近藤真彦

1977年中学一年の時にジャニーズ事務所に入所。
1979年10月、TBSのテレビドラマ『3年B組金八先生』の生徒役で俳優デビュー。
その後ソロ歌手としてデビューする。

1980年12月12日に発売された「スニーカーぶる~す」は、近藤真彦のCDシングルの中でナンバーワンの累計売上100万枚を突破した。
1981年、1983年のブロマイド年間売上で近藤真彦第1位を獲得している。
1981年9月30日に発売された「ギンギラギンにさりげなく」を80万枚ヒットさせた後、徐々に売上げは下降していった。
「マッチのマーチ」日産マーチ
近藤真彦と中森明菜の出会い

1985年1月公開された映画『愛・旅立ち』で近藤真彦と中森明菜は共演する。

中森明菜が“自殺未遂”を起こす半年前の1989年2月3日に発売された、近藤真彦「夕焼けの歌」のセールスは、7万5千枚というものだった。一方の明菜はヒットを飛ばした絶頂期であり、1983年、1985年、1986年、1987年オリコンの年間アーティスト・トータル・セールスの首位を獲得している。1988年3月には12枚目のスタジオ・アルバム『Stock』をリリースしている。
近藤真彦の自宅マンションで、 中森明菜が“自殺未遂”

中森明菜は、慈恵医大病院に運ばれ、6時間に及ぶ手術の結果、一命は取り留めたものの、重傷。明菜の左肘内側の傷は深さ2センチ、長さ8センチ。明菜の本気の覚悟がうかがえる、ためらい傷もない深いものだった。
中森明菜が大みそかに突然、金屏風謝罪記者会見


中森明菜の8、000万円の行方
近藤真彦は、1988年からレース活動を始めている。

近藤真彦の妻や子供

結婚してから14年後の2007年10月8日、第一子「轟丞(ごうすけ)」君が誕生している。
近藤真彦が43歳の時で、妻の敦子さんは41歳で高齢出産だった。
結婚しても、レースを続ける!近藤真彦
結婚した1994年に近藤真彦フランスのル・マン24時間レースに初参戦している。全日本F3選手権レースでは、アンソニー・レイド(1992年の全日本F3選手権チャンピオン)とコンビを組み、ポール・トゥ・ウィンで初優勝を飾っている。
「日産 マーチ」25周年イベント『MARCH 25th HAPPY ANNIVERSARY in OPPAMA』

2015年近藤真彦デビュー35周年記念


19年ぶりに近藤真彦がNHK 紅白歌合戦に出場

中森明菜の大みそかの金屏風謝罪記者会見から25年。
中森明菜は2014年に12年ぶりに米ニューヨークからの生中継映像で紅白歌合戦に出場した。
今現在復帰をはたしていない。
レース好き!近藤真彦の現在
フォーラムエンジニアリング、スーパーGTで「KONDO Racing」をスポンサード | MOTOR CARS
KONDOレーシング監督、近藤真彦


スーパー耐久(S耐)とは、市販車を小規模に改造した車両によって行われるツーリングカーレースである。エンジンの改造範囲は狭く、基本的に純正+α。エンジン型式や排気量の変更は禁止されている。
2016年4月、今年も新聞広告に登場した近藤真彦監督
