1983年、早見優に訪れた待望のヒット曲『夏色のナンシー』
14歳の時、ハワイ三越のエレベーターでスカウトされ芸能界に入った早見優は1982年4月21日 シングル「急いで!初恋」でアイドル歌手としてデビュー。
逸材揃いの「花の82年組」と呼ばれる同期には、小泉今日子、中森明菜、松本伊代、堀ちえみ、石川秀美らがいたが、グアムとハワイで計11年生活し、英語がペラペラの早見優は独自の路線を築き、デビューから立て続けにカメラやシャンプーのCMに起用されるなど知名度を上げていった。
だが、デビューから4曲のシングルをリリースしてもヒット曲には恵まれず、歌手としては目立った存在になれずにいた。
そんな中、5枚目のシングルとして1983年4月1日にリリースしたのが『夏色のナンシー』である。

早見優『夏色のナンシー』
早見優自身が出演したコカ・コーラのCMソングとして話題に。
この『夏色のナンシー』は、自身が出演したコカ・コーラのCMソングに起用された。
ハワイで育った南国娘・早見優が醸し出すアメリカンな雰囲気と、『夏』と『爽やかさ』を見事に演出した映像は、軽やかな『夏色のナンシー』の曲調とも絶妙にマッチしており、個人的にはコカ・コーラCM史上ベスト3に入る出来栄えであったのではないかと思っている。
CMでは『夏色のナンシー』のサビを、コカ・コーラの当時のキャッチフレーズ「Yes Coke Yes」に変更して歌っている。
このコカ・コーラCMによって、早見優の人気は急上昇。
CMソングの『夏色のナンシー』もオリコンチャートで初のTOP10入りを記録、TBS系の音楽番組「ザ・ベストテン」にもランクインした。
筒美京平×三浦徳子、ヒットメーカーが手を組んだ『夏色のナンシー』
『夏色のナンシー』の作曲は筒美京平。
ジュディ・オング『魅せられて』、桑名正博『セクシャルバイオレットNo.1』などの歌謡曲から松本伊代『センチメンタル・ジャーニー』や近藤真彦『スニーカーぶる〜す』などのアイドルソングまで幅広いジャンルでヒット曲を送り出した稀代のヒットメーカーである。
早見優もデビュー時から作曲を依頼し続けて、5曲目にしてようやく実現したのが『夏色のナンシー』であった。
編曲は筒美京平が指名したロックバンド「四人囃子」のキーボーディスト、茂木由多加。
「全て打ちこみ」という、当時のヒット曲としては画期的なアレンジであった。
カラッと爽やかな夏の感じがするのはこのアレンジの妙なのかもしれない。
『夏色のナンシー』の作詞は三浦徳子。
沢田研二『ス・ト・リ・ッ・パ・ー』、郷ひろみ『お嫁サンバ』、吉川晃司『モニカ』、松田聖子『青い珊瑚礁』などなど多くのヒット曲を作詞。
思わず口ずさみたくなる印象的なフレーズを生み出すことに掛けてはこの人の右に出る人はいないと言われる、こちらも偉大なヒットメーカーである。
詞は早見優をイメージし、ハワイで生活する年ごろの女の子の日常というテーマで描かれた。
英語のコーラス部分は早見優自身が作詞したという。
タイトル『夏色のナンシー』は当初、『夏色のキャシー』だった?
歌のタイトルとして当初予定していたのは、早見優のハワイ時代の愛称「キャシー」を用いた『夏色のキャシー』であった。
だが、「キャシー」では歌いにくかったため、語呂がよく英語圏で馴染みの深い「ナンシー」に変更したという。
もし、曲名が「キャシー」のままであったら、早見優の愛称として日本においても「キャシー」が定着したのかもしれない。
『夏色のナンシー』で念願のNHK紅白歌合戦に初出場。
多くの歌手にとってNHK紅白歌合戦への出場は大きな夢であったが、早見優にとってはさらに大きな意味合いを持っていた。
衛星中継で放送されるNHK紅白歌合戦は、ハワイの友達たちに日本で歌手として頑張っているところを見てもらう限られた機会だったのだ。
『夏色のナンシー』のヒットによってその念願が叶い、1983年の第34回NHK紅白歌合戦に初出場。
「花の82年組」では中森明菜と共に、先陣を切って大晦日のひのき舞台に立った。
懐かしい!歌番組での『夏色のナンシー』映像集
同期・堀ちえみとの『夏色』対決
早見優が『夏色のナンシー』をリリースした3週間後、「花の82年組」同期である堀ちえみが『夏色のダイアリー』をリリース。
ほぼ同じタイミングで似たような曲名のタイトルがリリースされ、音楽チャートにも同時にランクイン。
音楽番組での共演もあった。
『夏色のダイアリー』をよく覚えていないが、当時はとても紛らわしかったのではないかな…。
セールスの結果は、CM効果を活かした早見優の『夏色のナンシー』が倍近く売り上げる圧勝であった。
意外な所で使われている『夏色のナンシー』
40万枚以上のレコード売り上げを記録した早見優の代表曲『夏色のナンシー』。
近年では意外なところで使われている。