天皇賞(秋) 東京芝2000m 10月29日
「平成3強」が初めて揃った大一番となりました。オグリキャップは1番人気。
スパークリーク、イナリワンをかわし、トップでゴールインすることができるか!?
抜くことができなかった「クビの差」。南井騎手は後に「勝てたのに負けてしまったレース」と述べています。直線に入った時に前がふさがり追い出しが遅れてしまったのでした。スーパークリークの武豊騎手が万全の騎乗をしただけに、南井騎手への批判がでたのはしょうがないことでしょう。悔いの残るレースとなりました。この夜、悔しさのあまり南井騎手は眠れなかったそうです。
過酷なローテーション
天皇賞の敗北により、馬主サイドからマイルチャンピオンシップ、ジャパンカップを2週続けて連闘するとの発表がなされました。そうでなくとも、3週間おきに使われてきたオグリキャップは、休養明け後1か月半で、すでに3レースも走っていたのです。GⅠを狙う通常のローテーションの倍近く走ることに、ファンやマスコミから批判がでるのも当然でした。
「馬主変更によって生じた莫大なトレード料の回収」これが本当に近藤氏の思いだったのかは不明です。しかし、現実は勘ぐられてもしょうがない過酷すぎるローテーションでした。
ジャパンカップ 東京芝2400m 11月26日
凱旋門賞馬キャロルハウス、ニュージーランドの名牝ホーリックス、前年覇者ペイザバトラー、スーパークリーク、イナリワン、バンブーメモリーと強豪馬が勢揃いした国際レース。
タイムは2400mの世界記録、2分22秒2をホーリックスとオグリキャップが樹立したのでした。
2着となったオグリキャップに、スタンドからは称賛の声があがりました。
そして、オグリキャップの人気は絶大なるものへと進化していくのでした。
第34回有馬記念 中山2500m 1989年12月24日
オグリキャップは有馬記念史上最高票を獲得し、堂々の1位に選ばれました。苦しいレースを続けながらも、競馬ファンはオグリキャップに心を寄せていたのでした。しかし、人気とは裏腹に、レース前の調教で苦しいしぐさを見せるなど、疲れ切っているのではという情報が流れていました。
さあ、スーパークリーク、イナリワンとの「3強」対決を制するのは!?
疲労がピークに達していたオグリキャップは、これから約5か月間、療養・調整に入ります。
今まで見たことのない有馬記念の惨敗によって、ファン・マスコミ・競馬界の各方面から、馬主や陣営に対し批判が集中しました。GⅠを狙うローテーションとしてはあり得ない、約3か月間で6レースへの出走。
過酷すぎた時を終え、オグリキャップは静かに休息するのでした。
不調とケガの狭間で
数え6歳となったオグリキャップは体調が戻りきらず、天皇賞(春)を回避、安田記念(5月13日)に出走し見事1着となりますが、続く宝塚記念(6月10日)では、本来の走りが出ず2着となり、この後両前脚の骨膜炎を発症。さらに、後脚にも疾病を発症し療養生活に入ります。
秋になっても脚部故障を起こしつつ天皇賞(秋)10月28日に出走、6着。ジャパンカップ(11月25日)11着と精彩を欠き、苦しいレースが続きました。ファンの悲しみは限界だったのでしょう。あってはならないことですが、馬主や中央競馬会への爆破脅迫事件まで勃発しました。
そして、陣営は有馬記念をオグリキャップの花道に選んだのです。騎手は武豊でした。
ラストラン 永遠の夢を人々に
第35回有馬記念 中山芝2500m 1990年(平成2年)12月23日
17万人大観衆のいつまでも続く鳴りやまない大歓声と「オグリ」コール。
実況アナウンサーの「オグリ1着!」の凄まじい連続コール。
左手を高々と挙げる武豊を見て「右手を挙げた武豊!」とアナウンサーをも大興奮させた世紀の大レースでした。不調続きの中で、最後の底力を見せてくれた瞬間でした。
鮮烈な中央デビュー、陣営のゴタゴタ、激しい騎手の入れ替わり、故障に次ぐ故障、凄まじくも過酷なローテーション等々、様々な試練と苦難を乗り越えて名勝負をしてきたオグリキャップに、感謝の言葉や称賛の拍手が鳴りやむことはありませんでした。
「芦毛の怪物」オグリキャップの競走馬人生は終わりました。
32戦22勝(地方10勝、中央12勝、有馬記念2勝・毎日王冠連覇など)
数字だけでは表しきれない、燦燦たるサラブレッドでした。
