『ヤングおー!おー!』吉本を代表する芸人が沢山出演した!明石家さんまの出世作!!

『ヤングおー!おー!』吉本を代表する芸人が沢山出演した!明石家さんまの出世作!!

「ヤングおー!おー!」は、吉本若手芸人の元祖登龍門的番組で1969年から1982年まで全国ネットで放送。出演者には、桂三枝、横山やすし、西川きよし、島田紳助、明石家さんまなど有名な芸人が出演していました。


ヤングおー!おー!

1969年から1982年まで全国ネットで放送された毎日放送(MBS)製作の公開バラエティ番組である。「ヤングオーオー」、「ヤングOH!OH!」のタイトル表記もあり。
ラジオ番組『歌え!MBSヤングタウン』のテレビバージョン。

ヤングおー!おー!

「ヤングおー!おー!」、テレビで放映開始!!

初代司会者は、桂三枝と落語家の笑福亭仁鶴が務めました。そして進行役は斎藤努が担当しています。

1943年7月16日生まれ。大阪府堺市出身。
落語家、タレント、司会者、社団法人上方落語協会会長。上方落語の名跡『桂文枝』の当代で、前名は桂 三枝(かつら さんし)。
現在、同一司会者によるトーク番組の最長放送世界記録保持者として、記録更新中である。

初代司会者の桂三枝(6代目)

1937年1月28日生まれ。大阪市生野区出身。
落語家。
出囃子は「猩々くずし」または「だんじり」。妻は吉本新喜劇に在籍した永隆子。当たりギャグは「どんなんかな〜」。
1960年代から1970年代にかけては、月亭可朝や桂三枝(現:6代桂文枝)と共に、吉本興業の顔としてテレビ、ラジオ、映画、レコードに多数出演したほか、花月劇場チェーンへの出演と大活躍し、『ヤングおー!おー!』(MBSテレビ)を通じて全国区のタレントとなった。

初代司会者の笑福亭仁鶴

番組内容

桂文珍。
1974年に、『ヤングおー!おー!』のユニット「ザ・パンダ」(月亭八方・きん枝・4代目林家小染)に参加。若い頃は高座で「芸名桂文珍、本名瀧廉太郎でございます」と名乗ったり郷里の篠山をネタにするなど、「丸眼鏡で地味な落語家」というイメージが強かった。

後にさんまが加入し「SOS(サニー&オオサカ・スペシャル)」に改名、紳助・竜介、西川のりお・上方よしお、ザ・ぼんちが加入し「チンチラチン」を結成。

番組の収録は初期の大阪市北区の「うめだ花月」を皮切りに、同区・中之島の「SABホール」(後のリサイタルホール。2007年閉鎖)での公開収録を長年にわたって行ってきました。その後、末期に吹田市のMBS千里丘放送センター内にあった公開ホール「ミリカホール」からの生放送で行われていました。

しかし、 「ヤングおーおー」 は人気があり、当選するのが難しかった。

月に1回の割合で関東地方での収録があり、その他ネット局の制作協力で日本各地の地方公開録画もありました。当番組もその模様を茶の間ではなくホール会場で直接見たい場合は、前もってネット局宛に観覧したい旨のハガキを送らなければいけませんでした。そうすれば厳正なる抽選の上、スタッフから視聴者宛に当選通知票(いわゆる入場整理券)を送ってもらえました。ただし、ハガキ1枚につき3人一組であることが条件でした。

豪華な吉本芸人が出演!!

吉本若手芸人の元祖登龍門的番組で、昭和30年代から40年代までは松竹芸能独走状態であった上方演芸界の勢力図を現在のような吉本中心へと至らしめ、その骨格を築き上げました。全国区の人気者へと上り詰めた仁鶴・三枝は、3か月遅れで番組レギュラー入りし大ヒット曲「嘆きのボイン」で猛追した月亭可朝を加えて俗に“上方落語若手三羽烏”。また、やはり番組レギュラーだった横山やすし・西川きよしと共に“吉本御三家”と並び称されました。

ほかにも当時の若手芸人が多数出演!!

桂きん枝、林家小染、オール阪神・巨人、明石家さんま、桂文珍、月亭八方、島田紳助らは、この番組で人気に火が付き、さらに「出世作」でもあり、全国進出のきっかけを作りました。

明石家さんまは、他にも番組で当時阪神タイガースの投手だった小林繁のものまねを披露するなどしています。

『ヤングおー!おー!』で初期のヒットギャグ「エヘヘ」を披露する明石家さんま。

明石家さんまは、『ヤングおー!おー!』時代に桂三枝に怒られた事をネタにしていたらしいです。

「ミス・アイドルコンテスト」が開催!

のちにタレントとしてデビューし、当番組のスポンサーである日清食品のカップラーメンのCMにも出演した。

1980年の「ミス・アイドルコンテスト」優勝者の山本博美(現:京本政樹夫人)

番組で紹介された音楽についてのツイッター

番組の後期と終了後について

1980年9月末の放送をもって、初代司会を10年以上担当した三枝が、若手芸人へと道を譲ることを理由として降板(同時に進行役の川村ひさしと近藤光史アナウンサーも降板)。 同年10月より、三枝直々の指名によりさんまがメイン司会者に昇格するとともに、そのアシスタント役としてさんまの同期に当たり、無名時代から何かと共通の仕事が多かった縁から島田紳助・松本竜介を、近藤の後継の進行役として青木和雄アナウンサーをそれぞれ起用(1982年4月からの最末期はさんま・紳竜とともにそれまでレギュラー扱いでの出演だったオール阪神・巨人、太平サブロー・シローも司会陣に昇格、4組のうち3人が週替りで総合司会を担当。また川村も同改編を機に番組を降板している)。 この司会者交代を機に、さんまよりも芸歴の長いレギュラー陣の落語家たち(文珍、八方、小染ほか)も番組からもフェードアウトする一方、当時のMANZAIブームの時流に対応してザ・ぼんちや西川のりお・上方よしおなど、三枝司会時代に番組内ユニット「チンチラチン」を構成していながらも、「ザ・パンダ」の前に影が薄かった若手〜中堅の漫才コンビが主要キャストとして番組をリードする存在として頭角を現し始め、視聴者の間でも番組内容の変質が強く意識されるようになっていった。 最終回は、エンディングで「今回でお別れ!」と言ったあと、ラストで制作スタッフのクレジットタイトル(番組終了当時)のロールと共に、スタート当時の当番組における若かりし頃の三枝、ザ・パンダ、斎藤努らの姿(VTRが現存していないため白黒写真を使用した)を背景にして別れのメッセージとした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%8A%E3%83%BC!%E3%81%8A%E3%83%BC!

ヤングおー!おー! - Wikipedia

ラジオの方は、まだ続いています!!

「ヤングおー!おー」関連情報

番組全盛期の1972年から1974年までの3年間、週刊少年ジャンプに『それいけジャンプでヤングおー!おー!』というマンガが掲載されていました。他にも映画のタイトルにもなっています。

当時の吉本芸人たちの顔ぶれや、テレビでは使い捨てにされてしまう当時のギャグが観られる。

1973年には東映の製作された映画『ヤングおー!おー!日本のジョウシキでーす!』

番組映像

この番組は、今ではすっかり有名になった一流芸人が若手の頃に活躍した事でも知られているバラエティー番組でした。色々な企画が盛り込まれ笑いが沢山詰まった素敵な番組です。

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