第34回有馬記念 中山2500m 1989年12月24日
オグリキャップは有馬記念史上最高票を獲得し、堂々の1位に選ばれました。苦しいレースを続けながらも、競馬ファンはオグリキャップに心を寄せていたのでした。しかし、人気とは裏腹に、レース前の調教で苦しいしぐさを見せるなど、疲れ切っているのではという情報が流れていました。
さあ、スーパークリーク、イナリワンとの「3強」対決を制するのは!?
疲労がピークに達していたオグリキャップは、これから約5か月間、療養・調整に入ります。
今まで見たことのない有馬記念の惨敗によって、ファン・マスコミ・競馬界の各方面から、馬主や陣営に対し批判が集中しました。GⅠを狙うローテーションとしてはあり得ない、約3か月間で6レースへの出走。
過酷すぎた時を終え、オグリキャップは静かに休息するのでした。
不調とケガの狭間で
数え6歳となったオグリキャップは体調が戻りきらず、天皇賞(春)を回避、安田記念(5月13日)に出走し見事1着となりますが、続く宝塚記念(6月10日)では、本来の走りが出ず2着となり、この後両前脚の骨膜炎を発症。さらに、後脚にも疾病を発症し療養生活に入ります。
秋になっても脚部故障を起こしつつ天皇賞(秋)10月28日に出走、6着。ジャパンカップ(11月25日)11着と精彩を欠き、苦しいレースが続きました。ファンの悲しみは限界だったのでしょう。あってはならないことですが、馬主や中央競馬会への爆破脅迫事件まで勃発しました。
そして、陣営は有馬記念をオグリキャップの花道に選んだのです。騎手は武豊でした。
ラストラン 永遠の夢を人々に
第35回有馬記念 中山芝2500m 1990年(平成2年)12月23日
17万人大観衆のいつまでも続く鳴りやまない大歓声と「オグリ」コール。
実況アナウンサーの「オグリ1着!」の凄まじい連続コール。
左手を高々と挙げる武豊を見て「右手を挙げた武豊!」とアナウンサーをも大興奮させた世紀の大レースでした。不調続きの中で、最後の底力を見せてくれた瞬間でした。
鮮烈な中央デビュー、陣営のゴタゴタ、激しい騎手の入れ替わり、故障に次ぐ故障、凄まじくも過酷なローテーション等々、様々な試練と苦難を乗り越えて名勝負をしてきたオグリキャップに、感謝の言葉や称賛の拍手が鳴りやむことはありませんでした。
「芦毛の怪物」オグリキャップの競走馬人生は終わりました。
32戦22勝(地方10勝、中央12勝、有馬記念2勝・毎日王冠連覇など)
数字だけでは表しきれない、燦燦たるサラブレッドでした。
興奮の引退式
1991年1月、史上初めて東京・京都・笠松の3競馬場で引退式が行われました。
すべての競馬場が熱狂的なファンで埋め尽くされたのですが、特に笠松では、最後の雄姿を一目見ようと、入場できないほどの人数が押し寄せ、大騒ぎになりました。
オグリキャップは引退しても「オグリキャップ」でした。
1991年1月15日引退式にて 笠松競馬場
余生 人に愛されて
種牡馬となったオグリキャップは、北海道新冠の優駿スタリオンステーションにいました。
しかし、この年の7月、突然の病がオグリキャップを襲います。
頭部炎症による咽頭マヒ、その後の大量出血により生死をさまようことになるのです。関係者の懸命な治療・看護によりどうにか回復、10月には多少の放牧ができるようになりました。
病を乗り越えたオグリキャップですが、産駒には恵まれませんでした。
2007年に種牡馬引退、功労馬として余生を送ることになりました。
引退後も年間1万人前後のファンがオグリキャップのもとを訪れ、愛されてやまない存在となったのでした。
2010年7月、突然の訃報が流れます。右後肢の複雑骨折による安楽死。手の施しようがなかったそうです。25歳でした。
どんなに酷使されても精いっぱい力の限り走りきる姿に、人々は奇跡を目の当たりにし、感動と夢を与えてくれたオグリキャップに、果てることのない称賛と感謝を送ったのでした。
オグリキャップ、おつかれさま。
そして、ありがとう、ありがとうオグリキャップ。
オグリキャップ馬像