、これから説明する。」
清宮は目標とそれに到達するための具体的なチームづくり、スケジュールなどを簡素に説明した。
目標は大学選手権優勝で、そのためにこの4年間で3回大学日本一になった関東学院を打倒することが不可欠であると明言した。

ビクトリーチェーン(勝利の鎖)

「激しさ」
「継続」
「高速」
「正確さ」
「独自性」
清宮は、勝つために習得しなければならない要素を単純なキーワード化した。
そして激しさを真ん中に置き、各々を線で結んだ図、「ビクトリーチェーン(勝利の鎖)」をプロジェクターで映し出された。
ビクトリーチェーンの5つのキーワードが強固に結びつき、連結し、大きな輪になっていくことが勝利への道とした。
特に激しさは、走る、パスするなど1つ1つのプレーにおける激しさで他のキーワードすべてとリンクするもの。
実際の試合の戦いでは精神的な部分が大きなウエイトを占めるので、やや抽象的で精神的な激しさが中心に据えられた。
激しさは選手が太く強くしていくものだった。
清宮はミーティングの最後に、
「スタートダッシュ」
「ロケットスタート」
という言葉を使って、一気にトップに上り詰めようと提案した。
このミーティングで、7~8割の選手が清宮の方針に賛同した。

OVER THE TOP

練習初日は、3000m走、50m走、ベンチプレス、スクワットなどの体力測定だった。
清宮はそのレベルの低さに驚いた。
選手はみな体が小さくグラウンド内で清宮が1番大きかった。
総体的に力が弱く足も遅かった。
例えば、50m走なら、清宮の時代の早稲田のレギュラークラスはだいたい6.1~6.2秒。
清宮自身は6.2秒。
6秒を切る選手もたくさんいた。
しかし6.2秒以内は2人だけで、だいたいが6.5秒くらいだった。
ラグビーの基本技術もセンスは感じられず非力で未熟だった。
2001年03月24日、ホームページに清宮はこう記した。

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早稲田大学ラグビー蹴球部監督に就任して

監督を引き受けることが決まって一番に思ったことは、
今の早稲田の常識をひっくり返す(ちょっと大袈裟だが)ことです。
学生が当たり前だと思っていること、良かれと思ってやっていることが、
「実は全く当たり前ではないんだよ、もっと違う常識や、方向があるんだよ」ということを示し、導き、指導していく・・・そんなことでした。
いろいろなことをやっても最終的には結果が出なければ、意味のない世界ですので、あまり大きな事は言えませんが、
私に新チームに期待をかけて頂いている皆様には、以下を私のメッセージとさせていただきます。

2001年度早稲田大学ラグビー蹴球部が掲げる

1.ミッション   ラグビーを通じて世の中に希望と感動を与える
2.ビジョン    創造と鍛錬による常勝集団となり、学生ラグビーのリーダーとなる
3.ゴール    大学選手権優勝    
4.キーワード   継続-高速-精確さ-独自性-激しさ
5.チームスローガン  OVER THE TOP(今ある壁を乗り越えよう、頂点を獲ろう)

応援をいただいている皆様には、是非、東伏見に足を運んでいただき、
今年の学生たちが変わっていく姿を目にしていただきたい。
そして共に、勝利の美酒を(私はあまり飲めませんが)飲みましょう。

                    早稲田大学ラグビー蹴球部監督 清宮 克幸

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「チャンスは何度もない」集中した練習、トレーニングは目的を理解し、目標を決めて、アナログではなくデジタル化(数値化)

清宮はそれまで毎日5~6時間の練習をしていたのを2時間にした。
時間配分を含めて練習メニューをすべて変えていった。
「以前の練習も2時間程度でできる内容だった。
それを細部までこだわり完璧にやろうとするから5時間も6時間もかかっていた。
大きな幹を太くすることだけにこだわって、枝葉の部分はあえて目をつぶるのが1番早く強くなる方法だ。
長い練習時間など必要ない。
チャンスは何度もないという集中した練習が大事である。
例えば、練習でミスが続いたらその時点でその練習を終わらせる。
ダラダラ練習することは決して意味あることではない。
1週間に6日練習するのだから、1日にあまり長くやっていたら緊張感が持続できない。
要は集中力を高め効率よく練習することである。
練習時間が減れば、選手は自分の弱点を補う練習をしたり自主的にやりたいことができるようにもなる。」

トレーニングは、トレーニング目的を理解し、トレーニング目標を決めて、またアナログではなくデジタル化(数値化)して行った。
例えば走るのでも、「グランウンドを○○周」「ダッシュ○○本」などと闇雲に走るのではなく、距離と時間、ワーク・レスト(例えば20秒走って30秒休むなど負荷をかける時間、休む時間のバランス)をしっかり計測して走った。
選手それぞれのレベルに合う負荷がかかるように走る時間、距離、休憩時間をしっかり管理され
ウエイトトレーニングは、「このプレーのためにこの筋肉を鍛える」「そのためにこのエクササイズを採用する」「1ヶ月でこのエクササイズの挙上重量を3kgアップさせる」などというように行われた。
筋力トレーニングは、非常に単調な作業だが、トレーニング結果を数値化して年間、月間データ化すれば、「昨日より今日、今日より明日」とやる気を引き出すことができた。
ラグビーの練習は、基本プレーを反復した。
鋭いステップ、切れ味のいいパスなどはセンスの領域だが、ボールを守り続けるような愚直なプレーは練習すればするほどうまくなる。
この類のプレーを繰り返した。
「ボールを取るときは声を出す。」
「練習中のミスは他の部員がチェックする。」
「相手に向かって真っ直ぐ走ってパスする。」
など、高校生がするような基本を徹底した。
サインプレーはその数を絞り込んだ。
基本的なカットイン、クロスなどのプレーのみ残し、複雑で華麗なサインプレーは捨てた。
パスならパス、ハンドリングならハンドリングと練習の目的を明確にし、最初から絶対的な本数を決めて、絶対にそれ以上やらないようにした。
「練習でさえ自分に何度もチャンスが与えられるわけではないということを選手に知らしめなければならない。」

俺はどっちがいいか迷ったときは若いやつを使う、4年生よ、あがき苦しめ

早稲田ラグビー部は各学年は定員30人までで、春の入部希望者はふるいにかけられる。
仮に落ちても1年間精進し、翌年また新入部員と共にテストを受けることができる。
部員はみな早稲田の赤黒ジャージにあこがれ、早慶戦や早明戦、大学選手権にあこがれている。
チームがAからEまで5チームある。
AチームとBチームがシニア。
CチームとDチームがジュニア。
Eチーム以下がコルツ。
この3部構成で練習を行う。
シニア、ジュニア、コルツの間には目に見えない壁がある。
すべての部員がこの壁を乗り越えようとしている。
週末は各チーム間で交流試合が行われる。
上のチームに上がるためには練習や試合でいいプレーをすれば壁を越えることができる。
AチームとBチーム、CチームとDチームの選手が入れ替わることなど日常茶飯事で、極端な例ではDチームからAチームへ引き上げられるケースもある。
「結果を出せば上がれる」という透明性の高いルールは選手にプレッシャーとモチベーションを与える。
そして清宮は、実力が同じなら若手を起用すると決めていた。
すでに数年鍛えられた4年生より1年生、2年生のほうが将来伸びる伸びシロが大きいからである。
「どっちがいいか迷ったときは若いやつを使う。」
と公言し、チームがギスギスすることを防いだ。

しかし清宮は同時に4年生の「あがき」を奨励した。
この「あがき」は、あきらめが悪いというネガティブなものでなく、最後の最後まで競う、最後の1cmに命を懸けるという意味である。
このあがきが伸びシロを上回るケースもあった。
「本当に競い合った者同士だけが手に入れることができるものがある。
本気で勝負しなかった人間は真の意味での仲間、一生大事にしていける友人をつくることができない。
だから4年生、あきらめず最後の最後まであがき苦しめ。
若いのがどんどん伸びてくるが絶対にあきらめるな。」
4年生の中にも、Aチームで試合に出て大活躍する選手がいれば、下のチームでがんばり将来Aチームでプレーするような下級生に好影響を与える者もいる。
また4年の最後にがんばりを見せてレギュラーの座をつかむ者もいる
4年生がそういうがんばりを見せると下級生は練習であきらめずがんばる。
レギュラーになれない4年生が最後まで意地を見せるから下級生のスタメンは試合で燃えることができる。
あがくに値する舞台さえあれば4年生は進んで意地を見せてくれる。
重要な試合で4年生のあがきに賭けることさえあった。

マメに前言撤回、方向転換

清宮は、いつも努めて選手とコミュニケーションをとり、自分の発想や考えを選手に話した。
それは、しょっちゅう誤りだったり、もっと優れたことを思いついたりする。
すると早々に謝った。
「すいませんでした、皆さん。」
「昨日こう言ったけど間違っていたので昨日の練習は忘れてください。」
「皆さんの時間を無駄にしてすまん。」
選手からいい意見が出たら
「それでいこう。」
と素直に認めた。
大きな方向性や大事な芯はブラさないが、前言撤回や方向転換は頻繁にやった。
いずれにせよ自分の間違いを隠さないようにした。

挑戦状

清宮は目標である関東学院の春口廣監督に挨拶するために電話でアポイントをとった。
春口は、1974年から関東学院大学の指揮を執った
早稲田大学などと違い歴史のなかった関東学院大学は、前を向いて進み続けるしかなかった。
そして1990年代、20年以上かかって、関東学院大学は、大学選手権のファイナリストの常連となった。
関東学院大が上昇すると、早稲田大学は頂から転げ落ちていった。
1989年度の清宮キャプテンの代の大学日本一を最後に、頂点になることはなかった。
そして2001年、清宮が監督に就任した。
春口は、清宮の申し出を断った。
17年前、清宮が高校日本代表としてアイルランドへ遠征したときに春口もトレーナーとして同行していた。
選手の良き兄貴的な存在だった。
試合で唇を切った清宮に春口は病院につきそったこともあった。
流血しながらプレーする清宮を見て春口は思った
「清宮の闘志はすごい。」
少しして清宮は再度、春口にアポイントをとった。
「やっぱり釜利谷(横浜市金沢区の関東学院大学のグラウンド)に行きます。
いいですか?」
「来なくてもいいよ。
どこかで会えるんじゃない?」
春口も再度、断った。
清宮はどうしても直接会って挑戦状を叩きつけたかったので、強引に訪問した。

釜利谷の関東学院は本当にいいチームだった。
チームキャプテンが練習後の後片付けを率先してやっていた。
いかにもラグビーを愛しているようだった。
清宮は春口に監督就任の挨拶と早稲田の挑戦への協力をお願いした。
「早稲田の監督がこんなところまで来てくれるとは、俺も強いチームを持ったもんだ。」
「春さん、今試合したら関東は強いから点差が開くかも知れません。
最初は50点差、その次は30点差くらいかな。
でも最後は早稲田が勝ちますよ。」
一瞬春口の目が鋭くなった。
「春の最終日に練習試合組んでください。」
清宮の依頼に春口は返事した。
「喜んでお受けします。」

4月、練習試合で早稲田は明治に勝利し、関東学院戦に弾みをつけた。
6月、三ツ沢公園で早稲田と関東学院の練習試合が行われた。
早稲田は春先から打倒関東学院で練習してきた。
春口監督の心意気か、関東学院もベストメンバーを組んだ。
早稲田は本気で勝ちに行ったが、まるで歯が立たず、5対57で惨敗した。
選手たちはショックで誰もしゃべらなかった。
清宮はマイナス思考に陥った選手にいった。
「この差を秋のシーズンまでに埋めていくのが俺の仕事だ。
この試合に負けて早稲田は追いつかなくてはならない姿がイメージから実像へ変わった。
俺たちは今やっとスタートラインに立てたんだ。」

トツ

「トツ」こと中村喜徳

中村喜徳は留年していて5年生だった。
由来は不明ながら、あだ名は「トツ」
4年生のときは豊富な運動量と力強いスクラムでレギュラーを張った。
実は復帰したくてたまらなかったが、優しすぎる彼は、自分が復帰することで後輩がレギュラーになれないことを気にしてできなかった。
しかしついに中村は清宮に復帰したいといった。
2001年8月、菅平での夏合宿が行われた。
中村喜徳は、半年のブランクのせいか、なかなかなレギュラーだったころの力を発揮できなかった。
彼の特徴は休むことを知らない連続プレーだった。
タックルして、瞬間的にすぐ起き上がってまたタックルに入り、ラックが形成されればすぐに参加し、ボールが出ればフォローに走る。
復帰後はじめての試合は、3軍レベルの試合だったが、後半から中村が出場すると、前半押されまくっていたスクラムがトツが入るとピタッと止まった。
そして10回プレーがあれば8回はそれに絡んだ。
もののものすごい働きぶりだった。
清宮はミーティングでビデオ編集したトツのプレー集をみせた。
しかし夏合宿の第2クールで、中村喜徳は靭帯を断裂してしまった。
全治2ヶ月。
一大決心したラグビー復帰が、わずか数週間で・・・
しかし中村は強靭な精神力でリハビリに励んだ。
寮にはトツ盛りができた。
普通のご飯の大盛りは丸いが、トツ盛りはとんがっていた。
中村はそれを1日3食、3杯も4杯も食べ、リハビリトレーニングに励んだ。
こうしたトツの努力を後輩は目撃した。
それはチームの精神的な支柱になった。
中村は、精神面でもプレーでもチームを牽引していた。

しぼり

2001年8月21日、早稲田大学と関東学院の練習試合が行われた。
2度目の対戦だった。
前回、早稲田は5対57で大敗した。
それから1ヵ月半、フィットネスやウエイトトレーニングで基礎体力向上に取り組んだ。
4つだったサインプレーも10個になった。
しかし前半終了時に5対31という大差がついた。
後半、関東学院はBチームを出した。
最終的に22-36で早稲田は敗れた。
試合後、「しぼり」という罰則が課された。
選手はひたすら走らされ、清宮が蹴ったボールを走って追って獲らされた。
関東学院の選手たちはそれをみながら笑顔で帰っていった。
科学的にみて意味がない「しぼり」は、現在では行われることはまずない。
清宮は、理論的に選手を納得させることを重要視したが、科学的に意味のないことでも重要なこともあると信じていた。

清宮はサントリーとのパイプもフル活用した。
夏過ぎから月1、2回はサントリーに出稽古した。
初めてのときは重い当たりに弾き飛ばされ3人がケガをした。

分析

試合後のミーティングでは、試合全体を10~15分に編集されたムービーを観た。
またゲーム分析シートが配られた。
シートは、
ボールタッチ数
タックル数
ペナルティ数
などの項目がマス目になっていて、右側がGood、左側がBadになっている。
これが選手ごとにプラスマイナスでつけられている。
チームに単純なミスは消え、軽いプレーが許されない雰囲気ができた。

2001早明戦

秋の関東大学リーグ対抗戦が開幕。
下馬評は、優勝候補は慶応と帝京。
穴は明治と早稲田だった。
2001年9月16日、早稲田大学は東京大学を100対7で圧勝。
2001年9月30日、青山学院大学を125対9。
2001年10月14日、9月に練習試合で関東学院に15対10で大健闘していた帝京大学に27対16。
2001年10月27日、筑波大に62対19。
2001年11月3日、日本体育大学に85対10。
2001年11月23日、すでに明治に圧勝し、過去2年連続で早稲田に勝ち、昨年は全国大学選手権ベスト4の慶応大学に54対21。
2001年12月2日、早稲田大学vs明治大学。
早明戦は、ほかとはまったく違う独特の雰囲気があり、早稲田も明治も、本来の100の力を早明戦では200にした。
明治のフォワードの激しい突進と強烈なタックルで早稲田は防戦一方になり前半を14対22で折り返した。
後半、早稲田は怒涛の反撃を開始し、点差をジリジリつめていった。
終了間際、点差は1点。
ロスタイム、敵陣22mで明治のペナルティで早稲田はチャンスを得た。
早稲田のキャプテン左京はレフリーにゴールキックを狙うことを告げた。
早稲田のキッカーは武川正敏。
「ハ・ズ・セ、ハ・ズ・セ、・・・」
明治ファンの外せコールの中、武川が蹴ったボールはポストの間を通り抜け、ノーサイドの笛。
36対34。
劇的な幕切れだった。
早稲田は11年ぶりの関東大学リーグ対抗戦制覇。
14年ぶりの全勝優勝。

2001年12月16日、全国大学選手権1回戦。
早稲田大学 vs 大東文化大学は、49対24で早稲田の勝利。
2001年12月23日、2回戦、早稲田大学 vs 大阪体育大学。
前半終了時点で大差があったため、清宮はメンバー全員を試合に出して試そうと考えメンバーを交替した。
すると早稲田は、急激にダウンし、単調なアタックとミスが続いた
大阪体育大学は勢いづき、早稲田は足が止まってまったく前に出ず、ディフェンスも崩壊。
大阪体育大学は次々とインゴールに飛び込んだ。
残り5分で11点差になり、ラストプレーで大阪体育大学のウイングがトライ。
なんとか58対54の4点差の逃げ切ったが、もうワンプレーあればどうなっていたかわからなかった。
2002年になり、清宮は監督2年目となった。
そして1月2日、 全国大学選手権準決勝、早稲田大学vs慶応大学。
早稲田は激しさを前面に出して 強烈なタックルを放ち、粘り、突進し慶応を圧し、結果は36対7。
早稲田の選手は激しさと自信を持ってプレーしていた。
いよいよ大学日本一を狙える位置まで来た。
相手はもちろん関東学院だった。
2002年1月5日、ファーストミーティングで行ったのと同じアンケートが行われ、比較された。
アンケート内容は前回とまったく同じだが、回答は1年間続けた練習の成果がしっかり出ていた。

2002年1月7日、いよいよ大学選手権決勝が近づいてきた。
早稲田は
「ラグビーは点を取らなければ勝てない。」
とアタックの練習ばかりした。
早稲田は関東学院と戦えるレベルだが、関東学院は早稲田に比べまだまだ安定感があり崩れないチームだった。
だからコンマ何秒のチャンスをとれるかどうか。
そこが勝負。
タックル練習は5つのダミーに5人がいっせいに突き刺さるのだが、このダミーに関東学院のジャージが着せられた。
チームがフィットネスメニューをやろうとするとき、肉離れをしている中村喜徳が突然いった。
「僕もみんなと同じメニューをやらせてください。」
清宮は止めたが、中村は退かなかった。
清宮を無視して走りこみに加わった。
清宮がいくらダメだといっても、もう休めといっても中村は聞かなかった。
中村の脚は完治していなかったが、勝手に走る中村をみてチームは1つにまとまっていった。
チームのプレーのリストに「トツ」が加わった。
「トツ」は、「さあ素早く動き出すぞ」ということで、その動き出す決意を「トツ」と呼ぶことになった。
タックルで倒れた選手を見たら「トツ」という。
するとその選手はパッと立ち上がって走り出した。

2010年1月11日、全国大学選手権前日、早稲田大学ラグビー部Aチームが最後の練習を行った。
チームアタックから始めて、最後は関東学院のジャージが着せられたタックルダミーに魂を込めたタックル。
その後、BチームとCチームの練習試合が行われた。
そして最後は、全部員がグラウンド中央で円陣を組んで部歌「北風」を歌って練習が終わった。
そして清宮とレギュラー選手は、寮内のミーティングルームで作戦会議をした。
1年間の総決算である明日の試合の確認事項をブリーフィングした。
それが終わると3m四方の模造紙が出された。
清宮がその中央に「荒ぶる」と書いた。
選手はその周りにそれぞれの思いを書いた。
そしてライトアップされた東伏見グラウンドに部員が集まった。
中央には、赤黒のジャージ、塩、水、米、東伏見稲荷神社のお守り、グラウンドの砂があった。
清めの塩と砂を宙にまかれ、背番号順に1人1人にジャージが渡されていく。
お守りは全部員に渡された。
そして全部員と全スタッフが肩を組んで掟破りの「荒ぶる」と歌った。
「荒ぶる」は早稲田大学ラグビー部が日本一になった時しか歌わないと決められた歌。
清宮はその掟を破り優勝のイメージを植えつけた。
『荒ぶる吹雪の 逆巻く中に
球蹴る我等は 銀塊砕く
早稲田のラグビーは 斯界になびき
いざゆけ我らが ラグビー早稲田
ララ早稲田 ララ早稲田
ララララ早稲田』
1950年に早稲田が明治に勝った後、松分光郎キャプテンらが
「優勝時にはこの歌を歌おう。」
と決めたのが始まりである。
早稲田のラガーマンはこの歌に特別の思い入れがある。
「荒ぶる」は早稲田だけが持つ歴史、背景、新興学校では決してつくることのできないかけがえのないもの。
この歌を歌いたいために部員は優勝を目指しているといっても過言ではない。
この歌を歌うとき自分自身のラグビー人生、先輩から自分につながる歴史と伝統を感じることができる。
それは栄光に飾られた勝利の記憶であり、グラウンドに流した血と涙かもしれない。

2002年1月12日、全国大学選手権決勝、早稲田大学 vs 関東学院大学。
今シーズン無敗同士の対戦だった。
国立競技場は45000人が入った。
今シーズンの学生ラグビー界最大の話題は何といっても早稲田大学の復活だった。
清宮新監督の下、積極的な展開から相手を横に揺さぶって走り抜く伝統のスタイルを取り戻し、慶応・明治を連破して関東対抗戦グループ優勝。
大学選手権でも再び慶応を破り、ついに全勝のまま決勝進出を果たした。
その早稲田を迎え撃つのは、ここ4年間3度の優勝を誇る関東学院大学。
巧みで場内はえんじと黒の強いFWと高い個人能力のBKのバランスは学生随一。
ここまで全く危なげなく勝ち上がってきた。
日本ラグビー界屈指の伝統校と新興勢力筆頭の対決であり
低迷からの復活チームと盤石の安定感を誇る王者の対戦でもあった。
関東学院はモールで押しこんでから展開という王道戦法で相手を叩き潰しにかかる。
早稲田は、突進とボールを回してゲインしていった。
両チームの気迫と気迫、意地と意地のぶつかり合った。
両チームともひたすら前進し、ひたすら展開し、ひたすら突進した。
時間が過ぎていくと、反則やミスの数が増えたが、勝利への執念は萎えることはなかった。
43分、ラストワンプレーで、早稲田はPKから迷わず回し、ラックから左に展開。
山下がDFラインのギャップを切り裂いて一気に前進。
山下は追いすがるDFをみて一呼吸おいてから(結果的にはまだ早かったかもしれないが)切り札、仲山へパス。
仲山の前はゴールラインまでポッカリ空いていた。
スタンドは総立ち。
しかし、この最後の最後、ギリギリの場面で冷静に攻撃のコースを読んでいた関東学院のフルバック角濱が仲山へ追いすがり引き倒した。
こぼれたボールを関東学院DF必死にセービングし、ラックが形成され、関東学院によってボールはタッチへ蹴り出された。
ここでレフリーの腕が上がり、終了のホイッスル。
関東学院大学 21-16 早稲田大学。
関東学院大は終盤まで衰えないスタミナと、堅いディフェンスで2連覇した。
立ち上がりは押し込まれる場面もあったが、チャンスを確実にものにし、粘り強い守りで相手の反撃をしのいだ。
早稲田は、フォワードの健闘で、ボール獲得率は高く、攻撃時間も長かった。
しかし要所でのパスミスなどでトライはわずか1つだった。

2002年1月19日、関東学院に負けてから1週間後、ビデオミーティングが開かれた。
試合中、動きが極端に悪い選手がいた。
彼はまもなく卒業する4年生選手だったが、清宮はしっかり言わなければならないと思いいった。
「君の責任で負けた。」
その選手は試合後に1度もゲームのビデオを観ていなかった。
なぜ自分が叱られているのかわからず、顔が真っ赤になり、やがて目が潤んできた。
清宮も、自分が負けにからんでいることが多かった。
大学3年生時の早明戦では清宮のタックルミスで早稲田が負けた。
サントリーでも清宮のペナルティーでチャンスが途切れて負けてシーズンが終わったこともあった。
清宮がキャプテンになった年のサントリーは社会人大会に出られなかった。
しかし清宮は常にポジティブにものを考えることができた。
絶対に、負けたらどうしようと悪いことを考えて、それに備えることはしない。
勝利だけをイメージし、負けたらクヨクヨせず次の糧になることだけを考えた。
ダメなことは何とかしようと思わず、早く見切りをつけてほかの道を考えた。
2002年1月20日、日本選手権1回戦、トヨタ自動車vs早稲田大学。
今シーズンの早稲田の最多失点は大体大戦の54失点。
その次は早明戦の34失点。
しかしこの日は前半だけで早くも35失点。
どうしようもなかった。
この日、早稲田はトヨタに12対77で負けた。
関東学院もクボタに35対85で負けた。

清宮克幸 早稲田大学ラグビー部監督2 「ULTIMATE CRASH」

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