南海ホークスの一番バッターとして盗塁王も2度獲った佐々木誠

佐々木誠(ささき まこと)
佐々木誠の獲得タイトルや主な表彰と記録
首位打者:1回 (1992年)
盗塁王:2回 (1992年、1994年)
ベストナイン:6回 (1991年 - 1995年、1997年)
ゴールデングラブ賞:4回 (1991年 - 1994年)
月間MVP:1回 (1991年4月)
オールスターゲーム出場:6回 (1988年、1991年 - 1995年)
佐々木誠のプレースタイル?

トリプルスリーを目指した男
佐々木誠の生い立ちからプロに入るまでの軌跡
1965年に岡山県倉敷市に生まれ、水島工業高校で甲子園を目指す高校球児だった。高校野球時代は投手として活躍したが、投手ではなく打者として見込まれ1983年のドラフトに6位で南海ホークスに指名を受けて入団する運びとなった。
一年目のプロ生活は、まだ高校生気分が抜けない部分があり、4年間プロでやって、活躍できなかったら野球をやめるつもりだったらしい。
しかし、山本一義コーチ陣に厳しい練習を受けて2年目の1985年には早くも1軍で54試合出場する活躍を見せることになる。
プロに入ってからの佐々木の活躍。
西武、阪神で過ごしたプロ生活の後半戦
西武に移籍した佐々木を待っていたのは、2番打者だった平野兼の退団に伴って、1番辻に続く平野の後を任せられることだった。
実際には、2番を任せられたのは、数試合のみであり、ほとんど3番打者を任せられることが多かった。オールスターゲームでも斎藤雅樹から2ラン本塁打を放つなどMVPも受賞する活躍を見せたが、ファンからは秋山の代わりを期待され、本塁打を期待したが、自分の持ち味を生かすことに専念して、自己最多の84打点を挙げて、2度目の盗塁王も受賞した。
1995年には、腰痛に苦しみながらも全試合に出場した。オフにはFA権を取得するとMLBからのオファーもあったが、家族との生活を考えてMLBを断った。
FA権を宣言したうえで、西武に再契約金1億円と年棒2億円で西武に残留した。
1996年からは故障が増えて、1998年のオフには阪神タイガースに金銭トレードで移籍となった。

西武時代の佐々木誠
阪神タイガースで2年間在籍したが、慢性的な故障が原因で思うような活躍はできず、2000年のシーズンを最後に現役を引退した。