デビュー~3歳時
※馬齢の表記ですが、現在の満年齢表記と違い、当時は数え年で表記されていましたので、そのまま数え年表記と致します。
トニービンの初年度産駒として誕生
ウイニングチケットは1990年3月21日、北海道静内の藤原牧場で生まれました。父はトニービン、母はパワフルレディです。父トニービンは現役時代イタリアを主戦場に通算27戦15勝の成績を残し、5歳時には世界最高峰のレース「凱旋門賞」を制覇した歴史的名馬で、日本でのレース経験(ジャパンカップ)もあります。競走馬引退後、社台グループが購入し日本で種牡馬となったトニービン。ウイニングチケットはその初年度産駒です。
デビュー戦は函館競馬場
ウイニングチケットは当時の関西の名伯楽 伊藤雄二調教師に見初められ伊藤厩舎からデビューする事となりました。注目のデビュー戦は9月6日の函館競馬場で、柴田政人騎手とコンビを組み芝1200m新馬戦に出走しましたが5着に敗れました。その翌週、鞍上を横山典に変え連闘で函館芝1700mに出走、見事に初勝利を挙げました。
連戦連勝で一気にクラシック戦線の主役に!
9月のデビュー2戦目で初勝利をあげたウイニングチケットですが、一息入れた年末、葉牡丹賞(500万下)、ホープフルS(OP)を連勝し破竹の3連勝と勢いに乗ります。皐月賞と同じ舞台の中山競馬場芝2000mを連勝し、一躍クラシック戦線の主役に躍り出ました。
クラシックレース戦線
明けて4歳となったウイニングチケットですが、その迫力を増した馬体は充実の一途をたどり、皐月賞のトライアルレースである弥生賞(中山競馬場 芝2000mGⅢ)ではナリタタイシンを抑え1番人気に支持されます。
報知杯弥生賞|1993年03月07日 | 競馬データベース - netkeiba.com
結果は最後方から直線に入り大外を一気にスパートし、ナリタタイシン・ドージマムテキら有力馬をまとめて差し切り快勝!デビュー2戦目からの連勝も4となり、皐月賞制覇に向け大きく弾みをつけました。
3冠レース初戦 「皐月賞」
弥生賞を制し、万全の状態で迎えたクラシックレース初戦「皐月賞」を迎えたウイニングチケットは皐月賞でも1番人気に支持されます。弥生賞では後方待機から直線に入り豪脚でライバルたちをまとめて差し切ったウイニングチケットですが、皐月賞では一転して中団から前目の競馬となり、最後の直線でも伸びを欠きクラシック初戦は4着という結果に終わりました。
皐月賞|1993年04月18日 | 競馬データベース - netkeiba.com
鞍上 柴田政人の悲願 日本ダービー制覇!
皐月賞の敗戦でマスコミから騎乗ミスを指摘され叩かれた柴田政人騎手。次の日本ダービーに対しては並々ならぬ思いがありました。
「日本ダービーに勝てたら騎手を辞めてもいい」
この年45歳になった柴田政人騎手は、盟友ウイニングチケットとともに望むこのレースに、騎手人生の全てを賭けたと言ってもいいほど強い思いで挑みました。
競馬界最高峰のレース「日本ダービー」には当然、他陣営も頂点に立つべく照準を合わせており、後に「3強」といわれるライバル馬、ナリタタイシン・ビワハヤヒデもレースに向け調子は万全です。
2頭の他にもマイシンザン・サクラチトセオー・ステージチャンプなど、強者曲者が揃っています。
レースはマルチマックスがスタート直後に落馬するという波乱の展開で幕を開け、ウイニングチケットは道中中団でじっと待機し、3・4コーナーあたりで仕掛けると、府中の長い直線を一気に駆け抜け見事に日本ダービーを制しました。
東京優駿|1993年05月30日 | 競馬データベース - netkeiba.com

2冠目を狙った菊花賞
ダービー馬ウイニングチケットの次の目標は、もちろん菊花賞を制して2冠馬となることでした。秋競馬緒戦の京都新聞杯は逃げるマイヨジョンヌをなかなか捕えられず、冷や冷やする展開となったが最後はきっちり差し切り見事勝利、菊花賞制覇へ向け弾みをつけました。
いよいよ菊花賞当日、ウイニングチケットは2番人気でした。1番人気に支持されたのは、前哨戦の神戸新聞杯で他馬を寄せつけず圧倒的な強さで勝利したビワハヤヒデです。
レースは逃げ馬不在のスローな展開となり、流れの中で脚を溜めて末脚勝負が持ち味のウイニングチケットにとっては、あまり向いていない展開となりました。
いつもより早めに仕掛けた柴田政人騎手でしたが、スタミナに勝るビワハヤヒデには及ばず結果は3着。この年の3冠レースは皐月賞・ナリタタイシン、日本ダービー・ウイニングチケット、菊花賞・ビワハヤヒデと3強で3冠を分け合う結果となりました。
菊花賞|1993年11月07日 | 競馬データベース - netkeiba.com
4歳秋~5歳 そして引退の時
菊花賞で3着に敗れたウイニングチケットは、中2週空けてジャパンカップ(東京競馬場 芝2400mGⅠ)に出走しました。
結果は優勝馬レガシーワールド、2着コタシャーンに次ぐ3着でした。
更に年末の有馬記念(中山競馬場 芝2500mGⅠ)にも出走しましたが、秋4戦目の疲れもあり結果は11着と惨敗でした。
ジャパンカップ|1993年11月28日 | 競馬データベース - netkeiba.com
有馬記念|1993年12月26日 | 競馬データベース - netkeiba.com
明けて5歳となったウイニングチケット。菊花賞での結果を踏まえて陣営は天皇賞(春)(京都競馬場 芝3200mGⅠ)ではなく、中距離適性を重視し、宝塚記念(阪神競馬場 芝2200mGⅠ)を目標としました。
しかし、この休養期間に主戦の柴田政人騎手の落馬事故が起こり、柴田騎手は頸髄不全損傷ならびに左腕神経叢損傷という重傷を負い、長期休養を余儀なくされてしまいます。
盟友・柴田政人騎手の引退
7月の高松宮杯(中京競馬場 芝2000mGⅡ)で戦線復帰したウイニングチケットですが、その背中には盟友 柴田政人騎手ではなく、柴田政人騎手の甥でもある柴田善臣騎手が。
復帰戦で1番人気に押されたウイニングチケットでしたが結果はまさかの5着。前年の日本ダービーで見せた鋭い末脚爆発は見られませんでした。
自分を男(ダービージョッキー)にしてくれた盟友ウイニングチケットの背中に戻ることを夢みて、懸命のリハビリを続けた柴田政人騎手ですが、その夢はかなわず、同年9月に引退を表明しました。
屈腱炎発症~引退へ
秋緒戦となるオールカマー(中山競馬場 芝2200mGⅡ)に新パートナー武豊騎手を迎え挑み、結果はライバル・ビワハヤヒデの後塵を拝し2着でしたがダービー馬復活の兆しが見えたレースでした。
そして迎えた秋の天皇賞(東京競馬場 芝2000mGⅠ)。ビワハヤヒデに次いで2番人気に支持されたウイニングチケットでしたが、まったく見せ場もなく8着に惨敗・・・。実は、このレース中に屈腱炎を発症していました。
天皇賞(秋)|1994年10月30日 | 競馬データベース - netkeiba.com
右前脚に発症した屈腱炎は重傷で、翌日、ウイニングチケットの引退が発表されました。
わずか2か月前に引退をした柴田政人騎手のあとを追うようにターフを去ったウイニングチケット。
よく競馬用語で「一生に一度の脚を使う」という表現が使われますが、ウイニングチケットの「一生に一度の脚」は、苦楽を共にした盟友・柴田政人騎手の積年の夢を叶えるために日本ダービーで見せたあの豪脚がまさにそうだったのでしょう。
引退後~種牡馬~現在
引退後は種牡馬となったウイニングチケットでしたが、その産駒に大きな活躍はなく、2005年までで種牡馬を引退。産駒の重賞勝ちはヴェルグチケットの1勝止まりでした。
現在は、ヒシマサルとともに「うらかわ優駿ビレッジAERU」で功労馬としてのんびりと余生を送っています。
