NBAで最高のPGは誰か?そんな質問はNBAが好きな人なら誰でも一度は答えたことがあるだろう。
マジック・ジョンソン?アイザイア・トーマス?古いNBAファンならそう答えるかもしれない。
スティーブ・ナッシュ?ケビン・ジョンソン?このあたりの名前は好みのプレイヤーなら挙がるかもしれない。
だが、誰がなんと言おうと歴代No.1のPGはジョン・ストックトンである。
この地味だが堅実で確実なポイントガードを今あえて振り返ってみたい。

John Stockton
NBA記録
通算アシスト数:15,806(歴代1位)
1シーズンで記録したアシスト数:1,164(1990-91)
シーズン1試合平均アシスト数:14.5(1989-90)
通算スティール数:3,265(歴代1位)
一つのチームに在籍し続けた期間:19シーズン
同一チームでの出場試合数:1,504
優勝していない選手におけるプレーオフ出場試合数:182
プレーオフ出場連続年数:19
シーズン最多アシスト回数:9
シーズン最多アシスト連続年数:9
輝かしい業績一覧
オールNBA
1stチーム:2回(1994,1995)
2ndチーム:6回(1988,1989,1990,1992,1993,1996)
3rdチーム:3回(1991,1997,1999)
オールディフェンシブ
2ndチーム:5回(1989,1991,1992,1995,1997)
オールスターMVP:(1993)
オリンピック男子バスケットボール金メダル獲得:2回(1992バルセロナ大会、1996アトランタ大会)
NBA史上最も偉大な50人に選出:(1996)
年間1000アシスト以上を7回記録。他に年間1000アシストを記録した選手はアイザイア・トーマスとケビン・ポーターのみで、共に一回だけ。
1シーズンで記録したアシスト数の1位から4位までの記録を独占。
通算FG%.515は、ガードとしては史上4番目の高さ。
NBAファイナル出場:2回(1997,1998)
オールスター戦出場:10回(1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,2000)
3ポイントシュートコンテスト出場:2回(1992,1997)
19シーズン中17シーズンで全試合出場。
1990年2月13日から97年4月20日にかけ、NBA史上8番目の長さとなる609試合連続出場を記録。
NBAに在籍した19シーズン全てで、プレーオフに出場。
月間MVP選出:1回(1988年2月)
週間MVP選出:6回
プレーオフ出場試合数歴代10位
ドラフトに指名される時から地味だった
ドン・モリソン率いるアイダホ大学やマイク・モンゴメリーのモンタナ大学などからも誘いがあり、大学進学を迷ったジョン・ストックトンだったが、最終的には地元でダン・フィッツジェラルドのゴンザガ大学を選択する。
大学4年時には平均20.9得点、7.2アシストを記録しているがゴンザガ大学が無名だったため、それほど注目を集めることはなかった。

ゴンザガ大のストックトン
そして、1984年6月のNBAドラフト。ドラフト全体の16位でユタ・ジャズからの指名をうける。
大学のキャリアで、ストックトンの価値は、ドラフト前数ヶ月で大幅に上昇していた。
だが、ドラフト当日にソルトパレスに集まっていたジャズファン数千人は、ジャズがストックトンを選択した時、会場は水を打ったように静かになった。

JAZZに指名を受けるストックトン
カール・マローンとの名コンビ結成

カール・マローン
ストックトンが入団したユタ・ジャズは1985年にカール・マローンを獲得する。
また、それまでチームの中心選手だったエイドリアン・ダントリーが翌シーズンにトレードされ、1988年にコーチにジェリー・スローンが就任して以降、この2人を中心としたチーム体制が16年間続いていく。
1人が一緒に出場したレギュラーシーズンの試合数は、1412試合。他に類を見ない数字である。
メイルマン(郵便配達人)と呼ばれたカール・マローンに届けていた実際の郵便配達人は、ストックトンだったのである。

メイルマン(カール・マローン)との名コンビ
マローンとストックトンの得点パターンには、有名なピック・アンド・ロール。
相手のディフェンダーの動きを止めるプレイからフリーになった選手が得点するという一連の流れは実に効果的に機能し、相手チームや観客の誰もが知っているプレーでありながら洗練されたプレーで止める事が困難であり、長年に渡りユタ・ジャズが利用するプレイとなった。

それでもリングを取れなかったコンビ
ストックトンは引退までユタ・ジャズ一筋だったが、ストックトン引退後にカール・マローンはチャンピオンリングを求めてレイカーズなどへと移籍をしたが、優勝は出来なかった。
彼のチームメイトカール・マローンとともに、ストックトンはNBAチャンピオンシップを獲得したことがない最高の選手の一人と考えられている。
しのぎを削ったライバルたち
先に記述したとおり目立ちたがらない性格でプレイの華やかさは控えめで、優勝経験もないため、史上最高PGのランキングの際にはマジック・ジョンソンやアイザイア・トーマスに次ぐことが多い。
しかし、通算アシスト数、通算スティール数、シーズン平均最多アシスト数、リーグ最多アシスト数連続年数、プレイオフ1試合最多アシスト数の記録等を保持しているため、事実上史上最高PGであることは間違いない。

ケビン・ジョンソンとのマッチアップ

ストックトンとアイザイア・トーマス

ジョーダンと対峙するストックトン
ドリームチームへの参加
NBAドラフト前に行われたロサンゼルスオリンピックでは、代表選考会には呼ばれたが最終的にはメンバーから外れてしまっていたストックトン。
1988年のソウルオリンピックで銅メダルとなってしまったアメリカは、連敗を避けるためとNBAのグローバル化を狙い1992年のバルセロナオリンピックにNBA選手を派遣することを決める。
そのドリームチーム中にジョン・ストックトンの名前もあった。

ドリームチーム1
1996年に開かれたアトランタオリンピックにアメリカは3代目のドリームチームを送り込むこととなる。
ドリームチーム3は、初代ドリームチームにも参加したベテラン選手に加えて、新しい世代のスター選手も含んでおりバランスが取れている構成となっている。
ここでストックトンは2つ目の金メダルを獲得している。

ドリームチーム3
引退~殿堂入りとブロンズ像の設置

ストックトンとブロンズ像
ストックトンの背番号「12」はユタ・ジャズの永久欠番となっており、本拠地デルタ・センターに掲げられている。
またデルタ・センターの前にはストックトンのブロンズ像が置かれている。このエピソードからもストックトンがいかにジャズのファンに愛されているかがわかる。

引退しても名コンビ?
引退後は、様々な事業をしながら、一度に7,8チームのユースコーチをしていた。
また2013年にストックトンは彼の中学校のコーチケリーL.ピケットの支援を受けて書かれた自伝を発表する。序文はカール・マローンが書いている。
2015年10月27日にはモンタナ州立大学の女子バスケットボールチームのアシスタントコーチに就任している。

2014年にドラフトでサクラメントキングスに入団した息子のデビット・ストックトン