男!! 江夏豊 王との対決は三振かホームランかの直球、力勝負

男!! 江夏豊 王との対決は三振かホームランかの直球、力勝負

剛速球と芸術的コントロール、王貞治との力と力の真っ向勝負、奪三振記録を王貞治からとるためにほかのバッターはわざと打たせる、3回しか投げられないオールスターゲームでの9連続三振、自らのサヨナラホームランでノーヒットノーラン、日本初のリリーフエース、江夏の21球、優勝請負人、大リーグ挑戦などなど記録と武勇伝のオンパレード


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すごい記録と記憶(感動)を残し、かつ武勇伝も多い

江夏豊
178 cm95 kg
左投左打
150km/hを超える直球
落差のある2種類のカーブとフォーク
卓越した投球術で
1967年~1975年、阪神
1976年~1977年、南海
1978年~1980年、広島
1981年~1983年、日本ハム
1984年、西武
と渡り歩き
1985年、渡米し大リーグに挑戦したが
最後の最後で大リーグ昇格は叶わずそのまま引退した
実働18年
206勝158敗193セーブ210セーブポイント
防御率2.49
2987奪三振
最多勝2回
最優秀防御率1回
最優秀救援投手5回
シーズンMVP2回
沢村賞1回
延長11回で自ら決勝ホーマーのノーヒットノーラン
ON(王・長嶋)と名勝負を繰り広げた20世紀最高の投手
日本一2度、リーグ優勝1度に大きく貢献し優勝請負人と呼ばれた
王貞治から401奪三振
オールスターで9連続奪三振
奇跡の21球
日本初のリリーフエース
36歳で大リーグ挑戦
など数多くの記録と武勇伝を持つ

野球は高校から始めた

「記録なんてのは破られるためにあるもんだから
逆に、いつまでも古い記録が残ってるのも淋しいもんだけどね
だから記録っちゅうのは
ワンちゃんの「868本塁打」、
金田さんの「400勝」、
福本の「1000盗塁」、
張本さんの「3000本安打」、
そして衣笠の「2215試合連続出場」
こういった積み重ねられた数字を本当の記録って言うんだよね
“瞬間的にできる記録”っていうのは8割が運だから、
階段を一歩一歩上る素晴らしさと苦しさがある“通算の記録”っていうのは
やっぱり偉大だなーって思うよ」
そういう江夏は
中学時代は砲丸投げの選手として活躍
大阪学院大学高等学校入学まで本格的な野球の経験はなかった
生まれつき右利きだったが
野球では圧倒的に左利きが有利ということで兄の指導でサウスポーに矯正された
兄は左用のグラブを買ってきてペンや箸など左で使うように指示した
右で箸を使うと兄が怒り左で使うと母が怒った
左利きは英語でLefty
サウスポー(Southpaw)は
southは「南方」
pawは「犬猫が前足で引っかく」
アメリカ南部出身の投手に左利きで力強く投げる投手が多かった事に由来する

阪神タイガース

1966年
夏の甲子園大阪府予選でベスト4
同年
第1次ドラフトで阪神タイガースから第1位指名
プロ野球選手となる
入団当初はストレートしか知らなかった
その威力と制球の正確さは抜群だった
砲丸投げをしていた影響で「担ぎ投げ」の癖があった
それを林義一コーチが矯正し変化球を教え込んだ
江夏は林を「お師匠さん」と呼ぶ

黄金の左腕、左手

現役時代はボールを片時も離さなかった
マッサージを受ける時も左手には必ずボールが握られていた
ボールを手放すのは眠っている時と大好きなショートホープを吸う時くらい
タイガースの同僚・田淵幸一はいう
「寝ながらでも江夏はボールと遊んどったね
ストレートの握りのまま三本指で部屋の天井に向けてはじくんですよ
キャンプ中、その練習を毎晩やる
“何で、そんなことするんや?”
と聞くと、
本人は
“指先の感覚が大事や”
て言うとったね
指先の感覚を磨くと同時に皮をこすらせることでマメをつくっとったんだと思う
投球練習を始めてからマメをつくったんじゃ練習が遅れてしまう
彼はそこまで計算しとったんですよ」
江夏の部屋の天井の汚れはほぼ1点に集中していた
こうして針の穴を通すとまで言われたコントロールを磨き上げていった

「なんや! カーブなんかいらんやないか!」

1967年5月31日
後楽園球場
読売ジャイアンツ戦
3回
阪神の先発、エース村山実が太腿痛で降板
ルーキーの江夏にリリーフの大役が廻ってきた
バッターは背番号1、王貞治
当時5年連続本塁打王
1本足打法の大打者との初対決だった
高卒ルーキーはストレートで真っ向から勝負を挑んだ
カウント2-0からの剛速球を王は空振り
初対決を見事三振に斬ってとった
天下の王貞治にストレートだけで3球三振である
「なんや!
カーブなんかいらんやないか!」
「プロでメシが食える」
と自信がついた瞬間だった

奪三振王

若干18歳で
シーズン225奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得
オールスターゲームにメンバー入りを果たす
「オールスターゲームは
今はそうでもないけど、
当時はパ・リーグが自分達の存在を世間に知らしめる唯一のチャンスという感じだったんだよ
普段はどうしてもファンの注目がセ・リーグに集まっていたので
パ・リーグの選手は内心穏やかじゃなかった
この時とばかりに「セ・リーグをブッ叩いてやろう!!」というパ・リーグの選手の気概を強く肌で感じたね
今にして思えば1年目から出してもらったと言っても
実力で勝ち得た出場権じゃなかったと思うんだよ
当時のセ・リーグのメンバーを見渡すと
堀内君以外はベテランが多かったから、
川上監督としては「いつでも使える便利で元気な若い選手」が欲しかったんじゃないかな?
あの頃は巨人の選手がたっくさん選ばれていたので
第一印象は「オールスター戦と言ってもまるで巨人対パ・リーグだな~」っていう感じだったね
練習の時から巨人の選手だけはひとかたまりになってて他球団の我々からしたら近寄りがたい雰囲気があったよね
当時は巨人が9連覇を続けていた時代
強いということは勝負の世界では絶対的な権威だからね
オールスターっていうのはもちろん「お祭り行事」みたいな部分もあるんだけど、
やっぱり巨人の選手と他チームのグループに壁はあったよね
憧れの先輩と話をさせてもらういい機会だったはずだけど
今ほど私語が許されている時代ではなく、
ベンチで冗談は言い合ってもグラウンドでは挨拶以外の話はなかったからさ
もしもアドバイスを受けたいなっていう時はロッカーなど人目につかない所で聞く
そんな時代だったよね
金田(正一)さんとロッカールームで出くわしてさ、
『コラ若造、何サボっとんじゃ
早くベンチで応援して来い!!』
って言うわけさ
そしたら当然、今度はベンチで顔を合わせるでしょ? 
すると今度は
『オマエら、こんなトコで座ってないでブルペンに行けっ!!』
って言うんだよ
『ブルペンに行け』っていうのは『勉強してこい!!』ってことなんだよ
オールスターに出てくるような各チームの主力投手がどういうピッチングの調整をしているかをよ~く見とけっていう最高の親切だったんだ
でもあの人は口が悪いからああいう言い方になるんだけどね
この目で見るっていうのは絶対に必要なことだったからね
でも次の日も同じようにブルペンで見てたら、
『こんなトコでサボっとらんで、ベンチで応援して来い!!』
だって
「この人、その時によって言う事ちゃうな~」って
でもそれ以来かな、金田さんに親しみを持たせてもらったのは」

宿敵

当時の阪神のエース:村山実は
節目の記録となる三振を常に長嶋茂雄から奪うようにしていた
村山がON(王・長嶋)を指さし
「俺はこっち(長嶋)お前はあっち(王)や」
と江夏に命じた
村山実は
長嶋茂雄との対決に異常なまでの執念を燃やしフォークボールを連投した
江夏は思った
「村山さんは長嶋さんに向かう時、ロマンチストになった
それなら自分は王さんに対してプライドを武器にしよう」

新記録は王貞治から

1968年
9月17日
甲子園球場
読売ジャイアンツ戦
「王さんから新記録(シーズン奪三振記録)を奪う」
江夏は試合前からそういっていた
試合のスコアは0-0
緊迫したゲーム展開だった
しかし江夏は公約を守るため
バッターをわざと三振を獲らずアウトにしていくという曲芸のような投球を披露した
投手の高橋一三も低めの球でセカンドゴロに打ちとった
「森(昌彦)さんとピッチャーは三振を取らないようにするのがむしろ大変だった」
そして再び王の打席が回ってきた時
見事記録更新となる354個目の三振を奪った
しかし、試合のスコアは依然0-0
延長戦に入った
11回裏
バッターボックスに入った江夏は自らサヨナラ打を放った

三振かホームランか

王との名勝負は続いた
通算57の三振を奪い
20本の本塁打も打たれた
1度の死球もない
王から最も多く三振を奪った投手は江夏で
江夏から最も多く本塁打を打った打者は王である
王は江夏との対決について後にこう語っている
「江夏君のストレートは150km/hは出ていない
にもかかわらず打てない
それはズシリと重いからだ
あんなボールを投げる投手はいなかった
江夏は僕には殆どストレートしか投げなかった
それが僕には解っていたし、
江夏君は僕が解っていた事を解っていてストレートを投げてきたものだった」
江夏が生涯でもっとも本塁打を多く打たれたのは王の20本
その20本は全てストレート
江夏は王との対決でカーブもチェンジアップも使ったがウイニング・ショットはストレートのみであった
ストレートを待つ王
それを承知でストレートを勝負球に使う江夏
ストレートにこだわる理由は何か?
それは江夏の「プライド」だった
江夏は
シーズン401奪三振の世界記録と
通算1000奪三振記録を
「王さんから獲る」
と志願の登板
王に対しストレートの握りを見せて勝負を挑むという
今では野球漫画でも見られなくなったパフォーマンスをしたが
王は2ホーマーを放ち江夏を粉砕
新聞は
「個人記録に拘りチームの勝利を犠牲にした」
と一斉に批判
プロ野球に「勝負の美学」が残っていた時代の最後の逸話だった

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勝敗以上に大切なモノ

甲子園球場での巨人戦
ペナントレース終盤に来て阪神と巨人の差は僅か0.5ゲーム
事実上の優勝決定戦と言われたゲーム
ここで江夏の「プライド」が阪神の運命を決めた
7回表
阪神が2点リード
1死
末次民夫が四球で歩き
土井正三がセンター前ヒット
高田繁が三塁前に意表をつくバントで揺さぶりをかけ満塁
ここで打席に王を迎える
江夏はここでもストレート一本の攻め
いきなり2-0と王を追い込む
遊び球はない
次の3球目
外角低めの最高の1球
文句なしのストライク
キャンプではこの「外角低め」のコントロールを磨く為に1日250球も投げ続けた
「勝負あった!」
主審・谷村
「ボール!」
無情の判定
江夏
「ストライクやないか!」
バッテリーを組んでいた辻”ダンプ”恭彦も食い下がる
が、当然判定は覆らない
ここからが江夏の真骨頂
2-1となった4球目
全く同じコースの外角低めに渾身のストレートを放る
「ボール!」
2-3からのラストボール
内角低めのストレート
左打者に対する膝元へのコントロールは
江夏の前に江夏なし、江夏の後に江夏なしとまで言われる最高の1球
そんな自信のある1球
「ボール!」
押し出し
なお満塁
バッター:長嶋茂雄
王との対決で精魂尽き果てた江夏に
もはや長嶋に対する術はなかった
逆転の一打がレフト線に飛んだ
なぜ江夏は王に対して「渾身のストレート」しか投げなかったか?
「それは・・・・オレがオレであることを確かめたかったんだ」
江夏豊という投手のプライドを賭けた王貞治との対決
「勝敗以上に大切なモノがある」
今の野球ファンには到底理解できない心情であろう

9連続奪三振

1971年のオールスターゲーム第1戦
1回裏
全パの先頭打者有藤(ロッテ)を三振に始まり
3者連続三振
2回表
自ら西宮球場の右翼席上段に3ランを叩きこむ
2回裏
3者連続三振
3回裏
3者連続空振り三振
連続9人から三振を奪う
9人中8人が空振り三振
9人目の打者:加藤がバックネット側に打ち上げたファールを追おうとした捕手:田淵に
「捕るな!」
と叫んだ
オールスターゲームでは投手は3イニングまでしか登板できないため
9連続奪三振は最高の成績である

「この年のシーズン前半は6勝9敗と肩の故障もあってあんまり成績が良くなかったんだよ
だから本来であれば監督推薦で選ばれることはなかったのに
有難いことにファン投票でオールスターに出られることになった
ボク自身にしてみればあの時ほど「ファンって有難いなぁー」と思ったことはなかったね
嬉しくもあり、正直、照れくさい気もしていたんだ
そんな時、ある親しい新聞記者から冗談まじりに
「こんな数字でも出してもらったんだから
お返しのためにファンを喜ばせるようなことをしろよ!!」
って言われてね
そんなこと言われてもマウンド上で一曲歌うわけにもいかんしねー
じゃあ、去年は8つ取ったんだから、今年は9ついってやろうと
何をしようかと思ったら、自分の場合は三振を多く取るしかないと
(この前年のオールスターで連続ではないが計8個の三振を取っていた)
1人も走者を出さず、「9者連続」ってのは自分でも夢にも思っていなかったよ
そんなことができたらマンガの世界ですよ
そこまでボクは自信家じゃなかったしね
「9個の三振を取りたい」っていう願望はあったけど連続ってのはまさに予想外というか
1回を3者連続で取った時は「ワー」、
2回で6者連続になったら「オー」になってきて
そして3回
7人目のバッターを三振に取ったら観客の歓声がほとんどなくなって
俗に言う「水を打ったように静けさ」になったんだよ
8人目を三振に取った時はバックで守っているミスターや王さんの声が聞こえてくるほどでね
普段は歓声が大きいから守りの選手の声なんて聞こえないものなんだけど
先頭打者から8人連続で三振を取ってとうとう9人目
その最後のバッターがキャッチャーの後方にファールを打ったんで
咄嗟にキャッチャーの(同僚の)田淵に
「追うな!!」
って叫んだんだよ
よくマスコミには「江夏が捕るなと言った」と書かれることがあるけど、
実際は「どうせスタンドに入るんだから、早く座ってくれ」という意味で叫んだんだよ
というのもキャッチャーが捕りに走ると時間が取られてこっちの集中力が途切れるから
待たされなければ三振を取る自信があったから早く投げたくて仕方なかった
最後の球がキャッチャーミットに収まった瞬間、
それまでの静けさがウソのように、もの凄い歓声が上がってさ
ただ意外とあっけないなという感じだったね
「なーんだ、こんなモンか」と
自分でもホっとしたのは確かだけど
最後の三振を取ったボールを田淵がてっきりボクに渡してくれるもんだと思っていたら、
彼はいつものようにマウンドの方へポーンって投げちゃうんだよ
それを自分で取りに行くのもカッコ悪いと思ってそのままベンチに戻ったら、
何と王さんが拾ってボクに届けてくれたんだよ
あの時からかな、ボクが真剣に王貞治のファンになったのは
「それに比べてオマエは冷たい男だなー」と田淵には後々何回も文句を言ったけどね
毎年オールスターの季節になるたびにいろいろな人に話題にしてもらえるのは
この年齢になるととてもありがたいと感じるね
思い出は押し売りできないもので
自分にとって印象的なことでも他人にもそう思ってもらえるとは限らない
それを一般の方にも「あれは凄かった」と言ってもらえるのは選手にとって最高に嬉しいことだよね
あの9連続奪三振っていうのはボクの個人的な記録であって、
あの試合にはもっともっといろんな記録が重なってるんだよ
ボクの後に渡辺さん(巨人)から最後は小谷さん(大洋)まで5人の継投で繋いでノーヒットノーランを達成したゲームなんだよ
さらに5人合計で「1試合16奪三振」でしょ
これも未だに破られていないオールスターでの記録なんだ
ボクの9連続奪三振ばかりが表面に出るけど
それを中心にして5人で作った大記録がさらに2つもあるってこと
たまたまボクはその試合の先発だっただけ
未だに破られていないのは誇りに思っているけどね
投手から見ればね
バッターからしたら「コノヤロー!!」っていう試合だよ」
オールスターゲーム第3戦は
6回から登板
江藤(ロッテ)を三振
野村克也(南海)が初球をバットに当ててセカンドゴロにし記録はストップ
前年(1970年)のオールスターゲーム第2戦2回一死から5連続三振を合計し
オールスターで15連続奪三振を達成
通算1000奪三振を記録

ノーヒットノーラン&サヨナラホームラン

1973年8月30日
中日ドラゴンズ戦
阪神:江夏vs中日:松本の投手戦となった
9回表
中日打線をノーヒットに抑える
0-0のまま延長戦
10回表、11回表、中日打線をノーヒットに抑える
11回裏、打者:江夏
初球をライト側ラッキーゾーンにホームラン
サヨナラ勝ち
劇的な自らのサヨナラホームランでノーヒットノーランを達成
朝日放送のアナウンサーが興奮のあまり
「バンザーイ!
江夏大バンザイ!」
と万歳を連呼
後日、公平性を欠くと注意を受けた
その時の江夏のコメントが
「野球は1人でも出来る」
これが論議を呼んだ
一切言い訳をしない性格がそれに拍車をかけた

阪神が江夏を放出

江夏は主治医から
「今の無茶な生活を続けていれば間違いなく数年以内に命を落とす
酒、タバコ、女、麻雀、どれかを止めろ」
と言われた
どうしてもタバコだけはやめられず酒を断つことを選び
それは現在にまで至っている
1974年、通算150勝を達成
血行障害や心臓疾患が悪化
肩痛・肘痛を抑える痛み止めの影響で体重が激増
成績は年々下降
金田正泰、吉田義男両監督との確執などから
「一匹狼」
「ローンウルフ」
といった異名をつけられ
フロントとの対立がクローズアップされる
1966年から1972年まで6年間連続最多奪三振、
1968年、1973年に最多勝利投手
1969年、最優秀防御率
1975年までに完封44試合を含む159勝を記録していた
そんなチームの大功労者に対する契約更改交渉がもめていた
そして日刊スポーツに「江夏放出」の見出しが躍った
江本孟紀(南海)とのトレード話が進行しているとの内容で
当時の江本は5年目で52勝57敗の成績で
江夏とは通算成績で100勝以上も差がありトレード相手としては不釣合いだった
当然、江夏は不信感を抱くが
球団はこれをデマだとして全面否定
しかし契約の話になると、25%ダウンを提示、飲めないならトレードだと通告した

南海ホークスへ

1976年1月28日
阪神、南海による2対4のトレード
(阪神:江夏豊、望月充、南海:江本孟紀、長谷川勉、池内豊、島野育夫)
が成立
トレード発表の記者会見ではこう話した
「僕は心機一転という言葉は使いたくない
精一杯やるだけです
今日はちょうど28日
(江夏の背番号は28)
この日で阪神の江夏はすべて終わった」
江本とのトレードについて
「なぜあんなレベルの選手と・・・」
それを聞いた江本は
「言いたい放題言いやがって・・・・」
と一触即発の状態に陥った
しかし後に和解し良友となる

藤本定義(元阪神監督)は
「世間知らずの野球バカをあんな惨いかたちで追い出すなんて
江夏は10年に1人のピッチャーです
大投手になれたのは
あのわがままでひねくれた性格があったからこそなんですよ
昨年、一昨年と成績が悪かったのは使い方が悪いからです
私が監督のころは
片親がいない貧乏な家庭に育った者には父親代わり兄代わりになってやったものです
江夏もそうで、父親のいない貧しい家庭環境で育っています
そこのところを知ってやらねばいけません
それを会社や監督は理解してやらなかった
配慮が足らなかった
私は今年の吉田内閣はそうとういけると踏んで楽しみにしていたんです
しかしこれで終わりです
残っている計算の立たない10勝クラスではとても優勝なんかできるものではありません 」
とこのトレードについて痛烈に批判している
当の吉田義男監督は
「フロントが決めたことで、私は知らなかった」
と弁明した
当時の長田睦夫球団社長に
「君は江夏のトレード話は知らないことにしておこうや」
との意向に従ってしらばっくれたともいわれている
また江夏豊自伝「左腕の誇り」には
阪神・吉田監督のほうから南海・野村克也監督に江夏のトレード話の打診があったと記されている
ちなみに阪神は
江夏を放出した後、
1976年こそ2位という成績だが、
1984年まで9シーズン中6度のBクラス
1978年には最下位という屈辱を味わう

野村克也

当初、江夏は阪神在籍のまま現役を終えるつもりだった
ホークスに移籍する気は全くなかった
南海の野村克也選手兼任監督に、
1975年10月1日の広島東洋カープ戦で
衣笠祥雄にカウント2-3から意図的に投じたボール球について
「あれはわざと放ったんだろう?」
と指摘され
その野球観に深い感銘を受け南海での現役続行を決意したという
1977年
移籍1年目
先発として登録されたが
血行障害や心臓疾患などで長いイニングを投げられず
思うような成績が残せなかった
しかし
変化球も含め
構えたミットに寸分違わずボールを投げ込む図抜けた制球力で周囲を驚かせた
中でも右打者の外角低めのボールは絶品だった

リリーフエース

野村監督はリリーフへ転向をすすめた
「50球程度の短い投球回なら十分に戦力になる」
「トレードの上、今度はリリーフ
何で自分ばかりに恥をかかせるのか」
「抑えの切り札として野球の革命児になってもらいたい」
こうして江夏はここから優勝請負人として球団を渡り歩くことになる
6月、リリーフ投手へ転向
この年19セーブ
最優秀救援投手に輝き
日本野球界におけるリリーフ投手のパイオニアとなる
そしてリリーフエース専任、江夏8連投、全試合ベンチ入りなどは野球革命といわれた
現在では江夏の残した功績がそのまま引き継がれ
抑えの切り札がしっかりしたチームが優勝するという図式が定着している
当時はリリーフ専門投手の調整法というものが日本には無かった
ずっとベンチに座って待機していると腰痛持ちの江夏には辛かった
知り合いの記者にメジャーリーグでのリリーフ投手の調整法などを聞き自己流の調整を始めた
試合が始まっても5回までベンチに入らず
ロッカールームでマッサージを受けたり睡眠を取った
当時はまだ非難を浴びたが
今日では全試合待機を義務付けられるリリーフ投手のコンディション維持法として定着している
阪神時代の豪腕投手は鳴りを潜め
打者の心理を読んで変化球を巧みに使い分ける技巧派投手として開眼した
金田正一を
「現役時代の自分を上回る」
と言わしめた
同年、
オフシーズンに入ると野村監督が解任が決まった
江夏は言った
「野村さんがやめる以上出してください」

広島東洋カープへ

江夏は広島へ移籍し
リリーフエースとして活躍した
2215試合連続試合出場の鉄人、衣笠祥雄は江夏豊の2年先輩で
2人は無二の親友としてグランド内ではもちろんよく遊びにもいった
「サチ(衣笠祥雄)は今でも野球を離れたところで男同士の付き合いができる
広島の3年間はよく野球の話もしたしお互いの悩みを聞いたしよく遊んだ
嫁さんといるよりサチといる方が長かった
ゴルフ、カラオケ、旅行など一緒によく遊んだ
小倉では高橋慶彦、サチ、福永トレーナーと夜の十時から、朝の七時まで延々とアリスの唄を歌い続けたこともあった
江夏が日本ハムに移籍した後、サチは湯布院の喫茶店でアリスの唄を聞いて、
「豊がおらん。豊がおらん」と言って泣いていたそうです」
思うように成績が振るわず先発を外れされたとき
衣笠は荒れに荒れた
手当たりしだいにものをぶっ飛ばした
しかし江夏は一晩中一緒にいたという
「ぼくはあの時からいっそう仲良くなったと思う
あそこで初めて彼の弱いところを見てしまったけど、
弱みを見せるということはそれだけ僕を信頼しているのだなと思った」

江夏の21球

近鉄バファローズとの日本シリーズ最終の第7戦
7回裏から江夏はマウンドに立った
9回裏、
広島1点リード
近鉄の攻撃
ヒット、盗塁、エラーで無死三塁
四球、敬遠で無死満塁
代打:佐々木を三振で一死
次の打者は石渡
1球目
石渡の見逃し方と一塁走者の眼の動きからスクイズを見抜く
2球目
カーブの握りでわざと投球動作を遅らせ
打者の動きを見ながらカーブを外角高めに大きく外す
石渡はスクイズを空振り
三塁走者はタッチアウト
二死
その後、石渡が三振し
広島の日本一が決定
9回だけで21球を投げた江夏は胴上げ投手となった
これが後に作家:山際淳司が短編ノンフィクション
『江夏の21球』
に記したプロ野球史屈指の名場面である
9勝5敗22セーブ
防御率2.66
自身初、日本のリリーフ投手初となるシーズンMVP

2年連続日本一

1980年
広島の2年連続日本一に大きく貢献し
また大野豊に熱心な個人指導も行い、
後の大野の成長の礎を作り上げた
そしてオフシーズンに
高橋直樹とのトレードで大沢啓二監督率いる日本ハムファイターズへ移籍が決まった
20勝エースとリリーフエースとの大型トレードだった

優勝請負人

1981年、
移籍1年目
日本ハムファイターズを19年ぶりの優勝に導く
シーズンMVPを獲得
プロ野球史上初めて両リーグでMVP受賞
『優勝請負人』の異名を取った
1982年、
通算200勝を達成
5年連続で最多セーブ投手
史上初12球団すべてからセーブを挙げる
1983年のオフシーズンに大沢監督が勇退
「お前をとってきた俺がやめるんだから、お前も日ハムをやめろ!」
と江夏の移籍も決まる
この時点ではまだ移籍先が決まっていなかった
希望球団を聞かれ
「行きたくないのは巨人、阪神、広島、西武
強い巨人、西武と対戦できるならどこでもいい」
しかし西武ライオンズへの移籍が決定
巨人が江夏獲得に乗り出してくると見た西武が自軍に引き入れた

国内引退

西武時代

優勝請負人の気骨――江夏豊 | 週刊ベースボールONLINE プロ野球・ドラフト注目選手のコラム・インタビュー・戦力分析・予想・試合レポートなど徹底取材

1984年、
西武に移籍
5月の大阪遠征中
本社の幹部も交えた朝食会で
江夏は広岡達朗監督と同じ円卓に座った
監督の方針で
肉食が制限されていたので出てきたのは玄米だった
江夏は悪気も何もなく不思議に思って聞いた
「監督、
こんな玄米を食べてるのになんで痛風なの」
すると場が妙な空気になり監督は出ていった
その遠征から戻ってすぐ江夏は2軍に落ちた
プロ18年目で初めてだった
江夏は数々の記録を達成してきたが
このとき胸にあったのは日米で例のない「1000試合登板」だった
しかし結局シーズン終わりまで2軍だった
江夏は
「そんな世界なら未練はない」

史上初の通算200セーブ、通算3000奪三振をも目前に
西武を退団
引退を表明した

たったひとりの引退式

1985年1月19日、
広岡達朗監督とケンカ別れのような形で球界を去ることになったため
江夏の引退式は行われなかった
そのため東京都多摩市の一本杉公園野球場で
文芸春秋主催、名球会協力の「たったひとりの引退式」が行われ
収容人員15000をはるかに超える20000の人々が駆けつけた
一本杉公園野球場はプロ野球球場でなく市民球場である
当日、江夏は多摩ニュータウンを走る車の中でこう思った
「エライとこに連れていくんやな
まるでゴルフ場に行くみたいや
ほんまに、球場なんかあるんかいな」
到着してみるとあふれんばかりの人がいた
「あんだけのお客さんが集まってくれたっちゅうのは
驚きというか
意外というか
まあ、ありがたい気持ちになったよね」
そして控室でたばこをくゆらせた後
少年野球の試合にリリーフで登板するという形でをマウンドに上がった
小学生1人に投げた後
球界の仲間が次々に打席に立った
落合博満、高橋慶彦、福本豊、山本浩二、大杉勝男、斎藤明夫、江藤慎一
阪神時代にバッテリーを組んだ辻恭彦のミットめがけ27球を投げた
そして挨拶で江夏はメジャーリーグ挑戦を表明した
「江夏豊36歳、
本当にバカな男かもわかりません
ですが日本に帰ってきたときには、
たった一言、
ご苦労、
それだけ言ってやってください」
江夏は現役時代、ずっと日記をつけていたが、
メジャー挑戦とともに日本での現役時代の日記を全て燃やした

メジャーリーグ挑戦、完全燃焼

1985年2月、
日本を離れ
公約通り大リーグ:ミルウォーキー・ブルワーズの春季キャンプに参加
「アメリカでの野球生活を終えて日本に移るメジャーリーガーが多い中、
日本での野球生活を終えてメジャーに挑戦する36歳のルーキー」
と地元マスコミも注目
メジャー枠10人に入ることを目指して力投した
内7人は既にメジャー枠当確だったので
実質、19人で3つの枠を争うことになった
3月18日、
マリナーズを抑え勝利投手となる
メジャー相手に好投を続けて実力を見せつけメジャー入りは確実かと思われた
オープン戦後半
まさかの3試合連続救援失敗
メジャー入りの最後の枠を若いイゲーラ投手と争うことになった
4月2日、
エンゼルス戦
2回2失点
開幕メジャーリーグの夢は絶たれた
「最後に対戦したのがヤンキースで活躍したレジー・ジャクソン
メジャーで500本塁打してる彼が、すさまじい形相で打席に入ってきた
真剣勝負の末に、ちょっと外の抜いた球を左中間に運ばれた
あんなきれいなバッティングされたらもう、完全燃焼だよ」
球団にマイナー契約を打診されたが
「そこまでやる気はない」
とマイナーでの再スタートを断り
現役を完全に退いた

一からやり直す

江夏と最後までメジャー枠を争ったテディ・イゲーラは
この年15勝、翌年は20勝をあげた
マイナー時代は普段着でもアンダーシャツを着て
ビール1本を買う金すらなく江夏の部屋まで飲みに来ていた
日米野球で来日したときは真っ先に江夏のもとに駆けつけ握手を求めた
服はブランド物、腕には高級時計を身につけていた
江夏は思った
「これがアメリカンドリームか」
引退後は解説者、評論家
またタレント・俳優としても活動
1993年3月3日、
覚せい剤取締法違反で現行犯逮捕
懲役2年4ヶ月の実刑判決を受け静岡刑務所に服役
名球会からも自主的に退会
一時の気の迷いで薬物に手を出し、
指導者の道が断たれてしまったことを悔やむ声は多い
1995年4月27日、
仮釈放
刑務所の生活で健康状態は劇的に改善していた
出所後
法廷での弁護に立った野村克也、江本孟紀、衣笠祥雄ら友人達への感謝の言葉と共に、
「もし刑務所に行っていなかったら僕はもう死んでいたかもしれない」
と語った
自宅に戻ると
一からやり直す決意をするため
現役時代の獲得した数々のトロフィーなどを全て捨てた
作家:安部譲二は語る
「あの傲岸不遜だった男が帰ってきたら物凄く気配りができるようになっていた」
やがて野球解説者・評論家に復帰
判りやすく明晰な技術論で高い評判を得ている
江夏は
選手を「君」付けで呼ぶ
それは
「野球選手という職業へのリスペクト」
だという

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