和製ヘラクレス
1951年東京生まれ。帝京商工高-駒澤大を経て、ドラフト1位で近鉄バファローズに入団。
1974年から1989年まで近鉄一筋で活躍。
1979年は130試合に出場。キャリアハイの32本塁打を放ち、近鉄のリーグ初優勝に貢献しました。
翌1980年には打率.328、28本塁打、84打点の成績を残し、近鉄2連覇の立役者となりました。
タイトルは、最高出塁率1回、ベストナイン3回など。

栗橋茂 - Wikipedia
二日酔いでホームラン

近鉄の後期優勝決定試合の前の晩に、栗橋は飲みに出かけます。
試合はデーゲームで、選手達は朝の8時半に集合予定のところ、栗橋は朝の7時まで飲んでいました。
店のシャッターが閉まっていたため、外が明るくなったのに気づかなかったらしいのです。
栗橋はあわててカッパを着込み汗を流し、水をがぶ飲みして、なんとか試合に出ました。
そこで3打数3安打1ホームランの成績を残すという伝説を作り上げます。
カラス扉に激突!流血!

チームが北海道に遠征時、栗橋は例によって朝帰り。
移動のバスに遅れそうになり、あわてて走ったためガラス扉に激突!
栗橋は倒れて流血してしまうが、バスはそのまま発車してしまいました。
その後の試合には普通に出場したそうです。
9階のベランダを伝って部屋へ

栗橋はいつものように酔っ払って自宅に戻ろうとしたが、鍵を忘れてしまいました。
仕方なく隣の部屋に頼んで入れてもらい、ベランダ伝いに自室に戻りました。
ただ、その部屋は9階の高さだったのです。
翌日の試合で、誰かが見ていたのか「おまえは泥棒か!」とファンにヤジられたそうです。
キャンプ地で漁師と大乱闘
高知県宿毛をキャンプ地としていた近鉄。
夜のスナックで地元漁師とトラブルを起こしてしまいます。
次の日の朝、グラウンドで選手が体操をしていると、そこへ棍棒などで武装した漁師達が軽トラに乗ってやってきました。
あわや大乱闘になるところを、周りに止められなんとか事なきを得ました。
頭部へのデッドボール5回
栗橋は強打者だったため、ピッチャーからは内角の厳しい攻めを受けることになります。
そのためデッドボールを受けることが多かったのです。
頭部への死球が5回。それでも平気なところが和製ヘラクレスということでしょうか。
カレーはビーフかポークかでボコボコに

栗橋の後輩、金村義明
金村義明 - Yahoo!検索(人物)
栗橋と金村義明が雑談をしていたとき、なぜかカレーの具に関する話題になりました。
金村はカレーにはビーフだと主張しましたが、ポーク派の栗橋は「カレーにはポークだろ」と金村をボコボコに殴ったそうです。
恩師、西本監督

栗橋の恩師、西本幸雄
元阪急、近鉄監督の西本幸雄氏が死去 - プロ野球ニュース : nikkansports.com
怖い存在の西本監督
栗橋がルーキーの頃、西本監督はとても怖い存在でした。
代打で打席に立ち、見逃し三振に終わりベンチを見ると、西本監督が鬼のような形相で栗橋をにらんでいます。
西本監督は、見逃し三振をとても嫌います。
栗橋は、思わず敵チームのベンチに帰ろうかなと思ったそうです。
西本監督とケンカ
栗橋が2塁走者の時、ライトへフライかヒットか微妙な当たりが上がりました。
栗橋はタッチアップのかまえで2塁ベースについていました。
ボールは野手の前に落ちヒットになり、栗橋は3塁へ進塁してストップしました。
この走塁に対して西本監督が「手抜きするな」と怒ると、「手は抜いてない」と監督に食ってかかりました。
不穏な空気になりましたが、あとで監督室にあやまりに行き和解しました。
恩師と慕う西本監督
西本監督は厳しいひとで、何度も栗橋とぶつかることもありました。
しかし、それは栗橋を思ってのこと。
そんな西本監督を、栗橋は恩師と慕っております。
広島との日本シリーズ
当時のパ・リーグとセ・リーグの人気には大きな差がありました。
近鉄のホームゲームは大阪球場で開催されましたが、その時は近鉄ファンと広島ファンが半々でした。
一方、広島球場では、周りはほとんどが広島ファン。近鉄ファンはごく一部でした。
広島ファンに囲まれた中で、飲まれてしまったのか、近鉄は2年連続で日本シリーズを敗退してしまいます。
それほど広島ファンの勢いはすごかったそうです。
仰木監督にぶち切れ

栗橋の恩師、仰木彬
今の時代、本当に必要な監督力とは?仰木彬と星野仙一、「怖さ」の違い。 - プロ野球 - Number Web - ナンバー
仰木監督が外野ノックを打ち、栗橋がカットマンのサード金村に返球しました。
しかしその送球が高く、仰木監督は「しっかり投げろ!」とハンドマイクで怒ります。
他のみんなに聞こえるように言われたことに腹を立てた栗橋は、「てめえがやってみろ!」とグラブをたたきつけました。
仰木監督とは、しょっちゅうケンカをしていたそうです。
88年、そして89年
10.19を振り返る
10.19 - Wikipedia
栗橋は10.19を振り返ってこう言っています。
ロッテは、近鉄に勝たしてもいいと思っていた。
しかし、近鉄側のヤジがひどかったため、ロッテ側が怒って本気を出したと。
近鉄の選手はみんな緊張していた。
しかし栗橋は自分の引退の事を考えていて、案外冷静だったと振り返っています。
巨人との日本シリーズ
88年の悔しさを乗り越え、89年にはリーグ優勝を遂げます。
その年の日本シリーズは巨人との対戦。
近鉄は3連勝しますが、その後を4連敗し、悲願の日本一を逃してしまいます。
その時のことを栗橋は振り返っています。
当時の近鉄は若くて勢いがあった。
しかし、勢いだけできたので怖い面もあった。
3連勝で止ってしまったが、4連勝までいかなければならなかったと。
引退発表の夜

近鉄一筋でプレーをしてきた栗橋も、とうとう引退の時がやってきました。
引退発表の夜、トイレに閉じこもり、泣きながらトイレットペーパーをぐちゃぐちゃにして荒れたそうです。
栗橋の母親が、近所に住んでいる金村に助けを求め戻ってみると、栗橋は布団で寝ながら「同期の桜」を歌っていたそうです。
数々の伝説を作り上げた男

数々の伝説を残した栗橋茂。
関西パ・リーグには、様々な逸話がありますが、栗橋の伝説がナンバーワンです。
彼は今、藤井寺でカラオケスナックを経営しています。