猛虎打線の一人【岡田彰布】は人望も厚く、関西に期待された人物だった。

猛虎打線の一人【岡田彰布】は人望も厚く、関西に期待された人物だった。

あの1985年の猛虎打線の一人。岡田彰布はプロ野球時代も、大学時代もチームを引っ張ってきた一人である。人望という言葉にピッタリの選手だと言えます。そんな岡田彰布の現役時代と現在を振り返ってみましたのでご覧ください。


阪神の主砲ののち、引退。持ち味の打撃理論を生かし、後輩の指導者へ

1957年11月25日生まれ

身長175cm、体重77kg
右投げ右打ち
ポジション:	二塁手、三塁手、一塁手、外野手

タイトルこそはないが、長年阪神タイガースの5番打者として名を馳せたスター選手の一人。11年も2ケタ本塁打を放つなど、ここぞとばかりの打席には恐ろしく力を発揮する選手である。

岡田彰布(おかだ あきのぶ)

岡田彰布の獲得タイトル・主な表彰と記録

新人王 (1980年)
ベストナイン:1回 (1985年)
ダイヤモンドグラブ賞:1回 (1985年)
オールスターゲームMVP:2回 (1980年 第1戦、1988年 第2戦)
月間MVP:2回 (1985年8月、1989年6月)
セ・リーグ最優秀監督賞:1回 (2005年)

オールスターゲーム出場:8回 (1980年 - 1982年、1985年、1986年、1988年 - 1990年)

岡田彰布のプレースタイルはこうだ!

3割30本90打点を十分に達成できる選手であり、チームのことを確実に考えたバッティングを出来る選手である。

打っても良し!守っても良し!の最高の5番打者

タイトルこそはないが、オールスター出場回数が物語るように、阪神のみならず、プロ野球ファンの記憶に残る選手だった岡田彰布。

打撃に関しては、素晴らしく、打率、打点、本塁打と打撃の全てが結果が残せる選手だったと言えます。入団から11年連続で2ケタ本塁打を放っているのは素晴らしい成績でしょう。4番バッターにはなれなかったが、最高の5番打者として活躍し続けた選手です。

真面目な性格が特徴的で、自らの成績よりも、チームの今を考えてのバッティングに心がけてきたプレースタイルが最高の5番打者を生んだといっても過言ではありません。

阪神タイガースと言うチームを愛し続けた結果でしょう。

幼少期から阪神と共にプロに入るまでの軌跡

大学時代の岡田彰布。記録を欲しいままにした時代

大阪市東区(現・中央区)玉造で町工場を経営していた父親は、阪神の有力後援者で、村山実・藤本勝巳ら選手と親交があったことから、幼少時よりタイガースと縁深く育った[1]。幼稚園児の頃に、当時のタイガースの三塁手であった三宅秀史とキャッチボールし、それ以来、三宅に憧れを抱いたという[1]。後に阪神に入団した岡田が背番号16を希望したのは、かつて三宅がつけていた番号だからである。小学5年の時、南海ホークスが運営していた少年野球チーム「リトルホークス」で本格的に野球を始めた。この入団は「阪神が少年野球チームを持っていなかった」というのも理由だった[2]。また父の会社では草野球チームを結成し、岡田自身も投手として村山の背番号「11」を付けてマウンドに登った。岡田の証言によれば、野手は阪神二軍の若手選手だったという。また岡田は少年時代からタイガースの試合を見に阪神甲子園球場へ出かけることが多かったが、観戦する場所はネット裏やタイガースファンの多い一塁側ではなく、敵側ベンチのある三塁側ベンチ横だった。その場所は阪神のライバル・読売ジャイアンツの三塁手・長嶋茂雄を一番近くで見ることができるので、そこからヤジを飛ばすためという理由だった[3]。 1972年、明星中学校3年生時に中学野球大阪府大会で優勝。1973年3月、村山の引退試合の前に村山のキャッチボール相手を務める[1]。 1973年、北陽高校に進学し、1年生時には大阪府大会決勝戦(対PL学園)で先制2ランを放つなど活躍し、夏の甲子園に出場。甲子園での打撃成績は2試合で6打数3安打。3年生の夏は大阪府大会決勝で興國高校に敗れ、甲子園出場は果たせなかった。 早稲田大学野球部のセレクションを受け、15打数14安打14本塁打(自著では10スイング中、7スイングがオーバーフェンスだったという[4])という驚異的な打撃をみせて合格した。早大では1年生秋から外野手(レフト)7番でレギュラーに入り、法政大学の江川卓から3安打を打ち注目される。2年生からは三塁手に定着し5番を打ち主軸に定着し、3年秋には三冠王に輝いた。1979年春の大会では主将として東京六大学野球リーグ連覇に貢献した。また、1978、9年第7.8回日米大学野球では、全日本の4番を全試合任されている。 大学時代の成績と記録は以下の通り。 リーグ通算88試合出場、309打数117安打、20本塁打、81打点、打率.379 (打点と打率は東京六大学リーグ記録) 1977年秋季リーグから5季連続でベストナイン 1978年春季リーグ、対東京大学2回戦で史上2人目のサイクルヒット 1978年秋季リーグで戦後4人目の三冠王 東京六大学野球史に残る記録を次々に樹立したため、プロ野球各球団の岡田獲得競争は過熱。1979年秋のドラフト会議の目玉となった。10月29日のプロ入り表明時に「阪神だったら最高ですが、阪急などの在阪球団を希望している。その他の球団ならば、指名されたときに考えてみる。しかし、フロントがしっかりし、優勝を争える球団なら行きたい」[5]「巨人、西武は優勝も狙えるし、いいですね」[6]と述べた。もっとも、後年のインタビューでは「ボクは一人っ子だったことで母が「関西に帰ってきて欲しい」と思っていたから、実際は阪神だけでなく阪急・近鉄・南海という関西の球団ならどこでもよかった」と語っている[7]。ドラフトでは在阪パ・リーグ3球団を含む6球団が1位指名したが、抽選の結果、阪神が交渉権を獲得。岡田の阪神入団が決まった。

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岡田彰布 - Wikipedia

念願の阪神タイガースに入団後の活躍

1980年に入団した岡田の1年目は、新人王を獲った一年目ではあるが、シーズン当初は燦然たるものであった。

当時の阪神タイガースの監督。ドン・ブレイザーは「岡田はまだ新人なので、じっくり鍛えた方がいい」ということで、外野手へのコンバートもあったという。当時の阪神タイガースは、掛布、真弓、中村勝、更に、ヤクルトから獲得したデーブ・ヒルトンがおり、岡田が入る余地がなかった。アマチュア時代から活躍していた岡田だけにファンの期待はすさまじいものがあり、なぜ、岡田を出さないのかと、ちょっとした暴動が起こるほどのものであった。

事態を重く感じた球団は、当時の監督。ドン・ブレイザーを解任し、コーチであった中西太を監督に抜擢した。その結果、出場機会が増えて、1年目から、.290、18本塁打、54打点と好成績を叩き出し、新人王を獲ったのであった。

ブレイザーは、「岡田は周囲から期待されて入団した選手だったので、余分な力みを生まない楽なポジションでやらしてあげたっかた」と語り、「自分も監督を経験したことで、このメッセージがある程度理解できるようになった」と語っている。

新人王を獲った岡田彰布

翌年の1981年には、130試合にフル出場し、20本の本塁打を残し、1982年には打率3割、1983年にはオールスターまでに18本塁打を放ち、タイトル争いに加わる選手にまで成長していた。

そして、あの伝説の1985年シーズンが始まるのである。 4月17日、巨人戦でランディ・バースのバックスクリーンへの本塁打から始まり、次ぐ4番掛布雅之もバックスクリーンへ続く、この時の岡田のプレッシャーはすさまじく、ホームランしかない!と意気込み、スライダーを狙っていたという。

その結果、あの伝説のバックスクリーン3連発が生まれたのであった。

自身のこの年の成績もすさまじいものがあり、8月の月間では、.429,10本塁打,31打点と月間MVPを獲得する成績を打ち出し、年間でも、首位打者を獲ったバースに次ぐ2位の.342、本塁打もリーグ4位の35本塁打、打点もリーグ5位の101打点を叩き出し、阪神初の日本一に貢献しました。

それからも、1991年まで、2ケタ本塁打を放つなどチームを引っ張ってきたが、出場機会が確実に減っていく一方で、涙ながらに、愛する阪神タイガースを自由契約になったのである。

引退後、指導者としての第一歩。

阪神監督時代

2003年オフ、星野仙一が健康問題のため監督勇退したのを受け、後任として一軍監督に就任。大阪人として史上初の阪神監督に就任。また2013年現在も唯一の大阪府出身の監督である[1]。就任時の挨拶は「期待してもらって結構です」。監督初年度の2004年は井川慶ら優勝に貢献した選手の不調に加え伊良部秀輝のセットポジションの欠点、ジョージ・アリアスの好不調の波の激しさ、マイク・キンケードの度重なる死球によるけが、さらにジェロッド・リガンの負傷やその年に開催のアテネオリンピックの野球に出場したジェフ・ウィリアムスと安藤優也の不在による戦力低下が響いて4位に終わった。 2005年9月7日ナゴヤドーム、中日との2ゲーム差での首位決戦において、9回裏本塁セーフの判定に激昂し、選手全員を一時引き揚げさせ抗議。その後試合は再開するも、赤星憲広の落球で一打サヨナラ負けのピンチになる。ここで監督就任後初めてマウンドへ向かい、クローザー・久保田智之にかけた言葉は「もう打たれろ!打たれてもお前は悪ないからな。オレが責任持つからもうムチャクチャほったれ(投げたれ)!」というものだった。久保田は後続を連続三振で抑え、11回表の中村豊の本塁打が決勝点となり死闘を制した。 この一見投げやりにも取れる言葉の裏には、たとえこの試合に負け、さらには優勝を逃したとしても全責任を自分が背負うという強い覚悟が込められていた。試合終了後、中日監督の落合博満に「今日は監督で負けた」とまで言わしめた。結果的にこの戦いを境に阪神は連勝を重ね、亡父の誕生日に当たる9月29日、甲子園球場での対巨人戦でリーグ優勝を達成した。 しかし、日本シリーズは千葉ロッテマリーンズに4戦4敗のストレート負けとなった。また、その際にリードされているからという理由でJFK(ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之)を起用しなかったことにファンや解説者にマスコミなどから不満があがった。

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2007年6月8日の対オリックス戦(甲子園球場)の8回裏、打者鳥谷敬の守備妨害を巡り球審の谷博に抗議を行った際に谷の胸を突き飛ばし、現役・コーチ及び監督生活を通じて初めての退場処分を受ける。8月16日の対中日戦(京セラドーム)では、8回裏に一塁走者が二塁でアウトになったことをめぐり二塁塁審の井野修に抗議して胸を突き飛ばしたため、2度目の退場となった。なお、同じシーズン中に2度退場になった監督は他にも複数いるが、阪神では岡田が初であり、セ・リーグ日本人監督でも初めてであった[14]。 2008年、チームは開幕からスタートダッシュに成功し首位を独走していたが、北京オリンピックの野球日本代表に主力である新井貴浩・矢野輝弘・藤川球児を派遣して以後、チーム状態が空転し始め、打撃陣の不振や故障者の続出などで、一時は13ゲーム差をつけていた巨人に終盤で逆転されペナントレース優勝を逃した。この責任を取る形でこのシーズン限りでの辞任を発表した。クライマックスシリーズ第1ステージ最終戦で敗退したことでこのシリーズが最後の指揮となった。試合終了後、選手会長の赤星憲広の発案により、選手・コーチから監督を務めた年数と同じ5回胴上げされた。

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岡田彰布 - Wikipedia

オリックス監督時代

2009年10月13日、翌シーズンからオリックス・バファローズの監督就任が発表された。契約内容は3年契約の1億円、背番号は阪神監督時代と同じ80。チーム編成、広報面などで全権を任されており実質GM兼任となる[15][16]。岡田自身は10月14日に就任記者会見を行った。これにより岡田は旧・ブルーウェーブ時代の球団OBとして初のオリックス・バファローズ監督となった。阪急・オリックス球団におけるOB監督は1980年シーズンの梶本隆夫以来実に30年ぶりである。 2010年3月31日、対北海道日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)で、T-岡田が勝ち越し本塁打を放ち勝利。阪神監督時代から通算400勝目を達成した。6月8日に投手コーチである星野伸之が休養に入り、後任には小林宏が就任したが小林の経験の少なさから、投手起用についても自身が決定することを明言し、投手コーチも兼任することとなった[17]。このシーズンは交流戦で優勝を飾り、T-岡田や投手の金子千尋の躍進があったが、後半に入って敗戦が増え、最終的には5位に終わった。 2011年シーズン序盤はチーム打率が2割を切るなどの極度の打撃不振に陥り一時は最下位となった。交流戦に入ると調子を取り戻し15勝7敗2分の2位と躍進したが、その後は大型連勝と連敗を繰り返し、好不調の波が激しかった。7月2日・3日に福岡ソフトバンクホークスに2日連続のサヨナラ勝ち、そして5日には東北楽天ゴールデンイーグルスにもサヨナラ勝ちをおさめ、阪神監督時代の2008年9月9日 - 11日に東京ヤクルトスワローズ相手に3試合連続サヨナラ勝ちして以来、2回目の3試合連続サヨナラ勝ちを達成したプロ野球史上唯一の監督となり、8月7日の対千葉ロッテマリーンズ戦で監督通算500勝を達成した。しかし、引き分けでもクライマックスシリーズ(CS)進出だった最終戦に敗れて1毛差で埼玉西武ライオンズに3位を奪われ、チームとして3年ぶりのCS進出・Aクラスを逃した。また、この年は不振に見舞われたキャプテンの後藤光尊やアーロム・バルディリス、さらに中盤には4番のT-岡田といった主力選手を次々に二軍落ちさせるなど、阪神監督時代では余り見られなかった一軍と二軍との選手入れ替えを頻繁に行う采配が見受けられた。自身の幕のなかったポストシーズンには巨人の内紛について評論、サッカー日本代表が野球の陰に隠れてしまうことを憂う一面を見せた[18]。 2012年は前年オフに大型補強をおこない、「優勝」を口にするほどであった[19]。しかしシーズンでは主力選手の相次ぐ故障離脱もあり開幕早々から低迷。4月に1度だけ勝率を5割に戻したことはあったものの貯金を作ることは1度もできず、パ・リーグでいち早くBクラスが確定。さらに3年契約が期間満了を迎えることを受け、9月22日に球団から契約を更新しないことを告げられ、シーズン終了をもって正式に退任することが発表された[20]。退任発表時、球団側はシーズン終了まで指揮を執らせる方針であったが、シーズン最下位が確定した翌日の9月25日、「来シーズンを見据えたスタートをいち早く切りたい」という理由で方針転換。ヘッドコーチの高代延博とともに休養することを発表。事実上の「解任」となった

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岡田彰布 - Wikipedia

岡田彰布の人物像を紐ほどく。

岡田彰布の座右の銘は「道一筋」としている。周囲の不理解や反対があっても、自分の信じた道を突き進めと言われる意味である。これは、阪神の大投手、村山実が交友のあった岡田の父に送った言葉「道一筋」から来てるのではないかと言われています。

実際、コーチを務めた佐藤義則も人の意見を聞かない、頑固すぎるとコメントしているほど。自身の考えを貫き通す人柄が伺えます。

アブドーラ・ザ・ブッチャーとも交流があり、元サッカー日本代表監督の岡田武史。巨人の原監督とは大学時代にともに日本代表で闘った盟友である。

2015年の巨人阪神戦に懐かしの3人の姿も・・・。

指導者としての評価は・・・。

監督としては堅実を重視するスタンスである。岡田は著書で「こと野球に関してはマイナスから考えるのだ。常に最悪の事態を想定してゲームを進める。これが自分の監督論といえる」と記している[22]。 メジャーリーグで開発された確率論を根底にするセイバーメトリクスに近い考え方をベースにしたチーム作りを理想とする。岡田は著書で、セイバーメトリクスに関する本を読んだことはなく、文献や理論の存在を知ったのもあとからであって、自分の実践した野球が「少し、セイバーメトリクスを使った野球に重なっていた」と記し、「セイバーメトリクスの戦略を用いている」という巷間の噂は「正しく言えば、それは間違いである」としている[23]。 阪神監督就任当時少なかったバントが2008年にはリーグトップとなった。これについて「考えが変わったわけではなく、チームの陣容が変わり、チームのストロングポイントを最大限に生かせる確率を追究した結果」と説明している[24]。バントについて基本的には「アウトを何で一つやるのか」という思いが根底にあるとしながらも、状況に応じた必要性は否定していない。ただし、スクイズプレイについては打者に与えるプレッシャーの高さからサインを出さない[25]。2011年8月12日の対西武戦でのスクイズが、阪神時代を含め監督就任953試合目で初めての成功事例になった[26]。

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岡田彰布 - Wikipedia

選手のコンディションや相手チームとの相性で打順を組み替えたり、先発ローテーションを崩したりすることは基本的には好まない。ベンチワークの必要のないスタイルの確立されたチームこそ最強という持論がある。岡田は「ベンチで何もしないで、言葉も出さず、気がついたら1対0で勝っていた、そういうゲームができるチームの監督が理想」と記している[27]。2004年に金本知憲を4番に据えてから好不調にかかわらず5年間一度も動かさなかった。これについては、金本が「休まず試合に出るチームの柱」という岡田の考える4番打者にふさわしい選手だからであるとしている[28]。また投手分業のJFKの確立なども、岡田の勝利の方程式を重視する思想が色濃く反映された結果である。 ピンチに陥った投手などに対して、他の監督では自らマウンドに行く光景がしばしば見られるが、岡田の場合は阪神では2005年9月7日の対中日戦・2006年6月1日の対楽天戦の久保田、2006年8月31日の対中日戦・2008年7月18日の対中日戦の藤川、オリックスでは2010年8月22日の対ロッテ戦と、2011年6月15日対横浜戦・2012年7月10日の対楽天戦の岸田護に対しての7度だけである。このうちサヨナラ負けを喫したのは7度目の試合のみである(6度目は延長規定のため引き分け)。岡田は著書『頑固力』の中で「マウンドに行き、投手、もしくはバッテリーにアドバイスを送るのは監督ではなく、ピッチングコーチの仕事である。“任せる”というキーワードが監督とコーチの信頼につながるのだ」と記し、マウンドに行ったケースのうち2005年と2008年の対中日戦はいずれもペナントレースで重要な意味を持つ試合と考えていたと明かした上で、「本来こういうマウンドパフォーマンスは、私には似合わないし、決して好きな行為ではない」と述べている[29]。

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岡田彰布 - Wikipedia

日本シリーズやクライマックスシリーズなどの、短期決戦で行われるポストシーズンゲームでは、その時の選手のコンディションよりも、シーズン当初からのチームの理想形にこだわるタイプであり、成績は芳しくない。 チームの方針としては「優勝」を目指したチーム作りであるが、シーズン中での「優勝」と明言することは避けている一面をもつ。2009年にオリックス監督に就任した際にも「優勝てよう言わないです。怖いです。そんな簡単に優勝できるとは思ってないです。」とまで発言していた。例として、2010年のオリックス監督時にチームはセ・パ交流戦優勝を狙えるポジションにいた。しかし岡田はあえて「優勝」という言葉を封印し、報道陣には「アレ」という言い回しを多用した。するとチームは交流戦首位に立ち、オーナーの宮内義彦に「僕も『アレ』としか言いません」とまで言わせた[33]。そしてチームが交流戦優勝を果たし、チームは記念グッズとして「アレしてもうた」の言葉が入ったシャツやタオルを販売することとなった[34]。 2010年のセ・パ交流戦では指名打者制を使用できないビジターゲーム12試合のうち、11試合で投手を8番に置いた。 ドラフト会議ではこれまでのところ、指名重複した場合の抽選でくじ運に恵まれていない。阪神監督時代は高濱卓也を引き当てたのみで通算1勝3敗と外れが先行している[35]上に、オリックス監督として参加した2010年も1位指名抽選で3連敗を喫している[36]。ちなみに1回のドラフト会議の1位指名抽選3連敗は史上初[37]。さらに翌2011年も1位指名は外れで、通算4連敗中。 オリックス監督時代はチームの正捕手だった日高剛のリード面を再三批判した。キャンプ段階での日高のリード面に疑問を持っていたが[38]、シーズンに入ると大量失点を繰り返したこともあり、2010年には打率はそれほど悪くなかったものの3度も2軍に降格させている。2011年以降は捕手に日高をほとんど起用しなかったが、2012年の終盤は伊藤光、齋藤俊雄の2人の捕手を懲罰抹消したことで、自身が休養するまで日高を捕手として起用したが、その日高はアレッサンドロ・マエストリの来日初完投勝利、前田祐二の初先発勝利をアシストするなど好リードを見せ、起用に応えた。

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岡田彰布 - Wikipedia

日本プロ野球の選手会長を長年果たし、プロ野球のビジョンを自身の考えというものをしっかりと持った人である。

真面目で、自分の考えを決して曲げない性格は有名で、この人は好かれる人と嫌われる人と別れていたではと思われる。

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