テリー・ファンク登場!ブレイク前夜のテリー

1970年に初来日した時は、現役NWAチャンピオンの兄ドリーの陰に隠れた一介の新人レスラーに過ぎませんでした。
その後も兄ドリー、父ドリー・ファンク・シニアの添え物的な扱いが続き、レスラーとしてはまだまだという扱いを受けていたようです。
転機となったのは、1971年末ジャイアント馬場、アントニオ猪木のBI砲からインターナショナルタッグ王座を奪取した時でしょう。
その後、1972年の全日本プロレス旗揚げでは、兄ドリーとのタッグ「ファンクス」として、エース外国人レスラーに登りつめたのです。
また全日本のブッカーとしても手腕を発揮し、無名時代のスタン・ハンセンを発掘し初来日させたのをはじめとして、テッド・デビアス、ディック・スレーター等の子飼いのレスラーを育て上げ、全日本の常連レスラーとして送り込みました。
ファンクスVSブッチャー、シーク。日本中を震撼させた血の抗争!

ザ・ファンクス vs ブッチャー・シーク
その後1975年12月、兄ドリー同様ハーリー・レイスを破り、NWAヘビー級チャンピオンに就きます。
チャンピオンとしては約1年2ヶ月の短命政権に終わるのですが、王座陥落後、テリー人気を決定づけたブッチャー、シークとの抗争がスタートするのです。
テリーと言うと思い出されるのは、やはり一連のブッチャー、シークとの血の抗争でしょう!
兄ドリー同様テクニシャンながら、ラフにも強いテリーが大量の血を流しながら向かっていく様は、今までプロレスに縁のなかったであろう多くの女性ファンの心を撃ち多くのファンを生み出しました。
1983年、テリー引退狂奏曲!
そして1983年、体力の限界を感じて引退を表明。
ファンクスとしてスタン・ハンセン、テリー・ゴディ組を迎え撃った引退試合は社会現象とも呼べる盛り上がりを見せたのです。
若い女性ファンで作られた「親衛隊」がリングに向かって泣き叫ぶ様は、まさにプロレス界が生んだ最初の「アイドル」といっても過言でないでしょう。
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その後のテリー・ファンク
その後、WWFマットでヒールとして電撃復帰を果たし、日本マットではFMW、IWAジャパンといったインディーズ系の団体に主戦場を映します。
弟子筋にあたる大仁田との電流爆破マッチなどの破天荒な試合の数々は、絶対的ベビーフェイスとして活躍していた全日本時代の末期よりは彼らしかったように思われました。
また兄ドリーと同様1995年にまさかのライバル団体新日本プロレスに参戦。後にファンクスも復活させています。
現在でも時折現役レスラーとして元気な姿を見せてくれます

テクニシャン、テリー・ファンク
ラフなケンカ殺法だけがクローズアップされがちなテリーのファイトスタイルですが、実は多彩な技を操るテクニシャンの顔も持っています。
代表的なオリジナルホールドとして挙げられるのは現在の新日本プロレスのエース棚橋の得意技としても知られるテキサス・クローバー・ホールドやローリング・クレイドル・ホールドでしょう。
サソリ固めに近い形で手を使ってロックするテキサス・クローバー・ホールドはフィニッシュホールドとしては威力は弱いものの相手のスタミナを弱らせる傷め技としては多用されました。
テリーの後、一時期使い手が途絶えたものの、近年、棚橋が試合で多用するようになり再び見直されつつあります。
ローリング・クレイドル・ホールド(揺り椅子固め)は逆に今ではほとんど見なくなってしまった技です。
一時期、「天龍革命」以前の天龍も多用しており、ファンク一家系のレスラーは結構使っていた記憶があるのですが、すっかり見なくなってしまいました。
「揺り椅子」の名前通り、リングをゆるやかにぐるぐる半周して、その反動でフォールに持ち込むそのスタイルは他に似た技のない独特の技でした。
あと忘れてはならないのは、彼を含めたファンク一家の代名詞と呼べる技はスピニング・トー・ホールドでしょう!
立ち技でも寝技でもない独特のスタイルは印象に残りました。