”本塁打王”とはなったが
また、ミッチェルは大沢監督に嫌われていたようであった。79年ミッチェルと同僚だったサム・ユーイングは、大沢監督に対して猛抗議した。
ミッチェルは、79年で解雇となり、ユーイングは翌年80年も在籍したが、オープン戦後に任意引退となりチームを去った。
ウォルター・ウィリアムス
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筆者は、小学生の頃は巨人ファンであった。しかし中学生になると、天邪鬼なところもあったのか、同じ後楽園を本拠地とするチームでも、人気面では正反対の日本ハムファンに宗旨替えをした。高橋一三と富田勝が巨人から日本ハムにトレードされたことも影響したのかもしれない。また、席がガラガラで見に行きやすいというのも良かった。そして、ファンクラブの少年ファイターズに入会した。年会費が千円か2千円で内野席がフリーパスだったと思う。帽子やら、ガイドブック、ブロマイドなど豪華なグッズもたくさんもらえた。少年たちにとって最高なファンクラブだった。だから、78年の”球宴ジャック事件”の時も、純粋な気持ちで頑張って投票をした。
ミッチェルと、2年で日本を去ったウィリアムスとのコンビは強く印象に残っている。首がなく顔からすぐ下が胴体で「ノーネック・ウィリアムス」というあだ名だった。外野の守備につくときに必ず2塁ベースを踏んでいくので、外野をやっている少年たちはよくそれをマネをしていたものだ。
”三振かホームラン”のミッチェルと愛嬌たっぷりのウィリアムスの凸凹コンビ、その後の”怪人”ソレイタと”ガッツマン”クルーズのコンビ、この助っ人外国人たちがいた日本ハムは面白い時代だった。