沢村忠のものがたり
沢村忠
本名:白羽秀樹
1943年(昭和18年)1月5日、満州新京出身
法政大学第一高等学校(現:法政大学高等学校)ではラグビー部(ウィング)
日本大学(芸術学部映画科)では剛柔流空手道部に所属し3段
「蹴りの白羽」と呼ばれ全日本学生空手選手権優勝など約60戦無敗
キックボクシングでは241戦232勝(228KO)5敗4分け
(実際には500戦以上を戦っている)
東洋ミドル級、東洋ライト級チャンピオン
「キックボクシング」の立ち上げメンバーでありながら
タイでムエタイのチャンピオンと対戦し引き分けたり
必殺技「真空飛び膝蹴り」など派手な技でのKOも多く
キックボクシングの人気の火付け役となった
しかしそういった華やかさと対照的に
侍のような男らしさと不器用さを持った人であり
引退の仕方や引退後の人生などはかなり感動的で
その人間性こそ最高の魅力となっている
空手の世界では無敗
満州国の首都・新京
父は満鉄(南満州鉄道株式会社、かつて満州国に存在した日本の特殊 会社)で仕事をしていた
沢村忠は
姉と兄に続いて3番目の子供として「新京」で生まれ
日本が敗戦後、引き揚げ者として日本に帰った
その帰国は悲惨を極めたが幸いなことに家族全員が帰国できた
「引き揚げ者」とは
第2次世界大戦までに
台湾・朝鮮半島・南洋諸島などの外地、
日本から多数の入植者を送っていた満州、
そして内地ながらソ連侵攻によって実効支配権を失った南樺太などに移住(居住)していた日本人で
日本軍の敗北に伴って日本本土に還った者を指す
北緯38度線以南の東南アジア、台湾、中国、朝鮮半島などからの引き揚げは比較的スムーズだったが
北緯38度線以北のソ連や満州、朝鮮半島では引き揚げが遅れた
とりわけ満州から混乱の中、帰国の途に着いた開拓者らの旅路は険しく困難を極め
食糧事情や衛生面から帰国に到らなかった者や祖国の土を踏むことなく力尽きた者も少なくない
現在に至っても中国大陸で親子生き別れ、死に別れとなった中国残留日本人孤児などの問題が残っている
祖父は中国唐手(トウテ)の正師範
囲炉裏にくべる薪がなくなると白羽秀樹(後の沢村忠)の祖父は手刀(チョップ)で裏山の木を折って薪を取ってきた
祖父は中国唐手(トウテ)の正師範だった
白羽秀樹は枯れ木ではない生木を素手で折れるということに感動した
唐手は
中国の唐の時代に広まった日本の空手の源流となる武術である
白羽秀樹は唐手(とうで)に夢中になり懸命に練習に取り組んだ
5歳ごろから祖父直々の指導を受け始めて以来、15年間、マンツーマン指導を受けた
全日本学生チャンピオン
日本大学に入学すると白羽秀樹は空手部に入部し3段まで取得
公式戦では60回以上戦って負け無し
当時の学生空手界で白羽秀樹という名は有名だった
「法政一高、日大へと進学した私は
子供の頃からストリートファイトを含め1度も負けたことはありません
日大3年で全日本学生チャンピオンになり空手の世界では無敗でした」
(沢村忠)
しかしある日を境に人生が一変する
野口修との出会いである
野口修
キックボクシングを創り、沢村忠を育てた人
野口修は、
東京都文京区出身で
父親は元プロボクシング日本王者で野口ボクシングジム創始者のライオン野口
帝拳プロモーション会長であり日本プロボクシング協会初代会長でもある本田明に可愛がられ
プロボクシング界でレフェリーおよびプロモーターとして活躍した後
日本キックボクシング協会を設立し
沢村忠というスーパースターを世に送り出すことになる人物である
、
五木ひろしの生みの親
また野口修は親交のあった作詞家:山口洋子のすすめで歌手の三谷謙と契約をしたこともある
三谷は「五木ひろし」へ改名し
『よこはま・たそがれ』が発売され再デビューを果たした
ボクシング界にも大きく貢献
昭和30年代、
ボクシングは人気を集め
フジテレビ、日本テレビ、TBSなど民放各局はボクシングをレギュラー番組として放送した
しかしそのマッチメイクは全て日本人同士の対戦だった
「このままではいずれファンにも飽きられてしまう」
そう感じた野口はNET(現テレビ朝日)に日本人対外国人の試合を提案した
だがこれはあっさり却下された
外国から選手を呼んでギャラを出していては制作費が足りないというのだ
一番組の制作費はだいたい40万円前後が相場だった
「わかりました
では私は25万で引き受けましょう」
そんな金額で出来るわけがないと誰もが思ったが、
いったん口に出した以上引けない
野口は懸命に頭をひねった
試合会場を使用料5万円の後楽園の卓球センターから
1万円で借りられる浅草公会堂へ舞台を移した
浅草公会堂で行われた国際試合は毎回超満員で大変な盛況であった
そのうち他局からも
「選手を貸して欲しい」
と打診が出てくるようになり
野口は選手を貸し出しながら
東南アジアを中心に海外選手の発掘に出かけるようになった
タイ式ボクシング(ムエタイ)との出会い
中でもタイと特に太いラインが確立出来た
タイにはムエタイ(タイ式ボクシング)と呼ばれる格闘技があった
野口はパンチ・キック・膝蹴り・肘打ち、首相撲という幅広い打撃技を含むこの格闘技に興味をそそられた
さっそくボクシングの前座のエキビジョンマッチとしてタイ式ボクシングの試合を浅草公会堂で実現させた
殴るだけのボクシングに蹴るという要素が加わったムエタイが観客の目にどう映るか不安はあったが
観客の反応は悪くはなかった
タイ式ボクシングだけの試合を行ってみたが
こちらも観客は楽しんで見てくれたようで悪い感じはしなかった
手応えをつかんだ野口は、
日本人とムエタイの試合を実現させてみたくなった
日本人でムエタイとかみ合うのはやはり空手であろうか
極真空手家をムエタイにチャレンジさせる
野口は極真空手の大山倍達を訪ね相談を持ちかけてみた
大山はあまり乗り気でない様子だったが野口は熱意で押し切った
そして黒崎健時、中村忠、藤平昭雄の3選手を借り受けた
野口と3人の選手はタイに渡った
ムエタイにはルンピニー(陸軍系)とラジャダムナン(王室系)の2大スタジアムがあり
彼らはバンコクでルンピニーの大物である陸軍大佐の家に1ヶ月滞在してトレーニングを積み試合に臨んだ
国技であるムエタイに日本の空手家が挑むということで
現地の一部では殺伐としたムードも起こった
街に「空手の奴らなど墓場送りにしてやる」などと書かれたポスターも貼られたという
ルンピニースタジアムに1万5000人の観客を集めて空手対ムエタイの試合は始まった
3人の極真空手家は壮絶な覚悟で戦った
黒崎はヒジ打ちを食らって顔面を切って敗れた
しかしその内容は壮絶なものだった
そして中村忠は強烈なパンチでKO勝ち
藤平もKO勝ち
ルンピニースタジアムの観客は3人の日本人の強さを認め賞賛の拍手を送った
翌日の新聞も大きくとり上げた
命名「キックボクシング」
帰国後、野口はムエタイを日本はもとより、いずれは世界中に広めたいという構想を持った
だが日本の相撲と同じく国技であるムエタイは少し古風な習慣やルールがあるし
名前もムエタイやタイ式ボクシングではアピール度が弱い
世界に羽ばたく格闘技の名前として何かいいものはない
あれこれ考え
既に国際的に浸透しているボクシングという名称はどうしても使いたい
蹴りのあるボクシング・・・・キックボクシング!!
これなら世界中に通用するし何よりも分かりやすい
こうして日本キックボクシング協会を設立して今後この競技を日本に世界に広めて行こうと思った
だがこの「キックボクシング」の名称はボクシング界から猛反発を食らった
そのようなわけのわからない競技にボクシングという名前を使うのはボクシングに対する冒涜だというのだ
理事会で散々責められることとなった
野口は日本ボクシング協会の常任理事を務めており
何よりもこれまでにボクシング界に多大な貢献をしてきたという自信があった
「キックのあるボクシングだからキックボクシングなんだ
この名前なら海外でも通用する
この名称だけは妥協するわけにはいかない」
と反発した
そのうち
「どうしてもそのような競技をつくるのならボクシング界から除名する」
という意見まで出た
野口も頭に来て
「何が除名だ
戦中戦後のボクシング界の創設には私の父親が多大な貢献をしている
戦後は私が海外に目を向け選手を発掘し、国際試合も実現した
東洋タイトルマッチも行われるようになり選手も世界に挑戦出来るようになったんだ
ではそのパイプ役を努めたのは誰なんだ
俺以外に誰がいるというんだ
俺以上に貢献してきた人間がこの中に1人でもいるというのか」
シーンとなった
実際、野口の言う通りであった
理事会は野口の言い分を認め
野口は常任理事の座を元日本フライ級チャンピオンであり自分の弟でもある恭に譲り
自分はボクシング界から引退とした
そして野口は安藤嘉章を会長に立てて日本キックボクシング協会を設立した
(現在、日本キックボクシング協会は日本キックボクシング連盟に統合される形で解散)
地上最強の格闘技は空手です
日本キックボクシング協会は旗揚げ興行として
タイから選手を招き「空手対キックボクシング」と銘打った興行を企画した
だが日本側の選手がなかなか決まらない
全国をまわって話を持ちかけてみたが断られた
「相手の選手にケガを負わせるといけないので」
などと大口を叩くものもいたが多くは弱気になっていた
そんな時、知人の紹介で空手の学生チャンピオンだった白羽秀樹を紹介された
当時、白羽秀樹は日大2年生ながら全日本選手権で優勝し空手界期待のホープだった
野口はさっそく東京の飯田橋の喫茶店で白羽と待ち合わせをした
白羽は礼儀正しく挨拶した
白羽が席につくと野口は一気にしゃべり始めた
「まさか、僕をボクサーにしようというんではないでしょうね」
「いや
今新しい仕事をしています
タイ式ボクシングを日本で育てようと思いましてね
このタイ式ボクシングこそ地上最強の格闘技だとほれ込んでしまって」
「違います
地上最強の格闘技は空手です」
「では聞くが、君は相手を血煙あげて倒したことがあるのかね」
「馬鹿を言わないでください
空手で実際に相手をうつと生命の危険があります
だからこそ、相手の肉体の紙一重で攻撃をとめ、審判の判断で勝負が決まるのです」
「はっきり言おう
そんなきれいごとではタイ式ボクシングに勝てない」
「!」
白羽は最初はおとなしく話を聞いていたがだんだん腹が立ってきた
「君は空手が1番強いと思っているようだか、それは全くの認識不足なんだよ
しょせん空手は寸止めで実戦的でない
いくらシャドウボクシングがうまくてもそれで果たして実戦で勝てるかな?
ムエタイは近づけばヒジやヒザが、離れれば回し蹴りが飛んでくる
これと戦えば空手なんてひとたまりもないさ」
野口は白羽の実力ではなく空手そのものを否定するようなことを喋った
「どうだい?
戦ってみる気はあるかい?」
これまで打ちこんできた空手を批判されて頭にきた白羽はもちろんOKした
「いいですよ、やりましょう
俺の同僚を戦わせてみますよ」
この時、白羽の名は既に学生空手界では有名なものになっていた
もし自分が出ていって万が一のことがあれば、空手界全体に迷惑をかけることになる
「同僚を」と言ったのはそういう配慮だった
結局交渉は野口の一方的なペースで終わった
気がつけば対戦を承諾しており、白羽は完全に乗せられたという感じだった
試合前日、
白羽は同僚選手を連れてタイの選手の公開練習を見に行った
全員に戦慄が走った
サンドバッグを蹴る音や重量感が、これまで見たことのないほどの破壊力だった
「あんなのとやったら殺されるんじゃないか」
出場予定選手の中で不安が立ちこめた
そして試合当日、事件が起こった
出場予定のなかった白羽以外、他の選手が全員いなくなってしまった
部屋はもぬけのカラで、夜中のうちに逃げ出してしまったのだ
野口も動揺した
「どうするんだ
試合は今日
しかも切符も売れているんだ」
「こうなったものは仕方がありません
俺が責任を取って戦います
ですが本名で出るのは困ります
リングネームでお願いします」
こうして白羽のみが出場することとなった
ムエタイに関して依然未知の部分が多いがいったんやると口に出した以上、後には引けない
大阪の難波、府立体育館で、約5000人の観客を集めてキックボクシングの旗揚げ興行は開始された
沢村忠、デビュー
野口は極真空手代表としてルンピニースタジアムでムエタイ選手と対戦してKO勝利した中村忠の強さにあやかり、白羽のリングネームを「沢村忠」にした
白羽はこの名はこの1試合限りで、まさか今後自分が沢村忠を名乗り続けることになるとは思わなかった
白羽の相手はムエタイ元フェザー級チャンピオン、ラクレー・シーハヌマンだった
沢村忠は空手着にグローブをつけて初めてのリングにあがった
緊張もあってか、沢村はこの試合のことはほとんど覚えていないという
気がつけば観客からものすごい声援で、その時点で初めて自分が勝ったことに気づいたという
3R50秒、
沢村の蹴りがラクレーのノド元に突き刺さってのKO勝ちだった
「やはり空手はムエタイより強い」
沢村がそう思っていたところへ野口は2戦目の話を持ってきた
1試合限りだと思っていた沢村は困惑した
しかしまたしても野口のペースに引き込まれた
「まさかあれで勝ったと思っているんじゃないだろうね
タイにはあれより強いのがゴロゴロいるんだ
まあやりたくないというならそれでもいいんだが・・
君なら勝てると思うんだが、どうかな?」
「いや、いいです
やりましょう」
これで最後、という約束で沢村は再び承諾した
相手はルンピニーの現フェザー級8位のサマン・ソー・アジソン
場所は渋谷のリキ・パレスに決まった