野口プロモーション((本社:東京都目黒区)は
野口修社長の実弟:恭をコーチ役としてバンコク市内の目抜き通りに「野口キックボクシング・ジム」を開設した
日本選手16人を呼び近代的な設備のジムで練習させ
それを見物しつつお茶を飲む喫茶店の施設を備えた派手な店構えだった
野口キックボクシングジム開設翌日
タイの代表的な大衆紙「タイ・ラット」紙は
「野口ジムは神聖なタイの国技を冒すものだ
タイ・ボクシングという名前を使わないことは日本製のキックボクシングを押し付けようとするもので悪質な経済侵略だ」と
「ジャップ」という言葉まで使って激しい反対キャンペーンを始めた
「野口キックボクシングジム」が
「タイボクシングジム」ではなく「キックボクシングジム」であったことに
「タイの国技を汚すもの」と一部タイ世論の強い反感を買い
同ジムにピストル弾3発が打ち込まれた
高校生と見られる一団の抗議デモが野口キックボクシングジムに押し寄せ大ガラス1枚が割られた
さらに夜には
日本・タイ対抗のキックボクシング試合が行われた市内のラーチャダムネンボクシングスタジアムで
野口社長がタイボクシング関係者の1人に顔面を殴られた
野口社長に「殺す」「日本の犬」など激しい文面の脅迫状が届られた
タイの代表的な大衆紙「タイ・ラット」紙は
1面に「Go Home、野口!」と野口社長の写真入りで書きたてた
野口社長はタイ側のプロモーターと一緒に会見した
「名前もタイ・ボクシングに変える
タイとの親善が目的なのだから・・・」
紛争の発端となった問題の「野口キックボクシングジム」の大きな看板がすべて外され
ガラス張りの公開練習場の使用も中止されジムは閉鎖となった
野口修社長は10月18日午前、バンコクを離れ、香港経由で10月19日夜帰国した
「野口キックボクシングジム」は
1972年10月9日に開店したばかりのタイ大丸デパートを中心とする商店街「ラチャダムリ・アーケード」の一角を占めていたが、
1972年10月18日に「タイ大丸に爆弾をしかけた」と脅迫電話がバンコクの警察にかかっている
(さらに1972年11月にはタイ全国学生センターにより全国的な日本製品ボイコット運動が進められ
日本の経済進出に対する抗議の運動が高まっていくことになる)
日本プロスポーツ大賞、大賞(内閣総理大臣賞)
野球界では巨人がV9を達成
王貞治が3冠王となった
そして沢村は日本プロスポーツ大賞、内閣総理大臣賞を受賞した
「当時最後まで選考に残っていたのはジャイアンツの3冠、王貞治さんでした
まさか私がもらえるとは夢にも思っていませんでした
田中角栄総理から「よくやった」と声をかけられ、あの迫力溢れる声は今でも耳に残っています
翌年、王選手が授賞し、大賞盃を渡しました
嬉しいというより、キックの世界に栄誉が与えられたのが感動でした」
限界説
その後も沢村は勝ち星を積み重ねて行ったが
パンチやキックで試合を決めることが多くなり
真空飛びヒザ蹴りでKOする試合は少なくなった
元々難易度が高くそうそう出せるものではなかった
全盛期の沢村は、
パンチにはパンチで応戦し
キックにはキックで応戦し
見せ場を作ってから相手を仕留めるということも出来た
実力差があってこそ出来ることであった
だがそのような余裕がだんだんと無くなり決められる時に一気に決めてしまうようになった
それが派手な技ではなく、地味な小技であっても見せることより勝利を優先するようになった
沢村は
「格闘家のピークは27歳まで」
という考えを持っていた
実際その年齢になってみると
所属している目黒ジムでは600人の選手が所属し
全国16のジムの選手は2000人を超えていた
沢村がいなければ興行もテレビも成り立たない状態で
とても引退を口に出来る状態ではなかった
「とにかく俺は30歳までは頑張る
だからみんなも早く看板選手になれるよう頑張ってくれ」
そう言い続けながら30歳になった時も同じ状況で
キック人気は依然沢村1人で支えているような状態だった
そして月日は更に流れ32歳になった
キックボクシングが誕生して8年が経った
しかし状況は変わらない
「いったい俺はいつまで現役を続ければいいんだ」
キックボクシングを定着させ安定した人気をいつまでもと願う沢村は焦った
全盛期に比べスタミナや技の切れ、スピードなど、明らかに落ちてきていると沢村本人もセコンドも感じるようになっていた
「足の腫れがひかないこともあると炊いた飯をタオルにくるんで足を温めることで無理矢理治していた」
とインタビューで答えている
.
チューチャイ・ルークパンチャマ
沢村は選手生活最後の敗戦を喫した
前回負けてから、ここまで引き分けをはさみ54連勝が続いていた
相手は1階級上のウエルター級チャンピオン:チューチャイ・ルークパンチャマ
チューチャイは若干20歳であったが来日以来快進撃を続け、
日本ウエルター級の上位陣に加えヘビー級の斉藤天心をも下していた
4R
チューチャイの右ストレートにより沢村はKO負けを喫した
倒れた際に頭を打った沢村は全身を痙攣させた
リングには物が投げ込まれ大騒ぎとなった
2年3ヶ月ぶりの敗戦
そしてこれが選手生活で最後の敗戦となる
「1戦1戦
もうこれが最後だと思ってリングに上がります」
蒸発
沢村は1階級上のウエルター級のチュンポン・ムアンスリンを1R35秒KO
沢村は野口社長と2人で話した時、とうとう引退の意思のあることを伝えた
これまでスケジュールに関してもファイトマネーに関してもほぼ全ての面で黙って受け入れてきたが
引退に関しては自分の意見を強行に主張した
TBSが放送を開始して9年
放送回数はちょうど400回目となっていた
沢村はシンハオ・ソールークピタクを3RKO
東洋タイトルを防衛した
ファンにとってはいつもの光景でだった
しかし沢村はいつもとちょっと違った
試合の終わった後、4つのコーナーを順々にまわっては深々と頭を下げてまわったのである
その後の沢村のスケジュールは
後楽園ホールで数試合行って、その後は地方興行に出ることになっていた
最後は鹿児島で試合を行い
大阪へ帰って大阪府立体育館で試合をし
これで今回は一区切りというスケジュールとなっていた
沢村は大阪府立体育館に出発する前に鶴巻サブマネージャーを呼び止めた
「ねえ、鶴さん
俺さすがにもう疲れた
今日で辞めるよ」
鶴巻はびっくりして言葉もなかったがしばらくして
「ジョーさんが辞めるなら俺も」
と答えた
沢村はこの日、ダビチャイ・ルットチョンをKOで下した
そしてこの日を境に完全に消息不明になった
この後は全くの行方知れずで誰も連絡を取ることが出来なくなった
野口プロモーションは「怪我を治すための休養期間」と発表した
世間ではいろいろな噂が出始めた
「野口社長に頭にきたので逃げた」
「頭がおかしくなって富士山麓の精神病院で両手両足を鎖でつながれ犬の格好をしてご飯を食べている」
「刑務所に入っている」
「死んだ」
「廃人になった」
「裏社会で用心棒になっている」
など様々な憶測が飛んだ
沢村が蒸発して1年3ヶ月の月日が流れた時、
突然、野口をある男が訪ねて来た
「社長、お久しぶりです」
そう挨拶をしたその男は、髪型や雰囲気はすっかり変わっていたが、まぎれもなく沢村だった
野口は再び現れた沢村に対しスーパースターの引き際としてファンの前で正式に引退式を行うことを決定した
引退式
後楽園ホール
再び沢村が現れたこと、引退式を行うことになったことなど、多くのスタッフは半信半疑だった
当日の会場も「本当に来るんだろうか」という雰囲気だった
しかしその日後楽園ホールに現れたのは間違いなくかつてのキックの帝王、沢村忠だった
リングに上がり、観客に向かって深々と頭を下げ、マイクを取って別れのメッセージを綴った
「キックボクシングファンの皆さん、長い間本当にありがとうございました」
わずか2分弱のメッセージであった
その後テンカウントゴングが打ち鳴らされ静寂な雰囲気の中、沢村の引退式は終了した
関係者からは、
「あれだけの名声を捨てるのはもったいない」
「引退後もキックの世界にとどまり、後進の育成に当たってくれ」
と説得された
それらの誘いを丁重に断り、キックの世界から完全に決別し
また新たな人生を一からスタートさせた
沢村引退後のキックボクシングは富山勝治をエースに起用したが
スーパースターの抜けた穴を埋めることができず
キックボクシング中継は数年後に打ち切られた
キックボクシングブームは沢村と共に始まり沢村の引退と共に幕を閉じたのである
沢村の公式戦の通算成績は241戦232勝(228KO)5敗4分け
非公式戦を含めると500戦以上ともいわれる
現役10年で約7日に1回戦って500戦
5R とはいえ生身で殴り合って蹴り合う試合に短期間で体をつくり直すわけである
驚異的な数字である
まさに沢村は昭和40年代の日本の高度経済成長とともに現れたスーパーヒーローだった
「キックボクサー、沢村忠と呼ばれるより人間、沢村忠と紹介されたい」
沢村は引退してから自動車修理工場を経営している知人に頭を下げ就職させてもらった
そこで数年間経験を積んでから独立した
現在は、自動車の修理販売業を営む傍ら、子供達に空手を教えている
パチンコ台販売会社・セイブシステムリンクの取締役でもある
沢村は引退してから1、2度マスコミの取材も受けており、
引退から20年以上経って、1度だけテレビに出演したこともある
取材に対してこう語った
「引退後、「酒で身を持ち崩した」「死亡した」という説が出回った
こっちが子供みたいに怒っていちいち(雑誌の出版社に)電話して『無礼者』とか言ったってしょうがないですからね
そういえば蕎麦屋で飯食ってたんだけどキックの話がでるじゃない
そこのおばあちゃんが『キックと言えば、あの沢村って死んだんだってね』と言われて『そうですね』と答えたんだけど、
店を出てから、ふたりで笑い転げましたね
キックの世界にいる時は人一倍練習も積み
最初は27歳くらいが限界と思っていた選手生活も結局34歳まで続けました
僕がいなくなれば日本キックボクシング協会に登録している2000人の選手が試合出来なくなってしまいますからね
その結果、完全燃焼でした
現役時代は過密日程で満身創痍で、常に眠りも浅かった
それが限界まで戦い抜いてようやくそこから開放されたのです
僕は昔から武士道的な生き方にあこがれていて、『立つ鳥、後を濁さず』ということは常に考えていました
キックボクシングで自分なりに全てをやり尽くしたことは自分にとって最高の勲章なんですよ
だからこそ、そっとしまっておきたかったし、とても改めて引っ張り出す気にはなれなかったんです
思い残すことのないキックの世界からスッパリ身を引き、新しい人生を一からスタートさせようと思ったんです」
沢村忠はキックの鬼として、そして伝説の男として生きることを望んではいない
しかしいつも武道家として侍として生きつづけることを願っている
まさに本物の男なのである
沢村忠の本質がここにある
「キックボクサー、沢村忠と呼ばれるより人間、沢村忠と紹介されたい」