玉置浩二

玉置 浩二(たまき こうじ、1958年9月13日 - )
他アーティストともよく交流しており、井上陽水とは師弟関係ともいえます。
特にASKAとは1993年に活動したUSED TO BE A CHILDを通じて知り合い、同じ1958年生まれということですぐに意気投合しました。CHAGE and ASKAのライブに玉置が飛び入り参加するなど交友が深いです。
2013年にASKAが一過性脳虚血症の疑いから入院したときは、ASKAと同じレコード会社で玉置の友人でもある徳永英明と連絡を取り、見舞いの花束と直筆の手紙を送り激励しました。
2014年にASKAが覚醒剤取締法違反で逮捕された際には「今度こそ一緒に歌おうぜ」と再タッグを呼びかけました。
このように、様々なアーティストと関っています。
井上陽水&玉置浩二『夏の終わりのハーモニー』 2人の天才によって生まれた至極の名曲 - Middle Edge(ミドルエッジ)
歌だけでなくギターの腕前も一流です
作曲、作詞、楽器演奏(主にギター。楽曲によってはベース、パーカッション、ドラムス、キーボード)等マルチプレイヤーとしてもその才を発揮しています。原点は1971年、玉置浩二は中学入学後、すぐにギターを入手したことです。質屋で5千円で買った白いギター。音よりも見た目で飛びついたのでした。
そのギターで最初に弾いたのが『太陽がくれた季節』(青い三角定規)。コード譜などいっさい見ないで、自分で音を探って弾いていました。実際のコードとは違っていたに違いないですが、自分の見つけた自分なりのコードで押し通しました。それが一番の方法だと確信していたのです。今でもその気持ちは変わっておらず、玉置の押さえるコードが普通とちょっと違っているのはそのためです。
主にマーティンやギブソン、バスカリーノなど、名門楽器メーカーのアコースティックギターを、レコーディングやライブで使用しています。このような高価なギターは、汗などによる劣化を避けるため、レコーディングのみで使用される場合が多いのですが、玉置は最高の音をファンに提供するため、惜しみなく使用しています。ちなみに、バスカリーノは生産中止のため、入手が困難になっています。
玉置 浩二の歩み
1958年 昭和33年 9月13日 玉置浩二、生まれる。
祖母が民謡の歌手であった影響から、3歳にして恋愛に関する楽曲を作曲していたといいます。バンドを結成するきっかけとなったのはTVで視たザ・タイガースであることを1982年放送のザ・ベストテンで語っており、その際に沢田研二と念願の対面を果たしています。
1972年 バンド結成
夏のある日、北海道旭川市立神居中学に通っていた玉置浩二は、同級生の武沢豊と、彼の兄・俊也を誘って、ドラマー抜きの3人組アコースティックバンド「インベーダー」を結成します。当時のレパートリーはガロの『学生街の喫茶店』でした。
「いっしょにバンド組もうぜ!」後の玉置浩二を作り出す安全地帯は、彼のこのひと言から始まったのです。

当時の寄せ書き
1973年秋~1976年 ヤマハ ポピュラーソングコンテスト
インベーダーは、メンバー2人を加えて5人組となると同時に、バンド名を「安全地帯」と改めました。そしてその年のヤマハ ポピュラーソングコンテストの北海道地区大会に出場し、優秀賞を獲得します。安全地帯の評判は、地元・旭川を中心に拡がっていきます。そしてついに、1976年10月、安全地帯はヤマハ ポピュラーソングコンテスト つま恋本選会に出場を果たし、その存在感を地元のみならず、北海道内へと拡げていきます。
同じくこの第12回に、なんと長淵剛も九州代表としてエントリーされています。
このコンテストに出場したことをきっかけにデビューしたアーティストは、
■1975年 八神純子
■1976年 渡辺真知子、中島みゆき、因幡晃
■1977年 世良公則&ツイスト、安部恭弘
■1978年 佐野元春、長渕剛、円広志
■1979年 チャゲ&飛鳥、クリスタルキング
■1980年 きゅうてぃぱんちょす(杉山清貴&オメガトライブ)
■1981年 伊藤敏博、アラジン(高原兄)
■1982年 あみん(岡村孝子)
■1983年 TOM★CAT、辛島美登里
などそうそうたるメンバーです。スターの登竜門ですね。
第12回 ポピュラーソングコンテスト - ヤマハ音楽振興会
1978年 ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション
昭和53年 2月
新生・安全地帯は、旭川の郊外、永山にある廃屋を借り、安全地帯専用スタジオにリフォームし、MFP(ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション、「音楽を耕す農夫の集団」)と命名しました。当初は屋根と壁があるだけで、そこに水道を引き、床を張り、壁に防音材を詰めていました(周囲300m四方には家もなかったのに)。改装費用は500万円でほとんどが借金。このスタジオで安全地帯は連日連夜、曲作り、練習、デモテープ作りに励む(かたわらバイトに精を出す)。一日に7~8時間こもることも。
そして、およそ800人が収容できるホールを自分達で貸し切って、定期ライブを開催するようになります。

「音楽を耕す農夫の集団」
そして1978年11月、次のステップとして、東京への進出、プロデビュー考えていた彼らのもとへ、安全地帯のデモテープを聴いた、キティレコードのディレクター・金子章平が訪ねてきます。安全地帯の素直で洗練された音楽に可能性を感じた金子は、頻繁に旭川の彼らのもとを訪ねるようになります。
1981年 井上陽水のライブツアーのバックバンドに
金子章平が、自らがディレクターを務めていた井上陽水を連れて玉置の元を訪れ、彼らは井上陽水と数曲ほどセッションします。そして、その場で金子は、安全地帯を井上陽水のライブツアーのバックバンドとして起用することを決めるのでした。
『井上陽水のバックバンドに、まだアマチュアだった安全地帯を起用した理由は、井上陽水の持っている複雑なニュアンスが入り組んだ表現の美しさに、安全地帯の純粋な想いが込められた音楽が加わることで、お互いにとってプラスに働くと思ったからです」。金子章平は当時のことについて、こう振り返っています。
この時は自分達のデビューに向けたリハーサルも同時並行だったので、ほぼ丸二十四時間音楽漬けの生活を送っていました。こうして、安全地帯は、1982年2月に1stシングル「萌黄色のスナップ」をリリースするのです。

1982年 安全地帯 デビュー
1982年2月に、1stシングル「萌黄色のスナップ」をリリースした安全地帯は、自分達の作品作りをしながら、井上陽水のバッックバンドとしても活躍を続けます。井上陽水のツアーの合間をぬって、10月に2ndシングル「オン・マイ・ウェイ」を、翌1983年1月には1stアルバム『安全地帯ⅠRemember to Remember』をリリースします。しかし、残念ながら、セールスは芳しくありませんでした。
井上陽水のバックバンドとしては、音楽関係者からの注目を集めていました。しかし、アーティスト安全地帯としては、その魅力を発揮することができない彼ら。そこでスタッフは打開策として11月に発売を予定していたシングルの作曲を、井上陽水に依頼することを提案します。しかし、玉置浩二は、それを断り、自ら一週間部屋にこもって、曲を作りあげます。そして、その作り上げたメロディに、井上陽水が、ノート1冊丸ごと使うほど熟慮を重ねて歌詞を綴ります。
こうして、1983年11月、安全地帯4枚目のシングル「ワインレッドの心」はリリースされるのでした。
1983年~1985年 ヒット曲連発、一躍スターに
1983年11月にリリースされた、安全地帯4枚目のシングル「ワインレッドの心」は、セールスチャート1位を獲得し、売上も約71万枚を記録します。その後も「恋の予感」「熱視線」などのヒット曲をリリース。
1985年2月には、武道館での2日間のライブも成功させます。
1985年6月にリリースされた、安全地帯の9枚目のシングル「悲しみにさよなら」は、セールスチャート1位を獲得、約44万枚の売上を記録します。
こうして快進撃は続いていきます。
安全地帯の名曲『碧い瞳のエリス』は商品名をタイトルに含めたCMソングとして誕生した… - Middle Edge(ミドルエッジ)
1986年~2003年 ソロ活動開始と安全地帯の休止
1986年、映画『プルシアンブルーの肖像』で俳優デビュー。
1987年、シングル「All I Do」でソロデビュー。
1993年、安全地帯の活動を休止しソロに専念。
1996年、「田園」が大ヒット。同年末の第47回NHK紅白歌合戦への出場を果たす。バックバンドにTOKIOを据え、59.9%の歌手別最高視聴率を記録。放送後に更に売上を伸ばし、グループ/ソロ通じて初のミリオンセラーを記録しました。
2002年、約10年ぶりに安全地帯の活動を再開。2002年と翌2003年にアルバムをリリースし、ツアーを行う。そして2003年いっぱいで安全地帯の活動を休止する。
2009年、安全地帯復活でファン大歓喜~現在まで
2009年12月25日、所属レコード会社により安全地帯活動再開第1弾シングル「蒼いバラ」のショートクリップが公開。
2010年1月8日、6年ぶりの「安全地帯」活動再開を発表。
2016年、憩室炎のため緊急入院し、約1カ月間の休養に入りました。5月に予定されていた5公演を中止。5月20日に退院。6月2日に活動を再開し、病気の原因の一つが飲酒であることから「一生禁酒」を宣言しました。
いかがでしたでしょうか?
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