世界のバブル経済の歴史

世界のバブル経済の歴史

運河バブル、鉄道バブル、チューリップバブル、ウサギバブル、不動産バブル、ITバブル、サブプライムローンバブルなどバブルは常に別の顔をしてやって来ます。熱狂的な陶酔感による異常な資産膨張(資産価格が実態の価値より大きく乖離して高騰)の発生と崩壊の歴史を振り返ってみましょう。


『チューリップ・バブル』(チューリップ狂時代) ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で1637年に起こった世界最初のバブル経済事件。

1610年代、最初にチューリップの美しさに心を奪われたのは、ゆとりのある植物愛好家たちであった。手に入りにくいチューリップの球根は、当初から高値で取り引きされた。

また園芸家・愛好家たちは自分で品種改良や栽培も行い、多様な名のチューリップが生まれた。「Admiral Liefken」(アドミラル・リーフキン、日本語訳:リーフキン提督)、「Admiral Von der Eyk」(アドミラル・フォン・デル・アイク、日本語訳:フォン・デル・アイク提督)、「Viceroy」(ヴィセロイ、日本語訳:副王)、「Generalissimo」(ジェネラリッシモ、日本語訳:大元帥)などが代表的な高級品種である。

なかでも愛好家たちが絶賛したのは、ブレーキングを起こして紫と白の縞模様の花を持つ「Semper Augustus」(センペル・アウグストゥス、同:無窮の皇帝)であった。単色の品種は安く売買されたが、こうした美しい花の球根は少なくとも1,000フロリンの値がついていた。そしてチューリップの人気が高まるにつれ値上がりしていった。

愛好家たちが絶賛したチューリップの高級品種「Semper Augustus」(「センペル・アウグストゥス」の日本語訳:「無窮の皇帝」)

「投資家の行動とバブルの相関性」 投資による利益は、債券購入や融資を行うことで得られる金利収入、すなわち配当益(インカム・ゲイン)と、土地や株や絵画を売買して得られる売買益(キャピタル・ゲイン)に大別できる。資産バブルは、このキャピタルゲイン投資によって引き起こされる。 債券購入や企業向け融資によって得られる金利収入は、安定して収入を得られる代わりに低利率(ローリスク・ローリターン)で、専業金融家は保有する金融技術を生かしきれない。 資本主義社会では、競争イデオロギーのもと、金融家は預金者・出資者からハイリスク・ハイリターンを求められ、バブルを煽る行動に出るのである。 経済学者の松原聡は「バブルが発生する社会は、将来に期待がもてる社会であり、経済成長の余地があると見られる」と指摘している。 「バブル経済であったか否か」 「急激な資産価格の上昇=バブル経済」と表現されることもあるが、実体経済に合わせてソフトランディングした資産価格上昇はバブルではない。投機による下支えが不可能となり、バブル崩壊が起こって、初めてそれまでの経済がバブル経済であったということが分かる。その意味で「バブルは必ず崩壊する」という表現は、論点先取にすぎない。 ベン・バーナンキは「バブルとは、終わってみないとそれがバブルであったのか、それとも経済のファンダメンダルズを表したものであったのかは解らない」としており、バブルの識別は事実上不可能であるとしている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%96%E3%83%AB%E7%B5%8C%E6%B8%88

バブル経済 - Wikipedia

チューリップの人気に投機家が目をつけたのは、1634年ごろと伝えられる。かれらはチューリップを栽培することや花の美しさに興味はなく、その値上がりを目的として市場に参入していった。

チューリップ人気がライデンからアムステルダム、ハールレムなど他都市に伝わり、需要の増大を見込んで球根の売買を行った。はたして彼らの目論みは当たり、一攫千金をなす者も現れた。高級品種の球根ひとつと邸宅が交換されることもあった。

高価な球根はエース(aas、1エース=0.05g)単位で量られ値がつけられた。そうでない品種は個数売り、さらに安いものは袋づめで量り売りされた。

このときはまだチューリップ取引は球根が現物で売買されていた。また現物取引のため、チューリップ売買が行われるのは冬の間にとどまっていた。しかし過熱するチューリップ人気は、季節を問わず取引できる仕組みを希求していた。

チューリップ愛好家によるパンフレット(1637年出版) 高級品種の球根ひとつと邸宅が交換されることもあった。

チューリップ・バブルの過熱化 チューリップで短期間に莫大な富を得られるという噂が職人や農民などに広がると、かれらが徐々に市場に参入してきた。元手をもたない彼らはまず自分でも買える程度の球根から始めた。その程度の品種でも値は上がり、転売で利益を得る者が続出した。それに伴い、市場に大きな変化が起きた。通年取引とそれに伴う先物取引制度の導入である。 こうした取引は、証券取引所ではなく私設の取引場のある居酒屋で行われた。これがない居酒屋はあまりなかったらしい。取引においては「その時にある品種、ある重量の球根を渡す」と約束し、買い手は球根を受け取る権利を得た。大体手形が使われ、わずかな内金で売買できた。内金は金銀貨等の正貨とは限らず、担保として換金できるものでよかったのである。そのため庶民にまでがチューリップ取引に参加し、それによって需要がふくらみ、安価な品種でさえ高騰した。この先物取引によってたいした元手がない者も投機に参加できた。価格の上昇により、本来の買い手である植物愛好家が買わなくなっていった。特に民衆が取引していた安価な球根は愛好家に見向きもされなかった。 当時の逸話がいくつか残っている。あるイギリス人が、オランダの友人宅を訪ねたが、友人は外出中だった。そのイギリス人は友人の家の中で、変わったタマネギを見つけた。友人が帰ってくると、イギリス人がその球根を切って、中を調べていた。彼は「これは何というタマネギなの?」と聞いた。「それは『アドミラル・フォン・デル・アイク』と言うのだ」「なるほど。これはオランダではよくある品種なの?」友人はイギリス人の襟首を引っつかみ「俺と一緒に、役人のところに行けばわかるさ」と答えた。イギリス人は監獄に入れられた挙句、弁償に金貨2,000枚を支払わされた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%96%E3%83%AB

チューリップ・バブル - Wikipedia

1637年2月3日、チューリップ市場が突然暴落する

『南海泡沫事件』(なんかいほうまつじけん) 1720年にグレートブリテン王国(イギリス)で起こった投機ブームによる株価の急騰と暴落。

南海泡沫事件(なんかいほうまつじけん、英語: South Sea Bubble)は、1720年にグレートブリテン王国(イギリス)で起こった投機ブームによる株価の急騰と暴落、およびそれに続く混乱を指すが、主に損害を蒙ったのはフランスであった。ロバート・ウォルポールがこの混乱を収拾、政治家として名をあげる契機となった。バブル経済の語源になった事件である。

『南海泡沫事件』イングランド人画家エドワード・マシュー・ウォード(英語版)による作品

南海会社(英語: The South Sea Company, 南洋会社とも)は1711年にトーリー党の指導者で大蔵卿ロバート・ハーレーによって、グレートブリテン王国 (イギリス) の財政危機を救うため、国債の一部を南海会社に引き受けさせ貿易による利潤でそれを賄うことおよびスペインとのユトレヒト条約で得たアシエントの権利によりスペイン領西インド諸島との奴隷貿易を行うという目的で設立された。

密貿易やスペインとの関係悪化・海難事故等で本業はいっこうに振るわず、国債を引き受けるどころか南海会社の経営そのものも危うくなりつつあった。1718年には四カ国同盟戦争が始まりスペインとの貿易が途絶した。

追い込まれた南海会社が1718年に発行した富くじが大成功をおさめたことが南海会社を金融機関に変質させる端緒だった。

1719年、巨額の公債引き受けの見返りに額面等価の南海会社株を発行する許可をイングランド銀行との熾烈な入札競争の末に勝ち取った。これが南海計画である。

しかし南海計画はこの時点で破綻が予定されていた。イングランド銀行との競争のなかで積み上がった750万ポンドの上納金という重すぎる負担は南海会社にとってハイリスクな一発勝負しか残されていないことを示唆していた。そこで南海会社は以下の技巧で利潤を生み出そうとしていた。

1)株と国債の交換は時価で行う。すなわち、南海会社の株価が額面100ポンドにつき市場価格200ポンドの場合、200ポンドの国債1枚と南海会社株100ポンド分で等価交換となる。

2)しかしながら発行許可株数は交換額に応じている(200ポンド交換した)ので額面200ポンド分の株が発行できる。すなわち、交換しても手元に100ポンド分、時価200ポンド分余ることになる。

3)これを売りに出すと売り上げの200ポンドはそのまま南海会社の利益となる。

4)上記の方法で南海会社の利益があがると、当然株価が上昇する。
1に戻る。

以上の手順を繰り返すと無限に株価は上昇し、南海会社は利益をあげ続け、株保有者はみるみる豊かになっていく、これが南海計画であった。

南海会社(1831年)

空前の投機ブーム
当時のイングランド中産階級が投資先を探している状態で市場に資金がだぶついていた。南海株式会社は本業の貿易活動は全く振るわなかったが、国債引き受け会社として成長し、わずか数ヶ月の間に株価が10倍にも高騰した。貴族・ブルジョワジー・庶民の階層を問わず株についての十分な知識もない人々がこぞって投機熱にのぼせ、空前絶後の投機ブームが起こった。

これに便乗するかたちで当時設立が許可制だった株式会社もまた無許可で作られた。いわゆるヤミ会社の株価も一気に跳ね上がった。そのほとんどは真剣に事業を興そうとする起業家たちであり、その業容もロンドンへの石炭供給事業や石けん製造技術の改良事業など、前産業革命期イギリス産業の発展の度合いを垣間見ることができるものであった。とはいえ、こういった真面目な事業の投資募集ばかりでなかったことも確かである。

価格の変動

南海会社の株価推移
1株あたりの価格は1720年1月には100ポンド強であったものが5月には700ポンドになり、6月24日には最高値1050ポンドをつけた。

これに押されるかたちでイングランド銀行やイギリス東インド会社などの株価も高騰を始めた。政府の許可なしにこうした会社を作ることは禁じられていたが、無許可の会社が乱立する事態に及んで政府も規制に乗り出した。

6月24日に泡沫会社規制法、8月24日には告知令状を出すと市場は沈静化に向かっていった。しかし、事態は沈静化にとどまらず、あらゆる株価が暴落するという恐慌に陥った。

南海会社の株価推移

『ミシシッピ計画』(1720年代初頭)

1717年8月、スコットランドの実業家ジョン・ローが、当時は誰からも見放されていたミシシッピ会社の経営権を入手し、西方会社(Compagnie d'Occident)と名を改めた。当初のジョン・ローの狙いは、フランス領ルイジアナ植民地など、ミシシッピ川の流域のほとんどを含む北アメリカのフランス植民地との貿易にあった。

西方会社の経営権を入手したことで、フランス政府は北アメリカおよび西インド諸島との貿易に関する25年の独占権をジョン・ローに対して保証した。1719年、西方会社は東インド会社、中国会社、その他のフランスの貿易会社を併合してインド会社(Compagnie des Indes またはCompagnie Perpétuelle des Indes)となり、またジョン・ローが総合銀行(Banque Générale)として1716年に設立した王立銀行(Banque Royale)までも所有するに至った。

ジョン・ローは、ルイジアナの富を巧みなマーケティング戦略を用いて宣伝した。その結果1719年にインド会社株に対しての熱狂的な投機買いが起こり、株価は500リーブルから1万リーブルまで高騰した。しかし、1720年の夏にかけて急激な信用不安が起こったため、1721年には再び500リーブルまで下落した。1720年、摂政フィリップ2世はジョン・ローを解任し、同年12月20日、ローはフランス国外へ逃亡した。

スコットランドの実業家ジョン・ローがフランス領ルイジアナ植民地を巧みに宣伝する

ミシシッピ会社の発行済株式の量は、1720年には50万株程度だった。すなわち株価が1万リーブルだった時の会社の時価評価額は50億リーブルとなる。株価が500リーブルまで崩壊した1721年9月時点では、時価評価額は2億5千万リーブルにまで下がった。ちなみに、当時のフランス政府の歳出規模は1億5千万リーブル(1700年)で、政府の負債額は16億リーブル(1719年)であった。

政府とジョン・ローは16億リーブルの政府負債の全てを会社の株式で買い上げることにした。この計画は成功した。政府の負債の債権者達は、債権や手形でこの株を購入し、1720年には政府の全負債はこの会社に移った(債権と資産の変換)。

これによって、元の政府に対する債権者が今度はこの会社の所有者(株主)となったが、会社経営は政府によってコントロールされていた。政府は毎年3%にあたる4千8百万リーブルの利息を支払った。

これによって、政府は歳入の10倍(GDPの約2~4倍)もの多額の債務の返済を一時的に免れ、債務免除されたような状況になった。この成功によって株価は高騰したが、その後1720年から1721年にかけて、この会社の市場からの資本調達が破綻した。

インド会社の株券

『運河バブル(キャナル・マニア (英: Canal Mania、「運河狂」「運河熱」の意))』(1790年代)

運河(うんが)とは、船舶の移動のために人工的に造られた水路であり、河川・湖沼を利用しているものもある。鉄道同様経路中に、橋梁や隧道なども見られる。産業革命以前は船舶を騾馬などが牽引したため、経路に沿って曳舟道(トウパス、towpath、船曳道、牽引路)が設けられている。

1761年、ワースリー炭鉱を所有していた第3代ブリッジウォーター公爵フランシス・エジャートンが、炭鉱とマンチェスターを結ぶ運河を建設し、更に6年後には技師ジェームス・ブリンドリー(en)の助力を得て4年間の工事の末にこれをリヴァプールのマージー川河口にまで伸ばした(ブリッジウォーター運河(en))。

これによってマンチェスターでの石炭価格は半減し、石炭輸送費の大幅な削減と大量輸送に成功したブリッジウォーター公は莫大な収益を得た。

その後、ブリンドリーは、「大幹線運河(Grand Trunk Canal)」構想を立ち上げ、その基礎となる延長150kmのトレントマージー運河(en)の建設に乗り出した。

ブリッジウォーター運河の成功を見た投資家たちの支援を得て建設は順調に進んだ。ブリンドリーは1772年に没したが、その後継者たちによって1777年に運河は全通し、以後イギリス各地で運河建設が進み、特に1790年代前半には「運河熱(canal mania)」と呼ばれる投資ブームが発生した。

イギリス最初の近代運河である「ブリッジウォーター運河」。1790年代前半には「運河熱(canal mania)」と呼ばれる投資ブームが発生した。

運河の開通によって従来陸上輸送が困難であった穀物・鉄鉱・石炭・陶土・塩・食料品などの物資の輸送が低廉かつ大量に行えるようになった。

種類によって差はあるものの、運河による水運の輸送費は陸上のそれの3割程度であったと言われている。また、輸送費の低減は市場の拡大にもつながった。

更に交通の利便が良くなり、未開地の開発が新興するとともに新たな都市が成立し、人口分散を促した。そして、運河自体の建設・維持管理や橋梁・艀・ボート(ナロウボート)などの関連物の製造のために技術者育成が行われ、雇用が創出された。

こうした状況は産業革命の展開のための基盤整備につながり、また更なる運河への建設と投資につながった。

ブリッジウォーター運河(マンチェスター市内)

各運河は各地の企業家や貴族が思い思いに建設したために規格が統一されておらず、航行できる船のサイズがまちまちであるなど障害も多かった。

このため、1825年に最初の蒸気機関車による鉄道が開通するとすぐに鉄道網がイギリス全国に張り巡らされるようになり、運河は急速に重要性を低下させていった。

イギリスのサマセット石炭運河

『鉄道バブル(鉄道狂時代・レールウェイ・マニア)』(1840年代) イギリスで鉄道会社の株に投資が殺到した。

ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道(ストックトン・アンド・ダーリントンてつどう、英 S&DR: Stockton and Darlington Railway)は、1825年に開業した世界で最初の蒸気機関車を牽引に使用した公共用鉄道である。

この年にはイングランド銀行の株式市場で混乱がおきている。欧州全体が不況となる中で開通したこの鉄道は、海外の投資から還流した資金を吸収してイノベーションを促した。

ジョン・ドビン(John Dobbin)によるストックトン・アンド・ダーリントン鉄道の開業、1825年

リバプール・アンド・マンチェスター鉄道(リバプール・アンド・マンチェスターてつどう、英 L&MR: Liverpool and Manchester Railway)は、世界で最初の実用的な蒸気機関車を用いた鉄道である。

全ての列車が時刻表に基づいて運行され、ほとんどの区間で蒸気機関車が牽引する都市間旅客輸送鉄道であった。リバプール・アンド・マンチェスター鉄道は、リヴァプールの港とマンチェスターとその周囲の北西イングランドの町の工場を結んで、原料と製品をより高速に輸送できるように建設された。

リバプール・アンド・マンチェスター鉄道(L&MR)のために製造された初期の蒸気機関車「プラネット」の模式図

リバプール・アンド・マンチェスター鉄道の開業記念列車

プラネット(Planet)は1830年にロバート・スティーブンソン社によってリバプール・アンド・マンチェスター鉄道(L&MR)のために製造された初期の蒸気機関車である。

マンチェスター科学産業博物館で運転される「プラネット」の複製機

『ウサギバブル』(1872年(明治5年) - 1879年(明治12年)) 日本の軍需の為の食肉毛皮需要によるウサギ飼育ブーム。

『ウサギバブル』時には、子ウサギはコロと呼ばれ10円 (現在の価値で約90万円) 以上の値が付いた。

「大戦景気」「大正バブル」 ヨーロッパを主戦場とした第一次世界大戦の影響により、その圏外にあった日本の商品輸出が急増したため発生した空前の好景気(ブーム)。

1914年7月、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、当初は、為替相場が混乱し、ロンドンを中心とする国際信用機構の機能が妨げられたことや製品の海上輸送が困難さを増し、工業原料の入手も困難になったことなども加わって一時的に恐慌状態となり、繭価格が暴落した。

大隈内閣は、救済に乗り出し、全国蚕糸業者大会の陳情をいれて政府が500万円を出資、帝国蚕糸株式会社を設立して滞貨の買い入れにあたらせた。

しかし、一時は深刻な不況にみまわれた日本経済も、翌1915年(大正4年)の後半から好況に転じはじめた。ロシア帝国やイギリスなどの交戦諸国は、不足する軍需品などの供給を日本に求めた。

また、アジア市場からヨーロッパ製の商品が後退したあと、日本の商品に需要が高まり、一時的にではあったが、日本がアジア・アフリカの輸出市場を独占したことで空前の好況を呈することとなった。

特に鉱山、造船、商事の3業種は花形産業として潤った。年5割や年7割などの配当をする会社もめずらしくなく、株式市場も活況を呈し、にわか成金が続出した。

この結果、日本政府と日本銀行の保有する正貨(本位貨幣、金本位制においては金貨、金地金および金為替)は、1914年から1918年(大正7年)のあいだに約3億4,000万円から約15億9,000万円に増加し、世界大戦前まで約11億円の債務国(1914年)だった日本は、1920年(大正9年)には27.7億円以上の対外債権を有する債権国に転換した。

産業構造では、農業国から工業国へと脱皮し、さらに重化学工業化の進展がみられた。工業生産は急激に増大し、工場労働者は100万人をうわまわった。

ヨーロッパを主戦場とした第一次世界大戦の影響により、日本の株・土地・商品の上昇し、にわか成金が続出した。

『世界恐慌』(1929年)

ウォール街大暴落(ウォールがいだいぼうらく、Wall Street Crash)は、1929年に発生した株価大暴落である。単に株価大暴落(Stock Market Crash)、大暴落(Great Crash)ともいう。ペコラ委員会によって原因が調査された。一般には世界恐慌のきっかけとされている。

最初の暴落は1929年10月24日(木曜日)に起こったが、壊滅的な下落は28日(月曜日)と同29日(火曜日)に起こり、アメリカ合衆国と世界に広がる前例の無い、また長期にわたる経済不況の警鐘と始まりに急展開した。株価大暴落は1か月間続いた。

「暗黒の木曜日」(1929年10月24日) 1929年の大暴落の後でウォール街に集まる群衆。ウォール街周囲は不穏な空気につつまれ、400名の警官隊が出動して警戒にあたらなければならなかった。

ダウ工業株平均が6年間上がり続けて当初の5倍になり、1929年9月3日に最高値381.17を付けた後で、市場は1か月間急降下し、下げ初めから見れば17%下落した。

株価はその後の1週間以上にわたって下げ幅の半分を回復したが、その直後にまた下落するだけだった。下げ基調は加速し、大暴落初日となった1929年10月24日の、いわゆるブラックサーズデーを迎えた。その日は当時の記録破りとなる1,290万株が取引された。

シカゴとバッファローの市場は閉鎖され、投機業者で自殺した者はこの日だけで11人に及んだ。この日は木曜日だったため、後にこの日は「暗黒の木曜日(Black Thursday)」と呼ばれた。

週末に全米の新聞が暴落を大々的に報じたこともあり、28日には921万2800株の出来高でダウ平均が一日で13%下がるという暴落が起こり、更に10月29日、24日以上の大暴落が発生した。

この日は取引開始直後から急落を起こした。最初の30分間で325万9800株が売られ、午後の取引開始早々には市場を閉鎖する事態となった。当日の出来高は1638万3700株に達し、株価は平均43ポイント下がり、9月の約半分になった。一日で時価総額140億ドルが消し飛び、週間では300億ドルが失われた計算になった。

10月29日は後に「悲劇の火曜日(Tragedy Tuesday)」と呼ばれた。投資家はパニックに陥り、株の損失を埋めるため様々な地域・分野から資金を引き上げ始めた。そしてアメリカ経済への依存を深めていた脆弱な各国経済も連鎖的に破綻することになる。

ウォール街大暴落 (1929年) ダウ工業株平均の推移、1928年-1930年

1932年後半から1933年春にかけてが恐慌の底辺であり1933年の名目GDPは1919年から45%減少し、株価は80%以上下落し、工業生産は平均で1/3以上低落、1200万人に達する失業者を生み出し、失業率は25%に達した。

閉鎖された銀行は1万行に及び、1933年2月にはとうとう全銀行が業務を停止した。家を失い木切れで作った掘っ立て集落は恨みを込めて「フーバー村」と呼ばれ、路上生活者のかぶる新聞は「フーバー毛布」と言われた。

世界恐慌初期の取り付け騒ぎ時にニューヨークのアメリカ連合銀行に集まった群衆

『列島改造ブーム』(1970年代) 田中角栄元首相が打ち出した日本列島改造論により土地投機ブームが発生した

日本列島改造論で開発の候補地にあげられた地域では土地の買い占めが行われて、地価が急激に上昇した。この影響で物価が上昇してインフレーションが発生し、1973年春頃には物価高が社会問題化した。

出典 日本列島改造論 - Wikipedia

田中角栄著 日本列島改造論

『ブラックマンデー』(1987年)

ダウ30種平均の終値が前週末より508ドルも下がり、この時の下落率22.6%は、世界恐慌の引き金となった1929年の暗黒の木曜日(ブラック・サーズデー、下落率12.8%)を上回った。

翌日アジアの各市場にこれが連鎖。日経平均株価は3,836.48円安(14.90%)の21,910.08円と過去最大の暴落を起こした。

更にヨーロッパの各市場へもつながってゆき、世界同時株安となった。日経平均株価については翌日2037.32円高(9.30%)となっている。これは上昇幅で当時の歴代1位、上昇率で当時の歴代2位の記録である。

ブラックマンデー(英語: Black Monday)とは、1987年10月19日に起こった、史上最大規模の世界的株価大暴落。暗黒の月曜日(あんこくのげつようび)ともいう。

ダウ30種平均の終値が前週末より508ドルも下がり、下落率22.6%にも達した大暴落。

大混乱の1987年10月19日のNY証券取引所

日本経済のバブル発生と崩壊「平成の資産バブル」(1980年代後半から90年代前半)

日本では、1973年12月以降の安定成長を経て、1985年9月、プラザ合意がバブル景気の直接の引き金となった。日本経済は空前の好景気を迎え、株式市場も日経平均株価30,000円の大台を超えた。その後の失われた20年は、日本経済への打撃をそのまま示すものであった。

バブル景気(バブルけいき、英: bubble boom)は、景気動向指数(CI)上は、1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までの51か月間に、日本で起こった資産価格の上昇と好景気、およびそれに付随して起こった社会現象とされる。

情勢自体はバブル経済と同一であり、平成景気(へいせいけいき)や平成バブル景気(へいせいばぶるけいき)とも呼ばれる。日本国政府の公式見解では数値上、第11循環という呼称で、指標を示している。

ただし、多くの人が好景気の雰囲気を感じ始めたのはブラックマンデーをすぎた1988年頃からであり、政府見解では、1992年2月までこの好景気の雰囲気は維持されていたと考えられている。

日経平均株価は、1989年12月29日には史上最高値「38,915.89円」をつける。1990年1月4日の大発会から株価の大幅下落が始まる。

日本では、1986年12月-1991年2月までの株式や不動産を中心にした資産の過度な高騰、経済拡大期間を指すことが主である。目安となる指標も多く存在し、景気動向指数(CI・DI等)、土地価格(公示価格・調査価格の6大都市、地方、平均値等)、株価、GDP(総GDP伸び率等)、消費者物価、民間消費支出等どれを基準にするかということと、政府見解により諸説は左右される。

1980年代後半には、東京都の山手線内側の土地価格でアメリカ全土が買えるという算出結果となるほど日本の土地価格は高騰し、日経平均株価は1989年(平成元年)12月29日の大納会には、史上最高値38,957円44銭を付けるなどし、資産価格のバブル化が起こっていた。このことを指して「バブル経済」と呼ばれる。

「不動産バブル」 1980年代後半には、東京都の山手線内側の土地価格でアメリカ全土が買えるという算出結果となるほど日本の土地価格は高騰した。

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2026年5月5日、グランドプリンスホテル広島にて「昭和100年」を記念したスペシャルイベントが開催される。広島発の4人組ボーカルグループ「TEPPAN」による昭和歌謡ライブに加え、夜空を彩る打ち上げ花火も予定。ライブ観覧は無料。さらにホテル上層階のレストランではCD付きの特別ディナープランも登場する。


樋屋奇応丸の倉庫から幻の音源発見!デューク・エイセスが歌う昭和のCMソングが高音質で蘇る

樋屋奇応丸の倉庫から幻の音源発見!デューク・エイセスが歌う昭和のCMソングが高音質で蘇る

「ひや・きおーがん」のフレーズで親しまれる樋屋製薬の社内倉庫から、長らく歌唱者不明だった過去のCMソング音源が発見された。調査の結果、昭和を代表するコーラスグループ「デューク・エイセス」による歌唱と判明。当時のクリアな歌声を再現した「高音質版」が公開され、昭和歌謡ファンを中心に大きな話題を呼んでいる。


福岡の食のテーマパーク「直方がんだ びっくり市」が50周年!大盛況で幕を閉じた「半世紀祭」をレポ

福岡の食のテーマパーク「直方がんだ びっくり市」が50周年!大盛況で幕を閉じた「半世紀祭」をレポ

1976年の創業から50周年を迎えた福岡県直方市の「直方がんだ びっくり市」にて、2026年4月17日から19日までアニバーサリーイベント「半世紀祭」が開催された。銘柄牛が50%OFFになる「肉袋」や名物セールの復活、地元ヒーローの参戦など、半世紀の感謝を込めた熱気あふれる3日間の模様を振り返る。


『メタルスラッグ』シリーズ30周年記念プロジェクト始動!新作開発や特設サイト、記念映像が一挙公開

『メタルスラッグ』シリーズ30周年記念プロジェクト始動!新作開発や特設サイト、記念映像が一挙公開

アクションゲームの金字塔『メタルスラッグ』が2026年4月19日に誕生30周年を迎えた。株式会社SNKはこれを記念し、シリーズの再燃・リブートを掲げた記念プロジェクトを始動。新作ゲームの開発を含む多彩な企画の推進や、歴史を振り返る記念映像の公開、特設サイトの開設など、世界中のファンへ向けた展開が始まる。


山下達郎ソロ・デビュー50周年記念!JOURNAL STANDARDとコラボした限定Tシャツが発売

山下達郎ソロ・デビュー50周年記念!JOURNAL STANDARDとコラボした限定Tシャツが発売

ソロ・デビュー50周年を迎えた音楽界のレジェンド・山下達郎とJOURNAL STANDARDが特別なコラボレーションを実現。1stアルバム『CIRCUS TOWN』収録の名曲「WINDY LADY」をテーマにしたTEEがリリースされる。音楽史に刻まれた名盤の空気感を纏える、ファン垂涎の記念アイテムが登場だ。