来日デビューは初打席ホームラン
ボビー・ミッチェルは1965年レッドソックスと契約し、70年ヤンキースでメジャーデビュー。71年にブルワーズに移籍。メジャー通算5年、273試合出場、21本塁打、打率.235の成績だった。
76年日本ハムファイターズに入団。いきなり初打席初ホームランのデビューだった。1年目は、23本塁打、打率.244、三振は121でリーグ最多だった。

2本の”幻の本塁打”
悲劇の始まりは、77年4月29日後楽園球場でのロッテ戦。
【7月11日】1977年(昭52) 2本目の“幻の本塁打” ミッチェルが閉幕で迎えた“悲劇”(野球) — スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球09年7月
77年7月11日後楽園球場でのクラウン戦で、悲劇は再び訪れた。
【7月11日】1977年(昭52) 2本目の“幻の本塁打” ミッチェルが閉幕で迎えた“悲劇”(野球) — スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球09年7月

ホームランダービートップに立つロッテのレロン・リーに2本差に迫った。試合は3回まで終了するも、雷雨となり、結局中止となった。天にも祈る気持ちだったミッチェルの本塁打は、再び「幻」となった。
【7月11日】1977年(昭52) 2本目の“幻の本塁打” ミッチェルが閉幕で迎えた“悲劇”(野球) — スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球09年7月
”幻の本塁打王”
【7月11日】1977年(昭52) 2本目の“幻の本塁打” ミッチェルが閉幕で迎えた“悲劇”(野球) — スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球09年7月

1978年 球宴ジャック事件
ボビー・ミッチェルがオールスターに出場した1978年は、オールスターのファン投票をめぐって事件が発生した。なんと、日本ハムから8人がファン投票で選出されてしまったのだ。日本ハムは万年Bクラスで、不人気という面では12球団の中でも上位だった。この年の前期は3位と健闘したとはいえ、阪急の全盛期であり、阪急には山田久志、福本豊、加藤秀司、マルカーノ、島谷金二などのスターがいた。外野の福本を除く8つのポジションを日本ハムの選手が占めた。このファン投票の結果をもたらした組織票であり、公正ではないとの抗議が殺到し、大きな問題となった。
とはいえ、ミッチェルはオールスター第1戦で本塁打を放ち、面子を保った。ミッチェルはこの年、本塁打王を獲得することになるのだが。

【7月14日】1978年(昭53) 組織票待った!日本ハム 球宴8人ファン投票選出で2人辞退 — スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球 2011年7月

結局、古屋と菅野は出場を辞退することとなった。古屋は翌年、パ・リーグの中で2位の得票数を獲得し初出場。そして85年に3回目の出場を果たし、初ヒットを放った。菅野は内野なら複数のポジションができるユーティリティープレイヤーとなったが、その活躍も地味であった。菅野は球宴出場の機会なく85年で引退した。
”本塁打王”とはなったが
また、ミッチェルは大沢監督に嫌われていたようであった。79年ミッチェルと同僚だったサム・ユーイングは、大沢監督に対して猛抗議した。
ミッチェルは、79年で解雇となり、ユーイングは翌年80年も在籍したが、オープン戦後に任意引退となりチームを去った。


ウォルター・ウィリアムス
[カルビープロ野球カード1976〜77[ペナントを沸かせたスター特集NO.9] NO.1351 W・ウィリアムス(日本ハム)][カルビープロ野球カード : 1973-1980年]トレーディングカード・トレカ専門通販 - MINTモール
筆者は、小学生の頃は巨人ファンであった。しかし中学生になると、天邪鬼なところもあったのか、同じ後楽園を本拠地とするチームでも、人気面では正反対の日本ハムファンに宗旨替えをした。高橋一三と富田勝が巨人から日本ハムにトレードされたことも影響したのかもしれない。また、席がガラガラで見に行きやすいというのも良かった。そして、ファンクラブの少年ファイターズに入会した。年会費が千円か2千円で内野席がフリーパスだったと思う。帽子やら、ガイドブック、ブロマイドなど豪華なグッズもたくさんもらえた。少年たちにとって最高なファンクラブだった。だから、78年の”球宴ジャック事件”の時も、純粋な気持ちで頑張って投票をした。
ミッチェルと、2年で日本を去ったウィリアムスとのコンビは強く印象に残っている。首がなく顔からすぐ下が胴体で「ノーネック・ウィリアムス」というあだ名だった。外野の守備につくときに必ず2塁ベースを踏んでいくので、外野をやっている少年たちはよくそれをマネをしていたものだ。
”三振かホームラン”のミッチェルと愛嬌たっぷりのウィリアムスの凸凹コンビ、その後の”怪人”ソレイタと”ガッツマン”クルーズのコンビ、この助っ人外国人たちがいた日本ハムは面白い時代だった。