ディレクターズ・カンパニー
ディレクターズ・カンパニーは、長谷川和彦監督の呼びかけのもと9名の監督たちによって1982年6月25日に設立された映画製作会社です。
この時期、日本の映画製作は厳しかった!なかなかヒットせんのです。監督は思いどおりの作品が作れず、才能ある製作スタッフは役者も含め悶々とした日々を送っていました。
この状況をなんとか打破しようと長谷川和彦が立ち上がったんですね。若き才能ある監督たちと共に、“自分たちの希望する映画を作ろう”という熱き思いを胸に!
逆噴射家族
長谷川和彦のもとに集まったメンバーは、石井聰亙、井筒和幸、池田敏春、大森一樹、黒沢清、相米慎二、高橋伴明、根岸吉太郎。なかなかのラインナップですね。設立メンバーの平均年齢は31歳、若いなぁ。
ディレクターズ・カンパニーの設立は若者を中心に大いに注目を集めました。期待された第1作目は池田敏春監督の「人魚伝説」。その2か月後には早くも石井聰亙監督による「逆噴射家族」が公開されました。共に1984年のことです。
逆噴射家族
現在は石井岳龍として活躍している石井聰互監督の「狂い咲きサンダーロード」、「爆裂都市 BURST CITY」に続く監督作品ということで大いに注目された「逆噴射家族」は、それまでとは打って変わってギャグの要素をふんだんに取り入れたものとなっています。
それまでの石井作品を好んでいた方々は肩透かしを食らったのではないでしょうか?!作風が随分違いますからね。とは言え、「逆噴射家族」はただのコメディ映画というわけではありません。石井聰互らしくギャグの中にも狂気が宿っているんですよ。あまり類を見ない映画だと思います。
しかも登場人物は僅かに5人。ドラマの舞台はほぼ一軒家のみという設定になっています。
記念すべきディレクターズ・カンパニー長編劇映画第1弾「人魚伝説」にしろ、第2弾の「逆噴射家族」にしろ配給は共にATG。良質な作品を配給することで定評のあるATGとはいえマイナーな存在ですから、商業的な成功には程遠い船出だったと思われます。
因みに「人魚伝説」の前の1982年に、旗揚げ作品となる中編三本立てとして泉谷しげる監督「ハーレム・バレンタインディ」、宇崎竜童監督「さらば相棒」、高橋伴明監督「狼」が公開されています。
犬死にせしもの
ディレクターズ・カンパニーは1985年には「台風クラブ(相米慎二監督)」「ドレミファ娘の血は騒ぐ(黒沢清監督)」「魔性の香り(池田敏春監督)」の3作品を、1986年は根岸吉太郎監督の「ウホッホ探険隊」と、井筒和幸監督の「犬死にせしもの」をを制作しています。
鼻の下を伸ばした男性が注目すべきは、「犬死にせしもの」でしょうね。何と言っても若き日の今井美樹のヌードが観れますからね。
犬死にせしもの
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因みに「犬死にせしもの」は、今井美樹にとって本作が映画初出演であり、これが唯一のヌード披露となります。こうなってくるとこの映画、一度は観ておきたいですよね。
勿論「犬死にせしもの」は、それだけではありません。出演者はみんな熱い!平田満などは一日中海に浸かりっぱなしで、真田広之や佐藤浩市に殴られ続け体調を壊したそうですしね。
が、残念ながら興行的には大失敗となってしましました。
一方、同年にディレクターズ・カンパニーによって根岸吉太郎監督で製作された「ウホッホ探険隊」、これは成功といえるでしょう。
干刈あがたの原作に森田芳光が脚本を担当したという事もあってか、素晴らしい評価を得ました。
第60回キネマ旬報で、脚本賞( 森田芳光)、日本映画ベスト・テン3位。第29回ブルーリボン賞の作品賞と主演男優賞(田中邦衛)。第8回ヨコハマ映画祭においては作品賞と脚本賞を受賞し日本映画ベストテン1位 に選出。第41回毎日映画コンクールでは作品部門 日本映画優秀賞、美術賞(木村威夫)、 音楽賞(鈴木さえ子)。そして、第11回報知映画賞では監督賞 を受賞しています。
流石は根岸吉太郎監督ですね。ここでも本来であれば「ウホッホ探険隊」を取り上げるべきところなのでしょうが、今井美樹のヌードに敗れたって感じで「犬死にせしもの」に軍配を上げました。
光る女
勢いに乗った 根岸吉太郎監督は翌年もディレクターズ・カンパニーで「永遠の1/2」を作り上げます。これも良い映画だ!時任三郎、大竹しのぶを中心に中嶋朋子に小林聡美、そして竹中直人。癖のある俳優を使い倒しています。
が、またしてもここで取り上げるのはディレクターズ・カンパニーがこの年制作した相米慎二監督の「光る女」です。何故か?何故こちらの作品を取り上げるのかと言えば、それはもう主演が武藤敬司だからです。そう、プロレスラーの、あの武藤敬司です。
光る女
光る女 - Wikipedia