「ドクターK」日本人メジャーの道を切り拓いた野茂英雄の足跡を辿る!

「ドクターK」日本人メジャーの道を切り拓いた野茂英雄の足跡を辿る!

ドラフト8球団指名、トルネード投法、日本人メジャーで初めての成功。輝かしい栄光に包まれた野茂英雄。でもその野球人生は決して平坦ではありませんでした。メジャー先駆者の足跡を追います。


ドクターKの猛威

野茂英雄の経歴

日本プロ野球で活躍

野茂英雄、近鉄に入団

パンチョ伊東さんのコールも非常に印象的でした

海を渡りメジャーに挑戦

ロサンゼルス・ドジャースでトルネード旋風を巻き起こした野茂英雄

生涯成績とタイトル

日本プロ野球(5年)で78勝46敗、メジャーリーグ(12年)で123勝109敗

日本プロ野球界でのタイトル

メジャーリーグでのタイトル

数多くの受賞タイトル

【日本プロ野球】

新人王(1990年)
MVP:1回 (1990年)
ベストナイン:1回 (1990年)
沢村賞:1回 (1990年)
月間MVP:2回 (1990年6月、1992年8月)
日本プロスポーツ大賞(1990年)
報知プロスポーツ大賞(1990年)
ナンバーMVP賞(1990年)
朝日スポーツ賞(2005年)

【メジャーリーグ】

新人王(1995年)
月間MVP:2回(1995年6月、1996年9月)

プロ入り前

1988年のソウルオリンピックでは銀メダル獲得

高校卒業時に既にプロから誘いがあったが、新日本製鐵堺へ入社(勤務先は子会社の新日鐵化学)。
2年目にはチームを都市対抗野球大会に導き、日本代表に選出される。1988年のソウルオリンピックでは銀メダル獲得に貢献。

名実共にアマ№1投手となった進路が注目されたが、ドラフト会議前にどの球団から指名されても入団することを明言。
その中で行われた1989年のNPBドラフトでは史上最多の8球団(阪神タイガース、ロッテオリオンズ、ヤクルトスワローズ、横浜大洋ホエールズ、福岡ダイエーホークス、日本ハムファイターズ、オリックス・ブレーブス、近鉄バファローズ)から1位指名を受け、抽選の結果近鉄が交渉権を獲得。

推定契約金は史上初の1億円台となる1億2000万円、推定年俸は1200万円で、契約時に投球フォームを変更しないという条項が付け加えられた。

近鉄時代

ルーキーイヤーに圧倒的な存在感を示す

新人イヤーに主要タイトルを総ナメ

1990年4月10日の西武ライオンズ戦でプロ初登板。
その後勝利の付かない試合が続くが、4月29日のオリックス戦で日本タイ記録(当時)の1試合17奪三振を記録し、完投でプロ初勝利。

同年は新人ながら最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率と投手四冠を独占したほか、ベストナイン・新人王・沢村栄治賞・MVPにも輝き、パ・リーグの投手が沢村賞の選考対象となったのは1989年からで、野茂はパ・リーグからの受賞第1号となった。
5試合連続2桁奪三振、三振奪取率10.99など従来の記録を次々に更新し、「ドクターK」の異名に違わぬ活躍を見せる。

野茂より前の時代、ルーキーイヤーに大記録を打ち立てた投手「木田勇」

【木田勇】2013年の田中将大投手まで33年間現れなかった1シーズン22勝をルーキーイヤーにやってのけた投手。 - Middle Edge(ミドルエッジ)

近鉄球団との確執

鈴木啓示監督との確執

野茂は近鉄への入団条件に「投球フォームの改造をしないこと」を挙げていた。当時の監督の仰木彬はこれを快諾し、調整方法も本人に任せたため、仰木を信頼して尊敬するようになった。
これに関してはメジャー在籍時の晩年に「自分を信頼してくれた仰木さんを胴上げするためにチームに貢献しようと頑張っていたが、仰木さんが監督を辞められたことでその気持ちは薄れてしまった」と語っている。

更に1993年に監督に就任した鈴木は、自身が主に先発で317勝と言う実績を挙げた投手出身と言うこともあってか、フォームや調整法など様々な事に関して干渉した。
練習や調整方法などの考え方の違いが元で野茂と鈴木は反りが合わず、近鉄退団を決意する2つ目の理由になった。

結果、交渉が不調に終わった結果近鉄を退団し、メジャーリーグに挑戦。

投手出身の監督・鈴木啓示との確執

メジャー挑戦

年俸は近鉄時代の1億4000万円からわずか980万円に

6月2日のニューヨーク・メッツ戦でメジャー初勝利を挙げ、14日のピッツバーグ・パイレーツ戦で球団新人最多記録の16奪三振を記録し、24日のジャイアンツ戦では日本人メジャーリーガー史上初の完封勝利を記録。

29日のコロラド・ロッキーズ戦まででサンディ・コーファックスを抜いての球団新記録となる4試合での50奪三振を達成。同月はピッチャー・オブ・ザ・マンスを獲得し、50.1イニングを投げ、2完封を含む6勝0敗・防御率0.89・WHIP0.82の好成績を残す。前半戦を13試合の登板で6勝1敗・防御率1.99・WHIP1.07の好成績で折り返し、オールスターゲームに初選出されて先発投手を務め、2イニングを1安打無失点に抑えた。

後半戦も15試合の登板で7勝5敗・防御率3.03・WHIP1.03の成績を残し、シーズン通算で13勝6敗、グレッグ・マダックスに次ぐリーグ2位の防御率2.54・236奪三振、リーグ最多の3完封を記録して最多奪三振のタイトルを獲得し、チームの7年ぶりの地区優勝に貢献。

日米で『NOMOマニア』という言葉が生まれる程の人気を誇った。シンシナティ・レッズとのディヴィジョンシリーズでは第3戦に先発したが、6回途中5失点で降板して敗戦投手となり、チームも3連敗で敗退した。ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票ではチッパー・ジョーンズを抑えて受賞し、サイ・ヤング賞の投票でも4位に入った。

3年430万ドルで契約を延長

1996年のスプリングトレーニング中に3年430万ドルで契約を延長。
4月13日のフロリダ・マーリンズ戦ではコーファックスに次ぐ球団史上2位となる17奪三振を記録し、完投勝利を挙げた。7月5日のロッキーズ戦では8回5安打1失点の投球で日米通算100勝を達成。9月1日のフィラデルフィア・フィリーズ戦でメジャー史上3人目となる1年目から2年連続200奪三振を達成。

メッツ移籍→タイガース→レッドソックス→ドジャース復帰

メジャーを渡り歩いた「ドクターK」

1999年1月18日に1年292万5000ドルでメッツと再契約

しかし3月24日に40人枠から外れ、30日に解雇。4月1日にカブスとマイナー契約を結ぶが、3登板で解雇され、4月29日にブルワーズと1年25万ドルで契約。5月9日にメジャー復帰。前半戦を13試合の登板で7勝2敗・防御率3.95・WHIP1.37の成績で折り返す。

8月2日のメッツ戦ではドジャースとメッツでバッテリーを組んだマイク・ピアッツァと対戦。9月8日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦ではロジャー・クレメンス、グッデンに次ぎメジャー史上3番目のスピード記録となる147試合目でのメジャー通算1000奪三振を達成。

2000年1月22日にデトロイト・タイガースと年俸125万ドル+出来高225万ドルの1年契約(2年目は年俸550万ドルの球団オプション)

4月3日のアスレティックス戦では日本人初の開幕投手を務め、最速95mph(約153km/h)を記録する投球を見せ、7回3安打3本塁打3失点で勝利投手となった。7月2日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦ではマック鈴木と投げ合い、7回0/3を無失点7奪三振で勝利。

しかし前半戦は20試合の登板で3勝7敗・防御率4.74・WHIP1.48の成績で折り返し、8月に右手中指の炎症で初の故障者リスト入り。18日のアスレティックス戦で復帰し、最速93mph(約150km/h)を記録する投球で5勝目を挙げる。

2000年12月15日、ボストン・レッドソックスと年俸325万ドル+出来高75万ドルの1年契約

2001年4月4日のボルティモア・オリオールズ戦では電気系統の故障で試合開始が遅れた中、2度目のノーヒッターを達成。

両リーグでのノーヒッターはサイ・ヤング、ジム・バニング、ノーラン・ライアンに次いで史上4人目となった。レッドソックス通算100周年の試合となった26日のミネソタ・ツインズ戦でも7回まで無安打の投球を見せた。

5月2日のシアトル・マリナーズ戦ではイチローとメジャー初対決し、第1打席と第2打席を二ゴロ、中飛に抑え、第3打席には死球を与えた。25日のトロント・ブルージェイズ戦では7者連続を含む14奪三振1安打で完封勝利を挙げ、6年ぶりの無四球を記録。6月16日のブレーブス戦では3回に日米通算2500奪三振を達成。前半戦を18試合の登板で8勝4敗・防御率3.83・WHIP1.21で折り返し、7月20日のシカゴ・ホワイトソックス戦で2年ぶり5度目の10勝に到達した。7月は負けなしの5勝・防御率3.00・WHIP1.50の成績で、ピッチャー・オブ・ザ・マンスの投票ではマーク・マルダーに次ぐ2位となった。8月からは2勝6敗・防御率6.07・WHIP1.49と調子を落とした。しかしシーズンを通して奪三振率が9.00を切ることなくリーグ1位の奪三振率10.00を記録し、4年ぶりに200奪三振を越えて二度目の最多奪三振を獲得。

2001年12月19日に2年1375万ドル(3年目は年俸900万ドルの球団オプション)で古巣ドジャースに復帰

2002年4月2日のジャイアンツ戦では4回まで1安打に抑え、5回には2死満塁の場面で新庄剛志を迎えるが、95mph(約153km/h)の速球で二ゴロに抑え、ドジャース復帰後初勝利を挙げた。その後は打線と噛み合わなかったが、5月17日からは14勝1敗の活躍で、6月21日のレッドソックス戦でメジャー通算1500奪三振を記録。7月1日のダイヤモンドバックス戦ではランディ・ジョンソンと投げ合い、打撃では5回にジョンソンの97mph(約156km/h)の速球を先制適時二塁打とし、投球でも8回5安打無四球無失点7奪三振の好投で自己最長タイの7連勝を記録。前半戦を18試合の登板で9勝5敗・防御率3.16・WHIP1.32の成績で折り返した。8月22日のマーリンズ戦では3回に突如制球を乱して敗戦投手となるも、初回に自己最速となる97mph(約156km/h)を記録した。

2003年は自身3年ぶりの開幕投手に指名され、開幕戦となった3月31日のダイヤモンドバックス戦で、ランディ・ジョンソンと投げ合い、完封勝利。4月20日のジャイアンツ戦でメジャー通算100勝を達成。前半戦を20試合の登板で9勝8敗・防御率2.97・WHIP1.12の成績で折り返す。9月に右肩回旋筋の炎症が見つかるも、故障者リスト入りはせずに療養し、14日に復帰。

最終的に防御率はリーグ6位の3.09、得点援護率がリーグワースト3位ながらもリーグ5位の16勝を挙げ、チームメイトのショーン・グリーンが「ウチにはブラウニー(ケビン・ブラウン)とエースが二人いる」と絶賛する活躍を見せた。

ドジャース退団後

2005年はタンパベイ・デビルレイズとマイナー契約。 6月15日のブルワーズ戦で日米通算200勝を達成するが、7月26日に解雇。 27日にニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約を結んだ。日米通算200勝を達成したことで日本プロ野球名球会入りの権利を得たが、この時は「今は返事をする必要がないと思う」として態度を保留した。 2006年3月3日にホワイトソックスとマイナー契約。4月17日にAAA級シャーロットの先発として初登板したが、右肘の炎症を理由として故障者リストに登録され、6月8日に契約解除。同月下旬には右肘を手術した。 2007年、ドミニカ共和国でのウィンターリーグ参加を検討したが、回復が思わしくないことから断念。リハビリに専念するため、どのチームにも所属していない状態が続いた。その後、リーガ・ベネソラーナ・デ・ベイスボル・プロフェシオナルのレオネス・デル・カラカスに入団し、ベネズエラでのウィンターリーグへの参加が認められる。10月20日のグアイラ戦では1年半ぶりの登板を果たした。 2008年1月4日にロイヤルズとマイナー契約を結ぶ。 手術した右肘への負担を軽減するため、トルネードの大きな特徴であったワインドアップ・モーションをやめ、セットポジションに投法を統一する。オープン戦で防御率は思わしくなかったものの、16イニングを投げ16奪三振、四死球は4つにとどめるなど比較的安定して三振が取れていると評価され、4月5日にメジャー昇格の後、同月10日、2005年7月15日以来1000日ぶりにメジャーで登板した。 しかしその後結果は残せず、4月20日にDFAとなった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E8%8C%82%E8%8B%B1%E9%9B%84

野茂英雄 - Wikipedia

野茂の投法における特徴

ニックネームは「ドクターK」「The Tornado」

大きく振りかぶってから背中を打者に向ける独特の投法は「トルネード投法」と呼ばれ、真上から振り下ろすオーバースローから平均86-90mph(約138-145km/h)、最速97mph(約156km/h、日本での最速は151km/h)の伸びのあるフォーシームと77-82mph(約124-132km/h)のフォークボールを武器とした。 速球は基本的にフォーシームだったが、左打者には時折カット・ファストボールを交えた。2000年代に入るとカーブ、スライダー、ツーシームなども交えるようになり、引退前の2008年にはワインドアップを封印し技巧派となった。 通算奪三振率は9.28。通算奪三振率が9.00を上回っている(=通算で、1イニング1つ以上の三振を取った)投手(通算投球回数2000イニング以上)は日本では野茂ただ一人。メジャーを含めてもノーラン・ライアン、ランディ・ジョンソン、ペドロ・マルティネス、サンディ・コーファックス、野茂の5人だけである(ただし、MLBのみに限ると奪三振率は8.7344となるが、それでもMLB歴代14位である)。1995年に記録した奪三振率11.10は、ドジャースの球団記録となっている。 オレステス・デストラーデは「野茂が日本球界最高の投手」と評している。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E8%8C%82%E8%8B%B1%E9%9B%84

野茂英雄 - Wikipedia

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