YMOサウンドとは?
初期の使用機材は
モーグ III-c(松武秀樹が使用していた大型モジュラー・シンセサイザー、通称「タンス」。簡単なフレーズやSEの演奏も行った)
ポリモーグ(坂本の個人所有物。1stアルバムやライブで使用)
コルグ VC-10(ヴォコーダー)
ローランド VP-330(ヴォコーダー)
アープ・オデッセイ(ベースやリードで多用。坂本はYMO結成前はアープ・オデッセイの名手として知られており、「東風」PVでは坂本の個人所有物(MkI、白パネル・名前入り)も見られる。
コルグ PS-3100(細野の個人所有物で、ライディーンの馬の駆けて行くSEは、これで作ったと言う。坂本も所有しており「東風」PVでも確認できる。)
シーケンシャル・サーキット プロフェット5(YMOの使用シンセの代表。)
ポラード シンドラム Model 477(シンセドラム。高橋が効果音的に使用)
ULT-SOUND(東洋楽器) DS-4・DS-4 Custom(シンセドラム)
E-MU カスタム・モジュール(大型モジュラー・シンセサイザー。第2回ワールド・ツアー以降で使用)
BIAS(イシバシ楽器) BS-1・BS-2(ドラムのリムに取り付けるタイプのシンセドラム。高橋のオーダーにより、BS-1の音色にホワイト・ノイズが追加されたタイプがBS-2。)
オーバーハイム 8ヴォイス(1stアルバムや、ライヴではサポートキーボーディストであった矢野顕子が使用)
モーグ Multimoog(細野がシンセベースとして使用。メモリーを持たないアープ・オデッセイと交互に使われた。)
ローランド JUPITER-4(ライヴでは坂本が使用。第2回ワールドツアー時にプロフェット5が壊れた際にはメインとして使用された。)
EMS VCS3(主にSE等で使われた)
モーグ 16 Channel Vocoder(ヴォコーダー。「テクノポリス 2000-20」でのみ使用)
モーグ mini moog(東風のパパパーと言う合いの手の音でしか使用されていない。)
YMO1978年結成

細野晴臣の呼びかけで以前より交流のあった高橋幸宏、坂本龍一の2人を自宅に招き、3人はこたつを囲んだ状態で、おにぎりを食べながら(みかんという説もあるが、みかんはあったと三人は記憶している)会合を行った。細野が新たなグループのコンセプトを彼らに伝えたところ、2人は賛同し、ここで初めて「YMO」が結成される。
後に、結成前から坂本と組んでいたシンセサイザーのエキスパート松武秀樹が、サポートメンバーのプログラマーとして加入。
1978年9月、松武秀樹をサポート・メンバーとして、YMO初となるライヴを日本楽器 池袋店東ショップ (YAMAHA) で行う。
同11月デビュー・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』をアルファレコードより発売。
ここからが本格的なYMOとしての活動となっていく。
第1回ワールドツアー



1981年~中期

1981年はYMOにとって大きな転換期となる。
3月に前衛的ともいえるアルバム『BGM』を発表。
当時、開発されたばかりであったデジタルのMTR(マルチトラックレコーダー)を駆使したこのアルバムは非常に実験的なアルバムであり、それまでのポップ指向のスタイルから一転、暗く重いヨーロッパ志向、ニューウェイヴ色の強いエレクトリックミュージックを展開した。
歌詞もそれまでのクリス・モスデルによる散文詩から、メンバー自身による作詞(英訳詞はピーター・バラカンとの共同作業)が行われるようになった。
同アルバム収録の「CUE」はこれ以降のYMOの音楽性を示した曲であると坂本龍一は語っており、また「U・T」が後に英国の『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』誌から「ハードコア・テクノの元祖」と称されるなど、YMO自身のみならず世界にも影響を与えたアルバムである。
YMOは「世界に通用する(した)ジャパニーズ・バンド」と位置づけられることが多いが、当のメンバー達はむしろ、「世界に出かかってやめちゃったバンド」と考えているようである(※1993年「再生」時の高橋の発言[要出典]より)。
YMOと活動時期を同じくした人気バンド・ゴダイゴのミッキー吉野もまた、「YMOの欧米進出と言っても実態は日本国内向けのパブリシティ狙い。海外でのレコード売上ならうちのほうが上」と後に発言している
また、同1981年11月には、『BGM』とはまた趣向の異なる実験的アルバム『テクノデリック』を発表。当時としては最先端のサンプリング・マシーンを駆使し、金属音や人間の声などをサンプリングし、加工して使われたサウンドが、その後の世界中のミュージシャンに多大な影響を与えることになった。
メンバー間では、1981年末でYMOの活動にピリオドを打つという考えがあったようである。しかしながら、(当時所属のレコード会社)アルファレコードの意向によるビジネス面での要求から、解散はひとまず先延ばしにされた。
1982年~ソロ活動〜再始動〜散開

旧YMOとしての最後のライブツアー(散開ライブツアー)である「1983 YMOジャパン・ツアー」が11月23日から札幌、道立産業共進会場よりスタート。全国6会場で行われる。
ツアー最終日となる12月22日は日本武道館にて、世界コミュニケーション年(WCY)記念、国連大学協力によるチャリティー・コンサート(観客は全て無料招待)だった。
アルバム『サーヴィス』はツアー中の12月14日に発売。
また、12月12日-13日の日本武道館公演を収録した2枚組アルバム『アフター・サーヴィス』は、翌年の1984年2月21日に発売。
同年4月5日、昨年の12月12日、13日の日本武道館の公演を素材として制作された映画『A Y.M.O. FILM PROPAGANDA』のプロモーション試写会を新宿シアターアプルにて行い、メンバー3人も姿を見せプロモーション活動を行った。
旧YMOとしてはこれが最後の仕事となった。
このあと、1993年4月1日まで、メンバー3人が揃ってメディアに姿を見せることはなかった。
YMO再生
散開からおよそ10年。再結成を望むファンの声に応えた形で1993年2月、YMO「再生」(再結成)が発表され、4月1日にはメンバー3人揃っての記者会見において、新しいアルバムの発表と東京ドームでのコンサートの実施が公表された。
この時4月1日(エイプリルフール)という事もあり、冗談じゃないのかという声も多く聞かれたが5月26日、アルバム『テクノドン』を発表。この時やっとほっと胸をなでおろしたものである。
そして6月10、11日には、東京ドームにて公演が行われた。このライヴでは『テクノドン』からの曲を中心に構成された。
8月25日、東京ドームでの公演を収録したCD『テクノドン・ライヴ』が発売。
以降、解散などのアナウンスもないまま、YMOは再び活動を停止する。
2001年1月23日、NHK-BS2で放送された細野晴臣デビュー30周年記念特番「細野晴臣 イエローマジックショー」にて3人が共演。3人が老人に扮して褞袍を着て演奏するというユーモラスな趣向で、同期なし、シンセサイザー、エレキベース、生ドラムのみの簡素な「ライディーン」を演奏した。この時の3人は「どてらYMO」と呼ばれる。

1993年の「再生」以降、3人は長い間、もう一度YMOとして音楽活動をすることに対し、一貫して否定的な姿勢を取ってきた。HASとして活動する際も、それはあくまでYMOとは別のものであるとしてきた。
しかしながら、2007年2月3日、キリンラガービールのテレビCM企画において、ついに「YMO」名義が復活する。CMには3人が揃って出演し、さらに、CMのために「ライディーン」を新たなアレンジで録音した「RYDEEN 79/07」が使用された。
2008年6月15日、28年ぶりとなるロンドン公演がロイヤル・フェスティバル・ホールで行われた。また、同週の6月19日にはスペインのヒホン市の Laboral Ciudad de la Culturaでも公演した。
2011年7月31日には「フジロック・フェスティバル」に、8月7日には4回目になる「WORLD HAPPINESS 2011」に参加をし、1993年以来の新曲「Fire Bird」が発表された(HASYMO名義も含めると新曲としては2年ぶり)。
また、8月5日には、初のスタジオライブをNHK放送センター101スタジオにて収録。
そこでは「どてらYMO」ならぬ「ゆかた姿YMO」の出立ちも披露され、ライブの模様は11月4日にNHK総合にて放送された。