【松坂大輔選手】平成の怪物・松坂が生まれた、あの熱い夏を振り返る。

【松坂大輔選手】平成の怪物・松坂が生まれた、あの熱い夏を振り返る。

数々の伝説を打ち立てた「平成の怪物」と呼ばれた松坂大輔投手。怪我によりここ数年満足な成績を残せていない彼は、もう終わった選手なのだろうか?新たなる伝説を打ち立てると信じつつ、彼が伝説を打ち立てた98年夏の高校野球大会を振り返る。


「あの夏の伝説」が生まれる前

私事で甚だ申し訳ないのですが…筆者は大学時代・甲子園で「売り子」のアルバイトを4年間していました。松坂選手が高校3年生の時に出場した第80回全国高等学校野球選手権大会。私は外野席でビールを売っていました。「平成の怪物伝説」が生まれた時、甲子園にいられたのは幸運と言うより他ありません。あの熱い夏の記憶を思い出しつつ、今回の記事を書かせて頂きます。

この大会は、春の選抜大会で優勝を果たした松坂大輔投手を擁する横浜高校が春夏連覇を達成するか?そして後に「松坂世代」と呼ばれるようになる選手達がどう立ち向かうのか?という事が話題になっていました。

ただ、春のセンバツ優勝校が夏の大会にも出場し、春夏連覇をかけて戦う・・・という事自体はさして珍しいことではなく、その反面1998年時点で「春夏連覇」を達成したのは、1962年作新学院(栃木) 。1966年の中京商(愛知)。1979年の箕島(和歌山)。1987年のPL学園(大阪)の4校のみ。言うまでもなく「春夏連覇」は決してたやすいことではない。ましてやこの世代は、他の高校にもプロ注目の選手が揃っている。上記の事から高校野球ファンの間からは「いくら松坂投手がすごい投手でも、どこかでコケるだろう」という声が聞かれました。

「松坂世代」詳しくは下記の説明をご覧ください

「松坂世代」と呼ばれた人達

松坂世代 - Wikipedia

※「春夏連覇」は、1998年に横浜(神奈川)高校が達成して以降、2010年興南(沖縄)と2012年大阪桐蔭(大阪)と全部で7校が達成。
※学年が変わる「夏春連覇」は、1930年春・31年夏の広島商(広島)、1937年春・38年夏の中京商(愛知)1960年春・61年夏の法政二(神奈川) 1982年春・83年夏の池田(徳島)の4校が達成。
尚、「3季連続優勝」を達成した高校はまだない。(データーは2016年春時点)

「松坂包囲網」をかいくぐって・・・

組み合わせ抽選が行われた時「横浜高校は厳しいブロックに入った」と言われます。緒戦の相手、群馬県の名門、柳ヶ浦高校を6-1で退けた横浜高校ですが、2回戦の対戦相手は、大会No.1サウスポーと言われていた杉内俊哉投手擁する鹿児島実業高校でした。しかも杉内投手は1回戦で1回戦で八戸工大一(青森)相手にノーヒットノーランを達成していました。

二回戦で早くも実現した「左右のNO.1投手対決」に注目が集まっていきます。鹿児島実業は松坂投手に対する対策は万全。杉内投手も強力横浜打線を抑え、息詰まる投手戦が展開されました。ところが、横浜高校は6回裏、四球で出たランナーを機動力を絡め、3塁まで進塁。3番後藤選手の犠牲フライで待望の先取点を挙げます。

結局杉内投手は、7回まで1失点と好投するものの、8回に松坂選手に本塁打を喫するなど計6失点で敗退するのです。そして横浜高校3回戦の相手は、石川県の名門星稜高校でした。

百戦錬磨の星稜高校の山下監督が授けた松坂投手対策も実を結ばず・・・。横浜高校は星稜高校を5-0で降すのです。1回戦柳ヶ浦、2回戦鹿児島実業、3回戦星稜という甲子園常連校の、いわば「松坂包囲網」とでもいうような試合をくぐり抜け、そして長く語りつがれる「伝説の3試合」を迎える事になります。

PL学園との死闘

前評判にたがわぬ投球を見せ、甲子園常連校の挑戦を退けてきた横浜高校にPL学園が立ちはだかります。98年春の大会でも両校は準決勝で対戦。3-2と横浜高校が辛くも勝利を収めていました。
因縁の両校が対決した、この日(1998年8月20日)の第一試合だったのですが、朝早い第一試合にもかかわらず、試合開始当初から満員の観衆がつめかけました。そして・・・以下の動画のような息詰まる熱戦が展開されるのです。

延長17回の激闘を終え、観客の多くの人が思っていました「本当にいい試合だった」と。
そして・・・「これだけ投げた翌日に松坂投手が投げるのは難しいだろう」と。
※この日松坂投手が投げた球数は、250球(完投勝利)

甲子園全体が…

第一試合の興奮とざわめきが残る中、次に登場したのは、大阪の関大一高校と明徳義塾高校。
(この大会は80回の記念大会だったので、大阪府からは2校選ばれていました)
春のセンバツの決勝で横浜高校と対戦して敗れた関大一高校。そして、全国でも有名な名門校だったものの、まだ全国制覇の経験がなかった明徳義塾高校。横浜高校への挑戦権をかけたこの対戦は、接戦の予想に反して、11-2と大差で明徳義塾高校が勝利を収めます。
(※後の2002年夏の大会で明徳義塾は優勝)

現在は準決勝の前に「休養日」が設けられているのですが、当時はそのような制度はありませんでした。準決勝の対明徳義塾高校戦に松坂投手が登板できない…だけではなく、他の横浜高校の選手も死闘により疲労はピーク状態。対して明徳義塾高校は前述のように横浜高校に比べ、比較的楽な試合展開で準々決勝を勝ちあがっていました。また当時の明徳義塾高校には後にロッテ入りする寺元四郎投手に加え、後にヤクルト入りする高橋一正投手もいて明徳義塾高校の有利は明らかでした。

寺本選手(ロッテ入団後、外野手に転向)

実際、試合が開始されると、明徳義塾高校が松坂投手に代わって登板した2投手を攻略。7回終了時点で5-0で明徳義塾がリード。8回の表にもダメ押しとも言える1点を挙げて甲子園全体が「まぁ・・・よくやったよ。横浜は・・・」というムードが漂っていました。

ところが、8回裏に横浜高校先頭打者の加藤選手の打球をショートがエラーで出塁したことから、徐々に甲子園の雰囲気が変わっていきます。その後、後藤選手と松坂選手が立て続けにタイムリーを打ち2点を返したところで、明徳義塾高校は寺本投手から、高橋投手に投手を交替。ところが2死を取った後、高橋投手の暴投で1点、そして代打・柴選手のタイムリーで更に1点追加して、この回一挙4点を奪ったのです。そして多くの人が胸を打つ「あのシーン」が生まれるのです。

テーピングをはずすシーン

8回、横浜高校の逆襲が始まっていくにつれて、松坂投手がベンチ横で投球練習をしていたのに気づいた観客がどよめきだします。
「まさか・・・投げるのか?」
そんな観客の期待は、横浜高校投手交代が告げられた時に興奮へと変わります。松坂マウンドに向かう際にテーピングを取る場面は多くの方の心に残っている事でしょう。(実は松坂選手はレフトの守備についていた時から度々腕をぐるぐると回していたのですが)
9回の表、マウンドに上がった松坂投手のストレートは最高で最高で146km/hを記録。明徳義塾の攻撃を完璧に封じると、甲子園全体が横浜高校を後押しします。

9回の裏、横浜高校の攻撃がつながっていく度に沸き起こる地鳴りのような喚声が明徳義塾の選手たちを飲み込んでいきます。ノーアウト満塁のチャンスで後藤選手が再びタイムリーを放って2点を挙げ、遂に横浜高校が6-6の同点に追いつくのです。
その後、1死満塁になった状態で明徳義塾は投手を高橋投手から再び寺本投手に交替。寺本投手が何とか1死を取るものの、柴選手が放った内野へのフラフラと上がった打球が二塁手のグローブを僅かにかすめ、センター方向にボールが転がると、明徳義塾の選手達はグラウンドに倒れこみ、しばらく立ち上がれませんでした。

当時のスポーツ紙

この日も筆者は球場のレフトスタンドでビールを売っていたのですが、この時の雰囲気を表現すると「異様」でさえありました。まるで阪神タイガースが試合を行っている時のような大声援が横浜高校の選手たちに送られていたのです。いわば「敵役」となってしまった明徳義塾の選手達にとっては、相当なプレッシャーだった事でしょう。

そして・・・伝説が生まれた。

ベスト8でのPL学園戦の延長17回の死闘。準決勝で8回6点差からの大逆転。
この2試合を経て迎えた、対京都成章高校との決勝戦。この日は開門と同時に観客がつめかけ、あっという間に外野席まで満員になりました。売り子をしていた私たちも満足に歩けないほど通路にもお客さんが溢れ、熱気は最高潮。当然グラウンドを見る暇もなくビールが飛ぶように売れていきました。

試合が開始されてから1時間半ぐらい経った頃でしょうか、球場が「ざわざわ・・・」「ざわざわ・・・」としているのに気づいた私はお客さんに「お客さん、何かあったんですか?」と聞くと・・・。
「何言ってんの?あと5人でノーヒットノーランやで、ビールなんか売ってないであんたも試合見ぃ!」
グラウンドを振り返る余裕もない程ビールを売っている間に、いつの間にか試合は8回1アウトまで来ていたのです。ちょうどこの時持っていた缶ビールも売り切れ「基地」に引き返そうと思っても、立ち見の観衆で身動きが取れなくなっていた私は・・・サボる事にしました。

「決勝戦ノーヒットノーラン」という大記録を打ち立てたこの試合、私はこんな風に見ていたのですが、多くの野球ファンの方もこの試合をご覧になり、そして多くの方の記憶に残っていることでしょう。その後プロ野球入りした松坂投手は、野球ファンの心を躍らせる投球を見せるのですが・・・その事はまたの機会にしたいと思います。

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