東尾投手の転機となった「黒い霧」事件
後に野球の名門として知られる様になる箕島高校が甲子園に初出場した1968年の春の選抜大会。チームをベスト4まで押し上げたのがエースの東尾投手でした。その年のオフに開かれたドラフト会議で、東尾投手は西鉄ライオンズから1位指名を受けます。
東尾投手が入団した当時の西鉄ライオンズは「野武士軍団」と呼ばれ、パリーグを席巻していたかつての栄光は失われ、毎年の様にペナントレースの順位を下げていく低迷期に入っていました。
東尾投手(西鉄時代)
そんな状態でも、そこはプロ。高校時代は速球投手として鳴らした東尾投手でも、周囲のレベルに全くついていけず、2軍でも打ち込まれる日々が続きます。そうしてプロの高い壁にぶつかった東尾投手に転機が訪れます。それが1969年に発生したプロ野球史最大の八百長事件「黒い霧事件」でした。
「黒い霧事件」を報じる新聞記事
1969年西鉄ライオンズのフロントは、試合中KOされても悪びれなかった永易投手の態度に不信を感じ、極秘に調査を開始した所、永易投手が「八百長(敗退行為)」を告白。更に当時の外国人助っ人が「うちのチームにわざとエラーする」とライオンズ番記者に告白。それを機に新聞社が取材を重ね、1969年10月読売新聞と報知新聞が「永易投手が公式戦で八百長を演じていた」と報道されます。
以降も「八百長」に加担した選手が次々に発覚。捜査が進むうちに、フロントが永易投手に「更正資金」を支払っていた事が発覚するなど、球界全体を巻き込んだ一大スキャンダルとなっていく。これらの一連の事件は「黒い霧事件」と呼ばれ、日本プロ野球史上最大の汚点となっています。
詳細は以下の「黒い霧事件」を参照。
黒い霧事件 (日本プロ野球) - Wikipedia
「ライオンズ」を飛び続けた「トンビ」
「黒い事件」を受け、当時ライオンズのエースだった池永正明投手ら主力投手が軒並み永久追放されて投手不足となり、東尾投手が一軍の先発投手としてフル回転せざるを得なくなります。先発ローテを担ったものの、黒い霧事件の余波を受け、戦力やチームの士気は低下。打線との兼ね合いもあって東尾投手は大きく負け越す事が続きます(70年・11勝18敗、71年・8勝16敗、72年・18勝25敗)。
そうして観客動員数も激減していった西鉄は1972年に球団経営を放棄。「太平洋クラブライオンズ」に球団名称を変換します。
※当時から八百長を一貫して否定していた池永正明投手は、21世紀になってから「復権」し、永久追放処分はとかれています。
「太平洋クラブライオンズ」時代の東尾投手(21番)
1975年に東尾投手は23勝(15敗)を挙げて初の最多勝を獲得(15敗もこの年のリーグ最多敗戦)。
東尾投手は「ケンカ投法」と呼ばれたライダーやシュートを軸にした横の揺さぶりと、打者の内角を突く強気の投球スタイルで球界屈指の投手になっていきます。
東尾投手(クラウンライターライオンズ時代)
太平洋クラブライオンズは1977年のシーズンからクラウンガスライターと提携し、球団名をクラウンライターライオンズ に変更。上記写真にある1978年シーズンに東尾投手は23勝(15敗)を挙げたのですが、結局クラウンライターライオンズもこの年限り。
「西武ライオンズ」誕生
1979年に西武グループが買収し、本拠地を所沢に持つ「西武ライオンズ」が誕生。以降、南海ホークスがダイエーホークスに名称変更し、本拠地を福岡に移転するまで九州はプロ野球球団不在の地となります。
ライオンズ黄金時代の幕明け
西武ライオンズに名称が変わってもチーム自体は長い長い低迷期が続きます。そんな中、東尾投手はローテーションの大黒柱として投げ続けました。そして1983年、西鉄ライオンズ時代から数えて19年ぶりにリーグ優勝。
この1982年の日本シリーズで中日ドラゴンズを4勝2敗で倒し、24年ぶりにチームは日本一(西武ライオンズとしては初の日本一)になります。このシリーズで東尾投手は2勝1敗1セーブを挙げてMVPに選ばれます。
1983年シーズンに東尾投手は2度目の最多勝(18勝9敗)、最優秀防御率(2.92)、ベストナイン、パ・リーグMVPなど数々のタイトルを獲得。さらに第7戦までもつれた巨人との日本シリーズでも、リリーフとして登板。1勝1敗1セーブを挙げて2年連続日本一に大きく貢献しました。
1984年に東尾投手は通算200勝を達成(14勝14敗)。
翌年の1985年には17勝(3敗)を挙げ、リーグ優勝に貢献。この年の日本シリーズはランディ・バース選手・掛布選手・岡田選手ら「猛虎打線」の阪神タイガースに敗れるものの、東尾投手はリリーフ登板し1勝1セーブと好投します。
85年、阪神の日本一を伝える新聞
1986年もリーグ優勝し、東尾投手は広島との日本シリーズの1戦に先発(日本シリーズの先発はこの時が初)5戦・8戦にも先発し、勝利をあげる事は出来なかったものの21イニングに登板。史上初の第8戦までもつれた西武ライオンズ投手陣を支えました。
1987年は同僚の工藤公康投手と最優秀防御率のタイトルを最後まで争います。結果的に工藤投手が最優秀防御率のタイトルを獲得。ただ、後半戦に5連続完投勝利を含む9勝1敗という活躍ぶりが評価され、東尾投手は2度目のパ・リーグMVPに輝きます。
読売ジャイアンツとの日本シリーズで東尾投手は1戦、5戦に先発登板(1勝1敗)。チーム自体は4勝2敗と、1983年に続き、日本シリーズという大舞台でジャイアンツを倒した西武ライオンズは名実共に球界の盟主となっていくのです。
※この年の日本シリーズはクロマティ選手の緩慢な守備の隙を突いた、西武ライオンズの抜け目ない走塁。あと1アウトで勝利が確定するところで清原選手が号泣などが有名。
通算20年間で最多勝2回 (1975年、1983年)最優秀防御率:1回 (1983年)251勝(247敗)という大記録を打ち立てた東尾投手は1988年限りで現役を引退します。
西鉄ライオンズ~太平洋クラブライオンズ〜クラウンライターライオンズ~西武ライオンズと球団名称が変更していく迄の「ライオンズ」に所属したのは、東尾選手と大田卓司選手の2人だけ。
東尾投手は正に「ライオンズ」一筋に飛び続けたのです。
監督としてリーグ優勝に貢献
森監督の勇退に伴い、東尾氏が1995年に西武の監督に就任した時、秋山選手、石毛選手、工藤選手など選手時代に共に黄金期を支えた後輩達は既にチームを去り、西武ライオンズは転換期に入っていました。そんな中で東尾監督はチームを作り上げ、97年に3年ぶりにリーグ優勝(日本シリーズではヤクルトに敗退)。翌98年もパリーグを連覇(日本シリーズではベイスターズに敗退)しました。
前任の森監督と比べて物足りないと感じられるかもしれませんが、1995年から2001年まで監督通算7年間でリーグ優勝2回。一度も3位以下になった事はなく、特に松坂大輔、西口文也、石井貴、豊田清ら先発投手、リリーフの森慎二ら投手陣を育成するなど、世代交代を果たしつつAクラスを常に維持した監督手腕は高く評価されています。
石田純一さんと
監督退任後は野球解説者として活動する一方で、娘の理子さんや、理子さんの夫である俳優の石田純一さんと共にテレビ番組などで活躍されています。