黒柳朝子の2歳上のダンナ様、黒柳守綱は、東京、墨田区本所生まれの江戸っ子。
父親は、長崎で蘭学を学んで医者となり、かつ熱心なクリスチャンでもあり、本所教会の長老までなった。
本を乗せた見台の前に正座し、片手はキチンと膝の上、もう一方の手でページをめくって読む人物で、往診から帰ってくると、車夫が
「お帰りぃ~」
と叫び、妻、子供、書生、お手伝いさんまで全員が玄関に集合。
板の間に手をついて
「お帰りなさい」
とお出迎え。
黒柳守綱は母親は、黒柳朝子いわく
「女優の沢口貞子さんと山本陽子さんを合わせたような、とても美しい人」
いつも着物で
「なにがあるかわからない」
と財布に必ず使わないお札を1枚入れておく人だった。
黒柳守綱には、櫻村(松竹蒲田撮影所の初代所長)、修治(ジャーナリスト・カメラマン)という兄がいたが、2人は静かでおとなしいのに1人だけヤンチャ。
小学校は遅刻の常習犯で、1時間目の授業は、いつも後ろに立たされながら受けた。
古着屋の子供がイジメっ子だったことに腹を立て、水を口に含んで並んでいる商品に吐きかけたり、兄がイジメられて帰ってくると、タンコブをつくりながら報復した。
8歳のときに父親が亡くなり、12歳から三越呉服店で働き始めた。
三越にはクラシック音楽を演奏する「三越少年音楽隊」があり、バイオンリンを学び始めた。
一方、黒柳朝子は、北海道空知郡滝川町生まれのエゾっ子。
父親は、仙台医学専門学校(東北大学医学部)卒の開業医だが、黒柳守綱の父親よりも25歳若かった。
母親は、子供のお古の洋服を着たり、寒ければ長いスカートの上に短いスカートをはいたり、長袖の上に半袖を着たり、着るものにまったく無頓着。
洗濯機のない時代、寒い北海道で手を赤くしながらゴシゴシ、ジャブジャブ洗濯するのは大変で、こまめに洗濯することはできず、2、3日に1度着替えないこともあった。
「いいことをしようとしていることに神様が力を貸してくださらないはずはない」
という信念を持ち、余ったお金があれば教会に寄付をしてしまうので、母親の財布はいつも空だった。
狭い町なので町中みんな顔見知りで、父親はほとんど全員を診ていたが、治療費は盆と暮れのまとめ払いのため、買い物をするときは、ほとんどツケ。
黒柳朝子も学用品や本などを
「これちょうだい」
といってもらって帰り、買ってもらうとか買うという感覚はなかった。
長女である黒柳朝は、母親がミッションスクール(キリスト教の教えを教育理念に掲げる学校)、宮城女学校)に再入学したとき、一緒に仙台へ転居。
2年間、仙台東二番町小学校に通った後、北海道に戻って岩見沢高等女学校に進学し、4年間、寄宿舎生活。
音楽教師の勧めで北海道の実家を出て、東京都千代田区麹町の親類の家に住みながら、東洋音楽学校((現:東京音楽大学)に通った。
声楽科3年生のとき、日本のオーケストラの礎を築いた作曲家、山田耕筰のもとでアルバイトを開始。
オーケストラの演奏に加え、豪華な衣装を着た俳優が芝居をしながら歌い、コーラスやバレエまで入るオペラは、音楽の勉強になる上、舞台衣装を着けて歌うこともあるのがうれしく、声楽科の生徒として学びと実益を兼ねた楽しいアルバイトだった。
山田耕筰は、東京音楽学校卒業後、三菱財閥総帥、岩崎小弥太の援助を受け、ドイツのベルリン王立芸術アカデミー作曲科に留学し、日本人初の交響曲「かちどきと平和」を作曲。
帰国後、日本初の交響楽団「東京フィルハーモニー管弦楽団」を創設したが、不倫問題で岩崎小弥太の逆鱗に触れて支援を打ち切られ、たった1年で解散。
その後、「日本演劇協会」を創立し、オペラを上演。
さらに「日本交響楽協会」を設立するも不明瞭な経理を理由に大部分の楽員が離れ、黒柳守綱ら4名が残って「新交響楽団」を結団。
山田耕筰は、数々の失敗で40歳にして多額の借金を抱えながら、日本語による歌曲を追求し「赤とんぼ」などの名曲をつくった。
黒柳朝は、そんな破天荒な作曲家が主催するオペラ「椿姫」「お蝶夫人」「カルメン」でコーラスガールを務めた。
オペラ「堕ちた天女」は、歌舞伎座で練習1ヵ月した後、本番2ヵ月というスケジュールだったが、その間、黒柳守綱は、黒柳朝を
「ずっと狙っていた」
22歳の黒柳守綱は、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)のコンサートマスター。
「第2の指揮者」ともいわれる楽員のリーダーだった。
オペラ「堕ちた天女」の最終日、黒柳守綱は黒柳朝をお茶に誘った。
19歳の黒柳朝は、バイオリンを下げている黒柳守綱をみてオーケストラのメンバーだと認識し、友人もよくオーケストラの人たちと遊んでいたので
「1回くらいいいか」
と思い、ついていった。
「これがどんな大変なことになるか、一生まで変えてしまうことになろうとは・・・」
連れていかれたのは最新式のアパート「乃木坂倶楽部」の1階の喫茶店。
山盛りのサクランボを出され、
「サクランボ、好き?」
と聞かれた黒柳朝は、
(こんなおいしいもの、誰でも好きだろ)
と思いながら
「大好き」
と答えた。
そして喫茶店で話し込んだ後、
「ちょっと僕の部屋に行ってみない?
すぐ上だから」
といわれ、
(この建物全体が彼のものなのかしら?
ずいぶん大きな家を持っている人なのだなあ)
と思った。
そして断るのも悪く2階の部屋へ。
コンクリートづくりの6畳くらいの部屋は、ベッドと机とソファーがあるだけ。
ソファーに座ると机に上にきれいな女性が猫を抱いて藤イスに腰掛ける写真が飾ってあり、コップに入れた水が供えられていた。
その後、アルバムなどをみせてもらったが話は盛り上がらず、落ち着かない朝は、
「もう帰ります」
すると黒柳守綱は
「何時かなあ」
といって時計をみて、
「アッ、もう電車ないよ。
泊っていかなきゃダメだよ」
黒柳朝にとって、それは思いもかけない事態だった。
まず思ったのは
(伯母に怒られる!)
だった。
麹町の伯父の家、豊島区雑司が谷の音楽学校、兄に連れていってもらった銀座、友人たちといった新宿しか知らない黒柳朝には、ここが何というところで伯父の家までどのくらい離れているかわからない。
一般庶民は電車やバスで出かけるのが当たり前、タクシーなど使えば「ぜいたく」といわれた時代にタクシー代などあるはずもなく、
(人さらいにさらわれた)
(人買いに売られてしまう)
と体がガタガタ震える思いで、
(よく知らない男の人についてきてしまって私はなんて馬鹿なんだろう)
と悲しみでいっぱいになった。
電車がないといわれたとき、
(もう帰れない。
絶体絶命だ)
と思ったが、帰った後のことを考えても
(ああ、男の人の部屋に無断で泊ってしまうなんて、なんていい訳したらいいんだろう)
と伯母や母に怒れることが怖かった。
黒柳朝は、
「もちろんそう思うように彼(黒柳守綱)に強く説得された」
「ですから、もうほんとに略奪愛なのです」
というが略奪に成功した黒柳守綱は、出かけるとき、逃げ出さないように、部屋の外からもカギをかけた。
熱心なクリスチャンである黒柳朝の母親は、音楽学校に行っていた娘が突然いなくなってしまい消息がわからなくなった数日間、
「娘を返して下さい。
無事で元気でいてくれるようにしてください」
とただひたすら祈った。
しかし娘は、家出同然のまま同棲生活に突入した。
そんなプレイボーイな黒柳守綱だが、仕事にはとても厳しかった。
若い頃、天才ヴァイオリニストと呼ばれ、21歳でNHK交響楽団のコンサートマスターとなったた黒柳守綱は、団員がミスをするとにらみつけ
「みんな死に物狂いで弾いているのに、なんで間違えるんだ」
と怒り、
「怖い」
と恐れられた。
「特にヴァイオリンに関しては鬼だった」
という黒柳徹子は、家でのヴァイオリンのレッスンで自ら美しい音で演奏し
「景色がみえるように・・・・」
と指導していた黒柳守綱が、レッスンが終わった後、帰りの玄関で生徒が
「先生、今日は天気がいいですね」
というと急に怒り出し、
「今、君が考えなければならないのはヴァイオリンのことであって天気のことじゃない。
そんなことどうだっていいじゃないか」
というのを目撃した。
また黒柳守綱は結婚後、1度も浮気をせず、仕事以外はいつも黒柳朝と一緒にいた。
70歳で黒柳守綱が他界したとき、黒柳朝は、
「いつもママきれい、ママきれいっていってくれてたけど、そういってくれるパパがいなくなったら、私なんてただのおばあちゃんじゃない。
せめてもうちょっと早く死んでくれれば私だってまだ次のチャンスがあったのに」
といい、その後、アメリカに住んだり、公演活動をしながら95歳まで生きた。
黒柳守綱は、山田耕筰のオーケストラに所属していたが月給などなく、生活とのことや黒柳朝が音楽学校に在学中であることなどはあまり深刻に考えずに、自分の伯父に北海道まで結婚させてくれるよう頼みに行ってもらった。
しかし北海道の黒柳朝の父親は
「音楽なんてやっている男はロクなものではない」
と烈火のごとく怒り、許さなかった。
「結局、私たちの結婚は、黒柳徹子が生まれるまで許してはくれませんでした。
子供ができてからは、もう孫にメロメロで、若いときに狂ったように私を叱ったことなど想像もできませんでしたけれど、終わりよければみんなよしということでしょうか」
ある夜、犬が吠えると黒柳守綱が石や灰皿を投げつけた。
黒柳朝が、
「やめてよ。
パパも昼間はバイオリンを弾いているんだから、犬が吠えるといっても怒れないわよ」
と注意すると
「僕のバイオリンは商売で生活がかかってるんだ。
夜はみんな寝るんだから犬がうるさくすれば文句をいうのは当然だ」
といって黒柳朝にも投石した。
「パパは実生活に疎く、うれしければ飛び上がって喜び、腹が立てば、私を傷つけないようにというような思いやりなどまったくなく怒鳴りまくりました。
優しさと激しさを両端に持っている、天才となにかは紙一重という感じでした。
音楽家としては大切な部分かもしれませんが、予期できない振幅につき合わされるのはたまったものではありません」
黒柳守綱は、怒ると顔が蒼白になり、こめかみに血管が浮き出てくる。
一方でどんな小さなことでも黒柳朝に話さずにはいられず、よく
「愛してるよ」
とか
「好きだよ」
となどいいながらさわり、スキンシップ。
人に触れられるのが嫌いな黒柳朝は
「今度生まれ変わってもママと結婚したいよ」
といわれ、
「悪いけど別の人と結婚したいと思います。
だってせっかく生まれ変わるのなら、違った人と違った体験をした方が面白いと思いますもの」
と答えた。
また黒柳朝は最小労力で最大成果を上げようとして、手を抜いたり、ズルすることもあるが、黒柳守綱は、すべてのことに手抜きをしない完璧主義者。
バイオリンを愛し、毎日練習し、弾いていないときもバイオリンに話しかけながら手入れ。
演奏することはもちろん、バイオリンという楽器そのものも好きだった。
乃木坂倶楽部での生活を、
「インド人でシイナさんという、とても日本語の上手な人がいて会うといつも面白い話をしてくれました」
「1階上には佐伯祐三未亡人の佐伯米子さんがいらして、よくアトリエに遊びに行き、モデルになったりしました」
という黒柳朝だが、長女の黒柳徹子が生まれると近くの小さな一軒家を借りて引っ越し。
幼い黒柳徹子は舌足らずなために自分の名前を
「徹子」
ではなく
「トット」
と発音するため、黒柳守綱と黒柳朝は
「トットちゃん」
と呼ぶようになった。
長女出産から2年後、黒柳朝は、2番目の子供、長男の明児を出産。
明治節(明治天皇の誕生日、11月3日)に生まれたので最初は
「明治」
という名前にしようと思ったが、区役所で天皇陛下の諡(おくりな)になるので使えないといわれ、
「お菓子や牛乳の名前に使われているじゃないですか」
といったが
「その頃は、まだ陛下は元気でいらしたからできた」
そんないきさつがあって
「明児」
となった。
黒柳守綱は
「明ちゃん」
と呼んで、夢中で、いつも膝の上に乗せていた。
いつもお金がなく、あるとき黒柳朝が
「お金もお米もなくなっちゃったけどどうしましょう」
と聞くと黒柳守綱は
「じゃあ、食べなきゃいいじゃないか」
それを聞いて
(この人にはバイオリンの演奏さえしてもらえばいい。
2度とお金のことでわずわらしい思いをさせないことにしよう)
と決意した黒柳朝は、どうやってお金をつくればいいか考えた挙句、質屋へ行くことにした。
初めはよかったが質草がなくなってしまうと、演奏会の予定を聞き、
「どうして?」
と不思議がられると
「洗濯屋さんに出さなきゃね」
といってごまかして演奏会用の燕尾服を質屋へ。
長女である黒柳徹子の手を引き、2歳下、まだ赤ん坊だった明ちゃん(長男、明児)をオンブして質屋の暖簾をくぐるとカウンターに持ってきた品を広げて交渉開始。
黒柳徹子はのぞきたくて一生懸命背伸びするが台が高くてみえなかった。
「燕尾服で1円50銭貸してくれました。
それだけあればお米も10㎏くらいは買えたと思います」
お金をもらって黒柳徹子の手を引いて外へ。
「さっき行ったの何屋さん?」
と聞かれ、
「洗濯屋さんよ」
「洗濯屋さんに行くとお金もらえるのね」
いつもニコニコしている黒柳徹子との帰り道、ミカンや魚を帰った。
黒柳守綱は、オーケストラだけではなく、カルテット「東京弦楽四重奏団」を組んで活動したり、レコード会社と契約し、流行歌の伴奏を行うなどやいろいろな仕事を行った。
しかし「ただ食うため」の仕事やイヤな仕事は断り、それを黒柳朝は、
(受ければいいのに・・・)
と思いながらみていた。
「パパと私は相変わらずお金持ちにならず、それほどお金に困るわけでもなく過ごしました。
それで十分に幸せなのでした」
黒柳徹子が3歳のとき、足で漕ぐ自動車を買うために3人でデパートへ
売り場にはたくさん並んでいて、黒柳朝はなるべく安く、友達が持っているのと同じようなものを選び、買ってもらえればなんでも喜ぶ3歳児に
「トットちゃん、これでいいでしょ?」
しかし黒柳守綱は、
「いや、これがいいよ」
といって1番高いものをチョイス。
「これに決めよう。
乗ってごらん」
黒柳徹子を乗せると足が届かなかったが、
「すぐに大きくなるから」
どうしてもそれを買ってやりたいというより、まるで自分が欲しいような黒柳守綱に黒柳朝は反対。
すると黒柳守綱は
「君が上等なのを買わないのは、自分の着物を買いたいと思っているからに違いない」
というとサッサといってしまい、やがて反物の包みを持って帰ってくると
「さあ、これで気が済んだだろう」
そしてお気に入りの自動車を買い、デパートの配達が待ち切れないので、自分で持って帰った。
家に着くとご機嫌で徹子を乗せたが、足が届かないのでうまくペダルが漕げず、それをみて腹を立てた。
黒柳朝も
「あの中には生活費も入っていたのに・・・」
と出がけにお金を全部預けたことを後悔し、
「着物となれば好みも気に入らない柄なら、どんな高価でも着れないのに・・・」
と腹を立てた。
あるとき4歳の黒柳徹子が台から飛び降り、黒柳守綱が受け止めるという遊びをしていて、キャッキャッとはしゃぐ2人に黒柳朝は、
「いい加減にやめないと危ないわよ」
と注意。
その瞬間、黒柳徹子が黒柳守綱の手をスリ抜けて落下。
ホホとおでこをスリむき、出血する黒柳徹子をみて、顔色を失い、どうしていいかわからない黒柳守綱。
黒柳朝は、すぐに薬を取りにいき、消毒して手当をしながら
「だからいわんこっちゃない。
いつもこうなんだから」
と腹立たしげにつぶやくと小声のつもりだったが、黒柳守綱に聞こえてしまった。、
すぐに灰皿が飛んできたが、それが黒柳朝の膝の上の黒柳徹子のおでこに命中。
大きなタンコブができて
「ギャーッ」
と泣き出した。
共に自己主張が強く、ガマンすることが苦手な黒柳守綱と黒柳朝は、よくいい争いをし、ときに物が飛び交うこともあった。
「パパは怒鳴り、私は泣きながら負けずに口答えをしました」
という黒柳朝は、
「夫婦喧嘩ノート」
をつくり、日付、原因を記し、程度を
「ボヤ・大火事・あわや」
の3段階で記録。
原因は、お金や物質的なことは皆無。
子供のことは、いい子のときは
「自分に似ている」
悪い子のときは
「お前の責任」
といわれるが、たいてい「ボヤ」で済んだ。
1番多かったのは、愛情問題。
「パパは若くて私に具体的な愛情のつながりを求めているのに、私は子供の世話で疲れすぎているためにパパに協力的じゃないということだった」
あるとき2人で映画を観にいくと夜中、奥さんがベッドを抜け出して、召使のところに忍んでいき、浮気をするシーンをあり、
(とても魅力的な男優さん!)
と思っていると、黒柳守綱は、
「あんな男がいいのかな」
それに黒柳朝が
「いいんじゃない」
と答えたのが最後だった。
「いいんなら行けよ」
というが早いか、席からつまみ出され、暗い映画館の中でスクリーンの方に押し出されながら
「好きなら行けばいいじゃないか」
と怒鳴られた。
「行けって映画の中の人じゃない!」
黒柳朝はいい返したが、周りからも
「シーッ」
と注意され、腹が立ったので1人で帰宅。
後で帰ってきた黒柳守綱は、
「ごめんよ」
しかし黒柳朝は
「ごめんよで済んだら警察いらずよ」
といって蒸し返してしまい、再び大ケンカ。
怒鳴りまくった次の日、黒柳守綱は、
「僕はママを奥さんにすることができて本当に幸福だ。
ママさえいれば僕はもう何もいらないよ」
黒柳朝は
「今度こそ子供を連れて出ていこう」
と思っていたが、そういわれると
「私も心からパパを愛してみたい
と思い直し、嵐が過ぎ去った後の美しい朝を迎えた。
しかしすぐにまた絶望的な嵐が吹きまくるのであった。
黒柳朝は、
「もうイヤだからね」
「もうヤメるからね」
と別れをチラつかせて脅し続けたが、ケンカの後はケロリと忘れ、一緒に遊びに出かけ
「本当にたわいがなかった」
近所には、北海道の岩見沢高等女学校の同級生の米ちゃんがいた。
黒柳朝は音楽学校に入るため、米ちゃんは絵の修業のために一緒に上京。
黒柳朝は、実践女子学校の英文科に通いながら岡田三郎に絵を習う米ちゃんと毎日のように会って慰め合った。
独身の頃は絵の博覧会や音楽会にいき、本もよく読み、米ちゃんはヘルマン・ヘッセの「車輪の下」に、黒柳朝はジョルジョ・サンドの「アンデアナ」に感激。
黒柳朝が結婚すると米ちゃんは村田さんという銀行員と結婚。
米ちゃんの家は数駅離れた自由が丘だったので交流は続き、毎日おしゃべり。
2人は、少しピントが外れているところ、天然なところ、あまり物事にこだわらないところが似ていたが、米ちゃんは感情的にみえて慎重で理性的、黒柳朝は理性的にみえて感情的で直情的。
ある日、米ちゃんが
「いい映画がやっているから観にいこう」
というので
「なんという映画なの?」
と聞くと
「ホルモン物語」
「・・・・・・」
「ほらほら、海か湖でゴンドラに乗って、ロマンチックな映画よ。
歌もあるじゃない」
よくよく聞くと、それは「ホフマン物語」だった。
黒柳朝は長女、徹子を、米ちゃんは長男、太郎を同じ年に出産。
おむすびやおやつを持って、それぞれ子供をオンブして出かけ、ピアノが聞こえる家のそばの空き地に腰を下ろし
「田園調布の音楽会よ」
といっておしゃべり。
少女の頃、ロミオとジュリエット、白雪姫、ハムレット、トスカ、椿姫などを読んで、大きなお城に住んで美しい衣装を着ているお姫様になりたなかった黒柳朝は、建ち並ぶ家々の中から
「私、あの白い洋館」
米ちゃんは、
「私はこっちがいいわ」
と好みの家を選び、
「あの部屋が私たちの寝室で、あの窓は子供部屋・・・」
「花壇には・・・を植えて」
などと語り合い、最後は
「あんなに大きな家は経費がかさむし、掃除だって大変。
やっぱりお返しすることにしましょう」
といってサバサバした気持ちで帰宅。
太郎がおとなしくて素直なのに対し、徹子は活発で賑やか。
イジメて泣かすのは、いつも徹子だった。
お父さん・お母さんごっこで、徹子は葉っぱや草花をつんで食事の用意をし、太郎は
「じゃあ、いってきます」
といって会社へ。
しかしすぐに戻ってきて
「お母さん、出かけるときは窓をキチンと閉めて、火の元をちゃんと消して、カギをかけて出かけなさいよ」
「うん、わかった」
「いってきます」
黒柳朝と米ちゃんは、子供が本当の親そっくりなのをみて
「恐ろしい」
と思った。
徹子と太郎が6歳になって小学校に入ると、黒柳朝と米ちゃんも忙しくなって毎日おしゃべりすることはできなくなった。
6歳になった黒柳徹子が日曜学校(教会)の演劇でキリスト役に抜擢された。
3人の賢者が天使に導かれてキリストが生まれた馬小屋にたどり着いて3つの贈り物をするという場面で、マリア様に抱かれた黒柳徹子は、羊役の子供に顔の前にティッシュペーパーを突きつけ
「アナタ、羊でしょ。
食べなさい」
「イエス様はそんなことなさいません!」
牧師にキリスト役を降ろされ、羊役になると
「チリ紙ちょうだい」
といいながらキリストの足をくすぐり、羊役からも降ろされた。
そして大田区の公立小学校に入学したが、3ヵ月後、黒柳朝は学校に呼び出され
「お嬢さんがいるとクラス中の迷惑になります」
といわれ、退学。
日本初のリトミック教育(音楽、演劇、ダンスなどを多用して楽しく学ぶ教育)を導入した自由が丘のトモエ学園に転校。
黒柳徹子は、初めて会った小林宗作校長に
「君は本当はいい子なんだよ」
といわれたことや、教室が廃車になった電車だったことが気に入った。
トモエ学園の授業は、子どもたちの興味や個性を尊重し、席も時間割も自由。
その日の気分で好きな席に座り、各自のペースで勉強し、校外学習も多かった。
この斬新で自由なスタイルの下、徹子はノビノビと育っていった。
義経と弁慶の演劇をすることになたとき、自称、
「私、かわいかったので」
主役の義経に抜擢され、関所で
「義経と弁慶ではないか」
と疑われ、そうでないことを証明するために弁慶が義経を殴るシーンで、弁慶役にブタれた徹子は反射的に足にかみつき、山伏役に降格。
5人の山伏が
「お山は晴天♪」
と歌いながら山を登るシーンで金剛杖で指揮をとってしまい、山伏役も降ろされた。
一方、長男の明児は、3歳のときに初めてスキー場へいき、2歳上のお姉さん、黒柳徹子に、
「回るときはこうやって・・・」
と肩教えてもらい、翌日には明児は上手に滑れるようになった。
4歳になるとバイオリンも習い始め、黒柳守綱は
「天才だな」
とベタ褒め。
クリスマスのとき、日曜学校の先生に貯金箱を差し出し、
「僕のお小遣いを貯めたお金なの。
困っている人にあげてください」
中には2円75銭が入っていた。
正義感が強く、近所でケンカをすることもあり、黒柳朝が謝りにいくこともあったが、
「いつも明児は自分なりの理由を持っていた」
子供を2人産んだ黒柳朝は、
「体の結びつきを抜きにやっていけないのかしら?」
「男性は母親の懐がいつまでも恋しいのだろうか?」
と妻としての役割がイヤになり、体中鳥肌が立つほど男性恐怖症に。
別の部屋で寝るようになり、夜、黒柳守綱が入ってくると
「ヤメテ」
と追い返した。
それでもトイレに行くときは黒柳守綱の部屋の前を通らねばならず、帰りに黒柳守綱が自分の部屋の前で待っていて、力づくで引き入れられて有無をいわさずにお相手をさせられた。
「妻に対しても強姦罪があればいいのに。
そしたらさっそく110番も読んで警察に訴えてやるのに」
と本気で考え、ついに腰かけ式のトイレを購入。
自分の部屋で息を殺してソッと座り、音で黒柳守綱の様子をうかがいながら用をたした。
その後、異変に気づいた黒柳守綱は、恨みがましい顔でこちらをみてきた。
傷つき苦しむ顔をみて黒柳朝は、
「何年も連れ添った夫婦なのに体のつながりを持たないと信じ合えないものなのか?」
と悲しくなった。
1940年年2月、建国記念日が紀元2600年に当たるということで日本中で日の丸の旗が立てられた。
日本の東アジアへの進出は 1931 年の満州侵略に始まり、1937 年から中国を攻撃。
これに反対するアメリカに経済制裁を科され、石油など資源不足に直面した日本は、状況を打開すべく東南アジア・太平洋方面に進出し、アメリカとの戦争が始まり、1945年8月15日の敗戦する。
しかしこのときはまだ日中戦争の真っ只中。
盛大な祝賀式が行われ、山田耕作が指揮し、黒柳守綱がコンサートマスターを務める新交響楽団は、紀元2600年祝典シンフォニーを演奏。
その後、2ヵ月間、満州へ祝賀演奏旅行にいくことになった。
長男の明児が4歳、二男の紀明は8ヵ月だったが、子供より手がかかる黒柳守綱が2ヵ月もいなくなるため、黒柳朝は内心ウキウキしていた。
逆に黒柳守綱は家を離れたくなく
「僕が出かけたらママは清々して嬉しいだろう」
とイヤミ。
黒柳朝は
「当たり前でしょ。
清々するなんてもんじゃないわよ」
といってやりたかったが
「パパがいなかったらさみしいに決まってるじゃないの」
とツラいフリ。
そして黒柳朝は、ちょうど夏休みに入っていたので、略奪されて以来、初めて北海道の実家に帰ろうと計画。
仕事が終わると飛んで帰ってくる黒柳守綱によって、ずっとカゴの中の鳥状態だった黒柳朝は、修学旅行を待つような心境でときを過ごした。
そしてパパが出発する日は東京駅でお見送り。
楽団員80人にスタッフ、医療関係者も加わってかなり大所帯な演奏隊は、見送る側もかなり大勢で賑やか。
そんな中、子供を1人ずつ抱き上げて
「ママのいうことを聞いて、いい子にしてるんだよ」
という黒柳守綱をみて黒柳朝は、
(いい外面をしやがって)
その後、黒柳朝は、まず青森まで数十時間かけて移動し、数時間、津軽海峡を渡る連絡船を待って、5時間船底で揺られて北海道に上陸。
さらに函館から空知郡滝川町まで10時間かかり、勉強道具を入れたランドセルを背負った黒柳徹子と乳児を抱えて、合計3日がかりで実家へ戻った。
「よく帰ってきたね」
「おかえりなさい」
父親、母親、看護婦、お手伝いさんから口々にねぎらわれ、それからは上げ膳下げ膳のうれしい生活が始まった。
父親は、孫を連れて近所に見せびらかしにいき、黒柳徹子は、大木から落ちたスモモが絨毯のようになっているのをみて、その上を滑って転ぶのに夢中。
10日くらいして黒柳守綱から手紙が届き、小学生のような字で
「ものすごい歓迎を受けていますが、僕はちっともうれしくない。
ママを愛してる。
別れがこんなにつらいとは思わなかった。
毎日帰りたい気持ちでいっぱいです。
手紙をください」
とあり、住所も書いてあったが、黒柳朝は毎日のように友人と遊んでノビノビと過ごして返事を出さなかった。
するとある朝、満州から電報が届き、家中の者が
「何事か」
と驚き集まって電報を開くと
「テガミクレ キガクルイソウダ モリツナ」
と書いてあり、みんなに大笑いされて恥ずかしがりながらも
(永久にこの家にいられたらいいなあと思ったのがテレパシーでパパに伝わってしまったのではないか!)
と思い、あわてて返事を書いた。
1941年12月、日本がハワイの真珠湾を奇襲攻撃したことで太平洋戦争が勃発。
真珠湾攻撃終了後、日本は潜水艦9隻をアメリカ大陸西岸に展開し、10日間でタンカーや貨物船10隻を破壊。
カリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃も成功させ、これまで殆ど本土を攻撃された経験のないアメリカに大きな衝撃を与えた。
1942年1月、日本はマニラを占領。
2月、日本はシンガポール占領し、さらにオーストラリア北部への空襲を開始。
4月、アメリカの爆撃機が東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸を空襲。
日本はこれが本土初空襲だったが、東京はB25爆撃機13機が飛来。
以後、そして終戦までに122回の空襲を受けた。
黒柳家には蘭の栽培をするための温室があって、そこに防空壕を掘って空襲警報が鳴る度、家族はそこに避難していた。
あるとき防空壕の中で大きなカエルを見つけた黒柳朝は、素手でつかんで黒柳守綱にくっつけた。
カエルが嫌いな黒柳守綱は、警報が鳴る中、何度も防空壕から出そうになり、それをみて子供たちは小声で笑った。
長男、明児は水泳が得意で、毎年、大会で優勝していたが、小学校5年生のときに6年生や中学生も参加する遠泳大会で優勝。
また勉強でも6年生の算数のテストで満点をとった。
参観日に学校へ行った黒柳朝は、図画や習字が展示されている教室で明児の答案用紙を発見。
教師に
「先日、6年生の問題をさせましたら満点だったので張り出しました」
といわれ、晴れがましい気持ちになった。
それを聞いた黒柳守綱もトロけるような表情で
「ウン、ウン」
とうなずいた。
しかし小学5年生の2月、学校で膝にボールが当たった明児が、その夜から発熱。
急性リウマチから敗血症となり、高熱と痛みにうなされた。
黒柳朝は、少しでも痛みがとれるようら頭部と患部を冷やして看病。
「この子を失うくらいなら私の命もいらない」
と泣いて祈った。
しかし1944年2月、明児は膝の手術も行ったが、とうとう亡くなってしまった。
黒柳朝は、悲しみを忘れようと明児のものはすべて捨ててしまった。
近所の人から
「明けちゃんに」
とお供えをもらったが、とてもそんな気になれずに庭に放り投げてしまい、黒柳守綱は、慰めながら明児の写真に水や食べ物を供えた。
2ヵ月後の4月、次女の友理が誕生。
そして夏、黒柳朝いわく
「バイオリンしか弾いたことがない、体力もなく足も弱く、まったく役に立ちそうにない肩書と年齢」
の37歳の黒柳守綱に赤紙の招集状が届いた。
黒柳朝は、
「肉は豚も鶏もダメで牛肉だけ、魚も大嫌いという人がどうやって軍隊生活をやっていくんだろう」
と思ったが、入隊まで2日しかなく、黒柳守綱は令状に従い、まず床屋に行って坊主頭に。
令状にはビール瓶1本持参せよとも書いてあり、黒柳朝は、
「この瓶に遺言下手紙を入れてどこかの海から流すのかしら?」
と思ったが、配布できなくなった水筒の代わりだった。
入隊当日、割烹着をつけた国防婦人会や町会の男性など、日の丸の紙の小旗を持った大勢の人が家の前にいた。
黒柳守綱は、寄せ書きが書かれた大の日の丸の旗を折って袈裟懸けに背負い、手には洗面用具やビール瓶が入った袋といういでだちで、見送りに来てくれた人たちに挨拶。
一行は目蒲線の足洗駅まで歩き、そこで最後のお見送り。
この頃、日本では
「鬼畜米英」
「一億火の玉」
「一億国民武装」
「大和一致」
という言葉が流行っていたが、このときの黒柳朝の気持ちは、
「ただただバカバカしく腹立たしい」
一方、黒柳守綱は、敵国の音楽として演奏ができない状況が続いていた上、1番可愛がっていた明児を失うという大変なショックの後だったので
「もうこれ以上の苦しみはない。
矢でも鉄砲でも飛んで来い」
というヤケッパチな気持ちだった。
黒柳守綱が麻布の連隊に入隊して10日後、赤坂の小学校で面会できることを知らせるハガキが届いた。
「これが最後になるかもしれない」
と思った黒柳朝は、
「パパが歩いても痛まないように」
と固い台紙に貼りつけた子供たちと一緒に写した写真、そして
「1日に何回も手を洗う人だから」
と固い石鹸などを準備。
前日には煮しめやいなり寿司などをつくり、当日、黒紋付きの羽織を着て、徹子、紀明、4ヵ月になる友里、そして黒柳守綱の母親と一緒に赤坂の小学校の校庭へ出かけた。
子供たちは大勢の兵隊さんの中から、いち早く父親を発見し
「パパ!」
といってかけよっていった。
ステージで燕尾服を着ていた黒柳守綱は、ゲートル(脚絆、下腿に巻く革製の布)と地下足袋をつけて、腰にビール瓶を下げていた。
黒柳朝は号泣し
「日本の妻は夫を見送るのに泣くもんじゃないよ」
と姑に叱られた。
面会時間、3時間はアッという間に過ぎ、
「じゃあ」
といわれ、黒柳朝が荷物を渡すと黒柳守綱は喜んで受け取った。
いってしまう黒柳守綱を見送りながら、手拭いを渡すのを忘れたことに気づいた黒柳朝が
「パパ」
と追いかけようとすると、そばにいた兵隊が
「届けてあげましょう」
といって手を出した。
「いいです。
私が持っていきます」
と黒柳朝が断ると、横から姑が手拭いをとって
「守さん」
と叫びながら追いかけていった。
ボーっとそれをみていると上官らしき人がやってきて、
「今日の夕方、品川駅から列車に乗ります。
品川駅に行けばもう1度お会いになれますよ」
と教えてくれた。
帰ってきた姑は、
「朝さん、私ゃ手拭い1本だってだまされてとられやしませんよ」
といった。
手拭いといえども貴重なときだったが、黒柳朝は
「この場所で人の手拭いを騙し取る人がいるのだろうか?」
と不思議に思った。
姑と別れた後、黒柳朝は子供たちと一緒に品川駅へ。
辺りが暗くなりはじめ、夜が訪れようとする19時、遠くから
「ザクッザクッ」
というという靴音がし、暗がりから整列した何百人という兵隊が入ってきた。
顔の見分けがつかず、黒柳朝は子供の手を引きながら夢中で列の横についていった。
(必ず見つかる、必ず見つかる)
と自分に言い聞かせながら歩いていると
「キャー、ママ、ママ」
という悲鳴。
みると転んでいる黒柳徹子がいた。
次の瞬間、列の中から
「トット助!」
という声がした。
その後、黒柳朝と黒柳徹子は黒柳守綱の手にすがりつき、一緒に歩いていった。
外が真っ暗になった頃、黒柳守綱は軍用列車に乗せられ、どこかへ行ってしまった。
東京都は、地方の親戚などへ個々に疎開する縁故疎開を進めていたが、さらに「学童疎開本部」を設置し、児童約47万4,000人のうち、3~6年生までの約20万3,000人を14県に疎開させた。
テレビはまだなく、国はラジオで国民に
「日本は勝っている」
と伝えていたが、トモエ学園でも避難する数が増え、黒柳徹子は、
「勝っているなんていうわりにしょっちゅう空襲がくるんだな」
と不思議に思った。
学校は毎日あったが、店は全部閉まっていて、食料は配給のみ。
「これしかないから考えて食べてね」
と黒柳朝に渡される大豆15粒が1日の食糧で常に空腹だった。
やがて大豆も配給されなくなると栄養失調になり、体中におできができて、爪の下が腫れて膿んできた。
自由が丘の駅で戦地に赴く兵隊を旗を振って見送ると裂いたスルメを1本もらえ、黒柳徹子も駅に人が集まっているとその中に入っていった。
「ただスルメが欲しかったのです。
後になって、そのことが私の中に大きな罪の意識として残りました。
私が送った兵隊さんの中には戦死して帰ってこなかった人もいた・・・」
1945年3月9日深夜から翌10日明け方にかけて300機のB29が東京を空襲。
街は雨のように降り注いだ焼夷弾によって焼き尽くされ、死約10万人が死亡し、26万7,000戸の家屋が全焼し、約100万人が焼き出された。
黒柳徹子が通っていたトモエ学園は焼失も消失し、黒柳朝は、前年の夏休みに北海道にいった帰り、汽車で隣り合わせた青森県の農家の「おじさん」を頼って、疎開。
魚が食べられるようになると黒柳徹子の栄養失調はすぐに治った。
「戦時中、私は栄養失調で、おできが体中にできていました。
それが膿んで、全身がドキンドキンと脈打つあの感覚。
疎開先の青森でお魚を食べたら、おできがすぐ治って、タンパク質の大切さを痛感しました 」
疎開中、子供たちはリンゴの袋貼りをやらされたが、他の子供がすぐに飽きてやめてしまう中
「飽きない性分なの」
という黒柳徹子は延々と続け
「おめ、飽ぎねーのか?」
と聞かれても
「飽ぎね」
と答え、いつまでも作業を続けた。
疎開中、黒柳朝は、青森県三戸郡と八戸を何度も往復して農作物を売った。
友理のおたふくかぜがこじれて切開しなければならなくなったが田舎で病院がなく、黒柳朝は、往復約16㎞を友理を背負って通った。
1945年8月15日、終戦。
黒柳朝は、子供たちと一緒に青森の疎開先から東京に帰った。
平和は訪れたが東京は焼け野原。
食べものもなく、住む家もなく、着の身着のままの生活し、仕事がない人も多く、自家製の防空壕にブリキの屋根を載せてモグラのように暮らしている人もいた。
しかし黒柳朝は、大工に頼んで白い壁に赤い屋根の小さな家を建てることができた。
「12坪で13万円だった」
黒柳守綱は、生きているのか、死んでいるのか、いつ帰ってくるのか、すべて不明。
消息がわからない夫を持つのはつらく、夫をあきらめて結婚し子供ができた頃にひょっこり夫が帰ってくるなどという話もに日常的に聞かれたが、黒柳朝は、
「夫の代わりはあっても子供の父親はかけがえはない」
と思い、生活物資の極端に乏しい中、青森と東京を何度も往復して農作物を売り、配給の小麦粉やミルクを貯めてお菓子を作ったり、手持ちに物を売ったり物々交換したり、古い着物を洋服に作り替えたり、質屋にも通って頑張った。
1日の疲れは、元気で成長する子供たちの笑顔で癒し、
「明日は今日よりいいことがある」
と思い続けた。
黒柳朝は、毎日、子供と一緒に祈り、賛美歌を歌って暮らしていたが、東京はコソ泥、空き巣、かっぱらい、詐欺などが横行し混とんとしていた。
ある日、30歳くらいの女性が玄関に入ってきて、目に涙をいっぱいに貯めながら
「子供がハシカにかかり、その上肺炎まで併発してしまったんです。
入院しないと命が危ないのですがお金がないんです。奥さん、どうぞ助けると思って、この生地を買っていただけないでしょうか?」
と話し、ウールだという生地を差し出した。
「いくらでもいいんです。
買っていただきさえすれば」
自分の子供がハシカを患った経験がある黒柳朝は
(その上、肺炎になったら大変・・・
今、この瞬間だって子供のことが気になっているでしょうに・・・)
とかわいそうでかわいそうで仕方なく、
「今手元にお金はないけれど、郵便局に行けばなんとかなるわ。
貯金を払い戻してあげますからね」
渋る女性を
「行きましょう。
何も遠慮することはないのよ」
と急き立てて郵便局にいき、貯金を全部引き出し、3千円を渡した。
「ちょっと待ってね。
私の友達が水あめを売っているの。
すぐそこだから、お子さんのお土産にもっていってね」
といって水あめを買って彼女に持たせて駅まで送っていって、
「お子さん、お大事にね」
といって別れた。
後日、近所の人に生地をみせると
「エッ、引ひっかかっちゃったのぉ?
あの女はね、名うての詐欺師なのよぉ。
子供が病気だといったでしょう」
黒柳朝は自分のバカさ加減にあきれ、恥ずかしさと悔しさで1人地団太を踏んだ。
半年後、警察から人に会ってもらいたいと呼び出され、行ってみると見覚えのある女性が横向き加減で座っていた。
「あの節はどうも・・・」
自分であきれながら、相手からいわれるべき言葉をいってしまい、黒柳朝は自分にあきれた。
すると相手は少し頭を下げ、刑事は
「何が、あの節はどうもですか」
とたしなめた。
黒柳朝は、自分が被害にあった後、彼女がかなり大きな詐欺を働いたことを知った。
帰り道、
「私のように簡単に騙される人間が彼女を悪くしていったのではないか?」
「私の行為は善意とはいえ、彼女のよこしまな心をより増長させる結果になってしまったのではないか」
「彼女に子供がいるかどうかも怪しいけど、もし本当にいたとしたら母親が刑務所にいる間、どうしているのかしら」
などと思い、落ち込んだ。
1949年4月、黒柳徹子が、イギリス系のミッションスクール(キリスト教の教えを教育理念に掲げる学校)、香蘭女学校に入学。
中高を過ごす香蘭女学校は、乱暴な言葉を使うと
「あなた、駅で乱暴な言葉を使ってらっしゃったんじゃない?
お気をつけにならないと。
香蘭の生徒として恥ずかしいとお思いにならない?」
と注意されるなど言葉遣いに厳しかった。
正しい敬語を意識し始めた黒柳徹子は
『そうよ』
は
「そうですよ」
に
『食べる?』
は
「召し上がる?」
に
『そっち、そっちに回って』
は
「そちらよ、そちらにお回りになって」
に変化。
最終的には
「~あそばせ」
をさりげなく使えるようになった。
黒柳朝の友人が家を訪ねてきたとき、
「母はただいま出かけております。
父はシベリアにいっております。
おことづけがあれば伺います。
ただシベリアの父への伝言はいつになるかわかりません」
と対応し
「お利口ね」
とホメてもらった。
また別のお客様にあいさつしたとき、黒柳徹子は、
「あら、お父さんもお母さんもおキレイなのにね」
と少し失礼なことをいわれた。
黒柳朝は即座に
「素直なだけが取り柄です」
といい、黒柳徹子は、それを聞いて
(きれいより素直なのがいいんだ)
と思った。
黒柳徹子が香蘭女学校に入学した8ヵ月後、12月末、生死不明だった黒柳守綱が帰ってきた。
1944年に出征した黒柳守綱は、1945年に戦争が終わったとき、中国北部におり、北朝鮮に戻ったときにソ連の捕虜になった。
そしてシベリアに抑留され、極寒の中、過酷な強制労働と粗末な食事で栄養失調で仲間がバタバタ倒れていく中、
「こんなとこで死んでたまるか。
あの楽しくて恋しい家に帰らずに死ねるか」
と思いながらどんなツラいことにも耐え、暴力を受ければ
「ママにつらく当たった報いを受けているんだ」
と我慢と反省を続けた。
(だから復員後、黒柳朝に暴力をふるうことはなくなった]
同じく抑留されていた合唱指揮者、北川剛、チェリスト、井上頼豊らと「沿海州楽劇団」としてハバロフスク地方沿海部の日本軍捕虜収容所の巡回・慰問。
そして1949年11月22日、日本への引揚船、高砂丸の中で、疲れ切った人々を励ますようにバイオリンを弾いた。
家族に再会した黒柳守綱は、笑顔で駆け寄ってくる黒柳徹子に、
「ただいま、トット助!」
とうれしそうにいった。
そして復員後、すぐに(新交響楽団から改称された)日本交響楽団のコンサートマスターに復帰し、労働でゴツゴツになった指でバイオリンを弾き、数年後、映画「ゴジラ」第1作で、テーマ音楽を演奏した。
夏の夕方、急に雨が振り出したので25歳の黒柳朝が洗濯物を取り込もうとあわてて外に出ると、近所で道路工事していた青年が家のひさしの下で雨宿りをしていた。
一瞬ためらったが、いいことはせずにいられない、しなければ気が済まない黒柳朝は、玄関に入れ、乾いたタオルを渡し、さらに遠慮する青年の背中をふいてあげた。
そしてお茶とお汁粉と漬物をお盆のに乗せて出し
「雨が止むまでいてくださいね。
私は用がありますから」
といって台所で料理。
しばらくして雨が止むと青年はお礼をいって帰っていった。
帰宅した黒柳守綱に話すと、激怒された。
「人間の心なんていつ変になるかわからないんだから、そんなことは知らんふりしておけばよい」
数年後、小包が届き、差出人は名前の知らない人だった。
中には
「あの日、雨宿りさせていただいた温かいもてなしは一生忘れません。
田舎から出稼ぎに出て、夜学で勉強し、今は月給をもらう身になりました。
渡る世間に鬼はないと聞いたことがありますが、本当に鬼ばかりでないことを知り、頑張る力が出ました。
心ばかりのお礼の気持ちを受け取ってください」
という手紙と100枚くらいのハガキが入っていた。
黒柳守綱のバイオリンの生徒の父親が軽井沢に別荘を持っていて、
「よかったら子供さんと一緒にひと夏を過ごしませんか?」
といわれ、黒柳家は10日間ほど当地に滞在することになった。
別荘からは浅間山がみえ、敷地の外れに底の石がみえる澄んだ小川が流れていた。
ある日、庭から小鳥のピイピイという鳴き声がして、みると木の下に5㎝くらいの黒いひな鳥が落ちていた。
黒柳朝が手のひらに乗せると、いっそうピイピイと鳴いたので頭や背中を優しくなでた
「私にとっては魚釣りで大きな魚を釣り上げたときと同じ感じで、とてもうれしい獲物でした」
子供たちも大喜びで、何を食べさせようかと大騒ぎ。
潰したゆで卵の黄身をつまようじで口に入れようとしたが、なかなか食べてくれない。
鮭の缶詰の身を混ぜたりしているうちにだんだん食べ出した。
家の中で自由に歩かせ、まだ飛べない小鳥が可愛くて仕方ない。
数日経って、外の空気を当ててあげた方がいいと大きなザルの上に石を置いて屋外に出してあげた。
東京に帰る日の朝、居場所を探し当てた親鳥が、木の上から合図を送っている。
小鳥もザルの中でピイピイと鳴いて跳ねていた。
しかし黒柳朝は、小鳥を東京に持って帰って育てたかった。
黒柳守綱は
「ママがそうしたいなら・・・」
といったが、小学生の二男、紀明は
「ママ、来てみているのは、きっとお母さんだよ。
小鳥はお母さんのところに行きたがってピイピイ鳴いてるんだよ」
黒柳朝は、
「だってもうエサも食べるようになったし大丈夫よ」
といって、小鳥を帽子の中に入れ、帰ろうとしたが、紀明に
「ママ、自分の子供が人に連れていかれるお母さんの気持ちがわからないの?
外に出して置いていきなさい」
といわれ、しぶしぶ少し離れた草むらに小鳥を置いた。
すぐに母鳥が来て、連れていかれ、黒柳朝はワアワアと泣いた。
そんな二男、紀明が大きくなってくると、黒柳朝の悩みは
「小さな頃のようになんでも話してくれない」
「自分で産んで育てた子供なのに思春期を過ぎると求められるのは食べること、洗濯、お小遣いだけ・・・」
そんな中、電話がかかってきたり 、手紙が配達されてくると気になって仕方がない。
特に女の子のからの手紙なら中を読みたくて、
「しっかりとくっついた封を湯気で開けてやろうかとヤカンをみ、ダメなのはわかっていてもすぐには渡さず、未練がましく預かり、翌日に机の上に置いた」
その後、渡した手紙が開いた状態で置いてないか部屋を捜索。
女の子から電話がかかってくると取り次ぎたくなく、一瞬、居留守を使おうと思うが、すぐにバレてしまうことを悟り、仕方なく息子につないだ。
1951年、「財団法人日本交響楽団」がNHKの支援を受けることになり「NHK交響楽団」に改称。
1953年、中高と映画少女だった黒柳徹子が、オペラ「トスカ」を観て
「歌手になりたい」
と思い、東洋音楽大学(現:東京音楽大学)へ。
「弟子入りという感じで・・・」
日本人として初めてニューヨークのメトロポリタン歌劇場で演出を行った青山圭男の仕事場について回ったが、
「向いていない」
と自覚。
「音楽評論家はどうだろう?」
とも思ったが、
「私、シューベルトの「未完成交響曲」とチャイコフスキーの「悲愴」を聴いても、どっちがどっちかわかないのよね。
子供のころから毎日、聴きすぎて。
それで諦めました」
そして
「子供に上手に絵本を読んでやれるお母さんになりたい」
と思い、NHK放送劇団の俳優募集に応募。
持参するべき履歴書を郵送してしまったり、筆記試験の会場を間違えて遅刻し、問題がわからず答案用紙の裏まで自分の長所を書いたり、面接で
「親にいったらこんなみっともない仕事と・・・」
「こういう世界は騙す人が多いから気をつけろと・・・」
などといったりしながら、約6,000人中13人の合格者の1人に。
翌年の日本のテレビ放送開始に向けて養成を受け、テレビ放送が始まると通行人などに駆り出されたが
「個性が邪魔!」
個性、引っ込めて!」
といわれて役を降ろされ、ラジオドラマでも
「日本語がヘン」
憂鬱な気持ちで作家の家に通い、レッスンを受けていたが、作家の娘が引きこもっていると聞くと部屋にいき、
「あーら、お嬢様でいらっしゃいますか?
オホホホホ。
私、黒柳徹子と申します」
と挨拶。
娘は
「まわりが明るくなってパアッとお花畑が広がったようだった」
という。
「大人で子供の声が出せる人」
という募集要件をみてラジオドラマ「ヤン坊 ニン坊 トン坊」のオーディションを受けた黒柳徹子は、合格し、トン坊役でブレイク。
テレビドラマ「お父さんの季節」で渥美清の妻役になったり、「紅白歌合戦」で初司会をしたり、NHK女優第1号として活躍。
20代後半、テレビとラジオのレギュラーが週10本となり、睡眠時間3時間という日々が続き、過労で1ヵ月入院。
禁止されていたテレビをみる許可が下りるとハラハラしながら自分が出ていた番組をチェック。
しかし何事もなかったのように別の人に代わっていて、渥美清の妻役も
「実家に帰っている」
とされていた。
演技を学ぶためにNHKを退社し、文学座付属演劇研究所の3期生に。
同期に宮本信子や江守徹がいたが、2人とも18歳。
この頃のことを聞かれると黒柳徹子は、
「私は少し年上でしたけど・・・」
といっているが、10歳上の28歳だった。
黒柳徹子にはたくさんお見合い話があり、3回お見合いをしたが、人生で最初に結婚を考えたのは3回目の相手の脳外科医。
とてもいい人で、相手の母親にも気に入ってもらい、さらに相手の父親は
「正直いうとお見合い相手よりお父様のほうが私の趣味でした」
ほとんど結婚する運びになり、黒柳朝は黒柳徹子に
「お嫁に行ったらもうあげられないから」
といってコートを4枚もプレゼント。
その中の1枚は薄いピンク色で襟にファーがついており、黒柳徹子はすごく気に入り、毎日着た。
もうすぐ結納という時期、仕事場で作曲家に
「結婚したら、その相手とずっと一緒に暮らすわけだから、何か1つ嫌なとこがあったらやめておいたほうがいいね」
といわれた黒柳徹子は、
「えー、そうか」
と思い、考えてみると相手の歩き方が気に入らないことに気づいた。
さらに
「お見合い結婚って結婚した後に恋愛すればいいっていうけれど、もし結婚式場を出たところで『うわあ、この人と結婚したい!』と思えるような人と出会っちゃたらどうなるんだろう」
と思い、結婚は取りやめ。
黒柳徹子に
「私、やめる」
といわれた黒柳朝は、あっさり
「そうね。
そのほうがいいわね」
しかしその後、黒柳徹子がピンクのコートを着る度に
「結婚詐欺!」
といった。