はじめに
2010年1月、テレビ朝日「アメトーーク!新春ゴールデンSP」で、人気企画「俺たちのゴールデンプロレス」が放送されました。個性的なレスラーたちが続々と紹介される中、少し違う趣で放送されたのが、大谷晋二郎選手の活動に密着したドキュメントでした。
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とかく「レスラーいじり」で笑いを取る「俺たちのゴールデンプロレス」において、「いじめ撲滅」のために真摯に活動する大谷選手を取り上げたのは異例のことと言ってもいいでしょう。
一方、このドキュメントでは、もう一つの、いや、むしろこちらが大谷選手の本質である場面もしっかり映し出していました。すなわち「熱い男」。目の前の強大な敵に全力でぶつかる、その姿勢はプロレスによって培われたもの。そして、誰よりもプロレスの力を信じているのが、大谷晋二郎なのです。
そんな「日本一熱いプロレスラー」の足跡をたどります。
子どもの頃から熱かった!
大谷晋二郎選手は1972年7月21日生まれ。山口県山口市の出身です。意外なことに、幼少期は病弱だったそうですが、そんな大谷少年を勇気づけたのが、プロレスでした。
21世紀の骨のあるヤツ
病弱だったにも関わらず、新日本の県内大会には毎回応援に出掛けた。頭に鉢巻き、足にレガース、手にはノボリを握り締め、勇壮な姿で大声援。入門前から名物少年だった。
http://number.bunshun.jp/articles/-/13308年中真夏日の男 - プロレス - Number Web - ナンバー
山口県鴻城高等学校に進むとレスリング部に入り、全国大会でも好成績を収めるほどに成長。そして、高校卒業後、数々の名レスラーを輩出しているアニマル浜口ジムの門を叩きます。
大谷晋二郎、プロレスで「いじめ問題」に立ち向かう - 「特選格闘技」スタッフのロープブレイクタイム
この時の体験が、後の大谷選手に大きな影響を与えているそうです。
アニマル浜口ジムでトレーニングを積んだ大谷青年は、1992年、晴れて新日本プロレスに入門します。
ジュニアヘビー級でデビューし、持ち前の負けん気と伸びやかな技で徐々に頭角を現した大谷選手。やがて新日本のジュニア戦線の主役に躍り出ると、1997年には第5代ジュニア七冠に輝きました。
2000年、大谷選手は更なる挑戦のために海外遠征へと旅立ちます。その目的は肉体改造。文字通り一回りも二回りも大きくなった大谷選手は、帰国後、ヘビー級に本格参戦することになります。
新団体へ
大谷選手がヘビー級レスラーとして活躍し始めた2000年当時、プロレス界で大きな注目を集めていたのが、新日本のエース・橋本真也選手と、柔道のオリンピックメダリストからプロレスに転向した小川直也選手の抗争です。この一連の出来事が、その後の大谷選手の道のりを大きく変えていくことになります。
プロレスリングZERO-ONE - Wikipedia
橋本選手と共に新日本を飛び出した大谷選手。新団体ZERO-ONEの旗揚げに加わり、FMW出身の田中将斗選手とタッグチーム「炎武連夢(エンブレム)」を結成。世代交代を掲げ、団体の垣根を越えた活躍を見せた「炎武連夢(エンブレム)」は、2002年のプロレス大賞ベストタッグ賞を受賞しました。